知らない人間が見たら通夜の会場に見えたかも知れない。
さりとて、場所は大帝国劇場のサロン。
集まっているのは帝劇花組のスタアたる少女たちが四人。
神崎すみれ、李紅蘭、真宮寺さくら、桐島カンナ。
帝劇花組最年少のアイリスは、時間が時間だけあって起こさなかった。
なにしろもう丑三つ時を回っている刻限である。
また、事実上花組のリーダーであるマリアは、先日の大神との戦い後、まだ目を覚まさない。
集まれる全員が集まって、熱心にもこんな遅くまで劇の稽古……をしているわけでは断じてない。
「すみれ。何だよ、話って」
自分たちを呼び集めたすみれと紅蘭のただならぬ様子に、カンナも冗談を挟まずに切り込んだ。
「夜が明けたら、支配人室へ行こうと思いますの」
苦渋に満ちた……、どころではない表情で、すみれはかろうじて声を絞り出した。
「何だよ、それなら一人で行けば……」
「あなた方にも、ついてきていただきたいの」
舞台で妖鬼婦人の役をやったときとは比較にならないほどの鬼気迫る表情に、さすがのカンナも思わず一歩引いていた。
何度も喧嘩しているとは言え……いや、だからこそこんなすみれを見るのは初めてのように思う。
「あの……どういう理由があるんですか、すみれさん」
おそるおそる……と言う言葉をまさに文字通りに体現したような姿勢と目線で、さくらが尋ねた。
嫌な予感がする。
決していいことでは有り得そうにない。
しかも、自分にとってではなくて……
「支配人にね、お願いするのですわ」
すみれは喉が渇いているのか、二三度唇を湿らせて唾を飲み込んでから、言った。
「少尉を、花組隊長から解任するようにね」
『!!!!』
先ほどからうつむきがちに顔を伏せていた紅蘭は、耐えきれずに思わず目をつぶった。
カンナとさくらの二人はまず絶句する。
特にカンナは、怒鳴ろうとして吐き出した息が、喉の声帯に引っかからずに素通りしてしまい、その勢いだけでつんのめりそうになった。
息を吸いなおしてもう一度。
今度は声になった。
「どういうことだ!!すみれ!!」
すみれが襟首のある服を着ていたら、首根っこを掴んでつり上げていただろうと思われるほどの見幕だった。
「すみれさん……事情を聞かせて下さい」
顔面蒼白でさくらがもう一度尋ねたので、カンナはそれ以上畳みかけることはせずにすみれの答えを待つことにした。
たださくらには、いくつか思い当たる節がある。
最近の大神の行動を考えれば……そして自分のように多少なりとも事情を聞かされているのでなければ……、悪い方向にどんどんと話が向かってしまうのではないか。
少なくとも、大神から話を聞く前の自分がそうだったから。
「ウチが、説明させてもらうわ」
それまで黙っていた紅蘭が見慣れない機械を取り出したので、さくらとカンナはこの非常時でも無意識に後ずさりしてしまった。
が、よく見るとどこかで見たような気がする。
多少形が変わっているが、築地で刹那にさらわれたマリアの居場所をつきとめた探知機がこんな形状をしていたような……
「たんさくくん改。あらかじめ仕掛けておいた発信機の場所を、帝都ほぼ全域で探し出してその座標を弾き出すことが出来るんや」
いつも発明品を紹介するときのような、自信と楽しさに満ちた快活な表情はどこにも感じられない口調だった。
やはり暗い印象を受ける動作で、テーブルの上に座標目盛りの書かれた帝都全域図を広げ、そして、
「これが発信機。昼の内に大神はんにしかけておいたうちの一つや。
これは外れてもうたけど、もう一つはまだ大神はんにくっついとる」
ボタンよりも小さな機械だが、その優秀さは前にここにいる全員が目の当たりにしている。
「今、この時間、大神はんがどこにいるのか教えてくれるんや」
言われてカンナは、これだけ騒いでも隣の部屋の大神が起きてこないことに今更ながら気づいた。
さくらはある程度事情を知っていたし、
すみれと紅蘭は既に先ほど大神がどこにいるのか突き止めてしまっていたから、
あえて誰も騒がなかったのだが。
ともあれ、この時間、と言う単語で紅蘭の声は少しかすれた。
震えながら延びる手が、たんさくくん改のスイッチを入れる。
カタカタと無機的な音を立てつつ、東西と南北の二つに割り当てられた四桁の数字が独立に回転していく。
「2107の……」
「……309……」
それが示している物は……不吉なことであるということだけはすみれと紅蘭の態度から言ってまず間違いない。
カンナとさくらは唾を飲み込みつつ復唱して、地図に目を移す。
2107の……309……
カンナが息を飲んだ。
さくらは、どう反応していいかわからず立ちすくんだ。
「……どういうことだ……すみれ……」
先ほどすみれに詰め寄ったときとは全く正反対の、気迫も何もかも抜け落ちた声だった。
「その機械は、壊れておりませんわ」
すみれは、聞かれたこととは微妙にずれた答えを返したが、結果的には肯定の意味になってしまった。
「……そんな……」
吉原。
この帝都に住んでいて、帝劇花組のスタア達といえど知らない者はいないだろう。
アイリスのようにごく幼いのであればともかく。
逆に言えば、それが帝都の暗部でもある。
「ご理解いただけまして」
いつもの高飛車な口調……を必死で作ろうとしているだけのすみれの声が、どこか虚ろに響いた。
「わかんねえよ……」
その声を聞きながら、カンナの握りしめた拳が震えている。
「あたいは頭が悪いから、何にもわかんねえよ!!」
全てを拒絶するような怒号……にはなってくれなくて、自分の声が悲鳴のように裏返っているのをカンナははっきりと思い知らされた。
その、カンナにあるまじき弱々しい声が、張りつめていたすみれの神経を逆なですることになってしまった。
「じゃあ……じゃあ、言って差し上げますわ!
