大神の全身がそう叫んでいた。
結局、犯人を見つけたものの、ケーキは既に食べられてしまっていて、ご相伴に預かることは出来なかった。
もはや、空腹感を感じない。
飢えてはいるが、腹が減ったという感覚が既に麻痺しているのだろう。
自分で勝手に理由をつけて納得することにした。
考えるだけ、体力の無駄遣いであると判断したのだ。
こんな状況であろうとも、大神の仕事が無くなるわけではない。
懐中灯を片手に、それから、愛用の小太刀二振りを腰に、大神がやる仕事とは、当然、夜の見回りである。
それに疑問を抱くことはない。
完全に、大神の生活の一部と化しているのだ。
とはいえ、惰性的に行うことは許されない。
ここは、帝都のトップスタアである少女達が寝起きする大帝国劇場である。
狂信的なファンによる侵入事件も、一月に一度くらいは起こっている。
この広い劇場でも、夜には男手はたったの二人となるのだ。
大神の責任は重大である。
たとえ、彼自身が前科者であろうとも、その事実は変わらないのであった。
それにしても、
今日はやけに感覚が研ぎ澄まされている気がする。
山野で狩りをしていた頃の、動物としての本能の名残だろうか。
食料になるようなものが転がっているわけでもないのに。
キィ・・・・・
二階のロビーを見回っているときに、そんな音を聞いた。
普段なら聞き逃していたであろう、小さな音。いや、鳴き声だ。
天井裏に居着いた鼠であろうと、考えるのが普通である。
だが、その鳴き声を聞いたとき、大神の戦士としての意識が警告を発した。
次の瞬間には、考えるより先に身体が動いていた。
飛び避けたぎりぎりのところを、降ってきた液体がかすめた。
ジュウッ!
液体が触れた絨毯が、嫌な音をして黒く変色した。
酸だ。
とっさにテラスから外に出て、一息に天井まで跳び上がり、天井窓の合い鍵を探って開け、天井裏に入り込む。
この間、五秒とかかっていない。
その動きは狼を彷彿とさせた。
その狼が、二刀の牙を剥く。
天井裏にいたのは、猫ほどの大きさの、二体の魔物だった。
おぞましい緑色をした方の魔物が、口からその身体と同じような色の液体を滴らせている。
天井板に穴が空いている。
先ほど大神に攻撃を仕掛けたのは、どうやらこの魔物のようだ。
古代の爬虫類を思わせる翼を持ち、身体は外骨格とも筋肉ともつかぬごつい外観をしている。
この大きさの生物としては、驚異的な戦闘能力を持っていることは、容易に想像される。
もう一体は、ムササビかモモンガのような、体毛を持った小型の哺乳類の外観をしている。
ただ、背中に翼を持ち、異様に鋭く光る爪と牙を持っていれば、哺乳類では無いことぐらい子供でもわかるだろう。
緑色の魔物の後ろに、ムササビ型が隠れるような位置関係だった。
どちらかというと、ムササビ型の方が、知性的というか、悪知恵が働くような雰囲気を漂わせていた。
キィ・・・
ムササビ型が、小さく鋭い叫びをあげると同時に、緑色の魔物が大神に飛びかかってきた。
天井裏はそんなに自由が利くわけではない。
高さは大神の身長がかろうじて収まる程度だし、梁などが重なり合っていて、自由に剣を振り回せるとはいかない。
大神の二刀小太刀は、太刀よりもその短さ分ここでは便利だが、あまり振り回せるわけではない。
かくて大神は、迎え撃つのではなく、こちらからも間を詰める。
間合いに入る寸前、魔物が再び酸を吐いたが、それを姿勢を深く下げてかわす。
酸を吐くために口を開いた魔物は、下方がわずかに死角となっていた。
その死角から大神の右の小太刀がまっすぐ突き出される。
刺突だ。
幅の無い場所において、定石であろう。
狙い違わず、魔物の身体の中心を突き通す。
耳障りな悲鳴と共に、酸とも体液ともつかぬ液体を吐き出す魔物に、大神はさらに左の小太刀を繰り出し、わずかな横への振りだけで魔物の首を落とした。
確実に当たるよう捉えておけば、大振りをしなくても最小限の動きで済む。
手を緩めなかったのは、大神の戦闘本能故だろう。
人間には致命傷となる最初の一撃が、魔物に対しても致命傷となる確信がなかったからである。
