もみじ小戦・第七話
「白い魂」第弐編




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 ミロクの放った最期の炎は昼過ぎになってようやく鎮火した。
 その炎を見た者たちは口を揃えて、その炎が生きているようだったと言う。
 不可解に飛び火し、遊女たちがこの隙に脱出しようとするのを食い止めようとしていた裏組織の行動をことごとく邪魔したのだ。
 幹部屋敷に飛び火して、そちらに人手が集まったと見るや、その間に街中十八カ所にある追跡部隊の詰め所が全て全焼。
 侵入者を追跡するのに何人かが無理矢理出動したが、ほとんどは自分の身を守るだけでも精一杯か、あるいはそれすらもままならなかった。

 後の記録には死者三十七名、行方不明者百名以上、とある。
 実数がはっきりしないのは、いる人間すら把握できていない吉原の特殊性の現れである。
 だが不思議と、発見された焼死体は全て男の物だったという。

「ちっ……」

 焼け跡に広がる灰の山を蹴りつけようとしたが、一応の立場を思い出して止めておくことにした。
 ここは出来る限り威厳を見せておいて、人心の掌握を計らねばならない。
 それにラジヲを通じて、天海の後継者としての立場もなかなか有名になってきた今、あの女はそろそろ邪魔になってきてはいたのだ。
 予定ではもう少し生きておいてもらいたかったし、出来るなら殺さずに意のままにしておきたい女ではあったのだが……、

 まあいい、
 始末する難しさを考えれば楽が出来たと考えるべきだろう。

 そう思い直し、彼は……現在公式上の黒之巣会総帥である大川晴明は、いささかの高揚感に浸っていた。

 これで……これで私が黒之巣会の、帝都の闇の頂点に立ったのだ!!

 六破星降魔陣の恐怖は帝都中の人間がよく知っているので、黒之巣会の後継と言うだけで大概の組織は恐れおののく。
 既にそうやって印籠を振りかざし、八つほどの組織を彼は傘下に入れていた。
 そして、今日からは全てが私の物だ。

「ミロク様を何としても探し出し申し上げるのだ。
 絶望的というのは解るが、せめて御遺体だけでも、と思いたいではないか」

 捜索に当たる部下たちには、悲しみに暮れる上司を演じて意を煽る。
 この演技力こそが、かろうじて使える初等の魔術以上に彼の最大の武器だった。

「私は黒之巣会に逆らおうとする愚か者たちを、これを機に一掃せねばならぬ。
 つらい役目であろうが、この場はお前たちに頼むしかない……」
『はっ!』

 本部へ戻る彼の頭の中は、すでに自分の目の前に広がる薔薇色の未来でいっぱいだった。


*     *     *     *     *


 一方、大神一郎は帝劇に戻ってすぐに医療ポットに直行となっていた。
 なお余談だが、彼をポットの中に入れるときに一悶着有ったのだが、結局大河原と米田が作業するという無難な結論が出た。

 ともあれ、刹那の攻撃を受けたときよりも更にひどい重傷である。
 数日、場合によっては一週間かそれ以上……もしかすると、という想像はしないことにしておく……と思われたので、乙女たちは交代で彼の枕元につくことを取り決めておいて、
 マリアが目覚めたことでようやく再開できた劇場の方にも取り組まねばならなかった。
 特に再開初日はほとんど一睡もしていない乙女たちだったが、唯一眠っていた……そして当然、置いてきぼりにされたことをもの凄く怒った……アイリスが、何とか舞台を支えて乗り切ることが出来た。

「まあ、何とか終わったようだな」

 今はあやめが医療ポットの当番である。
 そこに米田と、今日一日は安静にしておくようにとあやめに脅迫されて渋々残っていた大河原が顔を集めていた。
 なおまたも余談だが、大神が入っているポットには、米田が「男子の情け」といって持ってきた大風呂敷が掛けられていて、首から下を隠してある。

「こうなればあとの黒之巣会残存勢力など恐れるに足りません。
 陸軍上層部に手柄をくれてやると言ってけしかければ、一網打尽に出来ましょう」

 全身各所に包帯だが、元々頑丈な上に骨折もせずに済んだ大河原は息高い。

「そうですね、後々の憂いを断っておくためにも……」
「いや、そいつはまずい」

 不思議そうな顔をする二人に、米田は陸軍随一の戦略家と呼ばれる顔で応えた。

「残存勢力ってのが面倒なんだ。今の構成員は大半が一般帝都市民だろう。
 少々反政府的なところがあるが、別に大逆罪で叩きつぶすほどの必要があるような連中じゃねえ」

 陸軍が正式に乗り出すとなると、やはり政府軍、官軍として逆徒を討つことになる。
 内乱を正式認定することは、光武の再出動以上に避けたいところであった。
 それともう一つ、米田は個人的な理由でも陸軍としての内乱の鎮圧という仕事は二度とやりたくなかった。

「おまけに力で叩きつぶしたら、奴らに同情が集まっちまって、次の組織が出来上がりかねねえ。
 これは何としても避けねばならん」

 判官贔屓という言葉もある。
 おまけに黒之巣会の建前は、江戸の理想国家再興という聞きようによっては耳に心地よく酔わせる内容なので、現状に不満を持っている者が心中密かに黒之巣会を応援しているということは多いはずだと米田は考えていた。

