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一九世紀の音楽ジャンルの諸問題

カ−ル・ダ−ルハウス


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 音楽ジャンルは制度に支えられており、制度の構造と性格が音楽に刻印され、逆に制度の構造と性格が音楽に規定されたり、読み込まれたりしている。「制度、組織、機能はいつもほとんど解きがたく結びついている。それらは相互に作用しており、まさにこうした相互作用が、音楽作品を鋳造している。」(レオ・シュラ−デ)一六世紀のマドリガルは領主のムシカ・ダ・カメラ(ニコラ・ヴィチェンティノが記述したような)なしには考えられず、一八世紀前半のプロテスタントの教会カンタ−タは、ラテン学校合唱なしには考えられない。

 一九世紀の特徴的な制度はオペラとならんで公開演奏会であり、それは報酬契約と興業主によって支えられた。一般に開かれているという社会的モメントに対応する美的裏面としてレパ−トリ−が多様であり、ポトプリがプログラム構成の原理へ高められた。管弦楽作品と合唱作品、独唱歌曲ナンバ−と器楽独奏協奏曲、チクルス作品とヴィルトゥオ−ソ的もしくは感傷的な単独曲、これらがバランスを保っている。導入−独奏協奏曲−交響曲という図式が真面目な演奏会の理想型になったのは、ようやく二〇世紀になってからである。

 演奏会のメルクマ−ルは、社会的にも美的にも、どれも新しくない。演奏会公開の始まりは一八二〇年代、三〇年代へ遡り、ミサ以外のあらゆるジャンルの曲を楽しむ多彩な混合プログラムは、既に一六世紀の市民サ−クルの「室内楽」に存在した。だがようやく一九世紀になってから、公開演奏会が支配的で様式を刻印する音楽制度になり、あらゆるジャンルが、断片やオペラまで組み入れられ、刻印し直されたり、影響を受けたりした。公開演奏会は独自の特殊ジャンルをほとんど基礎づけなかったが、既存のジャンルの発展に深い影響を与えた。

 ただし、音楽の公開性概念の意味はひとつではない。公開性を、演奏会とオペラ上演が一般に開かれたことと同等視するのは平板すぎる。第一に、オペラの平土間へ集められた公衆が上演の受け手なのか、単なる付属物として桟敷の観客から際立たせられるのか区別されねばならない。「民衆」は「そこにいる」ことを許されたが、招待されたわけではない。これは一七、一八世紀のオペラでも、宮廷祝典や行進におけるのとほとんど同じであり、彼らは受け入れられると同時に排除されていた。彼らは「覗き見る俗衆」として受け入れられ、観客の群れとして事件の周囲へ集まっていたが、本来の出来事からは排除されていた。出来事の意味が代表的具現であり、代表的具現を通じて宮廷社会が自らを示し、祝い、確認したというかぎりでは。

 第二に、一九、二〇世紀の意味での音楽の公開性を形成するにあたって、音楽への公的関心を音楽ジャ−ナリズムが支えたことは、演奏会とオペラ上演が一般へ開かれたことに劣らず重要である。音楽の教養が強調的芸術概念(一九世紀に音楽の美的要請はそれにもとづいていた)を普及させる社会的前提だが、それは音楽経験だけによるのでなく、読書によっても伝達された。批評では、すくなくとも理念的に、公論が聴き手の散発的な印象と反省を取り纏めていた。そして俗物的な事情通ではなく、「人間一般の芸術関心」(ヘ−ゲル)が批評家の判断の出発点となる審級だったので、彼は公衆の代弁者であると同時に教育者だと感じていた。

