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一九世紀の音楽ジャンルの諸問題

カ−ル・ダ−ルハウス


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 一八世紀以来の市民音楽文化を(少なくともイギリスとドイツで)特徴づける中心的な制度である公開演奏会は、それまでの世紀の制度と次のことで区別される。この制度は、合唱クラブを除くと、ほとんど新しい音楽ジャンルを生み出さず、むしろ既存のジャンルを引き込み、変形した。「演奏会様式」と呼べるようなものは、様式の欠如と批判されても仕方がないような、エポック様式である。正確に言えば、機能に基礎づけられてエポックの様式に依拠しないジャンル様式と、ジャンル様式に刻印されないエポック様式という不幸な区別が話題になる。「演奏会様式」を規定しようとするのであれば、教会音楽、オペラ音楽、室内楽では異質かつ邪魔だと感じられたようなメルクマ−ルを記述せざるをえない。

 教会音楽は、礼拝機能から内的に疎外され、宗教的なものを美的に伝え、美的なものを宗教的に伝える感情を覚醒しようとすると、ゴットフリ−ト・ウェ−バ−が一八一二年に気付いたように、どうしても演奏会音楽へ移行する。そして反対に礼拝の実用音楽は、コンラ−ト・コッハ−とフリ−ドリヒ・ジルヒァ−が実践したように、芸術性格を潜在的であれ顕在的であれ放棄した。

 交響的な原理が優勢だったので、オペラ音楽は一九世紀後半に、特にドイツで、演奏会音楽へ傾斜した。個々の作品がジャンルの規範を越えた美的要請と作曲技術の要請によって機能的な劇場音楽の群れから際立つのでなく、逆に、劇場へ適したオペラ音楽はむしろ例外であり、極端に高度な作曲技法が通例であった。

 そして室内楽は逆説へ陥り、それがあまりにも明白なので、ほとんど認識されなくなかったほどである。つまり、作品がさしあたり演奏会場へ規定されていたのに、様式的に「演奏会風」や「管弦楽風」へ傾斜すると批判された。室内楽の概念が演奏会実践の現実に出会うことはほとんどなかったが、それだけ一層、室内楽概念が含意する作曲上の基準への執着が強くなった。

 理念は制度から育つ。そして演奏会に対応し、いわばそれを美学理論で弁護するのが自律原理である。演奏会の目的は、目的から解放された音楽を公開するのを助けることである。目的から解放された音楽は、世界から身を閉ざしているのに、公開されることを密かに望んでいる。だが、経済的かつ社会的な理由からいっても、「目的を欠いた合目的性」の原理が一九世紀に敢行され、支配的な美的ドグマになったわけだが、他方で、音楽がこの原理を削ぎ落として実用音楽へ堕落すると、自分以外に後ろ盾のない不安定な状態へ陥った。解放は称賛されたが、それに耐えるのが難しかった。そして、脅かされ解体されつつあった音楽の機能を演奏会音楽の支配的傾向から保護したり、再生しようとする試みが繰り返された。一九世紀は進歩に歴史の法則を見いだしたと信じたのだが、同時に、ときには熱狂的で、ときには教条主義的な復古のエポックでもあった。

 だが、過去を再生したり、没落したものを高級化する試み以上に決定的だったのは、機能性と自律という対立の彼岸にある音楽、つまり自らを越えつつ自律を放棄しない音楽を目指す努力であった。ワ−グナ−はオペラを舞台神聖劇へ高め、リストは世界文学を交響詩の題材として着服したのだが、これは、自律原理を踏み越えることを意味した。だが、機能−ないし機能のユ−トピア−が音楽に予め与えられるのではなく、機能がいわば音楽作品へ解消され、そのことで自らを越えて高まるとされた。ニ−チェの懐疑は、舞台神聖劇が宗教へ支配された音楽ドラマだと誤解したが、ワ−グナ−の要請によると、逆に宗教が音楽ドラマへ解消された。そして交響詩は、文学作品の音楽による模像や影ではなく、リストの挑発的な要請によると、「文学の傑作を自らのなかに受け入れる」。軽侮されたり、その解体が欠陥ゆえのことだと暗黙に感じられていた外的な目的と機能は、形而上的なそれに置き換えられた。