「では、警察にやらせますか?
 そうするにはいささか手続きが面倒ですぞ」

 帝撃と陸軍も仲がよいとは言えないが、軍と警察もお互いライバル意識がある。
 手続き上は、組織の遠い警察に委託する方が更に厄介だった。

「いや、手はある。
 大河原君にかなり派手に立ち回ってもらわねばならねえが」
「何でも仰って下さい。
 この大河原、大神君のためにも粉骨砕身の覚悟で黒之巣会との決着をつける所存であります」
「あー……、まあ、そう気張るな、大河原君。
 俺の見たところでは、奴らの内部につけ込む余地はかなりありそうだ」

 驚く二人を前に、米田は辛辣とも言うべきその策を話し始めた。


*     *     *     *     *


 大神の回復は速かった。
 元々の霊力保持量も並はずれている男である。
 自己治癒能力だけでも大したものなのだ。
 三日目には医療ポットから出て医務室に移ったので、もう大丈夫だろうという安心感が生まれ、枕元に交代で座る乙女たちの表情も幾分明るくなってきた。

「大神さん、早く良くなって下さい。そして、早く、私のことをちゃんと叱って下さい……」

「少尉、この私に黙って戦いに行くなんて……こんな他人行儀な真似は二度と許しませんわよ」

「隊長……、私が二度も隊長を失うところだったのを止めてくれたことには感謝します。でも、出来れば話して欲しかった……」

「お兄ちゃんは、アイリスの恋人なんだから、早く良くなって、そしてアイリスにぜーんぶお話ししてね」

「ウチが悪かったんや……。大神はんが戦ってるのに、また覗いとると思ったウチが……。起きたらウチの髪の毛でも何でもあげるさかい、はよ起きてや……」

「あたいをただの女優扱いしたツケは大きいぜ、隊長。とっとと良くなって、あたいの実力を思い知らさせてくれよ……」

 言葉そのものの心境の者もいれば、強がる者もいる。
 ただ、思いは同じであった。
 大神の脅威的な回復は、世界屈指の霊力を持つ乙女たちの祈りに寄るところも大きかったのかも知れない。

 その甲斐あってか。

 そのとき当番に当たっていたアイリスは、何が起こっていたのか一瞬気づかなかった。
 ただ、眠っている人と起きている人では気配が違う。
 まず何か起こっていると言うことを感覚で察して、それからよーく見てみる。

 大神が、目を開けていた。

 みんなを呼びに行かなきゃとか、嬉しいなとか思うよりも先に、アイリスは即大神に抱きついていた。
 もちろん、大神はまだベッドの上で横になったままなので、抱きつくと言っても体勢に無理がある。
 いくら何でも怪我人の上に乗るのが無茶なことくらいアイリスも解っていたので、横から腕に抱きついた。

 が、肝心の大神は何も喋ってくれない。
 アイリスはだんだん不安になってきた。
 いつもなら頭を撫でてくれるか、困ったように笑ってくれるか……ともかく子供扱いででも何か反応してくれるはずなのに……、
 それなのに……!

「お兄ちゃん……どうしちゃったの……?
 お兄ちゃんの恋人のアイリスだよ、忘れちゃったの……!?」

 さりげなく……かどうかはさておき……自己主張を入れるアイリスだが、置いてきぼりにされた彼女の精一杯の背伸びでもあった。
 ただ肝心なのはその後だ。
 アイリスは思わず口にしたのだが、これはそう的はずれでもないかも知れない。

 アイリスが抱きついたので目を向けてくれたのだけど、その目は優しくもなければ冷たくもなかった。
 喜んでいるのでも、怒っているのでもなかった。
 まるで知らない人間を見ているような大神の目が怖くて、アイリスはそう感じてしまったのだ。
 大神が自分のことを忘れてしまったのではないか、と。

 厳密にはそうではなく、ある意味ではそれ以上に厄介なことだと、次の言葉が示していた。

「イリス・シャトーブリアン」

 何の抑揚もないその声が大神の声まで解るまでに五秒。
 その口から発せられた言葉が、あまり耳に馴染みのない自分のフルネームであったと理解するのに十数秒。
 アイリスの顔は一気に青ざめた。

 違う……、いつものお兄ちゃんじゃない……!!

 恐怖に寒気すら覚えたアイリスに、止めの一言が掛けられた。

「知って、おります」



 警報より雄弁なアイリスの泣き声というか悲鳴に真っ先に気づいたのはカンナである。
 いつも通り鍛錬室でサンドバッグや銀輪鍛錬器を相手に修行中であったが、ほぼ向かいにある医務室から悲鳴が聞こえてはのんびりとはしていられない。

「どうしたアイリス!」

 まさか大神の呼吸がいきなり止まったとか、不吉な想像を必死で頭から追い出しつつ、派手な音とともに医務室の扉を蹴り開けると、

「カンナぁ!カンナぁっ!」

 いきなりアイリスが泣きついてきた。

「どうしたアイリス!?隊長がどうかしたのか!?」

 その小さな身体を軽々と受け止めてやると、子供扱いとはいえアイリスはこれで少し落ち着いた。
 根は、まだ甘えたい少女なのである。
 彼女を抱き上げなおして、大神に視線を向けると……大神の目がぱっちり開いているではないか。

「おいおいどうしたアイリス、うれし泣きかよ」

 言いつつ、思わずうれし泣きをしてしまいそうになったカンナだが、武道家としての彼女がそれを押しとどめた。
 武道家としての誇り故、ではない。
 大神から感じる気配だった。
 ある時は研ぎ澄まされた真剣のように鋭く、
 ある時は稲妻のように疾く、
 ある時は全てを受け入れてくれる雄大さすら感じさせた大神の気配とは、断じて違う……!!