少尉は今、この時間!ここにいますのよ!」
地図のその一点を指で指しつつ、しかしそこに書かれてある文字を直視することはすみれには出来なかった。
各人が何も続けられなくなってしまった沈黙。
それを、低い時計の音が破った。
あまりにも皮肉に鳴る鐘。
まるで、十二時の魔法が解けた後の、無情に無意味に、ただ夜であることだけを告げる鐘。
カンナ以上にきつく握りしめられたすみれのたおやかな指の間から、つうと赤い物が流れた。
「……つくらんかったらよかった……」
紅蘭も、自分が愛情を込めて作ったたんさくくん改に、怒りでもなく憎しみでもなく……あえて言うなら同情して欲しかったとでも言うような目を向けて、ポツリとつぶやいた。
今このときだけ間違った数字を……海軍省とか首相官邸とかを、嘘でもいいから示して欲しかった。
「そんなことを言う物ではありませんわ、紅蘭」
すみれはキツイ口調を精一杯に装いつつ、自分の作った物をけなそうとした紅蘭を咎める。
今まで自分のやっていたこと全てを否定しているように聞こえてしまったのだ。
これ以上、各々にふさわしくない言葉を聞かされるのは御免こうむりたい。
自分が今いるここが、帝劇であることすらも嘘に思えてきそうで……
「それだけではありませんわ。マリアさんの時も、大神少尉の行動はあまりな物でしたわ……」
大神少尉、という呼び方をすみれはかつてしたことがなかった。
あえて言うなら、小川だの緒方だのとわざと間違えて呼んで試してみた最初の時だけである。
……大神との全ての思い出が始まる前の……。
「もう私は、隊長でいていただける自信がありませんの……」
隊長失格と直接的に叫ぶことを、未だ魂が拒絶している。
信じたくない。信じたくないのだ。
大神があいつらと同じ生き物であることを。
夜会でにこやかに自分に近づきながら、その裏で女をとっかえひっかえしているようなあの下劣な存在どもと同じだなどと!
