恋の歌と〈他者〉
text 米川千嘉子
私にとって短歌の始まりは、ほとんどそのまま恋の歌の始まりだった。
好色に過ぎざる恋とある時は林檎の芯を川面にとばす
大崎瀬都『海に向かへば』
われを呼ぶうら若きこゑよ喉ぼとけ桃の核ほどひかりてゐたる
河野裕子『森のやうに獣のやうに』
これらの歌は私にとって、卵から孵った雛が初めてみた親鳥のような歌である。新聞に出ていた大崎瀬都の歌を見て、このように等身大に今の自分がうたえるものなら、と短歌を作り始め、恋愛らしい現実の進行と一緒に(?)、それよりずっと前に出ていた河野裕子の歌を模倣するようにうたうことに熱心になっていったような気がする。
いかなる思慕も愛と呼びたることなくてわれの日記は克明なりき
『夏空の櫂』
名を呼ばれしもののごとくにやはらかく朴の大樹も星も動きぬ
同
したがって、私のこれら二十代前半の二首などにはそれぞれ先の二人の影響があまりにもあらわである。ひたぶるな思いとばかり言い切れない恋に関わる葛藤とか忸怩とした内向する心理を歌にしたい、という思いと、先行する憧れのような恋の世界に自分を投影して、より大きくうたいたい、という両方の気持ちがあったと思う。より大きく、というとき、それは意味内容以上に、日常を越えて普遍につく歌の響きを自分の上にも響かせてみたい、という短歌様式に対する憧れでもあった。
そんな自分の乏しい経験に照らしても、吉川宏志氏が昨年12月17日に書かれた体験談も、大辻隆弘氏が同25日に書かれた「本源的なエネルギー」をもつ「うた」への思いもよく納得されるものだ。恋の歌、愛の歌、というテーマは、短歌という様式と言葉について、あるいは、時代とその人間像についてなど、さまざまな切り口において問題を提起する。少なくとも自分にとって相聞歌は、ほかのどんな主題よりも、この時代に生きる一人の私をもっとも大切な感情において書き留めたいという意志と、そういう時代や個を越えた普遍へ即くこと、すなわち歌の「本源的エネルギー」や響きに個を委ね個を消してうたうことへの憧れ―、矛盾するのかもしれない二つのものをかき立てるものだったと思う。そして、ひたすらな一人の思いを述べようとしながら、じつは同時に、他者と向かいあう世界、自分のなかに最初の他者を獲得するような感覚も、恋の歌をうたうことから得ていたのではないか。
こじあけて泥を吐かせしはわれなりき君の影ふと陶のひびきす
梅内美華子『火太郎』
夜ごと君は先に眠れり眠剤の真つ白を飲みてあとを追ふなり
大口玲子『ひたかみ』
わたしから言葉を脱がせくるる君 聞き覚えなきこゑを生れしむ
小川真理子 「短歌年鑑 平成20年版」
現在、「恋の歌、愛の歌」というテーマを与えられて私がまず思い浮かべるのは、これら30代のとくに女性歌人たちの歌である。「恋の歌、愛の歌」であることは間違いないが、万葉以来の「相聞」と呼ぼうとすると重なりきれない。恋人に呼びかけることの喜び、一体化することへの憧れとも、あるいはそれが叶えられないことへのひたすらな悲しみというのとも違うものだ。また、恋が結婚という制度に連続し新しい家族を形成してゆく、そういう一つの過程である、という〈常識〉に沿った幸福や、逆に、〈常識との闘い〉としての悲しみや苦しみの表白というのでもない。
梅内の歌では、従来の恋愛における男女の関係性があらかじめ自然に覆されているような激しさで「こじあけて泥を吐かせ」たという表現が用いられ、そのことの痛みがなまなましく告白されている。恋人といることは、そういう痛みとともにあることなのだ、というおののきが下句を導き出すのだろう。夫の健やかな眠りに追いつくことが二人あることのあかしであるように「眠剤」を飲んで眠るという大口の歌では、その二人のそれぞれの孤独こそが「真つ白」であるような印象を受ける。小川の歌は性愛をうたっているが、言葉とならない、「聞き覚えなき」声を生む「私」と生ませる「君」という二人の姿を即物的に描きつつ、「聞き覚えなきこゑ」という表現には、二人の関係性と女性という性を負った自身を幾重にも見渡している静けさがある。
どの歌も息づまるように悲しい。一体化の幻想から遠く、安定した物語や女性像、社会秩序との一致か葛藤かなどという選択からとうに切り離されて、ただ、今、男女が関わること、あるいは恋うること、相手と自分、それぞれの存在への必死の問いかけがある。それは最初にあげた大崎や私の歌が知らなかった覚醒であり、中城ふみ子や大西民子といった昭和前半の女性たちの苦しみとも異なる次元の痛切さをもって訴えかけてくる。男女の恋愛、というような言葉で括るよりは、一人が一人の他者と関わることの真摯で純粋な痛みが「恋」を通
してうたわれている、という言い方さえできるかもしれない。
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