 音楽ドラマや交響詩で形而上的な意味づけと権威が音楽をそれ自身から超越させたとすると、リ−トでは、簡潔さ、つまり「高貴な単純さ」の理念がよく似た役割を果たした。芸術は別の芸術よりも深いもの、つまり自然であるべきだとされた。そしてリ−トの自然−また音楽全般の自然−は民謡に発見され、それゆえに民謡がリ−ト作曲の手本になった。数百年をへて民謡が軽侮や見下しの対象になってからでもそうであった。リ−ト美学は一九世紀後半になっても、−もはや音楽による文学解釈がジャンルの理念になっていたのに−簡潔さと素朴さというイメ−ジ(一八〇〇年前後に博愛的、古典主義的、ロマン的な傾向から生まれたような)にしがみついていたのだが、これは、音楽的というより音楽外に基礎づけられる。それが自然へ後ろ盾を求める傾向、ないし内的傾向である(ただし自然は、過去の現実であるより、むしろユ−トピアであった)。素朴さは、端的に言うと感傷的であり、反省に由来した。作曲家のなかではブラ−ムスとラインベルガ−、歴史家ではクレッチマ−とフィリップ・シュピッタ、かれらのリ−ト美学は民謡という理想(それは理想化された民謡であった)の周辺を旋回していた。特徴的なのは、ケストリンまでもが、理論と作曲実践の乖離に直面したときに、リ−ト美学を放棄するのでなく、リ−トそのものの地位を不安定だと感じたことである。「芸術リ−トは、広く根を張り、異常に枝を広げた植物である。だが、素朴であることを止めると、リ−トは失敗する。」だが、単純さの規範から逸れたリ−トを断罪することは疑わしく、不当である。歴史的には、「本来の」リ−トの伝統が枝分かれしたのではなく、むしろ第二の独立した伝統が問題になるべきであろう。それはライヒァルトの朗唱曲からシェ−ンベルクの《シュテファン・ゲオルゲの空中庭園の書の一五の詩》まで続き、用語がないためにリ−トの概念に取り込まれているにすぎない。「歌」ないし「旋律」と呼べば、一九世紀のリ−ト美学が関与的であったようなリ−トと混同するのを避けることができるだろう。

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 ロマン主義の音楽詩学の中心は孤立して自己完結した作品という理念であり、そこでは形式の個別化へ向かう歴史的傾向が、概念でつかまれ、いわば美的意識へもたらされた。ジャンル理論は、個々の形象を第一義的に例とみなして個別として扱わないわけだから、弁証法的というより相互に排除しあう対立へ陥った。媒介が成功すること、つまり個々の作品が規範を越えてもなお、ジャンル伝統を糧としてそこへ依存すること、そして逆に、ジャンルが、それを実現する個々の作品の伝承された図式からの逸脱によって硬直するのでなく、それでも生き延びることは、次第に難しくなった。

 フェルディナント・ハントは一八四一年に、まるで矛盾が両立してもその意味と内容を脅かされないかのように、対立を記述した。一方で彼は、音楽形式の個別性をはっきり意識して、それを内容美学的に基礎づけた。そして彼は、音楽のジャンル詩学が疑わしいことを強調さえした。ジャンルがとらえる一般的なものは美的本質ではなく、美的本質にかかわる個別性はジャンルと無関係だからである。「我々は、あらゆる音楽理念がその形式とともにもたらされ、内容が形態を、その容量、部分の数、表現法を含めて受け入れていると前提することができるのだから、芸術作品の数だけ芸術形式があると主張したい。そしてあらゆる細部には、理論的に先取りできないような形態化に固有の法則が宿るのである。」他方でハントはジャンルの存在と意義を確信し、しかも、ジャンルが規則と目的に基礎づけられるという考えに、見たところ苛立っていない。「だが、このことは、芸術作品のジャンルと種類が形成され、その規則が作品によって確定されていることを否定しない。趣味が作品の存在を認可するのであり、趣味に達する条件として提示目的が必要である。」ひとつのジャンルは規範の総概念として現れる。そして規範から美的判断が導かれる。たとえば、独奏協奏曲というジャンルでは伴奏管弦楽が「従属的でなく対等」でなければならない、という規則を傷つける作品は、ハントによると、個別性を主張する権利がなく、欠陥を病んでいる。「このような概念規定と一致しない作品がいくつもあることを私も十分承知している。疑問に思うのはただ一点、そうした創造の本質をめぐる著作権が十分正当だといえるのか、ということである。……」