「……よろしいですわね……、みなさん」
叫びそうになる感情を無理矢理に押さえつけて能面を装い、一同を見渡す。
うなだれている紅蘭。
壁に拳を打ち付けて……それなのに音もしなかったカンナ。
そして、
「あ……あの……」
それまで、ずっと黙っていたさくらである。
「……なんですの、さくらさん」
このときのすみれの声は、うっとうしいとか突き放すとか言う物ではなく、そう、
どこか、救いを求めている声だった。
そして、さくらはその救いとなる物を持っていた。
日比谷公園で襲ってきた魔物のこと。
銀座の路地で襲ってきた刺客のこと。
それだけを考えても、大神が今現在何かと戦っていることは間違いない。
まして吉原となれば、帝都の闇組織の中枢だろう。
こうしている今しも、大神が命ギリギリの戦いを強いられているのかも知れない。
それと同時に合点もいった。
大神があれほどまでに一人で戦うことに固執した理由。
自分が頼んでも、待っているようにと言ってくれた理由。
それらが全て、自分たちを吉原に近づけないためだとしたら。
マリアと戦ったことも……そういえば大神は、あのルールでは負うはずのない重傷を受けていた。
大体あのときのマリアは、今考えてみると明らかに様子がおかしかった。
特に傷を受けた様子もないマリアが、大神に倒されてからずっと眠り続けていることも妙だ。
もしかして、マリアは何かの術を掛けられて操られていたのだろうか。
それをばかばかしい想像……とは思えない敵と、つい数ヶ月前まで自分たちが戦ってきたことも思い出された。
そう考えると、全てのつじつまがあう。
だけど、大神との約束だ。
大神が夜間戦っていることは、みんなには黙っておくこと。
二人だけの約束。
大神さんの配慮を無駄にしちゃいけない……。
一瞬覚えた優越感を恥じて、慌てて心の中で言い直す。
……自分が、すごく嫌な女に思えてしまった。
そして、そう言った内心の変化を顔に出さずに済ませる技術では、さくらはすみれに遠く及ばないのである。
「さくらさん」
何の感情も連想させない棒読み。
「は、はい……っ!」
ならばこそ、突然呼ばれたように思えてしまったさくらなびくっとなってしまった。
会話上は、すみれはさくらが言い出しかけたことに答えた格好なのだが、すみれの一言はそれだけで鋭利だった。
「何を、御存知ですの」
不可視の刃がさくらの眼前に突きつけられる。
すみれも本気だ。
知りたくなかった答え。
だが、何か裏があるというのなら……、何か自分の知らない秘密があるのなら……、それが自分の心を救ってくれる物かも知れないというのなら、
何が何でも、その答えの真実を手にしなければならない。
まして、さくらが知っていて自分が知らないなどと、断じて許せる事態ではなかった。
「え……それは……その……」
答えたく……ううん、答えちゃいけない。
でも、私が話さなかったら大神さんはみんなに嫌われる。
あやめさんがことの真相を知っているから辞めさせられることはないだろうけど……
……私だけの、大神さん……?
私だけの……
その想像は、自分が呼んだというのに甘美な誘惑の姿をしていた。
「答えなさい」
いつの間にか眼前にまですみれが近づいてきていた。
射抜くような鋭い視線……だがその目には隠しきれない苦しさも見えた。
滅多に見ることのない、あるいは初めて見るかも知れないすみれの必死な表情を見させられて、さすがにさくらは目が覚めた。
自分は何を考えていたんだろう。
大神のことを心配しているのは自分だけじゃない。
今のすみれの言動にしても、大神が憎いのではない。
むしろその裏返し。
愛しいから……、だからこそ、手に入れられた限りの情報から必然に導き出されるその結論が許せないだけ。
……私、今すっごく醜い顔してる……。
シンデレラの配役の時とは逆に、自分がとてつもない意地悪役をこなしている。
……ごめんなさい、大神さん。
さくらは、約束を破ります。
けど……だけど……大神さん。
大神さんはちゃんと無事に帰ってきて、約束が果たせなかった私のことを叱って下さい。
「お、おい、すみれ……。いくら何でも……」
すみれの剣幕に、さすがにカンナが止めようとして肩に手を掛ける。
だがすみれはそれをはね除けた。
「答えなさい、さくらさん」
今一度重ねられた問いに、意を決して、さくらは顔を上げた。
「大神さんは、戦ってるんです」
張りつめた水面に石を投げ込んだような波紋が、聞かされた三人を通り越していった。
「……なんで、すって……?」
かろうじてすみれが言葉を絞り出す。
その声に微かに混じっていた咎めるような気配は、さくらに向けられた物ではない。
聡明なすみれならばこそ、さくらの一言だけで、自分がとてつもなく愚かな深みに足を踏み込んでいたことには察しがついたのだ。
「戦って、いるんです……」
特にすみれの言葉に返答しようとしたわけではないのだが、その事実を自分で確かめるような口調で、さくらは今一度繰り返した。
「ちょ……ちょい待ちや、さくらはん。戦ってるって、何とや?」
「そうだぜ。黒之巣会も親玉はとっちめてやったし、今活動しているのは戦闘能力のない二流三流のやつらばっかりだろう?」
黒之巣会の残存組織は、大川晴明と名乗る自称天海の後継者を頭にして帝撃通信局とやり合うことで宣伝活動を展開しているが、せいぜいそれがいいところのはずだ。