 第三に、一九世紀初頭に音楽の公開性概念や私的音楽と公的音楽の対比と結びついたイメ−ジが変化した。一七、一八世紀の私的音楽である領主のムシカ・ダ・カメラは、一方で娯楽(「食卓の音楽」)であり、他方で、マドリガルから弦楽四重奏まで、通に規定された芸術(「秘蔵の音楽 musica reservata」、あるいは音楽の「貴重品」)であった。これに対して、公的で一般に開かれた音楽は単純になる傾向があったが、公衆の判断にさらされたわけではない。オペラの平土間は、桟敷に対して美的にも共同体的にも下位審級であった。そして教会音楽の目的は、第一義的に神を讃えることであり、それは音楽の秘教性を排除せず、ようやく二次的に参列者に慈悲をかけた。

 一九世紀初頭になっても、室内楽はまだ私的芸術であった。そしてそのことが、作曲上の至高性を正当化していたように思われる。エルンスト・ル−トヴィヒ・ゲルバ−は、一八一五年に『一般音楽新聞』でモ−ツァルトのイ長調四重奏曲KV四六四の終楽章冒頭を事情通のための音楽の典型として引用した。「やはりこうした音楽は、音楽家にしかわからない。だが音楽家の耳は、絶えざる研究と実践である種擦り切れて、無感覚になってしまった。……この終楽章の高名な作者は全管弦楽の公開使用のためではなく、四重奏で音楽家と教養ある音楽の友の私的娯楽のために書いたのだから、この芸術作品は、単に非の打ち所のないだけでなく、素人の課題としても推奨される。」このようにゲルバ−は室内楽(その特徴的ジャンルは弦楽四重奏であった)を職業音楽家と通の私的サ−クルの音楽と考えたのだが、その後数年で、端的に言うと、音楽の公開性と私人性という概念の含意が逆転した。私的なものであった要求の高い音楽が公開演奏会へ移行し、逆に私的音楽は市民の家庭音楽、単純で通俗的な音楽へ傾斜した。ベ−ト−ヴェンは、弦楽四重奏で逆説的な立場へ追い込まれた。彼は一方で、私的性格を前提する室内楽の秘教的伝統を極端に推し進め、他方で、公開演奏会へ移行するような室内楽の発展を読み込んだ。

 こうした変化を室内楽のプロ化と呼ぶのは不正確であろう。一七、一八世紀でも、室内楽は−貴族ディレッタントが参加したとはいえ−本質的に職業音楽家に支えられていた。通の仕事は判断であり、実演ではなかった。そして一八〇〇年前後の室内楽は、ゲルバ−が表現したように、「私的娯楽」だが、しかし「音楽家と教養ある芸術の友」のための娯楽であった。室内楽が一九世紀初頭に公的で専門的になったのは、家庭音楽として演奏できないほど難しくなったからではない。そう考えるのは、的外れだし時代錯誤的である。こうしたイメ−ジには、私的なものを単純でディレッタントに開かれたものと同一化し、逆に公的なものを難しく専門的なものと同一化することが前提になっている。だが、この前提は一八〇〇年前後の事情と一致しない。室内楽は、既に述べたように、とっくの昔から第一義的に専門的であった。そして技術的、美的に難しくなったからではなく、それにもかかわらず、室内楽が公的になったのである。理由のひとつは貴族の私的楽団が一九世紀初頭に解体したからであり、もうひとつは、市民の教養の欲求に答えたからである。市民は交響曲(それは既に一八世紀に公開演奏会へ移転した)から室内楽へ進出した。室内楽は、一七、一八世紀には、一方で私的であり、他方で職業音楽家に規定されていたが、一九世紀になって、職業音楽家の公的室内楽とディレッタントの私的家庭音楽へ分裂した。

 一九世紀には、公的音楽と私的音楽を媒介する中間形式があった。そしてこれらの中間段階の研究は推奨されるべきであろう。秘教的に鋳造された合唱クラブと音楽サロンといった、エポックを特徴づけるいくつかの制度が、こうした中間段階へ属していたのだから。ツェルタ−のベルリン・ジングアカデミ−とティボ−のハイデルベルグ・合唱クラブは謙虚なサ−クルであり、古い合唱音楽の研究は、公開演奏より、むしろ会員の教育を目指していた。招待客や公衆も聴くことができたが、外へ作用する演奏会が第一目的ではなかった。これはいわば音楽の読書会であり、演奏会組織ではなかったか、もしくは二次的にそうであったにすぎなかった(境界は流動的であるにせよ)。作品が公開へ向いているかということについて、バッハの《マタイ受難曲》の場合のように、しばしば意見が分かれた。ツェルタ−は、メンデルスゾ−ンに反対して、この作品が事情通にしか理解できないと確信していた。