 かつて刹那と戦ったときも、目が覚めた大神は真っ先に助けた親子のことを心配する優しい目と気配をしていた。
 それが今は、何も心に引っかからない。
 ショーウインドーのマネキンの方がよほど表情というものを感じさせるのではと思えるくらいに……!

「アイリス……、隊長は記憶でも失ったのか?」

 真剣勝負となった武道の世界では、記憶喪失もそう珍しくない。
 カンナが真っ先に考えたのは、頭部への大ダメージで大神が記憶を無くしてしまい、自分たちのことを忘れてしまっているのではないかということだった。

「違うよぉ、カンナぁ……。お兄ちゃんが……お兄ちゃんじゃないんだよぉ……」
「……!?隊長、あたいのことは知っているんだろうな!?」
「知っています」
「!!!!」

 その一言で、アイリスが何故泣いていたのか嫌と言うほど思い知らされた。
 何の心も感じられない、ただの返答。
 顔面蒼白で思わず卒倒しそうになる自分を何とか踏みとどまらせてカンナは、泣いているアイリスを抱きかかえつつあやめを呼びに行った。



 一悶着有った。

 一大事と駆けつけたさくらたちの質問に、実に丁寧で正確な返答が返ってきた。
 例えばさくらが、自分のことをどれくらい覚えているかということ、誕生日から始まって怖いもの、嫌いなもの、はては幼なじみのタケシ君と遊んでいたときの話まで、何のよどみもなく報告した。
 もちろん、大神が知っている範囲でのことであるが、その記憶の中においては正確であった。
 雷様の話まで何の躊躇もなく言い出しかねなかったので、止めてください、とさくらが叫ぶと、これまた何の躊躇もなく単語の途中でピタリと話を打ち切る。
 すみれ、紅蘭、マリア、さらには三人娘も掛け合ってみたが、結果はほとんど同じであった。

「そんなアホな!こうなったらウチの記憶回復マシンめもりぃくんで……」
「止しなさい、紅蘭……」

 半狂乱で「100t」と書かれた小型金槌を振りかざそうとする紅蘭は、あやめに止められた。

「大神くんは、記憶を失ったわけではないわ」

 あやめの口から出る言葉は、どんなものであれ説得力がある。
 と同時に混乱を鎮める力もあった。

「そのようですわね。深川のことも覚えていらっしゃるようですし」
「私のように、何かに憑かれているのでしょうか」
「決めつけるのは早計だけど、外的要因でかつそれが持続しているとなるとその可能性が高いわね」

 術法の心得があるあやめは、大神の額に手を当てて彼の精神に少しだけ触れてみた。
 アイリスの心を読む能力とはまた別種の技で、精神探査ともいうべきものだった。
 何らかのものに操られているのなら、その術者の力で弾かれるはずである。
 敵術者の波動を感知するのが狙いで試してみたのだが、予想に反して大神の魂まで覗けそうなところまで行ってしまった。
 深く立ち入るのは大神の人格を無視することになってしまうので、そこからは慎重に探索する。

 閉じこもっている、とでも言おうか。
 他術者の圧力どころか、大神の感情の起伏によって当然生じるはずの波も全く感じなかった。
 気にはなったが、これ以上の探索はひとまず止めにしてあやめは意識を戻すことにした。
 上司だからと言って、大神の心の中をあやめが覗いていい理由にはならない。
 他の方法で調べられるのなら、それに越したことはないのだ。

 とにかく現時点で解ったことは、大神が自分の意志で閉じこもっているのではないか、というあまりにも疑わしい推測の材料だけであった。
 しかし、これは口に出すのは止めておく。
 そんなことを聞いたら、少女たちがどう思うことやら。
 なんとか、外から出来ることはやってみよう。

「誰でも良いから、大神くんの部屋に行って小太刀を取ってきてくれる?」

 いつもの大神の意識がそれによって呼び戻せるのではないか、と考えたのだ。
 さくらがすっとんで行って、小太刀の他にもあとこまごました物を持ってきた。
 あやめの考えていることをほぼ正確に察したらしい。
 乙女の洞察力を舐めてはいけない。

 ともかく、大神に小太刀を持たせてみる。
 だが腰につけさせても、手に握らされても、更に鞘から抜いても、大神はまるで反応を示さなかった。
 花組隊長としての彼の覇気が無くなってしまったわけで、隊員である少女たちはかなり深刻に受け止めているようだ。

 どうした物かしらね……と考えて、さくらの持ってきた中にモギリのハサミを見つけた。
 いくら何でも、と思いつつも小太刀の代わりに持たせてみる。
 ……やっぱり反応はない。
 ところがだ。

「大神さん、切符ですよ」

 かすみが試しに当日分の立ち見券をすっと大神に差し出した瞬間、それは起こった。

シュパアァッッッ!

