翻訳目次へ トップページへ

一九世紀の音楽ジャンルの諸問題

カ−ル・ダ−ルハウス


目次
T U V W X Y Z [ \ ]

T

 →冒頭へ戻る

 ジャンル概念は音楽において比喩であり、その非本来的な性格は、見せ掛けの問題による混乱を避けようとする場合にも忘れられてはならない。音楽のジャンル Gattung は生物の種 Gattung のような「自然形式」ではなく、個々の形象がそれによって起源の段階から刻印されているのではなく、伝統であり、個々の形象は明確に、あるいは希薄にそこへ結びつき、そこから解放されることもある。あらゆる音楽作品が生命体と同じように種の例として規定できるに違いないと期待するのは間違いだろうし、ジャンル体系から抜け落ちる形象が化け物だと判断する厳格なジャンル詩学も間違っている。(美学者クロ−チェはジャンルのしがらみと格闘したが、ジャンルが存在することを歴史家クロ−チェが否定することはできなかった。)音楽作品がジャンルにどの程度規定されているのかということは、歴史的変化にさらされている。

 作品をジャンルにグル−プ化する原則は渾然として異種混合的で脈絡がなく、「自然の体系」を探しても無駄である。リ−トは一方でコラ−ル、讃歌、ロマンツェをまとめる集合概念だが、他方で他と並立する抒情モノディというジャンルである。讃歌と違ってソネットは、(ソネット作曲がないわけではないが)刻印された伝統をもつジャンルにならなかった。アリアはジャンルだが、オラトリオもジャンルである。つまり部分が全体と並立している。ソナタ・ダ・カメラは独奏ソナタかトリオソナタだが、他方で独奏ソナタはソナタ・ダ・カメラかソナタ・ダ・キエザであり、機能と編成、どちらのモメントがジャンルを第一義的に規定するのかはっきりしない。ソナタ・ダ・カメラの歴史を書くべきなのか、それとも独奏ソナタの歴史を書くべきなのか? また、合唱バラ−ドが独奏バラ−ドと合唱リ−ト、どちらの歴史的文脈へ属するのか、これも決めがたい。

 名前が繰り返されても、音楽作品をジャンルにまとめて、その歴史を書くのに十分ではない。一八世紀と一九世紀前半のラプソディの歴史を語るのは誇張だろう。ライヒァルトでは「ラプソディ」がゲ−テの『冬の心の旅』の断片の作曲のタイトルであり、なによりも「断片」を意味した。トマシェクはピアノのラプソディで真面目で誇張された語りのト−ンを模索しており、この名称は古代のラプソ−デのイメ−ジと結びついていた。そしてリストは「ラプソディ」という名称をそこに付着する民俗的性格とみなしており、そのもとになったのは、自分が音楽のホメロス、祖国の叙事詩人になるという理念であった。彼は断片的性格やラプソディの語りのト−ンと結びついたのではなく、国の詩人兼作曲家という彼が古代のラプソ−デへ抱いた手本を見習おうとしていた。

 傾向としてではあるが、唯名的ジャンル理論とプラトニズム的ジャンル理論を区別することができる。唯名的ドグマによると、音楽作品をジャンルへグル−プ化するのは、それが問題の解決として合目的的に現われたときに正当化される。ジャンルは事実であるよりも定立であり、研究の対象であるよりも手段である。音楽作品をジャンルへまとめるのが機能によるのか、編成によるのか、形式類型によるのか、それは事象の自然に予め記されているのではなく、答えを求める問いにのみ依存する。一七世紀の独奏ソナタはジャンルでもあり、ソナタ・ダ・カメラでもある。そして一七、一八世紀のカンタ−タの歴史は「教会曲」の歴史(そこには宗教的コンツェルトとマドリガル的テクストをもつカンタ−タが並立する)かもしれないし、独奏カンタ−タの歴史(そこでは宗教的カンタ−タが世俗的カンタ−タの副次形式であり対立要因とみなされる)かもしれない。あるジャンル史は別のそれと同じように正当である。ジャンルの秩序は自然体系としても歴史体系としても与えられない。それは堅固でなく、変化する。