そして、突き刺さっていた魔物の身体を振り捨てると同時に、大神はしっかり間を詰めていた。
案の定、命令を下したもう一体の魔物は、離脱しようとしていたが、大神の動きの方が速い。
二刀を同時に繰り出し、鋏のように魔物の身体を切り裂いた。
鋏の使い方ならば、大神は誰にも負けない・・・・・、ということでは無いだろうが。
だが、切り裂いた瞬間、その魔物は、煙となって消えてしまった。
振り返ると、緑色の魔物の方も、どろどろの液体となって溶けてしまっていた。
板張りの天井を、おそらくは強酸なのであろう液体が徐々に溶かしていく。
「うわ!しまった!」
刀を鞘に収めると同時に、大神の顔が、戦士のそれから、帝劇職員のそれに戻る。
あわてて、二階に降りて、化粧室の掃除用具置き場から、液受けのバケツを持ってくるその動きは、俊敏と言うよりは漫画的である。
それでも、素早さを失ったわけではないので、こちらの液体が絨毯を汚すことは何とか食い止めたが、一撃目の酸に汚された絨毯は、無惨な黒色を呈している。
フランスのアイリスの実家、シャトーブリアン家から提供された高価な絨毯である。
「あーあ・・・」
事務のかすみに怒られることを想像し、大神はがっくりと肩を落とす。
その姿からは、二体の魔物を瞬時に葬り去った姿を想像することは不可能に近い。
それでも、見回りを続けようと、顔を上げた大神の視界に、今度は穴の空いた天井が目に入った。
「明日修理しなきゃ・・・・・・」
誰に言われずとも、自分の仕事に設定してしまっている。
帝劇の雑用を半年もこなしていれば、そうなっても無理はないだろうが。
空きっ腹を抱えながら、いそいそと「天井注意」との張り紙を張った後、早急に見回りの続きを行う大神であった。
「・・・誰?もう消灯時間よ」
叱ると言うよりは、いぶかしんでいるような声が返ってきた。
「あやめさん、すみません。大神です。報告事項があります」
あえて、事務的な言い方で伝える。
隊長としての訪問であるという意味だ。
「・・・鍵は空いているわ。お入りなさい」
「失礼します」
さすがに、こんな深夜に女性の部屋を訪れるのは少々緊張する。
一度大きく息を吸い込んで、吐いて、それから戸をゆっくりと開けた。
あやめの部屋には、いつもいい匂いがしている気がする。
畳の匂いなのか、家具の匂いなのか、それともあやめの匂いなのか、
よけいな考えに至りそうになったので、すぐに考えを振り払う。
「どうかしたの?こんな時間に」
背を向けながら尋ねてくるのは、お茶を入れてくれているためだ。
「報告いたします。十七分前に、二階ロビー脇で魔物より攻撃を受けました。直後、天井裏にて魔物二体を確認。これを一応撃破いたしました」
カタッと音がする。
あやめが茶碗を取り落としかけたのだ。
冷静なあやめの動揺が伺える。
「確認したのは、二体だけなの?」
「撃破後、天井裏と二階部分を早急に調査しましたが、確認したのはその二体だけです。現在、自分は妖力を感知しておりません」
報告に十七分かかったのも、実際には抜かりはないということである。
大神の言葉で、あやめはひとまず安心する。
しかし、安心しきるわけにもいかない報告であった。
「まあ、一息つきなさい。お腹も空いているでしょう」
そう言ってあやめは、お茶と一緒に少し多めのお茶菓子を出してくれた。
根元的理由が理由だけに、少し恥ずかしかったが、あやめの心遣いは有り難かった。
実際、空きっ腹で霊力を振るったため、倒れそうであったので。
糖分の多い菓子が、身体に染みわたるようである。
あやめとしても、夕方に、自分のせいで大神に労働をさせてしまったのを済まなく思っていたのだ。
「ああ、生き返りました」
なにやら、喩えに聞こえない気もする言葉であるが、これが現実であるらしい。
「じゃあ、状況を詳しく説明してくれる」
報告書の下書き用の紙をあやめが取り出したので、大神は状況を細かに説明する。
魔物の消滅の仕方を説明したとき、二体目の魔物の、煙のような消え方に、やや、あやめの表情がいぶかしげなものになった。