 空気が鋭い音を立てたかと思ったときには、かすみの手にしていた切符には、切取線と寸分狂うことなくハサミが入っていた。
 その疾風とも言うべき動きを、その場にいた誰も……あやめでさえも見切ることは出来なかった。
 大神は元の姿勢のまま、微動だにしていないように見える。

「…………かすみ、もう一度やってみてくれる?」
「……は、はい」

 半ば絶句しながらも、かすみは小袋から切符を探り出しておそるおそる差し出した。
 しかし今度は、ちらりと視線を向けるとかすみの動きを遮るように大きく両手を広げるではないか。

「…………どうしたのかしら?」
「あのー、かすみさん。その切符、先月の蛇女火炎地獄のものですよ」

 椿に言われて気がついた。
 先ほどのは今月の「つばさ」の公演分だったが、これは色も違う。

「まさか……それを判別して……?」

 三人娘だけではなく、その場にいた全員が冷や汗と共に顔を見合わせた。
 念のためにもう一度今月の切符を差し出すと、
 切符が視界に入った瞬間、大神の眉がピクリと動いた。
 ハサミを持つ右手に袖と毛布がだぶつかないように左手で僅かにたくし上げて、自由に動かせるようになったその手がハサミを開きつつ繰り出される。
 切符の切取線を外すこと一毛も無し。
 半瞬遅れて切断音が響く頃には、元の姿勢に戻っていた。

『………………………………………………………』

 何となく、壮絶なまでに白い空気がその場に漂った。
 戦士としての感覚は失っていても、モギリの仕事は大神の全身に叩き込まれているらしい。

「大神さん……」
「少尉……」
「隊長……」
「お兄ちゃん……」
「大神はん……」
「たいちょお……」
「大神さーん……」
「大神さん……」
「大神さんって……」
「大神くん……」
「大神ぃ……」

 思わず皆天を仰いで、
 どこか悲嘆とはずれた理由で涙目になっていた。


*     *     *     *     *


 ともあれ。

 モギリ、伝票整理、掃除、見回り等々。
 大神はほとんどの仕事をそつなくこなすことが出来るくらいにまでは回復していた。
 ただし、それには別の側面がある。
 それらの仕事を、大神は文字通り文句一つ言わずに脊髄反射のような手際で片づけていったのである。
 大神が休んでいた数日だけで帝劇の仕事は山積していたのだが、それらは翌日の昼過ぎにはほぼ平常通りに戻っていた。
 ただ困ったのは、接客でもあるモギリである。

 いざ玄関に立つと自動的に顔が営業スマイルに変わるというのには、賞賛を通り越して思わず椿も泣きたくなってきた。
 ただ、感情がまるで表に出てこないので、返答が虚ろなのである。
 これではお客さんはいくら何でも不審がってしまう。
 大神には専門のファンが何人もいるくらいなのだ。
 ただのモギリとして軽視されるような存在ではなく、ある意味では花組のスタア達以上に帝劇の看板なのである。

 悩んだ末、かすみが一計を思いついた。
 大神にマスクをかぶせ、喉の病気と言うことにして、大神には喋らないように言っておくのである。
 マスクをしてしまえば、どことなく不気味な感じもする営業スマイルも、単に目が笑っているだけのように見えるので、ひとまず何とかなった。
 こうでもして大神にやってもらわないといけないくらい、現在の帝劇のモギリの仕事は過酷なのである。

「大神さんは喉を痛めて、ここ数日倒れていたんです」

 と説明を入れる椿に少ししわ寄せが来ているが、大神はこちらでも何とか普段通りの任務をこなしていた。
 なお、黙々と仕事をこなす大神の横で、入荷したアフロな大神と坊主な大神のブロマイドが飛ぶように売れていたのだが、それはこの際どうでも良い話であった。

「どうにか、ならんもんなんか……」

 大神と話す花組の面々や三人娘にとっては、余りに従順で機械的な大神の行動一つ一つが自分の憧れて思い描く大神像と余りに違うことに、何度と無く苦しめられた。
 大神を疑っていた時期でさえ、大神はあくまで大神としてそこにいた。
 疑ってしまうのは嫌だったが、そのときでもなお、普段の大神の行動を見てほっとさせられることも多かった。
 だが今はその逆。
 普段とは違う、こんなのは大神じゃ無いという意識が乙女たちを苛んだ。
 大神は、自分たちを守るためにこうなってしまったのだから。

「このまんまじゃ、帝劇が空中分解しちまう」

 心中でのもっと切実な心配までは口に表さずに、聞く限りにおいては冷静に、しかしそれでも極めて深刻な表情で米田はあやめと話をしていた。

「結局のところ、大神はどういう状況なんだ、あやめくん」

 あやめは先ほど、大神に悪いとは思いつつも、もう一度彼の精神を覗いてみたのだ。
 幸いにも、彼の感情部分……例えば、彼が一番好きなのが誰だとか、何が一番怖いとか……そういったことは全く見つからなかった。
 あまりにも、完全に。

「……?どういうことだ」

 米田も長く魔と戦ってきた経験はあるが、こういった術法については藤に連なる者……裏御三家の一つ藤堂家の流れを汲む藤枝の修行を受けたあやめの方が詳しかった。

「大神くんは、自分でそれらを押さえつけているように思われるんです。
 封印されているのではなく、まるで、封印しているかのようだと感じました」
「封印している……?もう覗きなどをしないように、か……・」

 米田は冗談めいたことを言ってもう少し肩の力を抜こうとしたのだが、そこではっと思い至った。
 大河原は確か、ミロクが最後に煩悩がどうとか叫んでいた、と言っていた。
 ミロクが最期に……。
 ……それで、話が見えてきた。

「長官?」
「読めたぜ。今の大神がどういう状況か」

 真剣の鋭さを秘めた目で言うときの米田の確信は外れたことがない。
 日本陸軍随一と賞される戦略家の顔でもある。

「大神は、ミロクが抱え込んでいた負の情念に取り憑かれているんだろう」
「……!」

 その意味が推察できないあやめではない。
 ミロクが吉原屈指の遊女、細川ミクとしての一面を持っていたことは、既に大河原から報告を受けている。
 ならばその負の情念とやらがどんなものか。

「大神は自分を押さえつけているようだと言ったな、あやめくん。
 おそらくはそういうことではないのか?
 そのままでは花組の連中にまで襲いかかる狼になっちまうと判断したあいつは、自分の感情を丸ごと押し込めてそいつを食い止めているんだろう。
 ……あの堅物の考えそうなこった」

 米田の言葉の後半は、どこか吐き捨てるようなところがあった。
 見事と誉めてやりたいところではあるが、しかし、仲間を助けるために自分を厭わない姿勢というものは、米田には受け入れられないのだ。
 あいつらは、自分を捨てるようにして戦い……そして、戻らなかった……!