少なくとも彼らが脇侍を持ち出したことはないし、花組が出動したこともない。
それが帝都中の大多数を占める認識であり、当の花組であるカンナや紅蘭の危機意識もそれとそう変わる物ではなかった。
「彼らじゃありません。でも、私は見たんです。
大神さんが夜の日比谷公園で、異形の魔物と戦っているのを」
「!……、さくらさん!あなたは少尉がそんな危険を冒していたというのに、それを黙って見過ごしてきたと言うんですの!?」
大神のことを呼ぶ呼び方が、いつも通りの「少尉」に戻ってきていることにすみれは気づいていたのかどうか。
つかみかかって出来るなら殴り倒してやりたい相手はさくらではなく、今までそれに気づくことも出来ずに何も知らないままに大神を疑ってしまった自分だったのだから。
「見過ごしてなんかいません!そのときはちゃんと大神さんの助太刀をしました。
でも……大神さんが言ったんです。みんなにはこのことを言わないでくれ……って」
言わないでいたことよりも、大神との約束を破ってしまったことの方がやはりさくらの胸に堪えた。
「それは本当か、さくら……」
さくらが嘘など言っていないことくらいカンナにも解る。
だが、その事実に対してもやはり嘘だと言って欲しかった。
何故なんだ。
帝撃花組の隊員である自分たちが、それほどまでに信用されていないのか。
まして霊子甲冑のない生身の戦闘ならば、カンナは誰よりも戦力となれる自信があった。
大神とだって十分に戦える自信がある。
だからこそ、大神に見捨てられたという空虚な想いに囚われずにはいられなかったのだ。
「……多分、ウチの考えていたことと、同じなんやと思う……」
カンナの心情を察して、紅蘭がまたもポツリと言った。
「ウチはさっきまで大神はんがこそこそしているのは、こんな所に通っているのを知られんためやと思っとった……」
「違うんだろう……、隊長は……」
「そう言うことなんとちゃうやろか……。
大神はんは、敵がここにいることが解っていたから、ウチらに知らせんかったんとちゃうやろか」
大神に対しては疑ってしまって申し訳ないと思うと共に、一方で紅蘭はほっとしている自分も覚えていた。
この想像が正しければ大神は、自分たちが信じていた大神そのもののままだと言うことが証明されるから。
「……多分、それで間違いないわ」
不意にこの場にいないはずの人間の声がした。
驚いて皆が振り向くとそこには、
「マリア!目が覚めたのか……」
少々顔色は悪いが、意外にしっかりした足取りで扉を開けてマリアがそこにいた。
慌ててカンナが駆け寄って肩を貸そうとするが、どうやらひとまず大丈夫らしい。
ただやはり立ちっぱなしにはさせられないので、カンナは無理矢理にでもマリアを椅子に座らせてから話させた。
「いつ目が覚めたんだ、マリア」
「そう経ってないわ。あなたとすみれのあんな大声が響いていては目も覚めるわよ。アイリスが起きなかったのが幸いね」
そう言って少し微笑むマリアに、前のような違和感は感じない。
「それはそうと、隊長と直接戦うまでやったおまえが、何で……?」
それを言われてマリアの表情に陰りが差したのでカンナはさすがに慌てた。
「そういえば、少尉がマリアさんを倒したことはまだ納得しておりませんでしたわね」
これは今の話とはまた別のような気がしてすみれもまた少し不安になる。
もうこれ以上、大神を疑いたくないのに……。
「大丈夫よ、すみれ。別に隊長に他意があったわけではないのよ」
その当のマリアから意外な発言が出たのでみんな注目する。
「私は……しばらくの間意識が有って無いような物だったわ。
夢を見ていた状態に近いけど、これだけははっきり言える。
私は、操られていたわ」
『!!?』
驚きが駆け抜ける。
が、考えてみれば思い当たる節がないわけではない。
思えば大神の挙動不審以上にマリアの言動はおかしかった。
「てえことは……、隊長が適格かどうかとか言っていたのは……」
「、私を操って、隊長と戦わせようとしていたのよ」
答えるマリアは、一瞬だけ言い淀んだ。
みんなは思い出したくないことを思い出したためと考えたが、実はそうではない。
あの言葉をどこか自分の意志とともに言っていた自分を思い出してしまったのだ。
どこかに、さくらではなく、自分を選んで欲しいと考えてしまっている自分がいて、
……みんなの隊長ではなく、
自分だけの人になって欲しいと思っていた自分もいて、
その隙故に、つけ込まれてしまったのだ。
今ではそんな自分を恥じている。
でも、偽らざる気持ちでもあったように思う。
好きな人に自分だけを見ていて欲しいというのは。
大神から突き放されて、そして、さくらと親しげに話していた大神を見て。
だが、今なら解る。
大神の行動は全てそのためだと。
私たちをあれから避けるために。
「紅の、ミロクがね」
一瞬、間があった。
既に終わったと思っていた敵。
平和な暮らしが戻って、出来る限り忘れたかった名前の一つ。
それを呼び起こすための時間が必要だったのだ。
『ミロク!』
「そんな馬鹿な。生きていたってのか?」
「私は術を仕掛けられて意識を失う寸前にはっきりと見たわ。
最初の二人と違い、私たちはミロクの死を確認していなかったはずよ。
執念で生き延びていたのね」
そこでマリアはふっと引っかかりを覚えた。
黒之巣会の幹部といえば……、そういえばあの黒き叉丹とかいう奴も、まだ死んでいないのでは……?
