21世紀の用字法?

 「日本語の乱れ」や「校正」ということが話題になった時に、私がいつも疑問に思うのは、

そもそも、現行の用字法は誰が何のために決めたのか?

 ということです。

■「言文一致」と用字・造語の自由

 現在の日本の書き言葉の土台を作ったのは、明治期の作家たちによる「言文一致」運動だったわけですが、この時の課題は、

書き言葉を話し言葉に近づけること

 それまでの擬古文体(「〜なりけり」)や候文(「〜にて候。」)に変わって、「〜です」「〜だ」で書いてみようという試みだったわけで、

 二葉亭四迷『余が言文一致の由来』(「青空文庫」にも収録されています)を見ると、円朝の落語を手本にして文を書いた、というような苦労話が出ています。

 でも、用字法(どの言葉をどのような文字で書くか)については、私の知るかぎり、この時、特別な議論はなかったようです。

 当時はまだ、古文・漢文の教養が生きていましたから、必要に応じて、古典文献をひもといて、文字の用法を学べばそれで済んだのでしょう。

 そして、文明開花がもたらした新しいものごとや考え方については、おそらく、各人の創意と判断、「造語」に委ねるしかなかったはず。

 だからこそ、そういう言葉の動揺を逆手に取って、夏目漱石の小説の自由奔放な用字・造語が、可能になったのだと思います。

 明治の作家たちの「言文一致」運動は、用字・造語の自由とセットになっていたような気がします。

■学校教育の役割と影響力

 「言文一致」は、作家たちがはじめた、いわば「下からの日本語改革」ですが、用字法の整理というか統一は、「上から」、文部省が指針を出したり、それをもとに学校教育がなされた結果なのではないかという気がします。

 特に、古文・漢文の教養が途絶えた戦後は、文部省・学校教育の比重が高くなっているようです。新聞や出版社も、文部省の指針を参考にして、表記のガイドラインを決めているようですし……。

 でも、それでは、日本の政府は、どうして用字法を整理・統一しようとしたのでしょう?

■国語教育と「富国強兵」

 大西巨人『神聖喜劇』を見ると、

 第二次大戦中の軍隊で、初年兵が、極めて厳格に軍隊独自の言葉遣いを仕込まれる状況が描かれています。上官へのあいさつ、命令等の受け答え、大砲などの武器類の各部の複雑怪奇な名称、軍規の暗唱……etc.。軍隊では、言葉の統一が、新人に規律を仕込む重要な手段だったようです。

 確かに、軍隊のような「組織」では、構成員が皆、同じ言葉を用いるようにしておかないと、効率が悪くて仕方がない、と想像できます。

 軍隊には、

言葉遣いがだらしない=規律がない=弱い軍隊

 という発想があったようです。

 ひょっとすると、ビジネスの世界でも、同じような考え方があるのではないでしょうか。

 同じ商品や仕様を、各人が別々の言葉で呼んでいては話が進まないでしょうし、なんとなく、お客さんの信用を失いそうな気がしないでもないですし……。

 日本の学校教育が全員に同じ言葉遣いを覚えさせようとするのも、「富国強兵」(戦後で言えば「高度経済成長」)という方針・政策と密接に関係しているような気がします。

言葉遣いがだらしない=規律がない=使えない人間

 という発想です。

 もしも、国家という巨大組織が、明確に目標を見定めて、全体としてひとつの方向に進もうとする状況であれば、こういうやり方も成立すると思います。そして、おそらく20世紀というのは、そういう100年間だったのだろうと思います。

 でも、現在はどうなのでしょう?

■「鍵文一致」?

 世の中のありようが変わっていこうとしている時=巨大な既存のシステムが耐用年数を過ぎて、機能不全を起こしている時は、とりあえず、小回りの効くコンパクトな範囲で、できることを少しずつ進めていくしかないと思います。

 言葉だって、おそらくそうでしょう。

 様々な民族の言語がウェブや電子メールで入り乱れて読めるようになって、しかも、これまで意見を公表できなかった立場の人たちが、これまで考えられなかったようなシチュエーションで発言するようになっています。

 これは、大正・昭和の国語教育の想定外の事態のはずです。

 もし過去に手本を求めるとしたら、明治期の状況が、ある程度、参考になるのではないでしょうか。

 明治の書き言葉は、二重の意味で柔軟で現実主義的だったように見えます。

 第1に、書き言葉を、話し言葉(しかも「落語」)に合わせてしまおうという発想、

 第2に、新しい物事に、自由な用字・造語で対処しようという発想、

 例えば、電子メールやウェブは、「(手)書き言葉」でも「話し言葉」でもない、「キーボード言葉」(打ち言葉?)を生みだした、なんていう見解だって、ありうるかもしれません。

 IMEによる誤変換や、キーボードならではの略語などを、「間違い」ではなく、独自の言語と認めてしまうわけです。

 だって、「キーボード言葉」を「書き言葉」の基準で校正するより、「キーボード言葉」(誤変換などを含む)に慣れてしまうほうが効率的かもしれませんからね。

 ちょうど、明治の人達が「話し言葉」に柔軟に適用したように、「キーボード言葉」を手本にする……、

 「言文一致」ならぬ、「鍵文一致」でしょうか。(w

 まあ、これは単なる思いつきですが、

 明治の人々の経験は、状況の変化を察知した時に、既存の規則で無用に人を束縛せず、自由に判断せよと、私たちに教えているような気がします。

 とっても当たり前な話ですけど、当たり前なことって、案外、実行するのが難しいんですよね。


palm - musicは
「正しい日本語」
「美しい日本語」
「礼儀正しい日本語」
の蔓延を憂います。

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Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp