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PDAの「進化」?
えんすぅ〜ぱぁむ!さんが、01/06/29のひとりごと 『Palmなもんを作る人達って』以来、月刊タッチPC8月号別冊『DiTO』の特集「PDAの哲学」をとても丁寧に読み解いてくださっています。 えんすぅ〜ぱぁむ!さんが繰り出されるコメントの数々、それにまつわる機長のコラム「iPAL1343 独自性と互換性のハザマで。」、そしてそもそもの発端になっている雑誌記事「PDAの哲学」……。その広範な話題の全貌には、ついていけていないので、エキセントリックに枝葉末節にこだわって、便乗する形になってしまいますが、以前から気になっていたことを書いてみようと思います。 同じくえんすぅ〜ぱぁむ!さんの01/06/30のひとりごと 『Graffitiだけはあげない』にこんな一節があります。
そしてこのつぶやきに対して、PDA-JAPANさん(たぶん、庄司さん?)は、次のようにコメントしておられます。
このコラムでこだわってみたいのは、このコメントに出てくる「進化」という言い方、考え方です。 お二人の間では話がかみ合っているように見えます。えんすぅ〜ぱぁむ!さんが、「エンターテインメントは必然なの?」とつびやき、PDA-JAPANさんが、「必然です、それは進化の一過程です」とお答えになった。 でも、本当にそういうことなんでしょうか? 現在、メーカーさんやマスコミさんが、そういう方向で話を盛り上げているのは事実ですが、果たしてそれは、本当に「進化の過程」と呼ばれるほど重い事実なのでしょうか。イエスの後に生まれし我らは最後の審判を待つばかり、PDAの世界は、それほど苛烈な「必然性」に支配されているのでしょうか? PDA-JAPANさんを拝見していると、よく「進化」や「必要」「必然」という単語が出てきます。状況論としては、「〜の段階に来たようです」とか、上にもある「〜の時代が到来する」。語尾としては、「〜となります」「〜なのは言うまでもありません」というのが頻出します。 ひょっとすると、単なる口癖か、と思えないこともないですが、日々のコメントを読み続けていると、やはり、そうではなく、PDAの世界の森羅万象の背後に、ある種の後戻りできない時間の流れを読みとっておられるようです。 かといって、PDA-JAPAN的「進化」が、「多機能=進歩」「シンプル=守旧派」といった短絡的な評価でないのは言うまでもありません。そうではなく、そうした日々の表層の事象に惑わされることなく、おそらく経験に裏打ちされ、マクロな視野から物事を眺める古老の目みたいなところが、PDA-JAPANさんには、感じられます。 でも、敢えて問いたいのですが、PDAの世界の出来事に、全体として「進化」を読みとることは、本当に妥当でしょうか。それは、生物学における「進化論」がひとつの(しかも現在ではかなり相対化されている)仮説にすぎないように、PDA世界を眺める見方としても、ありうべき様々な仮説のひとつにすぎないのではないでしょうか。そして、諸現象の中には、前進でも後退でもないような変化や多様性というのも、想定できるのではないでしょうか? 例えば、VisorにはSpringboardというしくみがあります。各社が色んなモジュールを発売しています。 でも、例えば、
などという言い方は、明らかに滑稽だし、PDA-JAPANさんだって、もちろん、そんなことはお書きにならないだろうと思います。Springboard群は、時間軸に沿った連続的な変化(進化とはそういうもの)をもたらしているわけではなく、多方向に拡散する諸用途が、個別に充足されているに過ぎないと、言って良いでしょう。そしてその意味では、進化というより多様性、ヴァラエティという言い方のほうが、しっくりくるような気がします。 そして、VisorのDeluxe、Prism/Platinum、Edgeの関係も、「進化」ではなく、多様性、ヴァラエティ近いように私には思えます。かつて、PDA-JAPANには、EdgeをPlatinumの「進化形」とみなして両者を比較する論評が出たことがあると記憶していますが、あれは、失礼ながら、あまり、生産的な何かを導き出しうる立論ではなかったのではないでしょうか。 手のひらの大きい人・小さい人、指の長い人・短い人、タナゴコロの厚い人・薄い人、Visorのヴァラエティを見ると、私はそういう、手のひらの多様性を連想します。しかも、人間の膚の色が様々であるように、Visorの筐体の色は変化に富んでいる……。 西洋のクラシック音楽の世界では、作品論の用語として、発展(development)というのと、変奏(variation)というのを区別して使うことがあります。 どちらも、ひとつのメロディに少しずつ変更を加えて、曲に変化を持たせる手法です。でも、両者をテクニカルに定義することはできません。同じ手法でも、文脈によって、発展と呼ばれることもあるし、変奏と呼ばれることもあります。問題は、聞いた時の印象です。 後のモノが前のモノより「進化」「進歩」「前進」した形であると聞こえるとき、つまり、時の流れが「前に進んだ」と感じられる時、それは「発展」と呼ばれています。それは、音で議論をしたり、闘ったりしている効果を生みだしている場面を形容する術語です。一般に、その時、聴き手は緊張と集中にさらされています。ベートーヴェンの交響曲の冒頭楽章などに「発展」の例が多く見られるとされています。 一方、単に同じものが別の角度から語り直されたり、別の衣装で飾られていると聞こえるとき、つまり、目先を変えながら同じところでぐるぐる回っていると感じられる時、それは「変奏」と呼ばれています。それは、同じものを使っているはずなのに雰囲気や気分が次々転換しているような状況を形容する術語です。一般に、その時、聴き手は開放を感じ、気晴らしを体験します。モーツァルトは、そうした開放感を演出する「変奏」の名手であり、「変奏」の規範を作ったとされています。 片一方だけでは、音楽としてあまり面白いものにはならなくて、音楽家たちは、上手に両者を組みあわせて、波瀾万丈の音楽を作ろうと努めていたようです。(ベートーヴェンの中にも、「変奏」による気分転換があるし、モーツァルトにも生真面目な「発展」の場面があります。) そして、これは音楽好きの偏見かもしれませんが、現実世界の変化の中にも、「進歩」とは感じられない事例、「変奏」と言うしかない現象があるような気がします。 PocketPCやクリエ、PCでいえばWindowsは、ユーザーに典型的な「発展」を経験させる。彼らは、「乗り遅れたダメだ」という焦燥感を煽りつつ、「未来」を夢見させてくれる。その「未来」が本当に実現するか、確約はできないけれど……。一方、Visor、そして(私は詳しくないけれど)Machintoshは、「変奏」を続けている。彼らは、実用的ではないかもしれないけれど、いつもハッとさせられる鮮やかな驚きを演出する。その感動がつかの間のものか長続きするか、保証の限りではないけれど……。各社、各ブランドの基本スタンスとしてはそのようなものではないかと、私には感じられるのですが……。
(2001年7月3日、文責:白石知雄) [HOME] |