「じゃあ、あれからマリアさんがずっと倒れていたのは」
「隊長がいつ頃から気づいていたのか解らないけど、ともかく隊長は私に取り憑いていたものを断ち切ってくれただけよ。
だから私は怪我らしい怪我をしていなかったでしょう。
ただ、自分の意識がまともに身体を動かせるまでこんなにかかってしまったけど……」
眠りながら、ずっと自分の心と向き合っていたのだ。
ミロクの存在。
それから考えられる可能性。
一方で、結果的には大神に銃口を向けることになってしまったという事実にも。
さくらが特別だったのは、きっと最初から最後まで大神のことを信じていたからなのだろう。
一度は疑いの目で見てしまったが大神が丸坊主になったあのときも、さくらは糾弾しなかった。
髪の毛を剃るときにも彼女が自ら進み出て、大神がその気なら逃げられるようにしていた。
……もっともそのとき既に大神の頭は爆発していたのだが……それはさておき。
そのすぐ前に大神は前科を犯していたので、あまりにも盲目的に過ぎる気もするけれど、大神がさくらを信頼するのは当然かも知れないと思う。
そう思うと、少しは気が楽になるようにも思えるマリアであった。
「ということは、今少尉が吉原に行っているのは……」
吉原という言葉も、すみれはもはやためらい無く言えた。
そこは大神がうつつを抜かしている場所ではなく、大神が命をかけて戦っている場所になったから。
「ミロク本人と戦っていると言うこと……」
自分の声による結論を耳で聞いて確かめると、すみれはタッと駆け出そうとした。
これは慌ててカンナが腕を掴んで止める。
「どこへ行く気だ、すみれ!」
「決まってますでしょう。少尉が戦っていらっしゃる場に駆けつけるのですわ」
さしものすみれも、自己嫌悪のあまり我を失っているらしかった。
無理矢理カンナの腕をふりほどこうとするが、それを聞いてはカンナとしても単に離す気にはならない。
「ケッ、抜け駆けは卑怯だぜ、すみれ。
あたいも行くに決まってんだろ。紅蘭、正確な場所を教えてくれ」
「よしきた。地図が不完全でも座標さえ解れば……」
話が前向きになってきたので、やっと紅蘭の顔にも普段の明るさが戻ってきた。
だがさすがにこの話の急展開にマリアは慌てた。
みんな揃って前後を見失っている。
このままでは……
「み、みんな、ちょっと……」
と、止めようとしたところで、
「待って下さい!!!」
劇場中に響き渡るほどの大声でさくらが叫んだ。
叫んだ後でみんなの動きが止まって自分の方を見つめていることに気づいて、ようやく自分が叫んだと言うことを知ったような顔をした。
無我夢中だったらしい。
荒くなった息を整えようとするさくらに、すみれがもう一度詰め寄った。
「待てですって?これ以上何を待てと言うんですの!?」
「大神さんがどうして一人で行ったと思ってるんですか!