 唯名的理論とは反対に、プラトニズム的理論は音楽ジャンルが所与の現実の一部だというイメ−ジを固定する。もちろんこの理論がジャンルを確認できるのは、「客観精神」を具現することによってである。ジャンルのイメ−ジが歴史的に発展する理念と把握されるにしても、歴史を超越した理念と把握されるにしても。だが経験論者を自認する歴史家は、プラトニズムの傾向に疎遠で懐疑的である。そして音楽ジャンルを現実として語り、なおかつ形而上的前提を強制されない可能性を求めるのであれば、彼らもこうした理論を悪く取ることはない。

 プラトニズム的ジャンル理論と唯名的ジャンル理論は、どちらも対象、つまり音楽形象とその特性ないし理想型だけから出発し、作品の作用史に配慮しないという共通の傾向をもつ。だから両者は、いつになったらメルクマ−ルの複合体を総括して歴史的現実の一部としてのジャンルに構成できるのか、適切に決断できない。編成だけでジャンルを規定できるのか、形式図式と美的要請(弦楽四重奏をディベルティメントと区別するような)が結びついてようやくジャンルを規定できるのか、事象だけからでは決められない。ジャンルへグル−プ化する作業は、一致したり違っていたりするメルクマ−ルの数と意義だけから出発するかぎり、抽象的で非歴史的である。作曲家と聴き手が音楽形象をその成立時にどのような過去の作品の文脈に実際に結びつけていたのか、調査されないのであれば。

 新たに現れる作品は無前提ではなく、以前に聴いたものを回想している。作品は、別の作品や歴史的文脈へ結びつけることができてようやく理解できる。完全に孤立して自己完結した形象は、存在したとしても浸透せず、把握できない。一方、「カンタ−タ」や「交響曲」というジャンル名は、作品が属する伝統関連を暗示する符丁である。作品をジャンルの例と理解することは、それが一群の作品を背景として浮かび上がるべきであり、そうした知識を作曲家が暗黙に含意していたということである。ブラ−ムスの第一交響曲は、一八七六年の初演の際に、聴衆からベ−ト−ヴェンの交響曲に依拠していると決めつけられた。そしてベ−ト−ヴェン伝統についての知識こそが、ブラ−ムスの作品のタイトルにおける交響曲という語に意味を与えた。

 ジャンルは伝統によって成立する。以前の作品が後続作品を支える前提になることによって。そしてジャンルの歴史、ジャンルが自らを鋳造してジャンルとなる発展は、作用史と考えられる。作品を共通のメルクマ−ル、機能、テクスト、編成類型によって互いに結びつけることは、それらの作品をジャンルにまとめるための必要条件だが十分条件ではない。五重奏はジャンルではない。個々の五重奏は、互いに結びつけられるのでなく、その都度、同じ作曲家の四重奏と結びつけられているからである。

 他方で、多くのジャンルは深刻な変化にさらされ、そのことで作品の共通メルクマ−ルの貯えがほとんどなくなっているが、それにもかかわらずジャンル概念を構成する伝統関連が解体していない。ウェ−ベルンの作品二一は、まだ交響曲と把握できる。

U

 →冒頭へ戻る

 音楽史のエポックとして考えると、一九世紀はマ−ラ−の《大地の歌》とシェ−ンベルク最初期の無調曲まで続く。始まりを設定するのは、さらに難しい。ベ−ト−ヴェンの音楽やその一部が、音楽のロマン主義の基礎になったからといって一九世紀の始まりと把握されねばならないのか、この混乱はほとんど解きほぐせない。「ロマン的ベ−ト−ヴェン像」(そこには、エポック自身によるエポック意識の表現と正当性を見いだすことができる)は、近代の歴史家から誤解と見下されている。だが、誤謬は、誤謬だったとしても歴史を作った。