 貴族サロン(ショパンがイギリスから一八四八年六月二日の手紙で書いたような)における音楽は、別の意味で半公開であった。娯楽と代表的具現が相互乗り入れしていた。しかも貴族サロンを模倣しつつそれと対抗した市民サロンは、第一義的に外へ向けた共同体の提示に利用された。ヴィルヘルム・ハインリヒ・リ−ルは書いている。「これに対して裕福な市民家庭で最も重要な空間は、まったく新しいやり方で作られている。サロンである。……だが、サロンは≪家庭≫で利用されるだけでなく、≪共同体≫でも利用される。そしてこのようなサロンの共同体は、家庭の友人の閉ざされたサ−クルとはかなり違った意味をもっている。」ただし、サロン音楽として印刷された音楽は、タイトルが示す目的を果たしただけはない。共同体の現実としてはそこから排除されていた者が、そこからサロンの音楽の余韻を受け取った。サロン音楽は家庭音楽として再生産された。

 ヒエラルキ−として提示される音楽ジャンルの体系は社会体系の表現だが、社会学的解読が思うほど単純で、直接的な仕分けではない。粗雑にスケッチすると、ピアノとピアノ音楽が弦楽四重奏より地位が低く、男性合唱は混声合唱より地位が低く、吹奏楽は管弦楽より地位が低い。そして編成類型やジャンルのランク分けは社会的差異を含むが、しかしその単純な模像ではない。サロン音楽は美的カテゴリ−であるとともに社会的カテゴリ−だが、意味がひとつではない。一方で、音楽共同体意識におけるサロン音楽の地位が交替し、他方で、サロン音楽が没落した一九世紀後半になっても、ブラ−ムスの弦楽四重奏を成功させた公衆がサロン音楽を弾き、聴くことを軽蔑したのか、はっきりしない。音楽ジャンルのヒエラルキ−とともに、音楽を需要し許容する機能と場の区別が重要である。趣味と呼ばれる音楽作法は、通俗音楽こそ唯一適切だとしばしば決断できた。誰もが軍隊行進曲や年の市の音楽から立ち去り難かった。それらは一九世紀の音楽の日常語であり、音楽の普遍性という理念(一八世紀の博愛主義者が夢見たような)を、擦り切れた形で実現していた。

 社会階層を音楽社会学的に特徴づけようとするのであれば、おそらく否定的な規定のほうが、適切かつ関与的であろう。特徴的なのは、どの音楽ジャンルを愛好したかではなく、どのジャンルを排除したかである。

 だが、音楽社会学的仕分け、とりわけ実証的なそれが不確実だからといって、音楽ジャンルの社会的性格、音楽ジャンルが掲げる美的・社会的要請を話題にすることが余分で無根拠な思弁だというわけではない。たとえばピアノ音楽は、既に述べたように一九世紀に没落の危機に瀕していた。重要な作品が欠けているのではない。だが、ソナタが古び、要求の高いピアノ音楽がエチュ−ト、性格曲、抒情的ピアノ曲などの周縁的、ないし低級なジャンルの高級化によって成立したことは象徴的である。高級化は、いつでも通俗化へ逆転し得た。弦楽四重奏のジャンルとしての地位がほとんど個々の作品の成否と無関係に、先験的に確定していたのに対して、ピアノ音楽はジャンルとして、シュ−マンの言い方を借りれば単なる中道、ヴィルトゥオ−ゾ的もしくは感傷的なピアノ音楽へ傾いた。ピアノ音楽では、弦楽四重奏ではありえなかったような中級ないし低級な音楽の大量生産のなかから、個々の作品が突出した。ジャンル規範の要求が高かったのではなく、高い要求は例外であった。