私たちがあそこに行ってしまったら、街中が大騒ぎになりますよ!」
「さくらの言う通りよ、すみれ。
人買いが私たちを見つけたら何としてでも生け捕りにしようとするはずよ」
マリアはニューヨークの暗黒街を知っている。
場所と言語こそ違え、そこで繰り広げられる闇の取引や住んでいる住人はさして変わる物ではない。
マリア自身もその恐ろしいまでの腕がなければ、捕まったあげく高値で売り飛ばされていただろう。
「それが何だっつんだよ、マリア。そんなやつら、全員叩きのめしてやるぜ」
「そうや、こんなことは好きやあらへんけど、対人にも使える爆弾の五十やそこら、すぐにでも持ってこれるで」
「私は一度追い返されたことがありますからね、今度は引きませんわよ」
「まだ解らないんですか!大神さんは……、大神さんは、帝劇を守ろうとしてくれているんですよ!!」
声の最後を涙で裏返させつつ、さくらはもう一度叫ぶ。
「……帝劇……を?」
「私たちの顔は知られ過ぎているわ。帝劇の女優が吉原内で乱闘を起こしたなんてことが知られてみなさい。
帝劇は終わりよ」
おそらく、これほど邪推を呼びやすい醜聞もあるまい。
「そ、それじゃあよ、光武に乗って行けば……」
「帝都の平和は嘘だったと公言するようなもの……、ですのね」
あきらめたように肩を落として座り込みつつ、今度はすみれがカンナを止めた。
「だったら……、どうすればええんや。ここで指くわえて待つしかないんか……?」
こちらも泣きそうな声で紅蘭がうめくように言葉を絞る。
「いえ、さっきからこれだけ騒いでいるのに支配人もあやめさんも起きてこないところを見ると、二人とも事態を掴んでいるようね」
言われて皆はっとした。
あやめの部屋はサロンから大神の部屋を間に挟んでいるだけである。
マリアが起きてきているというのに、あやめが起きてこないと言うことはまず考えられないことである。
あやめならばこういうときはやんわりと叱りに来るか、それともゆっくり話を聞いてくれるかのどちらかだろうに。
「さくらさん。あやめさんは少尉が出向いていることを御存知ですの?」
「あ、ええ……」
あやめが関わっていると知った日のことを思い出してしまい、動揺しそうになったのを慌ててさくらは取り繕った。
「ということはや」
「作戦司令室ですわね」
今度はもう、誰からも反対の声は出なかった。
* * * * *
地下が暖かい。
こんな真夜中にシャワー室のボイラーが動いているわけはないので、おそらくは蒸気演算機の計算熱だろうと予想していると、はたしてそうであった。
かつて天海の居場所を示したときにも使われた霊子力レーダーが計算音と蒸気音を立てており、それを前にして米田とあやめが立っていた。
「おまえたち……?」
「その様子だと……そう」
大神との約束を破って話してしまったことをあやめに叱られるかと思ったさくらだが、あやめは微かに微笑んだだけでそれ以上何も言わなかった。
「二人とも、やはり御存知だったようですね」
「ああ、もう話しても良かろう。今しがた吉原にあった最大の妖力反応が消滅したところだ」
それを聞いて皆の顔がぱっと明るくなった。
「座標はどこですの?」
「2107の309だ」
紅蘭の発明品で座標を要求する物は、この蒸気演算機と霊子力レーダーのそれに数値を合わせている。
間違い無い。
大神は、勝ったのだ。
「よっしゃあ!」
「このトップスタアを待たずして片をつけてしまうなんて、さすがは少尉ですわね」
「ま、結果として慌てて行かんで正解やったな」
「……?長官もあやめさんも、嬉しくはないんですか?」
大喜びの花組メンバーに対して、二人がそれほど嬉しくなさそうなことにマリアはふと気づいた。
「……、さっき騒いだところなのよ」
マリアに解らない角度で米田に目配せして、あやめはお茶目な笑顔をマリアに見せた。
真実はそうではない。
レーダーに映っている大神の霊力も、先ほどと比べて格段に小さくなっているのが、さっきからずっと見ていた二人にだけはわかっていたのである。
ただ、消えたわけではないので、少女たちに要らぬ心配を掛けないようにとあやめは判断したのだ。
いつもながらあやめの機転には助けられてばかりの米田は、今回も素直にあやめに従っておくことにした。
「あの、それで大神さんはどうなったんですか……?」
丁度そこを突くようにして、まだちょっと心配そうなさくらが尋ねてきたので米田はぎくりとしながらも、質問の意味をすり替えて答えることにした。
「赤丸がミロクと思われる反応が消滅した地点で、こっちの、徐々に移動している点が大神と、それから反応を拾い切れていないがおそらく大河原君も同行しているはずだ」
「大河原さんもいるんですか」
それを聞いてさくらはほっと胸をなで下ろす。
あの武骨な検閲官は、どこか安心させてくれる存在だった。