 他方で、一八三〇年前後の「芸術時代の終焉」も音楽史の切れ目と感じられる。たとえ当時台頭した新しさが第二のロマン主義、「新ロマン主義」と考えられたにしても。《幻想交響曲》は挑発であり、これほど鮮烈な挑発はほとんど考えられない。(第一楽章が交響的形式の輪郭を保っているのは、伝承と結びついていることの証拠ではなく、伝承がどうでもよくなっていることの証拠である。慣習が傷つけられないのは、それが関与的でなくなったからである。)

 フリ−ドリヒ・ブル−メは一八三〇年前後の音楽史の切れ目の意義を強調した。だが彼は他方で、ロマン主義と新ロマン主義における音楽のジャンルと形式のカノンが古典と同じだったと考えた。「音楽史のエポックとして、古典とロマン主義はひとつである。」だが、交響詩と抒情的ピアノ曲は、以前のものと結びついてはいるが、一九世紀の新しいジャンルである。そして両者は、−これこそ決定的なことなのだが−それが由来するエポックを特徴づける。両者はエポックの音楽意識を鋳造した。交響曲とソナタが追放されたわけではない。だが交響詩と抒情的ピアノ曲は、いわば、交響曲とソナタを脅かした絶えざる試練であった。一九世紀後半には、むしろ交響曲のほうが交響詩という支配的潮流へ対抗せねばならなかったのであって、交響詩が交響曲の伝統へ対抗したのではない。そしてソナタについて、シュ−マンは既に一八三九年に、それが「フランスでは気の毒そうに微笑まれる種類の音楽であり、ドイツでもただ我慢されているにすぎない」(U 255)と述べた。シュ−マンにとって、ロマン的ソナタという概念はほとんど自己矛盾であったかのようである。ショパンの変ロ短調ソナタが結びついた歴史的文脈はソナタの伝統ではなく、性格曲の伝統であった。「彼が、この曲を≪ソナタ≫と呼んだのは、むしろ気紛れというべきだろう。さもなければこのソナタという名で、およそ常軌を逸した四人の子供たちをとりまとめて、そうでもしなければとても通行を許しそうにない当局の眼をくらまそうとする横着と言いたいところである。」(訳書、一六五頁。)

 他方で、一八三〇年前後の音楽史の切れ目が、一六〇〇年前後や一七四〇年前後の切れ目に劣らず、古いジャンルからの離脱と新しいジャンルの成立に特徴づけられるのも否定できない。だがその基盤は、ブル−メが依拠した「古典とロマン主義はひとつ」という仮設にではなく、事象と歴史への関与性を音楽ジャンルが喪失したことに求められるべきであろう。関与性の消失は、機能や場と結びついた音楽の解体ないし没落、そして個々の自律的で自己完結した作品の重視、これらの事態と密接に関連する。音楽形象は美学の強調的な芸術概念の意味での芸術作品と評価されることを望むようになり、反復不可能な個別であり、ジャンルの例ではなくなった。そして「芸術時代」において(ベ−ト−ヴェンの作品において)既に指摘できるような傾向が、一八三〇年から顕著になった。社会的、美学的な前提(それが音楽ジャンルを育て、支えててきた)の空洞化である。個々のジャンルだけでなく、およそジャンルなるものの意義が傷つけられたこと、これこそが、一八三〇年以後の時期をエポックとして古典や初期ロマン主義から際立たせる決定的メルクマ−ルである。付言しておけば、一九一〇年前後の音楽史の切れ目(この切れ目が深刻であったことは誰も否定しない)も、一八三〇年前後のそれと同じくらい、新しいジャンルの出現と結びついていた。