 男性合唱は吹奏楽の器楽による対案だと思われるが、一九世紀には第一義的に社会的事実であり、ようやく二次的に音楽史的事実であった。フィリップ・シュピッタは、男性合唱の弁護を音楽的にはなく、むしろ愛国的に基礎づけた。「忘れてならないのは、それを軽侮する者たちが大抵音楽家を自認しており、彼らに真面目さや高潔な努力が欠けてはいないことである。……リ−トの作用が部分的に芸術外の別の条件と結びついており、依然として多くの者から純粋な芸術の冒涜とみなされていることは、十分認めるべきであろう。だが、こうした見方に対して、同等に正当な別の見方を突きつけてもいいのではないだろうか。そこでの理想は、国のあらゆる力の調和的発展なのである。」政治的で愛国的な動機は、世紀半ばを越えて続きはしなかったが、教育と博愛という一八世紀以来の傾向(その代表はハンス・ゲオルグ・ネ−ゲリ)や、特権的文化を征服しようとする教養への意欲と交差していた。音楽形象は単純であり、そのことが男性合唱を他に例がないほど大衆化したが、音楽外的動機との絡みは複雑である。

 男性合唱をジングアカデミ−(つまり混声合唱)と隔てる社会的距離は厳格で解消できなかった。男性合唱は音楽祭の混声合唱(その代表ジャンルはオラトリオ)と対立し、それを補完したわけではない。そしてティボ−とネ−ゲリの諍いは偶然ではない。ティボ−は地下へ潜り、ネ−ゲリは最大の公開性を目指した。ティボ−の秘教的な合唱クラブは「音芸術の純粋性」を古いパレストリ−ナやヘンデルの音楽へ逆行することで再生しようと試みたが、ネ−ゲリは民主的なリ−トサ−クルの類型で対抗した。しかもそれは、産業社会の前提の音楽教育的帰結であった。ティボ−は近代と大衆に尻込みし、ネ−ゲリはそれをこれ見よがしにひけらかした。

 社会的細分化は美的細分化の前提であると同時に結果でもあり、音楽ジャンルを互いに区別するモメントのひとつである。そして、一八三〇年前後の「芸術時代の終焉」以来、音楽ジャンルがより鋭く刻印されると同時にその関与性を失ったという主張は、矛盾しているように思えるかもしれない。だが、逆説は解きほぐせる。

 低級な音楽、つまり美的、社会的な地位と大衆性が反比例している音楽は、編曲で食いつないでいる。生産は、ほとんど応用に置き換えられている。ジャンルの貯えは豊かだが、違いはどうでもいい。「パリ編成」の曲というジャンルが音楽の印象を規定するのでなく、編成そのものがすべてであり、そこに娯楽音楽の不毛性がある。

 他方で、低級な音楽が−歪んだ形においてであれ−ジャンルから個々の作品へ重心を移すと、ジャンルの意味が少なくなる。ある娯楽音楽が、ロックとして登録されずに、それでも「時を越えた流行」として数十年生き延びることがある。この曲は個別的作品として存続しており、ジャンルの単なる代表ではない。この曲は、交換できたのに交換されていない。

 つまり下流音楽が上流音楽へ昇格し、そこではジャンル性格が、いわば二つの規定−ある作品が交響楽、室内楽、娯楽音楽などに属するという一般的な規定と、作品が個として、一回的な単独形象とみなされ、ジャンルの例ではないという特殊な規定−へ引き裂かれている。「交響楽」は、厳密にはジャンルではない。だが、それをジャンルと語る習慣は、単なる概念の誤用ではない。一曲の標題音楽が交響曲演奏会で演奏されるか、それとも娯楽音楽として消費されるか、ということは、演奏会序曲、交響詩、標題交響曲というジャンルの違いより本質的である。ジャンルの規定は、作品が依存する「領域」の規定によって置き換えられたり、背後へ押しやられたりする。美的、社会的に没落した曲について、それが音楽としての同一性を失っていると主張しても誇張ではないだろう。