 芸術作品を個別と把握し、そのジャンル性格を二次的、あるいは美的にどうでもよく無意味だと主張する潮流において、天才美学(独創性原理や表出原理の名のもとに正統的な規範と図式を反芸術的強制と批判するような)は、個別的な特殊へ概念なしに没入する瞑想を(一八世紀に芸術哲学を風靡したような批判を、ではなく)中心へ据える傾向と合流する。ジャンルの非関与性を最も強烈に主張したのはベネデット・クロ−チェだが、彼の一般化は配慮を欠いているし、こう言ってよければ歴史に反する。彼は彼自身の現代がもたらした偶然的経験にもとづいて、ジャンルは既に反芸術的な理論の概念の亡霊になったと結論した。ジャンル詩学は、クロ−チェによると誤謬に他ならず、常に個別的刻印の経験であるはずの美的経験を論理的形式へ押し込める。だが美的経験は、論理的形式が把握おうとするものを宙吊りにする。「人間の精神は美的なものから論理的なものへ進歩できる。……人間は、表出、つまり個別的なものの思考を普遍的なものの思考でせきとめることができるのである。」物事を扱うための概念の教養と「私利私欲を廃した」忘我の美的瞑想は相互に排除しあう。クロ−チェは文学理論家や芸術理論家を批判する。彼らは「個々の実際の文学作品や芸術作品の歴史を計画するのでなく、ジャンルを生み出す空疎な幻覚の歴史を書こうとする」。だが、ジャンルに理念の刻印、客観精神の表明が認められると考えるか、それともジャンルが経験的に把握される伝統へ帰着するのか、ということとは無関係に、ジャンルが歴史的現実の一部であり、分類好きの理論と歴史学の発明でないことは否定できない。クロ−チェはドグマを軽侮したわけだが、自分のドグマを見落とした。ジャンルの解体という歴史の特殊な発展段階をドグマ化し、現代にしか妥当しないものを以前のエポックへ転用している。

 独創性の理念がクロ−チェによるジャンル概念批判を支える前提だが、そこには正統性への心理的、倫理的要請と、美的新しさの要請が交差した。語の強調的な意味での芸術性格を標榜する作品は、一方でただ「作られた」だけでなく「感じられる」べきであり、他方で個別的内包として想定される実体が、以前の別の作品から独立しているべきである。そして反対に、エピゴ−ネンへの批判には二重の疑念が潜んでいる。伝承された作曲技術を安易に使うと空疎なル−ティ−ンの嫌疑をかえられ、手本を信奉すると、内容の欠如とみなされ、敬意の符丁とはみなされない。

 ル−ティ−ン仕事がエピゴ−ネン的で本来不必要だという疑惑は、凡庸が一八世紀にはまだ軽蔑されずに機能したが、一九世紀になって存在理由を失ったことを意味する。「楽長」の語は、マテゾンに「完全な楽長」と呼ばれて讃えられたメチエではなく、蔑称になった。だが、中庸は切れ目ないジャンル伝統を支える実体、すなわちジャンルを完成した傑出した作品によっても食い尽くされない実体である。そして中庸は一九世紀に消失しなかったにしても、美的に非関与的になり、歴史的発展の基礎であるより、むしろそこから弾きだされたわけで、このことは、ジャンルが危機に瀕し、定式風に言えば、通俗と例外へ分解したことを意味した。ベ−ト−ヴェンの荘厳ミサ、リストのグランのためのミサ、ブルックナ−のヘ短調ミサは、次第に減少しつつあったジャンルの先行例を踏まえた完成ではなく、凡庸の規則からの例外であり、ジャンル史の周縁にある重要作品として、ジャンルから生まれたのでなく、ジャンルと対立した。

