「境涯」・「修辞」・「脱力」
text 吉川宏志
昨年の「歌壇」6月号の座談会(小池光・小島ゆかり・大辻隆弘)で、「言葉派」「実体派」という分類が話題になったことがある。
念のために書いておくけれど、これはあくまでも便宜的な言い方なのであって、一人の作者のなかにもいろいろな傾向が存在しており、「○○派」だとレッテルを貼ってはならないことは認識しておきたい(最近はこうした「注意書き」を書いておかないと、言葉だけが一人歩きしてしまう)。
ただ、歌をつくるときに、大まかに分けて二つの方向性があるのは、短歌作者の実感としてよくわかる。
一つは、人生の上で何らかの事件があったとき、それを伝えるために表現を工夫していく作り方である。もう一つは、おもしろい表現や新鮮な比喩などを発想し、それをモチーフにしながら一首を生み出していく作り方である。もちろん、この二つは複雑に結びついていて、必ずしも明確に分けられるものではないけれど、この分け方に違和感をもつ人はそんなに多くはないのではないかしら。
「実体派(境涯派・人生派・主題派)」・「言葉派(修辞派)」といった対立のさせ方を、私たちがついつい用いてしまうのは、歌の作り方に二つの方向があることを、無意識のうちに、よく知っているからなのだと思う。私自身は、そのどちらの作り方も大切であり、一方だけになってしまうと、歌が痩せてしまうと考えている。
最近は、それに加えて、そのどちらからも離脱しようとする方向もあるのかもしれない。つまり「脱・境涯/脱・修辞」という行き方で、ニュー・ウェーブ以降の若い歌人にはそうした志向を強く感じることがある。その可能性は未知数だが、脱力的になることで、初めて表現できるもの――時代に対する無力感など――も、やはりあるのだろう。
新年なので、大きな見取り図を提示してみたいのだが、「生き方を伝えようとする歌い方」・「新鮮な表現を楽しもうとする歌い方」・「脱力を目指す歌い方」という三つの方向性が複雑に絡み合いながら、これから数年の歌は作られていくのではないか。おそらく、どの方向が主流になる、ということはない。この三つを柔軟に行き来しながら歌っていくことが肝心なのだ。
さて、この年末年始は歌集の出版ラッシュで、早くも話題作が目白押しという感がある。
その中で小高賢の『眼中のひと』は、境涯を歌おうとする意志が最も強く出ている歌集である。
飾らるることも知らずに笑いたる母そののちは五年とわずか
母の遺影を撮影したときのことを回想した歌である。簡潔な表現から、人は自分の死期を知ることができないという悲しみが、せつせつと伝わってくる。いい歌である。ただ見落としてはならないのは、「写
真」や「遺影」という語を一切使っていないのに、状況がはっきり見えてくる省略表現の巧みさである。つまり、一見「境涯派」と思われる小高のなかにも「修辞派」の部分はあるということだ。
さうだ、詩は寺だ。うまくは言へないが花芙蓉咲く墓域におもふ
魚村晋太郎『花柄』は、じつにユニークな表現が多く、詩としての短歌を読む楽しさを味わえた一冊であった。「詩は寺だ」という言葉遊び的な発想を、独特のリズムに乗せて、印象鮮明な一首にしている。だが、この歌の背後には、師であった塚本邦雄の死がある。さまざまな修辞を生み出した歌人である塚本を追悼するには、このような表現を選ぶしかなかったのだとも言える。直截的な悲しみはこの一首にはないが、「うまくは言へない」喪失の苦しみが、たしかに根底に存在していよう。
よく止まる心臓なれどそんな人もたくさんいるので治療法はある
『ぼんやりしているうちに』
永田紅は、「境涯派」と「修辞派」の要素をバランスよくもっている歌人で、この歌集にもそれがよく表れた秀歌が多い。だが、ここではまったく別
の傾向の歌を挙げておく。この一首は自らの心臓の病を詠んだ歌なのだが、いわゆる「フラット」で「脱力」的な歌い方に驚かされる。悲壮にならず、淡々と自分の置かれた状況を見つめているのである。成り行きに任せるしかない、無力で「ぼんやり」とした感覚。それをこの歌集は、意識的に言語化しようとしている。それはとても難しい試みだが、かなり成功しているように思われた。
三者三様の歌集を眺めてきたが、「境涯」「修辞」「脱力」という三つの方向を往還している様子が見えてくる。この三つの方向性のダイナミズムのなかに、現代短歌の可能性があるのではないか、というのが、私の新年予想なのでありました。
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