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 過去のエポックはそれ固有の前提から把握されねばならず、支配的な思考習慣にさらされるべきではない、という通俗化した要請は単純であり、誤解ですらある。もしも分析や解釈の出発点となる前提として、時代が−ヘ−ゲル流に言うと−自分自身を概念でつかもうとした理論をもれなく取り込もうとするのであれば。時代が自分自身を理解しようとする思想とカテゴリ−は、歴史研究の基礎ないし前提であるよりも、むしろその対象である。それを言葉にすることは、それを無視するのと同じくらい疑わしい。

 音楽の理論は、音楽実践の反省であり道具であるとともに、自らを問題史をモデルとして発展させようとする学科であり、理論はこの二つのモメントを明確に分離しない。両者はいつも交差し、絡みあっている。過去の音楽の構造と意味をめぐる理論家の証言を無視したり過小評価するのは問題だが、他方で、代表的証言と周縁的ないし党派的証言、生きた伝統と死んだ伝統を恣意的でなく区別するのは難しい。バラバラにしか伝承されていない考えが代表的でないとはかぎらない。そしてより古い時代に由来する原理、イメ−ジ、問題が、いつも意義をかつてより減じているわけではない。アクチュアルなものは、新しいものと同じではない。

 一九世紀の音楽ジャンル理論が一八世紀から受け継いだ問題のひとつは、ジャンルをいわば「外側から」、それが果たす機能、その基礎になるテクスト、作曲法と形式モデルと編成で規定するという習慣と、ジャンル理論を美的に基礎づけて、アフェクト論やそれを一八世紀後半に解消した感情美学から発展させる試みの間の内的矛盾であった。

 ヨハン・マテゾンが一七五九年に『完全なる楽長』で草案したジャンル理論は異質な断片から成り立ち、それらは互いに媒介されているというより、寄せ集められている。百科全書的なものへの傾斜が体系への傾斜より目立つ。教会様式、劇場様式、室内様式への分割は、一六、一七世紀にニコラ・ヴィンチェンティノとマルコ・サッキによって発展させられたが、こうした分割が、修辞学と詩学に由来する高い書法、中程の書法、低い書法の区別と交差する。ジャンルの機能的な規定が様式的な規定と並立する。他方でマテゾンは、基準を積み重ねる傾向にあって、テクストの形式や作曲技術にも配慮した。彼はマドリガルでなによりも文学形式を考えるし、文学形式はアリアやカヴァタでも、アリオ−ソやレチタティ−ヴォでも基礎になり得る。彼は、二重唱と合唱を作曲法、ホモフォニ−曲、模倣曲、対話曲へ細分化する。

 だが、マテゾンの理論で新しいのは、ジャンルをそこに刻印されたアフェクトで特徴づける試みである。「セレナ−タないし夜の音楽」について次のように書かれている。その「主たる特性は繊細さ、la tendresse であらねばならない。」アリア、アリオ−ソ、カヴァレッタは、アフェクト、理性、「鋭敏な観察」が参与する度合いで区別される。なるほど「情念……はアリオ−ソやカヴァタから排除されない。それらはこの両曲においてのみ、他とは違って例外とならないのである。」

 書法、対象、アフェクトの間に関連があるというイメ−ジは、詩学の伝統(様式の高低の教説はそこに由来する)にあらかじめ登録済みである。だが、マテゾンではこのイメ−ジが、もともと芸術技術の様式理論と異質であったはずの心理へ転じている。「悔恨」と「懇願」は「低い書法」で表現されねばならないが、低い様式は、もともと簡潔で手段の乏しい様式であり、歯軋りや卑屈さに適さない。このように様式理論がアフェクト論へ依存してしまい、こうした定式化のなかで既に感情美学への移行が示唆されているわけだが、他方で、器楽ジャンルを秩序づけるアフェクトの記述では、様式の細分化が高書法、中程の書法、低い書法を素描している。フランス序曲の性格は「高貴」であり、交響曲は、協奏曲と比べると、その手段が「中庸」だが、低級な前奏より「上品」である。段階づけが、美的モメントと社会的モメントを合流させる様式理論のモデルへ依存しているのは明らかである。

