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2002年9月25日(水)

9/25は、月末のお楽しみ、関西のパームのユーザー・グループPUGOの定例会です。

2000年2月以来、連続出席中(のはず)の私ですが、今回は、際どい状況。(演奏会の終演が早ければギリギリで顔出せるかと……。)

行って得する集まりだと思いますので、都合のつく方は是非。


2002年9月20日(金)

数年前からおつきあいのある、とある国立機関から速達。

厚紙で補強されたA4の封書の中身は、2枚の紙切れ。そのうちの1枚に捺印して、同封の返信用封筒で返送してほしいとのことでした。

この返信用封筒も速達扱いで、所定の切手が貼ってありました。

当の書類はどういうものかと見ると、以前、先方から問い合わせがあり、こちらが(手書きで)回答を送ったことのある内容でした。

どうやら、私の(手書きの)回答を、先方がワープロで「清書」してくださったようです。で、改めて捺印が必要なので、よろしくお願いします、と。

その国立機関に関わっている数十人への一斉調査ですから、結構な手間のはず。

その調書の内容自体は、実質、数行程度のものです。その数行のために、何通もの速達がやりとりされて……。

何がどうして、こういう段取りに落ち着いたのか、にわかに想像できない無駄な儀式に、ちょっと感動しました。


2002年9月19日(木)

なんとなく三谷幸喜な一日でした。


2002年9月18日(水)

私の両親の郷里には、近くにハンセン病の療養所があるのだそうです。

両親の郷里というのは、九州の端っこの、JRがずっと前に廃線になったような地域でありまして、数少ない安定収入の働き口ということで、親戚の数人が、そこで働いているようです。

小泉首相の急転直下の謝罪で、ハンセン病患者の訴訟は和解したわけですが、もちろん、今も療養所は存続していて、彼らは今も職員です。

去年のほぼ同じ時期に、怪我を押しての優勝で首相を「感動」させた横綱は、現在、生き残りをかけて奮戦中。



北朝鮮で何が行われてきたのか、キツいことだし、まだまだ不明なこと、疑問なこともありますけど、この先、おそらく、もっとショッキングな事実がいろいろ出てきそうな気もします。そして全体としては、じっくり時間をかけて、冷静に受け止めていくしかないのだろうなと思います。なにがこの先できるのかを考えるためにも……。

「英断」の瞬発力だけで済まない現実に、時間をかけて向き合うというのは、きっと大切なことなのだろうと思います。

そういえば、ドイツだって、

ベルリンの壁の崩壊と言うと、あの祝祭的な「瞬間」の映像が思い浮かびますけれど、(「第九」とか歌ったりして……、)

その後、東ドイツの秘密警察の所業が明るみにでて、たくさんの人が傷ついたり……、ひとつになるには、本当に辛抱づよく、何年も時間をかけていますもんね。


2002年9月16日(月)その2

土肥みゆきさんというご婦人の主催する日本歌曲の演奏会を聴きました。

日本歌曲伴奏リサイタル 土肥みゆき 詩人によせて VIII
(9/16 京都府立府民ホール アルティ)
ソプラノ:古渡恵利子

日本の詩人たちがつむいだ言葉と、日本の作曲家がそれに付けた音。

主役は、この二つ。

土肥さんのピアノ、古渡さんの声、そして数々のスタッフは、両者の出会いを演出する「黒子」にすぎず、でも、そうだからこそ、最善をつくす。

「美しき技」――近世の人々は、芸術をこう呼んでいました。この言葉がぴったり。

幸福な二時間でした。


2002年9月16日(月)

追伸

Pal Mac様

そういえば、Pal Mac様は、私の5/7の日記や、誤字脱字誤変換をめぐってというページをお読みくださったとのことですが……、

その際、各ページに挙げた文献をご参照いただけておりますでしょうか?