 このようにジャンルの関与度、そこに潜在する作用は時代ごとに違っているわけだが、他方で、ジャンルを規定する判断基準、つまりメルクマ−ルの選別と重心も交替する。エポックごとに、ジャンルの貯えが違うだけでなく、そもそも前提となるジャンル概念が違う。ジャンル概念はいつも別にとらえられるので、エポックを超越して通用する定義は、どうしたって狭すぎるか抽象的すぎる。特定の時代の基準を一般的前提へ高めてドグマとするとき、その定義は狭すぎる。歴史的な細分化を越えようとして、空疎ないし不安定な用語でありもしない一致を見いだしたふりをするとき、その定義は抽象的すぎる。音楽ジャンルではいつでも特定の内包が形式ないし構造類型とひとつであり、これこそが何度も同じ課題を解決しようとする場合の規範である、といった主張は啓発的かもしれない。だが、オラトリオの素材と理念や器楽バラ−ドの語りのト−ンを「内包」概念へまとめること、一六世紀のモテットにおける部分の並列を交響曲での提示、展開、再現という図式と同じ意味で「形式」と呼ぶこと、儀礼としてレクイエムの作曲を弦楽四重奏の作曲(それは音楽の教養人の「私的娯楽」であった)と同じように「課題」と名づけること、これらが歴史的に正当だろうか。一致や類似は事象ではなく、むしろ言葉に基礎づけられているわけで、こんなことでは、個々のジャンルではなくジャンル概念そのものが歴史をもつという事実が隠蔽される。

 発展の傾向を暗示するにすぎないにしても、とりあえず発展を規定したのは声楽から器楽への覇権の移行であった、と粗雑に定式化してみると、次のように言うことができる。ジャンルを規定する第一義的メルクマ−ルは、一七世紀と一八世紀前半までの古い音楽史では機能、テクスト、楽曲構造であり、それ以後の新しい音楽史では編成、形式図式、性格ないし「ト−ン」であった。楽曲構造は様式の高低、美的社会的要求と密接に結びつき、機能は聴衆への提示法ないし聴衆との関係、そして音楽ジャンルの私的、公的性格と密接に結びついていた。言うまでもないことだが、古いエポックに一義的な規定モメントであったものは、新しいエポックにおいて二次的になったが放棄されはしなかった。

 機能音楽、つまり第一義的に(排他的にではないにせよ)目的に刻印され、それを果たすことで存在権を保証されるような音楽は、出来事の一部であり、出来事つまり儀礼、祭り、行進、舞踏などの行為が音楽を包み込んでいる。そして機能という一種音楽外的なものは、一七世紀と一八世紀前半までの古い音楽史ではジャンルを規定する決定的モメントであった。ソナタ・ダ・キエザとソナタ・ダ・カメラの間にあった形式の差異は機能の差異に依存した。目的と結びついた音楽の機会が減ったわけではない。一九世紀にはミサが数限りなく生まれた。だが美学が自律して自己完結した作品という理念を取り巻いていたエポックには、機能音楽が低級だという先入観にさらされた。疑惑の重圧のもとで、機能音楽は期待どおり通俗化する傾向にあった。機能音楽は低級になり、ジャンルとして芸術音楽の歴史へ介入する可能性を失った。

 声楽のテクストへの関係は第二のジャンル規定モメントだが、一九世紀には分裂している。一方で、リ−トと抒情モノディでも音楽ドラマでも、テクストの韻律形式と表現内包をますます正確に音楽で提示しようとする努力が顕著だが、他方で、第一義的に器楽的な聴き方(二〇世紀の特徴)が一九世紀へ遡るのも否定できない。一八世紀と一九世紀前半の「芸術時代の終焉」までの時期には声楽が器楽のモデルであり、器楽は暗黙のテクストに基づくかのように、「語っている」と考えられた。ところが一九世紀後半から、音楽美学の「形式主義」が音楽思考を支配するにつれて、逆の傾向が徹底し、テクストが二次的と感じられるようになり、声楽は、器楽のように抽象的に聴かれる。

 テクストのジャンル規定としての意義は、音楽を次第に切実に考察されるようになったことと、器楽聴取へ対立してしまうことがあいまって減少した。音楽解釈がテクストのあらゆる細部をたどり、詩のジャンル性格よりその特殊で一回的な内包を強調することで、音楽作品の個別化傾向が支えられる。これが一九世紀全般の特徴であり、ここからジャンルの空洞化へ導かれた。そして他方で、抽象的な器楽的聴取がテクストからジャンル鋳造力を取り上げたことは、あまりにも自明であり、言うまでもない。