 マテゾンは音楽ジャンルの機能的な規定、教会様式、劇場様式、室内様式の仕分けを特徴的なアフェクトの確定と解きがたく絡み合わせ矛盾を感じなかったわけだが、半世紀後の一七九九年にエルンスト・ル−トヴィヒ・ゲルバ−は、感情美学に依拠して、教会音楽、室内楽、劇場音楽の分割を、外面的で古いと批判した。こうした分割には「我々の先祖たちの古い罪が付着している。それは事の自然そのものではなく、音楽が行なわれる場所にもとづいているからである。我々は、場所が変わると感情や情念、音と楽器を変えるのだろうか? 作曲家への場所の影響は、ポエジ−が彼に指示する感覚や情念の歩みの影響よりも大きいのだろうか?」もはやジャンルの目的ではなく、感情の性格が「事の自然」とみなされた。唯一決定的なのは、ゲルバ−の考えでは、作品が表現し、喚起する感覚であり、作品が果たす礼拝ないし世俗の機能ではない。彼は、機能をもはや場所の規定としかイメ−ジできず、機能音楽を徹底して批判できた。機能音楽は、自律的で自己完結した作品という理念と矛盾するので、疑惑の目を向けられた。感情美学は、音楽ジャンルや音楽作品の機能規定を空洞化したり、二次的モメントへ落としめて、芸術のための芸術という理論への移行を媒介した。

 感情美学は声楽の理論として成立し、ようやく二次的に器楽へ転用された。音楽美学は、一八世紀、つまりヴァッケンロ−ダ−とE・T・A・ホフマンまでは、ほとんどすべてオペラ美学であった。そして器楽ジャンルは声楽の対案ないし模倣と把握された。ハンス・クリストフ・コッホは、ソナタを器楽アリア、交響曲を器楽合唱と書いた。他方で、感情美学の前提からジャンル理論を発展させても、理論の名に値する理論、つまり一般と特殊の間、音楽は表出的であらねばならないという一般的要請と個々の作品の特殊的表現性格の間の中間的ないし媒介的な位置を主張できる理論を作るのは難しく、ほとんど不可能であった。ジャンルの美的記述が紋切型ないし空疎になる傾向は、感情表現が細分化されて個別化されたことの裏面である。コッホの『音楽百科事典』ではアリアについて次のように書かれている。アリアという楽曲では、「人物が、仕上げられて完成した歌によって、彼の感覚を心のある程度の充溢あるいは心の完全な注入に至るまで描写するのであり、彼は、歌に提示された内容によって、この状態へ据えられる。」同じ定式はソナタの項目でも繰り返される。「特定の性格を仕上げる楽曲、つまり特定の感覚を表出する楽曲は、いわば感覚神経だけに触れるのではなく、その目的は、表出する感覚を心のある程度の充溢あるいは心のある程度の注入に至るまで描写することである。」ソナタをアリアから区別するのは、「心の注入」の度合いが低いことだけである。

 声楽と器楽のアナロジ−がジャンル理論を感情美学の前提下で基礎づけるとされたが、こうしたアナロジ−は虚しい一般論へ陥っており、他方で、分析の欠如を取り繕おうとする比喩表現は空疎で交換可能であった。ゴットフリ−ト・ヴィルヘルム・フィンクは、コッホと違って交響曲を合唱ではなく、オペラ全体に譬えた。「交響曲を器楽のオペラと呼ぶドイツの考え方はすばらしい。量の作用だけでなく、全体を多くの部分に分けて、それぞれの状況を区別していることも、明確に語られている。」フェルデイナント・ハントは器楽合奏曲を会話と比較して、一六世紀まで遡る言い方を使ったが、この比喩はフ−ガの特徴づけであって、弦楽四重奏のそれには利用されなかった。「こうしてフ−ガはドラマ的な性格を獲得する。すべてはもちろん創作する芸術家だけに由来する。しかし彼は、転調という葛藤において、多数の力(それは多くの人物をも意味する)を描いており、これらの多数の力は相互に作用しあっている。」