私への疑問等を書いておられる以上、当然、「誤字脱字に読者は慣れるべきではないか?」の意味がわからないというご感想は、『反ー日本語論』をお読みの上でのこと、「美しさ」についてのPal Macさんのお考えは、川端、大江のノーベル賞講演を踏まえた上でのこと、

これで間違いないでしょうか。

万が一、まだこれら文献をお読みでないとしたら、事前にご熟読いただきますよう、よろしくお願いします。

以上でございます。m(_ _)m


2002年9月15日(日)その4

ペンは剣より強し。

「文学的」だが、衝撃力のない言い回しだ。

言葉は人を殺す。

と書いてみる。

言葉を弄《もてあそ》ぶのは、ピストルを弄《いじ》ることだ。

「ペンは剣より強」いんだろう?


 ピストルとは何か?

西部劇である。

クリントイーストウッド「許されざる者」である。

真夜中に撃ち、叫び、近眼の若者を、厳しくいたわるマニーである。

 長塚京三 [……] 僕は、イーストウッドが自らの手で西部劇を葬ったような印象を受けたんです。[……] イーストウッドの自虐性みたいなものがとても感じられたんです。たとえば、銃なんてものは抜いたら撃たなきゃいけないものだし、撃つということは人を殺すことだし、それはもうめちゃくちゃに無惨なことになるんだという。で、西部劇の普通の居心地のよさのバックグラウンドである晴天というのを無視して、土砂降りの雨。

2002年9月15日(日)その3

みちえるさん、コメント、ありがとうございました。

私自身は、「寛容になるなら全員平等に寛容に」、「不寛容なら全員平等に不寛容に」という立場です。

視覚障碍者も、正確に書くこと「できない」わけではない(はず)だからです。私がこだわってしまうのは、「できる」――とわかっている――ことだったら、他人が「要求」or「指摘」していいのか、というところなのだと思います。

視覚障碍者に「要求」「指摘」した場合、その人にどんな負荷がかかるか、具体的に想像できる。一方、視覚に関して余裕のある人に「要求」「指摘」した場合、一見、その人の負担はたいしたことないように見える。

でも、実際には、視覚に余裕のある人だって、負担は感じているかも、と私は思ってしまいました。(怠け者なので、私は「「面倒」というのも、ひとつの理由と思いたいかも……。)

その上で、信頼関係のある間柄であれば、他人にある程度の負担をかける(かけられる)のも、ありなのだと思います。

ただ、一般論としては、私も、みちえるさんの「こういった考えを、他人に押し付けるつもりはありませんので」という感じをもっています。

どうもありがとうございました。

P. S.
 未来のPDAがパワーアップしたら、私はテキストリーダーで「聴く読書」を試してみたいです。


2002年9月15日(日)その2

ピリオド楽器を用いたバロック音楽演奏は、あっという間に広がって、誰でも聴ける、聞き込む必要のある、必須の音楽ジャンルになった。モダン楽器を使っている人はまだいるけど、一旦バロック楽器の味をしめると元には戻れない。
私はそれを楽しみに音楽の仕事をしている、といえるくらいピリオド楽器を聴きに行く機会が多いのだが、9月14日(土)の東梅田教会におけるヘンデル《ブロッケス受難曲》公演、字幕スクリーンとプロジェクターをどこに置くかは結構重要な問題だった。特に礼拝堂一階部分だけを使うならあまり問題もなかったのだが、入場者多数で、バルコニーに客を入れたり、通路にパイプ椅子を置くことも必要で、字幕が見えない席では、歌詞を予習しているはずはなく、多くの客がうろたえることになった。
ハンブルクにはヘンデル、テレマンなど四人の競作で有名になった「ブロッケス受難曲」というのがあった。ヘンデルの曲は、オペラの書法を併用してイエスの受難物語の各シーンを生き生きとイメージさせる。が、バロック様式で、今となってはやや冗長の感がある。しかしめったに聴けない曲目のお薦め演奏会だったのは間違いない。
1)演奏者
コレギウム・ムジクム・テレマンは大阪で活動するグループで、編成は1stヴァイオリン3、2ndヴァイオリン2、ヴィオラ2、チェロ2、コントラバス1、チェンバロ1、オーボエ・ファゴット各2で、延原武春の指揮は付いているが、チェンバロ中野振一郎と首席チェロ上塚憲一は最強の通奏低音と言われている、らしい。この二人の通奏低音は曲によっては指揮者なしで合奏をコントロールすることもある。しかし、今回は合唱を含む大編成で、やはり指揮を置く必要があるし、なかなか通奏低音で指揮者の代用とするのは難しい曲である。独唱パートは一部を合唱メンバーが兼ねる。畑儀文(Evangelist, tenor)以下の豪華ソリスト陣が加わり、この入場料は安い。畑以外の配役は、中川創一(Jesus, baritone)、中村朋子(Tochter Zion, soprano)、藤田瑞穂(Maria, soprano)、真木喜規(Petro, tenor)、林康宏(Kabaja, bass)、楢崎真弓(Juda, alt)、杉山恭史(Pirato, bass)となっている。