 器楽を編成にしたがって分類するのは出版の慣習であり、その歴史的意義、ジャンルの発展へ介入する意義は否定できないが、ジャンル理論がこの習慣に屈伏する必要はない。そして、誇張するまでもなく、ジャンルを編成へ還元する図式主義には次の主張を突きつけることができる。編成がジャンルの基準なのは、編成が弦楽四重奏やトリオソナタのように、楽曲構成法の類型を代表しているときだけである。響きの外面、つまり声部の数と楽器による色付けではなく、そこで実現される楽曲構造が決定的である。たとえば、編成が同じでも、シュポアの二重四重奏とメンデルスゾ−ンの八重奏はひとつのジャンルを作らない。シュポアの協奏的技術とメンデルスゾ−ンのいわば交響的技術は互いに背を向けあっている。

 ジャンルのメルクマ−ルとしての楽曲構造は、様式の高低をめぐる美的基準と作曲技法のうえで対応する。高い様式、中程の様式、低い様式の区別は、一七、一八世紀に文学理論から音楽へ転用された。北ドイツの批評家は、ハイドンの弦楽四重奏の「喜劇的」モメントが様式の割れ目であり、高い様式を低い様式で曇らせると考えた。そして同じように、フェルディナント・ハントは一八四一年に華麗な四重奏 Quatuor brillant を批判した。弦楽四重奏は、ハントによると「新時代の花である。なぜならそれは和声の最も純粋な帰結を示すのだから」。弦楽四重奏は「純粋な書法」という理念−そこには文法的な欠陥がないという自明の前提以外に、ヨハン・ニコラウス・フォルケルが音楽の論理と名付けたものが含まれている−の実現とみなされている。「これに反して」−とハントは弦楽四重奏について書いている−「和声の本質と有効性を突き詰める者は、一面で音楽における思想家たるウェ−バ−の発言を完全に正当化し、別の一面では精神活動の全体性を容認する。そのことでこうした作品は、芸術家から生まれて聴き手にも受け入れられる」。だが「純粋な書法」の理念を実現することが弦楽四重奏をジャンルとして構成するとすれば、華麗な四重奏は堕落形式ないし別のジャンルへの移行である。「二ないし三つの声部が独奏声部の傍らで無意味に推移したり、ある声部が和声を作るだけのために添えられるのは、根本的に堕落した四重奏である。……ヴァイオリンやチェロがヴィルトゥオ−ゾ性を示すような四重奏をこの種の音楽から追い出して、協奏曲と呼ぶことはできないものだろうか。」

 このように編成がジャンルの基準になるとき、それは書法類型(バロックの三声、古典派の四つの主要声部)の刻印であり、鳴り響く提示と考えられるのだが、他方で、次のような逆説的事態を把握するのは難しい。編成類型がジャンルを規定するようになったのは、楽器法が一六、一七世紀のように演奏実践の問題ではなく、作曲の部分モメント、つまり音楽テクストの部分モメントになったエポックにおいてであった。作曲されて音楽作品の実体に属するようになった楽器法は、楽曲構造や形式と同じように個別化する傾向にあり、編成のステロタイプではなく多様性へ向かう。一九世紀の管弦楽の膨張は、量の作用だけでなく、細分化という逆の傾向も示している。より大きな装置のほうが、グル−プ化や色彩の混合の可能性も豊かである。

 驚くべきなのは、二〇世紀の新音楽、とりわけ最新の音楽で音色の解放が構造を越えた色彩の支配へ突き進み、編成からジャンルの基準としての関与性を奪ったことではなく、まったく反対に、一九世紀に個別的な楽器法にもかかわらず編成がジャンルを規定するメルクマ−ルであろうとしたことである。そして明らかに、エポックが二つに引き裂かれている。交響詩と弦楽四重奏は、ソナタ図式という同じ形式類型にもとづくのに、一九世紀の器楽ジャンルの体系では対極であり、しかもそれは、管弦楽と室内楽という編成の違いによるのではなく、管弦楽が音色を解放し、一方、室内楽は楽曲構造の抽象に提示する傾向にあるからである。また特徴的なのは、ホルン三重奏やクラリネット五重奏やヴァイオリンソナタを弦楽四重奏と同じ意味でジャンルとみなすことが躊躇われることである。理由は、作品の数が少ないことのみならず、ホルンやクラリネットの使用が管弦楽的楽器法原理の室内楽(この領域では、編成のステロタイプと禁欲が強調される)への介入を意味したことに求められるべきであろう。