あとは、張り紙をしておいたくだりで、少し笑って見せた他は、あやめの顔から陰が消えることはなかった。
「小型の魔物が単体でなら、何度か確認されたことがありましたね」
「ええ、そのために通信局で情報を集めたのだし・・・。確かに、複数で動いたという報告はないわ」
あやめは黒之巣会との戦いの間、帝撃副司令の身分を隠して、本邦初のラジオ放送「有楽町帝撃通信局」にて、アシスタントとして参加していた。
この番組そのものが、魔に対しての情報を収集、報道するためのものであり、魔物の目撃情報などは、かなりの数が集まっていた。
あやめが思いだしたのは、そのことである。
魔物が発見されるときは、ほとんどが単体で動いているとの報告であり、しかも、小型降魔が意図的に人間に攻撃を加えてきたという話も、実はそう多いものではない。
しかも、あやめだからこそ気になることもある。
「大河原さんに頼んで、帝都全域での状況を調べてもらうことにするわ。大神くんは、花組に警戒するように伝えておいてちょうだい」
黒之巣会の本体が滅び、残党が少々動いているだけの状況では、帝国華撃団は開店休業状態である。
緊張感が無くなっているのが現状であった。
しかし、大神はすぐに返答しなかった。
「どうしたの、大神くん」
「・・・あやめさん、この件は花組のみんなには秘密にしてはいけませんか・・・」
大神の表情は、深い決意に満ちたものだった。
「大神くん、忘れないで、花組は降魔迎撃部隊。魔物に本当に対抗できるのは、花組だけなのよ」
あやめは知っている。
通常の科学によって成り立った銃火器や、魂のこもらない刃物では、魔物に傷を付けることすらできないことを。
それでも、魔物を倒そうとして立ち向かい、屍となっていった人々のことを。
そう昔の話ではない。
あれから、まだ五年しか経っていない。
降魔戦争と呼ばれた、あの戦いより・・・。
「散発的な魔物の活動なら、全員で当たらなくても、一人で片づけられるはずです」
それは、過信から来た言葉ではなかったが、確かな自信があって言った言葉でもなかった。
「大神くん・・・・・・」
あやめは、大神の真意を察した。
大神も、米田と同様、花組の少女たちを戦場へ連れ出すことに激しい嫌悪感を抱いている。
軍人として、出来るなら、自分だけで決着をつけたいのだ。
少女たちに、戦いを忘れさせたいのだ。
そのためには、一人ですべてを背負い込むことも厭わない。
大神は、この一件で手を下すのは自分一人にするつもりなのだ。
「わかったわ・・・」
あきらめたようにあやめは言った。
「でも、どうしてもあなた一人では片づけられないと私が判断した場合、花組を召集するわ。それは、いいわね」
「・・・はい。ありがとうございます」
安堵して大神は頭を下げる。
本来なら、今の発言は上官に反抗したも同じ行為である。
あやめの心遣いが有り難かった。
それが、許されるところが、帝撃の帝撃たるところでもあるだろう。
「じゃあ、私は仕事の続きがあるから、あなたも戻りなさい」
「はい。失礼します」
入ってきたときより、やや軽く見える足取りで、大神は退出した。
一人になって、あやめは机の上に飾ってある写真を手に取る。
「でもね、大神くん。女はね、たとえ戦場であっても、好きな人と一緒にいることが幸せなこともあるのよ・・・」
五年前のまま、写真の中の顔ぶれは変わらない。
そこにあった、深い思いのままに。
四人そろった写真の中で、あやめのすぐ隣に、銀髪の青年の笑顔があった。
自分を見つめ直し、鍛え上げるために。
いずこよりか迫る敵への、闘志を高めるために。
覗きなどを行った、自分への制裁のために。
先ほど誓ったことへの、決心を揺るぎなき物にするために。
カッと目を開いた大神は、周囲に幾百の敵を仮想しつつ、実戦さながらに全力で剣を振るい始めた。
その剣は、見ている者がいれば、自分を傷つけているように見えたことだろう。
体力、精神力、霊力すらも、すべてを駆使した、激しい動きだった。
幾度も倒れながらも、大神の修行は、地上で空が白み始めるころまで続いた。