聞き所はいっぱいあったようだが、とにかく第2部、第3部(全6部構成)あたりはあらゆる伴奏音型が即席の効果音となり、声楽陣も声が出てきたので、イエスが十字架につけられ、群衆がそれを取り巻くという描写はなかなか感動的である。このような教会演奏会が日本の他の都市で行われているか、寡聞にして知らないが、是非大阪の名物としてもっと発展させていって貰いたいものだ。「延原武春によるちょっと珍しい受難曲シリーズ」と銘打っているがビギナー歓迎とのこと。今回聞き逃した人は是非次回梅田に足を運んで貰いたい。結構一日熱かった。(熱かったのは他の原因とのかげのこえあり)

以上、文体模写。筋肉質の文体に感動しつつ、色々と考えました。毎回、どれくらいのエネルギーと時間を費やしておられるのだろう、とか……。

内容は、ほぼ事実にもとづいています。


2002年9月15日(日)

茶を注いだ椀を、両手でかかえるように持つ、
その時の重みと感触を考えて作っています。

京都で工房を見学させていただいた陶芸家の方に、そのように説明していただいたことがあります。

応接間のピアノが塵や指紋で汚れるなんて、もってのほか!

と奥様はおっしゃっています。

美しいピアノとは何なのかしら?

人は、書き、話す。

『言語にとって美とはなにか』

昭和40年、詩人、吉本隆明――「勝利だよ! 勝利だよ!」


2002年9月14日(土)その4

一年以上前に、「進歩」という発想を再検討する趣旨の文章をまとめたことがあります。

PDAの「進化」?

それと少し似通った話になりますが、もしかすると、

「向上心」

というのは、実はとても危険な精神活動なのではないかと、先ほど、不意に、そう思いました。

どこに向かうか、目標は、人それそれでしょう。

「より正確に・正直に」「より美しく・魅力的に」「所得倍増!」「もっと独創的に」「もっと明るく・面白く」など。

常識的には否定的と思われているものを目指す人もいることでしょう。

「もっと間違えて、もっとたくさん嘘をつこう」「もっと醜く・嫌われよう」「目指せ自己破産!」「もっとそっくりマネしよう」「もっと暗く・もっとつまらなく」など。……「向上心」というより「偽悪心」という感じですが、こちらも、なかなか魅力的です。

でも、どこへ向かうにしても、「向上心」が、「向上しないこと」の否定であることは変わりません。

「もっと美しく」とは、「醜さ」を避けること、「もっと嫌われよう」は、「人気」を拒むこと……。

「向上心」は、どうしても、自分が目指すのと反対側を向いている存在に、ネガティブな圧力を加えてしまうような気がします。

ちょうど、自動車が後方に排気ガスをまき散らすように……。(しかも、排ガスの量は、「向上心」のパワーとスピードを上げるほど、多くなるようです。)

単に「変わる」というのではダメでしょうか? 単に「私は〜になる」、単に「私は〜をする」では不都合があるのでしょうか。

価値観の多様化した状況では、そういう、いわば「電気自動車」的な人生観のほうが、より良くフィットするではないかな、と、ふと思いました。

もちろん、「どのような文を書くか」ということにおいても……。


2002年9月14日(土)その3

みちえるさんの「速みち」でのコメントを読みました。

が、もともと話く加わる気はなかった……とのことですので、関係あるような、ないような話をひとつご紹介するに留めます。

(とはいえ、お時間ができてから、読んでもらえると嬉しいかも。)