 他方で、独創性の理念は一九世紀の音楽美学において二極分化し、ジャンル伝統をすぐに空洞化することを妨げた。音楽批評は、まるで主題と発明を類比できるかのように、旋律楽想の独創性へペダンティックかつ執拗にこだわったが、主題は新しく異例な音楽形式にとって、どうでもよく、しかも信頼されないものであった。美学理論は主題と形式の相互作用を否定しなかったのだが、実践された美学である音楽批評は、作品の主題法の新しさと独創性を形式の明晰さや見通しやすさ(それは因習へとらわれていることを意味した)と同時に称賛することに矛盾を感じなくなるにつれて、主題と形式の相互作用を無視するようになった。

 ジャンル伝統が最も粘り強いのは、それが反省されずに持続し、音楽の内部から発展するのでなく音楽に外から与えられた条件になったときである。伝統は、端的に言わせてもらうと、それ自身から理解された。表に現れることなく作用するのが伝統の力である。伝統が解消されてはじめて、いわば回顧的に、その輪郭が素描される。音楽の警句であるバガテルのようなジャンルがピアノ曲としてのみ有意味だというのは、一九世紀には自明のことで明言される必要もなかったわけで、そのことは、ウェ−ベルンの管弦楽のためのバガテルによるショックを通じてようやく意識された。

 無反省な伝統が意識的な同化としての歴史主義、つまり一九世紀に成立して進歩理念と同じくらいエポックを刻印した歴史主義と混同されてはならない。過去への関係を規定した直観モデルとして、歴史主義と伝統は、相互に支えあい補いあうというより、むしろ対立する。ジャンルは過去を止揚した伝統によって持続する。過去は現実としては消失するが、美的、作曲技術的な実体に保たれる。反対に歴史的な努力の対象は、過去の断片として現在へ転送された個々の作品である。ハインリヒ・リッケルトが理論的、歴史的方法として言ったことは、実践における歴史主義にも通用する。すなわち歴史主義は個別化の手続きである。バッハのマタイ受難曲は一九世紀に個別的で一回的な作品として復興したのであって、受難音楽というジャンルの例や手本として復興したのではない。レオ・シュラ−デは書いている。「歴史は我々にあらゆる個々の成果、あらゆる特定の芸術的達成を展示しする。それは、出来事をいわば眼の前でもう一度起こすのである。……伝統と結びつくのは、個々の作品ではなく、個々の芸術家の人格でもなく、固定した現実でもない。それは眼に見えずない空洞であり、一般的にすべてを包むが、とらえられない。」

 歴史の傾向が時代を支配しているとわかるのは、しばしば、別の観点からみると際立って対立しているものが合流している地点においてである。そして一九世紀の音楽思考を特徴づけているのは、歴史主義とその反対である進歩理念が決定的モメントを共有していること、つまりジャンルの規範と伝統を解消し、作品を個別する(その極限は、形象が類型や図式を支えとせず、あらゆる瞬間にそれ自身で理解されたときに達成される)という特性を共有していることである。進歩は一八世紀と一九世紀には正統性からの解放と把握された。そして音楽の進歩は、批評(とりわけ新ドイツ派の)が主張したように、伝承された形式の止揚であり、伝承された形式は、出発点ないし支えではなく、強制や障害と感じられた。