 管弦楽(その特徴的ジャンルは交響詩であり、そこでは楽曲構造と形式が色彩的モメントと同じくらい個別化される)と室内楽(その楽曲構成と形式が類型的なのは、編成が固定していることに対応する)の違いは、一九世紀には、まるで事の自然に基礎づけられているかのように受けとめられた。だが新音楽の室内楽編成の多彩さを経験してから振り返ると、これは自明というより、驚きである。

 一九世紀の器楽というジャンルに特有の形式はソナタ形式と、アドルフ・ベルンハルト・マルクスが不幸にも「リ−ト形式」と名づけたaba図式であった。(この用語は、この形式が現実のリ−トに特徴的だということではなく、この形式の自然な単純さがリ−ト−ないし理論家の念頭にあったリ−ト理念−のそれを想起させたことを示している。)リ−ト形式の地位はソナタ形式のそれと別だが、遠く三様式説の「低い様式」を連想させるような低級として美的完全さから排除されたわけではない。

 性格曲ないし抒情的ピアノ曲には単純なリ−ト形式やロンド図式へ拡張されたリ−ト形式がふさわしく、シェ−ンベルクの作品一一の三にもリ−ト形式が透けて見える。そしてシュ−マンのトッカ−タ作品七とブラ−ムスの作品七九の第二ラプソディがソナタ形式をもとにしているのは、端的に言えば、ジャンルの美的要請を誇張している。逆に交響曲は、交響詩として提示されるときでもソナタ形式と結びついており、こうした伝統こそが、作曲家にとっても聴き手にとっても、交響的作品の結びつくべき歴史的文脈であった。リストの交響詩をリ−ト形式やロンド形式の拡張と把握しソナタ形式の変形と考えないのは、たとえ紙のうえではこうした試みが矛盾なく成功したとしても間違っている。こうした試みは、交響詩が否定しつつ依存していた形式とジャンルの伝承を見落としている。他方で、リストには形式を個性化し、図式から解放しようとする傾向がある。そして、これをそこから逸れようとする規範に遡って認可すべきなのか、図式を背後にもつことなくそれ自体で成り立つまったく個別的な形式として扱うべきなのか、恣意的でなく決断するのは難しい。

 抒情的ピアノ曲は総じてリ−ト形式やロンド形式と親和し、形式を強調しないとされるが、性格曲の個々のジャンルであるバラ−ド、ロマンツェ、ラプソディ、エレジ−、ノクタ−ン、アンプロンプチュ、カプリ−スを互いに区別するのは、それぞれに特有の「ト−ン」である。バラ−ド、ロマンツェ、ラプソディは器楽で語りのト−ンを模倣する試みであり、稀には−ブラ−ムスの《エドワ−ドのバラ−ド》のように−特定の内容を器楽で提示する。そしてシュ−マンが器楽曲を「方言的 provincalisch」と特徴づけたとき(GS T 56、 U 96 141)、彼の念頭にあったのはロマンツェのト−ンの変形であった。フェルディナント・ヒラ−についての一八三五年の論文によると、「ベ−ト−ヴェンのロマン主義的特徴」は「方言的」であり、シュ−ベルトはこれを「極めて独自な身振りでヴィルトゥオ−ゾ性へ鍛え上げた」。そしてベ−ト−ヴェンにおいて、優美だがリ−ト的に悲し気なト−ンがシュ−ベルトを予見しているような楽章を探すとすると、ヴァイオリンソナタ作品一二の五の Andante piu tosto Allegretto や四重奏曲作品五九の三の Andante con moto quasi Allegretto などが考えられる。(アンダンテとアレグレットの間を揺れるテンポだけでも、シュ−マンが考えた類型にぴったりである。)