「すると、確認が取れるまで下手な手出しをすると、それまで呼び覚ましかねないわけですね」」
「ああ、俺としてもこの想像が外れてくれることを願っちゃいるが、状況証拠がちいと雄弁に過ぎらあ。
 ただ、あやめくん。
 念のため後でもう一度大神の抱え込んでいる内側が解らないかどうか、確かめておいてくれ」
「はい、それは構わないのですが、しかし最終的にはどうしたらよいものでしょう。
 私が清浄の術法を試してみましょうか?」

 藤枝家の後継者として、あやめは清浄の巫女としての能力も技術も持っている。
 しかし、今回は相手が悪すぎると米田は思う。
 あやめ自身も、自信があれば「どうしたらよいものでしょう」などとは聞かない。
 通常の魔物ならば即あやめにやってもらってすぐに解決するところだが、取り憑いている物が物だけに、術を行えばあやめ自身にも危険性が大きくなるのだ。

「いや、そいつは駄目だ。
 もっと別の形で解呪の性質を持つ物を全て試した後の、最後の手段だ」

 今は優秀でかけがえのない副官となっているが、米田にとってのあやめは同時に可愛い娘の一人でもある。
 さらに、現在生きている人間の中では一番一緒に戦ってきた時期が長い戦友でもある。
 大神は失われてはならないが、あやめもまた失われてはならないのだ。
 それに純然たる魔ではないので、浄化が効くのかどうかすらも疑わしかった。

「しかし支配人、他に手だてと言ってあるのですか?」

 そう言われると米田も困る。
 陰陽師や方術士の知り合いならば何人かいるが、大神ごと滅ぼしてしまいそうな奴が何人か。
 まるっきり属性の違う奴が何人か。
 外部に知られては困る、という理由はこの際かなぐり捨ててでも、選択肢はそう多く残されているわけではなかった。

「まあ、当たれるだけあたってみるわ」

 と言って、蒸気電話の受話器を取ろうとしたところ、

「私に、させてください」

 いきなり声が響いて、さくらが入ってきた。

「さくら!」
「すみません。外で立ち聞きしていました」

 米田が叱りつけるよりも早く、素直にかつ手短にさくらが謝ってしまったので、米田は吸い込んだ怒声を飲み込むしかなかった。
 やれやれという態度で、支配人席にどうと座り込む。

「いつから聞いていた?」
「ミロクの負の情念がどうとか言うあたりからです」

 八割方聞かれていたということになる。
 対降魔部隊、あるいはそれ以前から歴戦を経てきた二人には遠く及ばないとは言え、さくらはこう見えても北辰一刀流免許皆伝。
 そんじょそこらの剣士とは比較にならない。
 注意を払っているときならともかく、難しい話題に頭を悩ませているときであればこの二人にすら気配を悟らせないくらいのことは出来たと言うことだ。

「駄目だ。……というかさくら。おめえは術法なんか知らねえだろうが」

 出来るだけいつもの調子に近づけて、軽くあしらうように米田はやめておけという仕草を面倒くさそうに見せた。
 無論、演技である。
 伊達に大帝国劇場の支配人をやっているわけではない。

 幸か不幸か、一馬は娘に術法手段を全く教えないままに逝った。
 こう言ってしまえばぐうの音も出ないだろうと思ったのだ。
 が。

「あたし、天海との戦いが終わってから、お母様と御祖母様に手紙でお聞きしたんです。
 破邪の力、のことを」

 その言葉で米田とあやめの顔から一瞬にして血の気が引いた。

 破邪の力。

 その名称とは裏腹に、二人がその名前で思い起こすのは拭いようもない悲しみの記憶なのだから。
 だが、米田はすぐに気を取り直す。
 現在真宮寺家をあずかる桂と若菜とは昔から何度も会って、その性格は知っている。
 おそらく、歴代真宮寺家の中でも最も破邪の血統を嫌っているはずの二人が、
……さくらのためなら、真宮寺家など滅びても構わぬと言い切った二人が、
 むざむざとさくらに魔神器のことを教えるとは思えなかったのだ。
 とすると、考えられることはもう少し楽観的だ。

「あれか?
 ミロクがここを強襲したときに大神と一緒に閉じこめられてしまって、脱出する際に発動したという力のことか?」

 大神、あやめを経て、米田も報告を受けている。
 六破星降魔陣の発動直前にミロクが花組の足止めとして帝劇を強襲した際の爆発で、更衣室に閉じこめられた二人はマリアの銃を使って脱出したのだが、そのときにガス配管を誘爆させてしまったのだ。
 だがこの爆発から大神をかばおうとしたさくらが、不可解な力を発動させて二人とも無傷でいられたのだという。
 説明じみた確認の仕方をした米田は、魔神器のことではないとあやめにいいきかせるためだった。