 進歩理念が音楽意識で直面した抵抗はわずかであった。進歩理念は、特定の意味で、それ自体として定式化されることなく数百年来、了解されていたからである。文学と造形芸術の理論では、進歩理念が新旧論争から非常な苦労の末に誕生したわけだが、音楽では古代の正統性が影のように希薄で新旧論争の対象がなかった。現代の自立した意味を確信することはおろか、現代の優位さえもが、苦労して貫徹されるまでもなく、一五世紀のヨハネス・ティンクトリスから一八世紀のヨハン・マテゾンまでほとんど同じように確実であった。一九世紀の音楽美学で新しかったのは、進歩理念そのものではなく、進歩理念が方向転換して、伝承された形式とジャンルの支配を批判するようになったことである。この方向転換は、古代の正統性の本質的な部分がジャンルの正統性であったというかぎりにおいて、新旧論争を思わせる。

 美的進歩理念を理解するには、新旧論争から由来する意識を避けて通れないわけで、美的進歩理念は、この点において学問と技術の進歩理念と区別されねばならない。学問と技術の進歩理念は、二〇世紀の多くの作曲家が受け入れたというかぎりで、音楽にとって無意味ではない。それが想定し概念でつかんでいる出来事とは、個々の出来事や現在を越える自然認識や自然利用のプロセスである。このプロセスにおいて、以前の段階は死んだ過去の断片に他ならない。そして歴史と格闘する最新の音楽の作曲家たちが指向したのは、こうした自然科学のモデルであった。彼らは作曲の進歩を、ある段階の結果が目標ではなく次の段階の出発点となるような問題史と把握した。作品は、いわば発見と発明の副産物になった。さしあたり音楽のジャンル概念は関与性を失ったが、最後には、ジャンル詩学の対立審級である個別的で自己完結した作品の理念も疑われた。

 進歩理念は、一九世紀の音楽思考において、一般的に内容美学ないし感情美学と結びついた。しかし、音楽ジャンルを規定するメルクマ−ルであった伝承された形式との関係は二極分化した。アフェクト、題材、詩的理念を強調することはジャンルを保護し固定する作用もあったが、ジャンルを解体する作用もあった。ハインリヒ・クリストフ・コッホは感情美学を形式の図式主義と対応させた。彼は『作曲への手引きの試み』で書いている。「私はある楽曲の諸楽章の形式を扱う。一方で、楽章の形式が偶然的なものであることは否定できず、それはもともと楽曲の内的性格へほとんどまったく影響しない。しかし他方で、我々の楽章の形式を、大きな楽曲においてであれ小さな楽曲においてであれ、批判する理由もない。形式とはそういうものだからこそ、多くの偉大なマイスタ−たちが、たとえばアリアをいつも同じひとつの形式に従って仕上げたのではないだろうか。」形式は、外側の衣装と理解されたかぎり、どうでもいいか少なくとも二次的だったので、因習的でよかったし、そうであるべきでもあった。詩的理念が決定的モメントであるロマン主義者ショパンのピアノソナタが、古典主義者ベ−ト−ヴェンのそれよりも形式のうえで図式的だったのは偶然ではない。ベ−ト−ヴェンにとって、形式が重要だったからこそ、形式はいつも別の解決を求める問題になった。

 他方で、リストとワ−グナ−へ見られるように、内容重視は音楽の形式に深刻な変化をもたらし、形式伝統を解体した。形式が二次的だというのは、それが内容へ依存しており、堅固でいつも同じ図式を作って、そこへ個別的な主題法と動機法が組み込まれるのではないことを意味した。カ−ル・ケストリンは、アリアが「感覚をある程度までの充溢や完全な注入に至るまで描写する」、というコッホの前提を共有した。だが彼はここから反対の帰結を引き出した。アリアはリ−トと違って、感情を一般的な輪郭で(ショ−ペンハウア−流に言えば抽象的に)表出するのではなく、個別的な規定性において表出わけだが、これはケストリンにとって、コッホにおけるのと反対に、形式が因習的であっていいことを意味しない。形式が問題にならないのではなく、−形式がアリアで内容を個別に跡づけるかぎりにおいて−図式で提示できる一般的なアリア形式など存在しないはずからである。「そこ[アリア]においてのみ、心は己れを満たすものを完全に、全面的に語り、邪魔されずに絞りだす。そこにおいてのみ、魂が完全に歌へ宿り、そこにおいてのみ、個人が音楽で提示される。……アリアにはその都度まったく個別的な感覚が流し込まれるのだから、アリアに堅固で一般妥当的な形式があり、個々の楽想をどのように反復させるべきか、といった取り決めがある、などというのは間違いである。アリアの特質は、むしろ無形式なことである。つまり、もちろんアリアにも形式はあるのだが(純粋音楽的な旋律形式)、ある規定された形式をもつというわけではなく、形式が内容に合わせて仕立てされるのである。」ケストリンが美的に弁護したような個別化は、ジャンル伝統の止揚を意味する。堅固な輪郭を変奏するアリアはドラマ的独白になる。