私は、視覚障碍について情報交換する、あるメーリングリストに参加しています。(ほとんど読むだけですが。)

そこには、視覚障碍者もいるし、視覚障碍に関わる晴眼者(目が見える人のことです)もいます。

視覚障碍者は、パソコンの画面の表示を音声で読み上げる装置(スクリーンリーダー)を使って、メールの読み書きをしています。知識があり、機械を注意深く操作すれば、誤字脱字のない文章を綴ることができるそうです。実際、文面だけでは、視覚障碍者かどうか判別できない場合が多いです。

でも、時々、晴眼者だったら(ちんさん以外には……)やらないような、とんでもない誤変換を含むメールが流れてきます。

また、名称を音声で把握しているからでしょうか、「エムエスワード」「ピーディーエフファイル」のような仮名表記、大文字小文字・全角英字・半角英字の混在を見かけます。

「間違いは教えてあげるのは本人のためではないか」

という投稿があり、議論になることがあります。

様々な意見がでます。

最終的には、

「間違いを指摘するかどうかはケースバイケース」
「ML上では、間違いの指摘で話の腰を折らないほうがよい場合も少なくない」

ということになっているような気がします。とんでもない変換でも、ちょっと考えれば(音読してみれば)、意味はわかりますから。

このような「間違いへの寛容さ」は、視覚障碍者という特別な集団にしかあてはまらない、特殊例でしょうか?

私は、同じ寛容さが、障碍者以外に広がってもかまわないと思っています。

そういう寛容さは、様々な事情を抱えた人が入り乱れてのコミュニケーションを可能にします。

私は、そういう「間違いに寛容な」言語状況のほうが、間違いに不寛容な状況よりも、健全だと考えています。

P. S.
 昨日、ピーコと糸井重里の対談記録を見つけました。

補聴器をめぐるシンポジウムのプレイベントだそうです。

2002-08-27 イベント第1部前半:プロローグトーク
「しゃべること、聞くこと」
ピーコさん・糸井重里

2002-08-30 イベント第1部後半:プロローグトーク
「しゃべること、聞くこと」
ピーコさん・糸井重里

偶然ですが、多少、響き合うところのある話かも、と思いました。


2002年9月14日(土)その2

Pal Macさんとの対話と関連するけど、直接の続きではない話題。

「性善説vs性悪説」というのがありますが、ひょっとすると、いわゆる情報化社会(ちょっと古い言い回しで申し訳ない)で問題になるのは、

「性正説」……人の間違いは訂正できるという考え方

と、

「性誤説」……人間はそもそも間違うものという考え方

の対立かも、なんて思いました。

色々なデバイス、サービスを設計する場合や、ソフト・ウェブでの情報交換において、この部分で、目立たないけど案外シビアに話がかみ合わなくなったりすることが、あったりするような気が、ふとしました。

とりあえず、今すぐ思いつく関連情報は、

その1、たぶん5月頃、WEST-ROOMで紹介されていた話。

コンビニでは、釣り銭を間違えないようにバイトを教育・選別するより、釣り銭の間違いもコストに参入して、大量のバイトを雇うほうが、トータルコストが少ない、というような話が紹介されていた記憶があります。

これなど、典型的な「性誤説」ではないでしょうか?