「はい。あたしの中に、まだよく解らないですけど魔を払う力があるって」

 魔を狩るもの、真宮寺家。
 元来都に在して浄化を司ってきた藤堂家の流れを汲む藤枝家よりも、その特質はやや攻撃……あるいは戦闘的な色彩が強い。
 さくらが発動した力は、元々をたどれば戦闘時の防御能力の発動と見ることもできるだろう。
 確かにその程度の知識ならば、元来さくら自身が持っている力であり、また身の破滅につながることでもないので、「わかっておきなさい」という気持ちで桂と若菜の二人が教えたとしても不思議はなかった。

「あのとき……どうやって力が使えたのかよく覚えていないんですけど、
 ただ大神さんを助けたい……って思っていたんです。
 そうしたら、身体の奥から自然とあの力が出てきた……」

 記憶を確かめているのか、さくらは手の平を見つめてぎゅっと握った。

「きっと……出来ます。もう一度……。
 大神さんを助けるためだったら……」

 我を取り戻したあやめは、そうつぶやくさくらに七年前の自分を重ねていた。
 大好きな人のためだったら、何でも出来ると確信して戦っていたあのころの自分を……。

「……さくら」

 その肩にそっと手をおいて、あやめは優しく尋ね掛けた。

「脅かすようで悪いけど、これだけは解っておいて、さくら。
 多分大神くんの今の状況は支配人の推測通りで間違いないと思うわ。
 大神くんは自分に取り憑いた無数の煩悩を自分で押さえ込んでいるはず……」

 本来、それはとてつもなく称賛に値する精神力であろう。
 並の人間ならばとうの昔に屈している。
 その意味でも、花小路伯爵も自分も、隊長の人選を間違えなかったと思う。
 ……八ヶ月間女性ばかりの職場にいてえんえんと生殺しだった「荒行」の成果でもあったのかもしれないと思ったけど、これはこの際忘れておくことにして、

「それを払うためには、大神くんが押さえ込んでいるのを解いて、その煩悩を表に引きずり出さなければならないわ。
 こちらの術から逃げられるか、耐えきられた場合、大神くんの身体はその煩悩に完全に支配されることになる。
 そのときにはどうなるか……わかっているわね」

 吉原で生き抜いてきたミロクが抱え込んでいた男たちの煩悩。
 それがどんなものか想像して……想像しきれずにさくらは底知れぬ寒さを覚えたが、すぐに気を取り直した。

 全ては、約束を守らなかったあたしのせい。
 もし大神さんを元に戻せなかったら、そのときはどんな罰でも受けよう。
 でもあたしは失敗しない。
 必ず、大神さんに帰ってきてもらうんだから……!

 顔を上げて、優しく見下ろしてくれているあやめに向かって、しっかりと頷いた。

「よろしい」

 あやめはそっと微笑みつつ米田を振り返って、
 米田は扉を見つめつつ苦笑いしていた。
 つられて、あやめも微笑みがちょっと苦笑いに変わる。

「というわけだから……」

 さくらから手を離して、あやめはそっと足音を忍ばせて扉に近づいた。

「あなたちもそれでいいわね」
『うわあああっっっ!!』

 勢い良く扉を開けると、向こうから折り重なった悲鳴というか文句が聞こえてきた。
 当然、いつも通りよおく知った声の和音である。

「……まったく。帝劇を改装するときゃあ、真っ先に支配人室に防音設備をいれなきゃなんめえ」

 冗談めかしてぶつくさ言う米田はしかし、酒には手を伸ばさずに笑っていた。

「あー、どーもー、こんにちは〜」
「すみません、支配人……」

 折り重なっていた五人がのろのろと起き出す。
 可哀想に、床と縁があるのか知らないがすみれが一番下であった。
 まあ、それはともかく。

「途中から聞いていたのね。なら、繰り返すまでもないでしょうけど……」
「愚問ですわよ、あやめさん。
 これ以上さくらさん一人にいい格好はさせませんわ」
「なーに、隊長が暴れたときには生身でぶつかれるアタイがいた方がいいだろう?」
「今度は、私が隊長を助ける番です」
「もう、置いてきぼりは許さないんだから〜」
「襲われる危険くらい……、大神はんが相手やったら問題あらへん」

 紅蘭が締めくくった言葉の裏側に秘められた微かな想いもろともに、六人は顔を見合わせて頷いた。

「あー、くそっ、仕方ねえ。やるぞ!」




 儀式の場所には舞台が選ばれた。
 これは広さと言うこと以上に術法上の利点を重視した選択である。
 演劇は元々術法としての色彩が強い。
 自分ではない自分を演じたり、この世界ならざる世界を演じたり……。
 繰り広げられる虚構の世界は、一つの結界でもある。
 演劇とはそれそのものが儀式法術にもなりうるのだった。
 この面々で儀式を行うのならば、その利点を使わない手はない。

 舞台中央、意識的にスポットライトを強めに当てた場所に、大神は言われた通りに突っ立っていた。
 舞台係の黒子衆は大半が既に帰っていたので、両脇のピンスポにはかすみと由里が、調光卓には椿が着いている。
 米田とあやめは呪術陣記述の代用となる光を無理矢理に術式に合わせるために、特等席に座って三人にあれこれと指示を出す。
 背景は、今月の公演「つばさ」の中で最も光が美しい、ジャンが見下ろす巴里の街並みが選ばれた。
 街の光の宝石箱を演出する輝きを背に、大神の南東を空けるようにして、五人が二段に分かれて散らばる。
 大神と同じく舞台中央に立つのは、直に力を振るうことになるさくらである。