「大河原君には、前に使った携帯通信機を念のため渡しておいたから、壊されていなければ近々通信が入るだろう」
霊力反応は吉原の区域から出てしばらく迷走してから止まった。
止まってから更に待つことしばし。
『あー、こちら大河原です。米田中将、聞こえますか?』
待望の通信が来た。
米田はすぐに通信機を掴んで返答する。
「待ちかねたぞ大河原君。……といっても、俺たちよりは花組の連中の方が待ち遠しかったようだがなあ」
冗談のふりをして、通話を花組の面々が聞いていることを連絡する。
余りに過酷な報告は避けろと言う意味だ。
元情報部でならした大河原にはこれで十分である。
「じゃ、早速だが報告を頼む」
『はっ。大神少尉の必殺技でミロクは確かに倒れました。
これはそちらからも確認してますな?』
「おう、レーダーからも完全に消えている」
『その必殺技でミロクの本拠は地下まで半壊。
その後ミロクの最期の炎が回って、現在ミロクの本拠は炎に包まれております。
ただこの必殺技で力を使い果たしたか、大神少尉は現在気を失っております……が、ちゃんと生きておりますぞ』
それを聞いて花組の面々に背を向けたままで米田の表情が変わった。
後ろの少女たちが安堵していることを確認しつつ、
「動きがとれん様だが、追っ手が来ているのか?」
『はい、なんとか撒きましたが、小官も少々傷を負っておりましてこれ以上は動けません。
救護専門の者をよこして下さい』
救護専門を、と限定したのはおそらく二人ともかなり重傷と言うことである。
ところが、
「よし、それじゃあひとっ走り行ってくるぜ」
「たんさくくん改、今度こそちゃんと出番やで」
とまあ、花組の面々は行く気満々なのである。
これまで大神に置いてきぼりにされた格好だった訳なので、それも無理からぬことではある。
しかし、今の大神の状況が少女たちに見せられるようなものであるとは米田は考えづらかった。
楽そうに聞こえるように言ってくれたが、「ちゃんと生きている」というのは、つまり、かろうじて生きているという意味に訳せる。
出来るなら彼女たちに見せることなく、即座に医療ポットに入らせたいところなのだ。
「あー、待て待て、お前たち。こんな時間の外出は禁止だ」
「何言ってんだよ、支配人。あたいたち、深夜に出動したことだって有っただろう。今更いいじゃねえか」
正論である。
隠し事がある分、米田は強く出られない。
それに、野郎どもなら鉄拳で止めてやれるが、娘たちにそんなことをするわけにいかない。
「大河原さんは追っ手が出ていると言っていたわ。
吉原の内部でないと言っても、まだ危険なのよ」
「そこらの筋の者程度に遅れをとる私たちではありませんわよ。
吉原の外ならば、交戦しても不埒者を成敗したことになりますでしょう」
「私たち、せめてそれくらいはしたいんです」
「私も、元に戻れたことを早く隊長にお知らせしたい」
どうやら、上官命令と言っても聞きそうにない。
「支配人……」
途方に暮れた表情であやめは米田の顔を伺う。
「こりゃあ、言っても聞きそうにねえな」
米田も白旗を揚げるしかなかった。
大神がここまでに築き上げて、そして結果的には更に強化することになってしまった信頼の強さだろう。
それは、ますます大神がここから離れるわけにいかなくなったことでもある。
ため息をついて、
「あやめくん、医療ポットの準備を頼まあ」
「はい」
仕方ない、という表情であやめも頷く。
でも、これで良かったのだろうと思った。
この子たちが、本当に大神を憎んでしまう前に気づいてくれて、立ち直れるところで戻って来れて、好きな人を好きと思えるようになったことを。
「いくらなんでもこんな真夜中におめえらだけじゃ行かせるわけにいかねえ。
俺もついて行ってやる」
帝劇の父親として、こればかりは引くつもりはない。
「米田はんが自ら?」
「おう、これは上官命令だ。反抗は許さねえぞ」
と、適度に職権濫用。
「カンナは怪我人の救護技術はしっかり学んでるな」
「おう、もちろんだぜ」
単に戦いが強いだけでは武道家は務まらない。
特にカンナは、目の前で父を刺されてそれを結局助けられなかった過去があるので、並の武道家よりも遙かに詳しかった。
霊力による治療は出来なくても、医療ポットに入れる前の応急手当くらいは十二分に出来るはずである。
「カンナは医務室から携帯用の救護装備を一式。
マリア、さくら、すみれ、紅蘭は念のため護身用武器を取ってこい。
二百秒後に来賓用玄関口に集合。解散!」
命令が下ると彼女たちも戦士の顔になり、バッと動いた。
大神を迎えに行くとなると、やはり動きも軽やかになるのだろう。
「……ということだ。五人ほど離れて同行してくれ。
吉原の追っ手が近づいてきたら、極力あいつらに知られないように退散させるように」
「了解」
どこで聞いていたのか、黒子衆の一人が返事を返してきた。
こういうときに、月組にも大神に匹敵する人材が欲しいなと思った米田である。