言葉の問題で言えば、

その2:Googleの「誤記」でも正しいワードを推測して検索してくれる親切設計。

そしておそらく私は、かなり急進的な「性誤説」の人間なのだと思います。

(今、時間がないので大急ぎで要点だけ――リンク等抜きに――書きますが、以上の話は、実際には、「速みち」の問題提起と、「デラデラ バイザー」でのリアクションを読んで思いつきました。そこでの議論は、私にとっては、ちょっと違和感を覚える「性正説」に思えたりしました。)


2002年9月14日(土)

もともと、Pal Macさんの問いかけにはじまったことで、私の意見を受けて、もう一度、Pal Macさんがお考えをまとめていただき、論点はひととおり出たのではないかと思います。

私には、特に付け加えることはないです。

ただ、

「バザール」方式という言葉が新たに表に出てきたので、そのことだけ。

(なお、とても一方的ですが、以下の話題については、言いっぱなしで、これで終わり、にしたいと思っています。あまりにも文章書くのに時間がかかりすぎるので……。それから、これはPal Macさんの文章を読んで、新たに思いついたことを書いただけで、ひとつひとつの論点をかみあわせようという配慮はしていないです。ですので、対話的にお答えいただくことはないと思っております。よろしくご理解ください。)

第1に、

「バザール」方式は、参加者全員のシェア(共有物)を対象にしているからこそ可能なのではないでしょうか。

ウェブサイトは、現状では、特定の○○さんの著作物として公開されていることが多いと思います。

そういう特定の人の著作について、著作者ではない人々がみんなで校正する、というような形だと、オープンソースのプログラム開発とは、人の関係性が変わってくると思います。

(文章を成り立たせている「ソース」は、著者の頭の中にあって、プログラムの場合のようには、公開できないですから……。)

だから、どうしても、作者とその他の人達、つまり、「一対多」の関係になってしまう気がします。

そのような関係性におけるウェブマスターさんというのは、とてもデリケートな立場だと思います。

おそらく、それは、「バザール」方式よりも、一般的なフリーソフトやシェアウェアの作者さんの立場に近いと思います。

そして、そういう場合の、作者さんとの繊細なおつきあいについては、「こうすれば良い」という特効薬ではないにしても、パーム・コミュニティに、既に確実にノウハウが蓄積されつつあるように思います。(私が言うのは、ものすごく、おこがましくいですけど。)

私はぶっきらぼうで全然ダメですが、Pal Macさんは、既にその種の交流をこつこつ重ねておられるのですから、何も、「バザール」云々のことさら新規な「方法」をお立てにならなくてもよろしいのでは、と思えるのですが……。

第2に、

確認したいのですが、「バザール」方式は、必ずしも「意見の一致」を目指してはいないはずですよね?

トーバルスの自伝などを読むと、彼は、意見の合わない人が分派することを止めていないようです。

去る者は追わず、です。

この「安全弁」は、開かれた議論に必須の心構えだと私は思っています。

そして、言葉の問題について、そういう「バザール」状況を考えるとすると、

例えば、Englishを話す人と、Engrishを話す人が共生し、お互いを尊重しあう、という状態が近いのではないでしょうか。

確かに、Engrishはある視点から見ると「間違い」かもしれないけれど、とりあえず好きにやっていいんじゃないの、というのが「バザール」だと思います。

もっと言うと、実は、私たちが生きている現実の言語状況は、既に「バザール」なのであって、私たちがそれに気づいていないだけではないか、と私には思えます。

だから、もし「バザール」で行こうというのであれば、単に書き、語ればよいのではないでしょうか。私はそのように考えています。


2002年9月13日(金)その2

下の記事の下書きは、完成稿の約2倍の分量ありました。

カットした部分をもとに、こういう文章をまとめてみました。

「21世紀の用字法?」

「日本語の乱れ」や「校正」ということが話題になった時に、私は、いつも違和感を覚えます。でも、その感じを説明しようとすると、込み入った話になりそうで、どうにも億劫で困ってしまっていました。

大きくわけて3つのことを、私は考えてしまいます。

ひとつは、

校正は手間がかかる!

ということ。これは、下の記事に書きました。

2つ目に思うのは、

誤字脱字に読者は慣れるべきではないか?

ということ。これについては、直接的に話題にしてはいませんが、

「(+_+)\パキッ!」

を読んでいただければと思います。

そして最後に、これはなんとも大げさな話なのですが、

そもそも、現行の用字法は誰が何のために決めたのか?