「……なんだか、シンデレラと王子様のようですわね……」

 あまり認めたくない事実を、すみれは一人こっそりとつぶやいた。
 前に小学校の子供たちに見せるための出張公演で、大神が王子役をしたときのことを思い出したのだ。
 しかし、今は余計なことを考えている場合ではないと思い出し、舞台に力を集中する。

「そう。みんなで舞台を作るときの感覚と同じよ。
 意識だけではなく、光武に乗っているときのように、霊力を繋ぐだけの違い。
 霊力を繋ぐのは、手を繋ぐのと同じよ」

 あやめに言われたとおりにしようとしてはみるが、何しろ全員初めての経験である。
 なかなかうまく行かない。

「うーん、何となく解るような気はするんだけどさあ……」
「なかなか、難しいわね……」

 難しいわね、と言いつつ、その「難しい」という意識で皆と繋げようともしてみたマリアだが、どうもうまく行かない。

「いいえ、あなた達ならきっとできるわ」

 あやめの声には、励ましよりも確信がある。
 なぜなら、

「支配人!よろしいですか!」
『おう、はじめるぜ、みんな』

 直声ではなくマイクを通した声が客席上方スピーカーから響いた。
 そういえば米田はどこに……とみんなが思った瞬間、音楽が始まった。
 米田は音響室にいたのだ。

 実は一人でこっそりと浪曲の練習をしている米田は、ここの扱いにも結構慣れているのである。 
 出力表示計を眺めつつ、増幅器のつまみを微調整する手つきは、ちょっと素人には見えない。
 こうしてレコードをかけておいてから舞台まで走って歌う、というのをよくやっているのだ。
 が、今はそんなことは事態と関係がない。

 始まった曲は、全員が知っている「この世は楽し」だった。
 しかし、この曲は……!

「あなたたちならきっと出来る。
 いつも声を合わせて歌うのと同じことなんだから」

 歌は詩歌が元であり、つきつめれば和歌も呪文に近い意味を持っていた時代もある。
 何も特別な真言など要らない。
 そこに想いが込められていれば、呪文の代用以上の効果があるはずだった。

「ですがあやめさん!この曲はデュエットですよ……!」

 前奏が終わる前にと、早口でマリアが悲鳴気味に叫ぶが、あやめは平然と答えた。

「歌の中に大神くんを引き込むのよ。大神くんと歌いたい、その気持ちをいっぱいにしてね」

 この歌はデュエットであると同時に、誰かが間奏を支える歌でもある。
 一人一人が主演になれて、一人一人が助演になれる。
 そして、どの公演の歌というわけでもないので、誰かが特別に深い関わりがあるわけではない。

 全員、覚悟を決めた。
 前奏が終わり、歌詞に心を載せて歌い出す。
 幕が上がって大神と共に歌っている自分の情景を想像しつつ、六人の声が合わさる。
 突き詰めればきっとぶつかるであろう六人の、だけど今は共通した一つの願い。

 歌えと命令されているわけではない、無感情なはずの大神の顔が上がり、スポットを浴びて輝く。

 もう少し……だ、もう少し……!

 そこで第一歌唱節が終わった。
 口上を入れる間奏部に入ると共に、大神の周囲に呼びかける声が溢れる。

「大神さん!」「少尉!」「お兄ちゃん!」「隊長!」「大神さん!」「大神はん!」「隊長!」「大神さん!」

「大神さん、もういいんです、一人で戦わなくて。
 私たち、いつも一緒です。舞台でも、部隊でも」

 別に破邪の力とか言った特別な力じゃない。
 少女たちの純粋な呼びかけが、魂の奥底で孤軍奮闘していた大神に届いた。
 虚ろだった瞳に、急速に意志の光が満ちる。
 同じ顔であるはずなのに、まったく別人のように見えるほどの変化だった。
 大神一郎という人物の魅力を挙げるとき、その容姿という条項はその優秀な成績にも関わらず、重要な項目ではないと言うことなのだろう。
 歓喜の声を上げそうになる乙女たちだが、あやめが「気を抜かないで」というプロンプトを差し上げるのとほぼ同時に起こった異変に気づいた。
 大神の体内から、黒とすら呼べるだろうかというおぞましい色をしたものがにじみ出してきたのだ。

 ゾク……

 名状しがたい姿をしたそれは、心理的生理的嫌悪感を覚えさせるには十分すぎるほどの禍々しい大気を纏っていた。
 そんな物が存在することを認めたくないほどに。

 ただあやめだけは、それとは別に奇妙な感覚に囚われていた。
 自分の中に、その禍々しい物に呼応する存在が眠っていて呼びかけられているような……
 だが、そこでかろうじて我を取り戻した。
 今はそんなことに気を取られている場合ではない。
 念のためにと手元に置いておいた神剣白羽鳥を、居合い気味に抜き放った。
 その気の衝撃が、舞台上の乙女たちを我に返らせる。
 ギリギリで第二歌唱節の開始に間に合った!

 声を合わせる少女たちの声に、確かな男性パートが重なった。
 大神が、歌っている!