 このように形式、題材、詩的理念の優位が正反対の二つの帰結を認めたとすると、他方で、一九世紀に形式的モメントを強調することは、ほとんど同じくらい曖昧であった。音楽ジャンルの形式伝統へ頑固に固執するエピゴ−ネン的形式主義は、実験的形式主義と区別される。後者の出発点は、形式が異例で違和感があっても、それ自体で注目を集め、美的質を示すという考えである。そして作品と形式伝統(作品はそこに由来し、聴き手によってそれが作品へ結びつけられる)との隔たりが−一定の限界内で−大きくなるにつれて、規則や規範が作品から隔たったままで強調され、意識化される。形式の破壊と思えるものは、逆説的に言うと、しばしばかえって形式を際立たせる。ベ−ト−ヴェンの後期作品の割れ目は、適切な知覚能力のある聴き手の形式感覚を麻痺させるのではなく、極度に緊張させる。「最後のベ−ト−ヴェン」は、ヘルマンア−ベルトが見たところでは、シュ−マンによって「近代音楽の出発点であり、中心点であった」。

 抒情的ピアノ曲と交響詩は、どちらも一九世紀を特徴づけるジャンルだが、形式との関係において正反対の両極であった。形式は図式へ固定されるか、あるいは問題になり、いつも新たな解決を求めるのだが、あとの作品への規範になることはない。メンデルスゾ−ンの《無言歌》はすべて、ほとんど変更なく、三部分リ−トのaba図式にもとづいている。この形式はテクストのあるリ−トに特徴的なわけではないので、アドルフ・ベルンハルト・マルクスが「リ−ト形式」という用語を作るきっかけになったのは《無言歌》だったのではないかと推定される。反対にリストの交響詩では、ソナタ形式の伝統との関係が−作品構造にとって構成的なのに−聴き手に向けられた外側からではほとんどわからない。だが、多くの分析家のように関連を否定するのは誤謬である。極限の間を媒介すること、つまり一方で形式類型を保護しつつ硬直させないことと、他方で形式類型を個性化させつつ止揚しないことは、一九世紀には次第に困難になったようである。

 時代が自己を再確認した特徴的ジャンルは、同時に美的に最も危険なジャンルであった。ドラマ的カンタ−タは歴史像へ対応する楽曲だが、たった一回、つまりメンデルスゾ−ンの《ワルプルギスの第一夜》においてのみ、高い様式と自惚れた凡庸の空騒ぎから抜け出した。そしてこのジャンルの記憶がほとんど完全に抹消されたのは、歴史的に正統である。抒情的ピアノ曲は、シュ−マンの意味で「詩的」であり、芸術性格を獲得したかぎりにおいて、無数の「散文的」サロン音楽から際立ったわけだが、違いは−違いが問題なのに−ほとんどないことがしばしばであった。そして交響詩は、−生き延びたのは交響曲のほうだが−管弦楽の中心ジャンルであった。交響詩は、ブルックナ−とマ−ラ−の秘められたプログラムやプログラム草案が示すように、いわば交響曲への絶えざる模索であった。だが他方で、標題音楽は絶対音楽以上に音楽の地下室へ格下げされる危険に脅かされていた。一九世紀の音楽の地下室は広大であり、直接的で確信犯の通俗や、高邁な意図が失敗して生まれる間接的で屈折した通俗への劣悪化として、標題音楽を脅かしていた。


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