 「ト−ン」論は、完結した理論として提示されたことがないが、バロックのアフェクト論(ヨハン・マテゾンが器楽ジャンルの基礎にしたような)のロマン的ヴァリアントだとみなされる。音楽におけるアフェクトと「ト−ン」は、ジャンルの基準としては、どちらも表出ではなく模倣である。音楽で提示されたアフェクトが一八世紀前半には体験された情念でなかったように、夜想曲や悲歌の「ト−ン」も作曲家名義の個別的感覚ではなかった。他方で、一九世紀には表出原理がジャンル類型を制圧し、ジャンル類型を解釈しなおして、「ト−ン」を感情に変えた。だが、「ト−ン」論が音楽修辞学の末裔と考えられ(仲介者を演じたのはヨハン・ニコラウス・フォルケルであった)、音楽ジャンルの理論としてその本来の意味を保っていたとみなすかぎりでは、「民衆のト−ン」の曲を作曲家の汚れない素朴さの表現と考えるのは粗雑な美的誤謬であり、誤解であった。シュ−マンはメンデルスゾ−ンの《スコットランド交響曲》(シュ−マンはイタリア交響曲と考えていた)の「本来の民衆のト−ン」を称賛したのだが、これは作曲家が受け入れた様式態度、音楽の genus dicendi であり、「民衆のト−ン」と極端に対立するサロンのト−ンへ交換することができたし、一方を「自然」で「正統的」、他方を「仮面」で「作為的」な音楽の語り口と扱う必要はない。「無垢」というカテゴリ−は美学において疑わしく、「ト−ン」や、それに規定されたジャンルに不適切である。

 ジャンル特有の「ト−ン」は「提示法」、つまり聴衆ないし聴き手との関係と密接に関係する。バラ−ド、抒情的モノディ、アリアの間のジャンルの区別を明確にしたいのであれば、この関係が無視されてはならない。バラ−ドやロマンツェは歌われた物語であり、それ特有の提示法は、聴衆への作者の間接的な語りかけである。バラ−ド歌手は朗唱者ないしラプソ−デであり、聴き手に囲まれて物語を朗読する。作曲家が歌手と分離しているので、ジャンルを支える理念、つまり聴衆と対面する語り手が作者だというイメ−ジが変形するが、このイメ−ジが放棄されるわけではない。

 バラ−ドでは作曲家と歌手の分離がジャンルにとって外面的(ヘ−ゲルの言語によれば)だが、バラ−ドの場合と違って、アリアでは作曲家が聴衆から隠されている。オペラやオラトリオの上演で作曲家が語っているとイメ−ジするのは、美的に不当である。アリアはいつでも、−そしてそのことで歌われる物語とも抒情モノディとも区別されるのだが−状況から生まれる「役割詩」である。(演奏会アリアは独唱カンタ−タや歌われる一人芝居の短縮形式であり、場面はないが、その輪郭を導入レチタティ−ヴォが暗示しており、場面の欠落が想像で補完されねばならない。)

 ハインリヒ・クリストフ・コッホは、リ−トとアリアを「感情を発話する」度合いで区別した。アリアでは感覚が「心を完全に絞りだす」ところまで描写され、リ−トでは「テクストに含まれた感覚の表出が、単純だが適切な手段で達成され」ねばならない。区別は的確だが、「提示法」への配慮が不十分である。リ−トないし抒情モノディでは、一方で、アリアとは反対に作者自身が語る。ただしここでの作者は経験的人格ではなく、「抒情的自我」と呼ばれる知的人格である。そして他方で、リ−トは自分自身に向かう外化であり、歌われる物語のように聴衆へ向かわない。外化は、いわば聴衆から傍聴されているにすぎない。聴き手はバラ−ドにおいて本質的だが、リ−トにおいて偶然的である。


翻訳目次へ トップページへ
tsiraisi@osk3.3web.ne.jp