 だが事態はまだ容易ではなかった。
 歌声を必死で紡いでいる大神の全身はその得体の知れないもので覆われていて、大神の意志に反して動こうとする。
 それでも大神は苦痛の声を押し殺して歌を紡いだ。
 歌えなくなったときは、自分が自分でなくなるときだと本能的に悟っていたのかも知れない。

 その身体が、大神の意志に反して跳躍した。
 由里とかすみは重いピンスポを何とか動かして大神を光の中に収める。
 舞台の魔術から抜け出されないように。

 大神の身体が飛びかかったのは、……それは単に一番近かったためだろうか……さくらだった。
 今の大神の動きは単純に直線的で、仮にも心得のあるさくらならば避けて避けられないことはない襲撃だったが、さくらは真っ直ぐに大神を見つめ、逃げなかった。

 怖くないはずがない。
 強さに接しているのとは別の意味で、身体が微かに震えている。
 だが、襲いかかってきているのは大神だった。
 不謹慎と思いつつも、ほんの少しだけドキドキしている自分がいる。
 その悪い自分を支えにした。

 狼さながらの動きで大神がさくらにのしかかる。
 その表情は身体を止めようとして苦痛に歪みつつも、それでも唇は歌を忘れずに歌っている。
 まだ同じ儀式の中にいる。
 六人は歌声に載せる霊力を更に高めた。
 あとは最後の一撃を繰り出すさくら次第。

 もし失敗して大神が飲み込まれたら……
 完全に狼となってしまったそのときには……

 米田は一人密かに神刀滅却を握りしめる。

 そのときは、俺がおめえを切る。
 だが……今度は一人では逝かせんぞ……!

 両肩に大神の手が掛けられ、一息にさくらは押し倒された。
 だが、受け身をとって、背中を強打するのを避ける余裕まであった。
 自分でも意外に、まだ落ち着いている。
 ふと何故だろうと思い、そういえば大神に押し倒されたのはこれで二度目だったことを思い出した。

 七月に、場所も同じこの舞台。
 花組のみんなのように自分も人々に夢を与えてみたいと語ってくれたときの、ちょっとした事故。
 あのあとは、自分がひっぱたいてしまったもみじの痕を頬に貼り付けたまま、大神は土下座して平謝りだった。

 私たちの……私の、大好きな、大神さん。
 知っていますか……?
 口では怒っていましたけど、あたし、あのときすっごくドキドキしていたんですよ。

 のしかかってくる圧力で着物の肩が少し破けるが、大神の体はそれ以上動かない。
 大神が自分の意識を振り絞って、最後の一線で持ちこたえているのか。
 痙攣しているかのように、その全身が震えていた。

「大神さん…………!!」

 舞台に集められた乙女たちの霊力全てが、さくらの叫びとともに集約する。
 五人は歌を更に強め、舞台中央は数々のライトよりもさらに明るく輝く。
 その力はさくらの内から出たものと、集められたものと。

 だが……!
 まずい……!
 曲が……終わる……!

 まだ終わっていない。
 ここで歌が切れたら……!

「させるかあっっっ!!!」

 もう一度音響室に駆け込んだ米田は、レコード盤を跳ね上げて針を移動させた。
 ピタリと狙い通り、間奏の終わりまで曲が戻った。
 これで最後だとばかり、乙女たちは全力を歌に載せて大神とさくらに吹き付けた。

 倒れたままのさくらが掲げた手に、太陽よりも明るい霊力が結集する。

「お疲れさまでした。大神さん……!!」

 一閃!

 さくらが振り切ったまばゆい白光の中で、大神の全身を取り巻いていたものが完全に吹き飛んだ。
 力の抜けたような大神が、そのまま倒れ込もうとして……

「ご、ごめんっ!さくらくんっ!」

 間違いない、確かに大神の……ちょっと情けない声が歌に重なった。
 真下にさくらを組み敷いていることを思い出して、ギリギリで身体をひねる。

 ごつんっ!

 無茶な体勢で倒れ込んで、後頭部を強打する音が舞台に響き渡るとともに、全力を注ぎ込んでいた乙女たちは笑いながらその場に座り込んだ。

『ようこそ……劇場へ……』

 こんどこそ本当に歌が終わり、舞台に優しい静寂が戻った。

「大神さん……。あの……大神さんですよね」
「あ……ああ、大丈夫……どうやら記憶喪失にはならなくて済んだみたいだよ……」

 困ったような、照れた顔。
 間違いない。
 大神の顔だった。

「それよりごめん、さくらくん!」

 右肩の破けた部分から目をそらすようにして大神は、あのときと同じように土下座して平謝りした。
 でも、そうされても困る。

「あやまるのは……私の方です……」
「ちょっと、何を二人でいい雰囲気を作っていらっしゃいますの?」

 不機嫌を顔の全面に出して、でも唇をほころばせつつすみれが二人を見下ろしていた。

「お帰りなさいませ。わたくの、少尉」
「すみれ!抜け駆けは許さねえぞ!」
「そうだよぉ!お兄ちゃんはアイリスの恋人なんだから!」

 大神に対抗して土下座しつつ髪の毛を切ろうとして大神に止められる紅蘭やら、
 とっとと服を着替えてきなさいと言いつつさくらを追い出そうとするすみれやら、
 謝りつつ前の発言を冷静に糾弾するマリアやら、
 結局大神と真剣勝負する機会を逃してしまったので試合の約束をするカンナやら、
 疲労した大神に回復技を掛けようとして抜け駆けと言われるアイリスやら、
 さらには椿も由里もかすみも舞台に駆け上がった。

 一つの喜劇の終わりがそうであるように、いつもの帝劇そのものの光景が、大団円として舞台上で繰り広げられるのを前に、
 戻ってきた米田と共に、あやめは特等席で笑いながら拍手を送っていた。




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