という疑問です。

かなり荒っぽいですが(汗)、一応、このテーマで私なりの考えをまとめたのが、

「21世紀の用字法?」

お騒がせしましたが……、とりあえず、これで、ひととおり思っていることをまとめられたかな、と思っています。


2002年9月13日(金)

まず、次の2つの引用をご覧下さい。

[……] この手のカーソルコントロールは液晶プロジェクターによっては最初からリモコンとして附属することもあるが、多くは赤外線で、やはりコントローラーを液晶プロジェクターに向ける必要があるし、なかなか四方向キーでマウスの代用とするのは使いにくいものである。 [……]
[……] ただし、公式にはマックは OS X に対応していない(Win 98, 2000, ME, XP対応、95,NT、Mac OS 8.6-9.2まで対応のアプリケーションが付属してきたが、USB が使えないと駄目)。[……]

これは、ひと続きの文章です。赤字で強調したように、「附属」と「付属」が混在しています。

私が直観的に思ったのは、

IMEの変換ミス

「附属」という用字は、「○○大学附属病院」などの固有名詞くらいでしか見かけないですからね。

でも……、

それじゃあ、「附属」と「付属」の使い分けに、何らかの目安があるのか、調べてみると、案外、面倒なようでした。

とりあえず手元にあった『広辞苑』(第二版補訂版、ものすごく古いもので申し訳ない)を見ましたが、

ふ・ぞく【付属・附属】……

となっていて、使い分けのヒントはありません。本気で調べたら、もう少し色々わかると思いますけど……。

校正=用字の整理は、やっぱり手間がかかりますね。

簡単に思えた「付属・附属」ですらこれですから、新聞や商業出版の訂正なんて、本当に大変な作業だろうな、と改めて思いました。

多忙な中で運営された個人サイトですから、貴重な時間を校正以外のことに回すのも、尊重されるべき判断と思います。

ということで、私は、この文章の著者に「指摘・質問」するのは差し控えることにします。(^^)

自分が、これに味をしめて、間違い探しでストレス解消する人間になってしまったら怖い、という気持ちもありますし……。

(また、上の引用文の著者が、私の「指摘」に「感謝」するのも禁止です。この文章、親切心で書いたわけじゃないですから。)


2002年9月11日(水)

クラシック音楽業界は、「○○周年」という区切りが好きなところのようです。

「モーツァルト没後200年」(=1991年)が大当たりしたせいなのか、様々な音楽家について、「生誕○○年」もしくは「没後○○年」というディスクや演奏会が、世界各地で企画され続けています。

事実上、ほぼ毎年が、誰かの「生誕○○年」もしくは「没後○○年」ですから、もはや、パチンコ屋さんの「新装開店」みたいなもの。

まあ、「お祭り」というのは、人が集まって盛り上がればいいわけで、きっかけは何でもいいのかもしれませんし……、

記念の年をきっかけにして、大きなプロジェクト(作曲家全集の刊行とか)が始まることもありますから、悪いことばかりではないです。

でも、それにしても、そろそろ、みんな飽きている、というのが現状のような気がしています。

もちろん一方で、

非常に大きな出来事があって、その当事者が、「あれから○○年」と時を数えるというのは、切実なことなのだろうと思います。

出来事のインパクトを受け止めつつその後の日々を生きて、○○年でここまで来た、さらに○○年が過ぎて、今はこうなった――そんな風に、人生の軌跡を確かめることは、その人にとって切実なことなのかもしれませんし、そういう節目の確認が、明日を生きるための支えになるということは、ありうると思います。

だから、一概に「○○周年」という発想を疑問視するつもりはないのですが……、

少なくとも、私には、そもそも、9月11日を区切りということにしていいのか、判断がつかないです。

あのことが「事件」として顕在化した時刻は、確かにこの日付に属するわけですが、でも、その事件の原因となった対立というか「問題」は、ずっと前から持続しているわけですよね。

そして、この日付のあとにも、色々なことが起きている。

明確な情報は伝わってきませんが、もう一方の当事国では、本当に様々なことが(今も)起きているようですし、私たちが住んでいる国の政府が、ある決断をし、行動した(しようとした?)事実とその日付だって、「国民」にとって忘れてよいものではないかもしれない。

