永遠性を失った時代の恋の歌
text 吉川宏志
私が歌を始めたころ、というともう20年も前になるのだが、相聞歌には一つの典型があったようにおもう。
きみはきみばかりを愛しぼくはぼくだけのおもいに逢う星の夜
村木道彦『天唇』1974年
あたたかく胸合はせつつわれら見き夕映え越えて帰る山鳩
河野裕子『森のやうに獣のやうに』1972年
私はこうした歌が断然好きだったのだが、恋する心が率直に歌われていて、「星の夜」や「山鳩」といった身のまわりの自然へと美しくつながっていく。私もそうした歌を模倣する形で相聞歌をつくっていった記憶がある。私自身の現実の恋愛はもっとみじめで不器用なものであったのだが、せめて作品の中では美しく昇華して歌いたいという思いがあったのである。ちょうどそのころに出た米川千嘉子の『夏空の櫂』(1988年)にも、
白藤のせつなきまでに重き房かかる力に人恋へといふ
などの美しい歌がある。この歌は河野裕子の歌とは違って内省的な恋を詠んでいるのだけれども、「白藤」に思いを寄託して歌っているところが古典的であり、普遍性への回路をもっていたと言えるだろう。つまり、プライベートな体験を直接的に描くというより、遠い過去から脈々と続いてきた恋歌の伝統につながりたいという意識のほうが強かったわけである。
それを鮮やかにひっくり返したのが、俵万智の『サラダ記念日』(1987年)であった。
君と食む三百円のあなごずしそのおいしさを恋とこそ知れ
俵万智には古典につながるような恋の歌があることも忘れてはならないけれど、「三百円のあなごずし」に着目するごく日常的な恋の場面
を表現したことが斬新だったのである。ある意味で現代のリアリズムであったし、恋人とともに消費する楽しさを肯定的にとらえたところも画期的だった。俵万智以降の恋の歌では商品名が詠み込まれることが多くなっているが、「山鳩」や「白藤」のような自然ではなく、商品の〈記号〉によって恋の気分は象徴されるようになったのである。
今年の「短歌研究」12月号の座談会に、
穂村(弘)「たとえば栗木さんの「観覧車回れよ回れ」という歌い上げの、あれは愛誦性がとてもあるけど、俵万智さんだって「寄せ返す波のしぐさの優しさに」とか、栗木さんのは文語で俵さんのは口語だけど、まだそのころまでは歌い上げる愛誦性が生きていた。(中略)今、「観覧車回れよ回れ」というのは僕らでもきついじゃないですか。」
栗木(京子)「今、恥ずかしいですよ。」
佐佐木(幸綱)「てれるんだね。」
というやりとりがあった。こうした時代の雰囲気は私もよく理解しているのだけれど、逆にそうした時代に逆らう恋の歌が出てきてほしいという願望も、私は持っている。最近の若い歌人の歌集を読んでも、(一部の例外をのぞいて)切実で美しい恋の歌はほとんど見られない。ある若い歌人によると、「恋愛はもう歌の主題にはならない」のだそうである。恋が非常に日常的で消費的なものになってしまって、崇高性や永遠性が信じられなくなっている時代なのだとおもう。〈愛誦性が生きている〉というのは、個人の思いが時間や空間を超えて他者に伝わることを信じられるということである。そのような他者への信頼感を、私たちは急速に失くしてしまった。「恥ずかしい」という感情は、他者からどう見られているのかわからず、不安であるから生まれてくる。
また、その一方で、ベストセラーになるような最近の小説では、恋人が死ぬ
ような極限的な設定が感動的に受け入れられるという状況もある。感動に飢えているのだけれども、非日常的な恋愛でなければ、普遍につながるものを見出せないということなのだろう。
しかし、生活に即した恋愛の中から、日常を超えるものを感じ取っている歌は、現在でも少数ながら作られているのではないか、と私は考えている。次のようなみずみずしい純粋性をもつ歌を評価していくこと、愛誦していくことが大切なのだと思う。目立つ歌ではないし、むしろ古風な歌だけれど、忘れかけていたものを思い出させるような響きがある。
蛍住む町に生まれて育ちしを汝(なれ)言えり汝の父母言えり
棚木恒寿『天の腕』
でもきみの背後にいつも窓はあり咲いているその花の名は何
錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』
片頬をみられつつ竹のにおいする 手をつなぐつないだらまた行こう
山内頌子『うさぎの鼻のようで抱きたい』
夜ごと君は先に眠れり眠剤の真つ白を飲みてあとを追ふなり
大口玲子『ひたかみ』
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