考えておく必要性がありそうだ。
「大河原君、済まんが……そういうことになっちまった。」
通話口にぼやいてから米田も、医務室で担架を担いで玄関へ出向いた。
* * * * *
外に出るとたんさくくん改が実に役立ってくれた。
距離こそ有ったがほとんど迷うことなく二人の待っている地点にたどり着いた。
うまく人家から離れた橋の下で隠れられるところである。
数人の追っ手があたりをうろついていたが、これは黒子衆が片づけた。
「大河原君、いるか?」
「中将に自らご足労頂くとは……申し訳ございません」
米田が橋の下の暗がりに声をかけると、思ったより元気な声が返ってきた。
「大河原さん!大神さんは……!?」
花組メンバーの中ではさくらが最も大河原と親しい。
でもさすがに大神と比べては次の問題になってしまうだが、それを咎める者はその場にいなかった。
「さくらくんか。面目ない……。小官が傍に着いておりながら……」
悔しさに涙さえにじんでいそうなその声に、花組の面々は色を失った。
「大神さん!」
さくらは周りが止める間もあらばこそ、橋の欄干をひらりと飛び越えて下に降りた。
次いで照明を持った紅蘭と、救命装備を手にしたカンナが降りていく。
紅蘭の手にした照明で、そこに倒れていた大神の状態が明らかになった。
『!!!!』
全身傷だらけ……と言うよりは傷しかないと言うべきだろう。
裂傷、刺傷、打撲、火傷……
骨折や切断と言ったものが無く五体を保っているのが不思議なくらいだった。
着ていた服は多分隠密行動用の服だったのだろうと思われるが、それもかろうじて推測することが不可能ではないと言う程度で、そこかしこが破れ、焦げ、血に染まっていた。
「いやあああああっっっ!大神さん!大神さん!」
「お、落ち着きや!さくらはん!」
「あたしのせいです……!あたしが大神さんとの約束を破ったから……!」
頭を押さえ、自責の念に駆られてさくらは取り乱した。
大神との約束。
戦いに行くんだから、無事に、とは言えなかった。
一歩引いて、ちゃんと五体満足で戻ってくること。
自分の約束は、大神の夜食を作ること、そして、大神が戦いに行くのをみんなに黙っておくこと。
あたしが約束を破ったから……、大神さんは……!!
パシイッ!
自分の頬で派手な音がしたのを身体で聞いて、さくらははっと我に返った。
「すみれさん……」
「すみれ……」
不機嫌を絵に描いたような表情で平手を振り抜いていたすみれに、一同が驚いて注目する。
平手でぶたれたのだと、後からくる痛みと共にやっとさくらは納得した。
「あなたが少尉と何を約束していたのか知りませんでしたけど、落ち着きなさいな。見苦しい」
振り払った手を戻して、手の止まっていたカンナから消毒液と包帯を無理矢理とって大神に向かった。
「少尉は別に死んだりしたわけではありませんわ。
泣き言を言う前にやることをやりなさいな」
さくらはしばらく後ろ姿を見つめてから、パシンと今度は自分で自分の頬を叩いて
「ええ、もちろんです!」
しっかりとした意志を秘めた瞳ですみれを手伝い出す。
あたいもぼやぼやしている場合じゃねえと、カンナも加わり、大神にひとまずの応急処置を施す。
応急処置とは言っても、傷が全身を覆っているので三人がかりでもすぐには終わらなかった。
大河原は意識があるので、紅蘭の作った治療丸薬を飲んで……六月に大神が飲んだときに比べて眠気がずいぶんと改善されている……マリアの処置を受けながら米田の質問に答えていった。
「ともかく、大神くんはほとんど勝っていました。
ただ最後の最期で、ミロクは反撃に出たのです。
何をやったのかはよく解りません。
奴の身体からどす黒いものが分離して、大神くんに襲いかかったのです」
「てえことはあの傷はそれの仕業か。何をやったんだ?」
「いえ、そうではありません。大神くんの傷の大半はそれまでに受けたものです。
最後の一撃で大きな傷を受けたと言うことはありませんでした。
ただ、襲いかかられた後大神くんは絶叫し、その場に意識を失って倒れたのです」
米田の眉間にしわが寄る。
黒之巣会の連中はそろいも揃って魔術だのを使っていた。
それを考えると直接的な精神攻撃の可能性も十分にあり得る。
「ミロクは何か叫んでいなかったか?真之介が使っていたような真言や呪文か……手がかりになりそうな言葉を」
「それが……、大神くんとミロクの必殺技の激突で、凄まじい轟音が鳴り響いておりまして、煩悩がどうとか言っていたように聞こえましたが、はっきりとは……」
「ふむ……」
何か頭の中で上手くはまりそうな気がするのだが、うまく行かない。
ともかく大神が意識を取り戻してくれればそれが一番手っ取り早いのだが、あいにくと手当の最中でも大神はまるで目を覚ます気配がなかった。
晴れきらない心境のまま、少女たちは意識のない大神と共に帝劇に戻るしかなかった。