こういう「状況」、たくさんの重要な日付を含む一連のプロセスのなかで、特に9月11日を際立たせるということで、本当にいいのか、そういう世界観で大丈夫なのか、私には、今もまだ、よくわかりません。

私は、もうしばらくズルズルと考え続けたいと思っています。9月11日の前も後も。


2002年9月4日(水)

ウェブの個人サイトは、楽しみで書くわけですから、商業出版みたいに苦しい思いして隙なく仕上げる必然性はないわけで、大体、こっちが勝手に見に行ってるわけですから、文章の出来・不出来なんておせっかいな話です。気に入らなければ、読まなければいいわけで……。

「読み上手」が求められる、というのはそういうことだろうと思っています。

だから、

あれよあれよという間に読めてしまう面白くてたまらないコラム……、

の最後で、突如

「気弱なエリート思考の我が儘な芸術家」
(Pick Up Back Number 2002.09.01)

という意味がとりづらくて、ひょっとするとトゲがあるのかなと思わせる表現に遭遇しても、ぐっと腹に力を入れてこらえるべきでしょうし、

「だいたいどこの国でも自分の国を全面否定しているやつはダサいと思われるんじゃないですかね。」
(Pick Up 2002.08.31)

と問いかけられた時には、

「ダサい」という締めは如何なものか、

とか、

そりゃあ、「全面否定」はしないけど……、

とか、そういうところで考え込んだりせずに、文章の勢いに身を任せて読み終えることが期待されているのかな、と思ったりします。

なんとなく、

でじ@デラデラ バイザーさんの文章から、優しさ成分というか余裕みたいなのが、従来比で数パーセント減ってしまった気がして、どうしたのだろう、という感じをもっているのですが、たぶんそれはこっちの勝手な思いこみだろうし、そもそも、余計なお世話。

P. S.
 電子文庫パブリで、フロイト「芸術論」を購入。所収の「ユーモア」という文章を読み返したかったので。

絞首台へ向かう罪人が、「ふん、今週も幸先が良いぞ」と言った、というお話。

この話を読むと、なぜか、私は、根津甚八の石川五右衛門とか、川谷拓三の善住坊@「黄金の日々」を思い浮かべてしまいます。

訳は硬くて読みにくい。


2002年9月3日(火)

昨年のハンドスプリング社に続いて、パーム社も日本から撤退。

SDカードタイプの通信カードが出たら、モノクロのm500というのも悪くないかもしれないな、と漠然と思っていたのですが、こうなると、来年の春は、どんな状況になっているのでしょうね。

改めて考えてみると、私は、日本のパーム社の製品は1台(m100)しか買ったことがないし、メインマシンとして使ったことは一度もないです。

一番最初が、WorkPad30J。以下、

WorkPad 40J
PalmVx (E)
TRGpro (E)
Visor Platinum (J)

現在は、TRGproをメインに使っています。やっぱり、(一時期V系も使ってみましたが)、iii系が好き、しっくりくるので。(^^)

壊れるまでは、手持ちの機種を大切に使い続けていこうかなと思っています。


2002年9月2日(月)

「芸術の秋」という言葉にどれくらいリアリティがあるのか、よくわかりませんが、秋になると演奏会が増えるのは確か。伝え聞いたところでは、年々、秋に集中する傾向にあるそうです。

不景気で演奏会を開くのも大変、お客さんを集めるはもっと大変。ここは冒険を避けて手堅くハイ・シーズンの秋に、ということでしょうか。

明日9/3も、ご招待いただいている演奏会が2つ重なっていて、まだどちらに行くか決めていない状態。大阪と京都では掛け持ちできませんし、どうしたものか。

演奏会というのは、大抵、午後7〜9時なので、各種オフに出るのが難しくなるのも残念なところ。

今年はまだ、一度も神戸の唐子に行けていないです(涙)。三宮に出る機会は、これまでより増えているのですが……。



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by 白石 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)