 ハントの記述は直接的ないし間接的に、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルやヘ−ゲルのドラマ理論、ドラマは主観的抒情詩と客観的叙事詩を媒介する主観かつ客観だという理論へ依存する。そしてドラマへの依存は偶然ではない。詩学のジャンル理論は一八〇〇年前後に、一方で純粋に吟味された体系から、叙事性、抒情性、ドラマ性という三つの「文学の自然形式」の空疎な教説へ修練し、他方で主観と客観の弁証法から至高の三位一体の思索へ高められていたが、こうした詩学の影響が一九世紀の音楽美学を特徴づけている。ハント以外にも、フィンク、そしてとりわけカ−ル・ケストリン(彼はフリ−ドリヒ・テオド−ル・フィッシャ−の『美学』の音楽の巻の大半を書いた)が、音楽ジャンルの理論の草案において、叙事性、抒情性、ドラマ性という基礎概念へ傾斜した。それらは、叙事詩、抒情詩、ドラマという文学ジャンルと一致させなければ、さらに容易に音楽へ転用できた。しかもジャンル詩学を哲学的に権威づける主観と客観の思弁も、ケストリンと無縁ではなかった。彼は声楽で「純粋に主観的(抒情的)、客観的に主観的(提示的、叙事的、ドラマ的)」を区別した。そしてジャンル理論全体が、空疎な分類概念であるとはいえ、弁証法的カテゴリ−に貫かれている。

 だが、詩学の基礎概念に支えられた音楽美学で明瞭に規定できるジャンルなど、ほとんどひとつもなかった。混合形式は、少なくとも理論では、例外というより通例であった。ケストリンによると、バラ−ドは「叙事的に抒情的」で「同時にドラマ的に抒情的」であり、レチタティ−ヴォは「叙事的」あるいは「純粋に抒情的」あるいは「ドラマ的に抒情的」である。ハントはオラトリオを抒情的にドラマ的と分類する。「オラトリオは抒情的で真面目な、音楽で提示されて所作のないドラマである。……こうして、それ自体では抒情的な音楽が、ドラマ的な領域へ引き入れられる。」フィンクも同じように判断した。「我々がカンタ−タに求めるのは、抒情に支配されつつドラマ的要素も不可欠だということであり、オラトリオでは、後者がさらに優勢でなければならない。」しかも彼は同時に、オラトリオにおける叙事的モメントも意識した。ただしこれは、作品そのものから明示的に生まれるのではなく、聴き手のイメ−ジに保たれるとされている。「聴き手はただの物語を求めるのではなく、歴史的なものの歩み、全体の基礎を、あまり興奮しすぎず、自分勝手な想像力を働かすこともなく保つ。そしてそのためには、オラトリオの物語を彼が知っていなければならない。」反対に、ケストリンは音楽の基礎となる抒情的モメントと並んで、叙事的モメントの方を強調する。「オラトリオが始まるのは、叙事的な音楽がさらに大きな尺度で(たとえばバラ−ドなどよりも)叙事的な音楽へ入り込むときである。」他方で彼は、「叙事的で抒情的な」オラトリオ、「抒情的」オラトリオ、「叙事ドラマ的」オラトリオを区別し、「バッハの受難音楽」について次のように書く。「その基調は抒情的だが、キリストの苦悩の考察は……叙事的レチタティ−ヴォとドラマ的合唱で、叙事的かつドラマ的な描写に広い空間を与えており、オラトリオの三つの形式をひとつにしている。」カテゴリ−を細分化したり混合することは、音楽ジャンルの詩学よりも個々の作品の特徴づけに役立った。機能から解き放たれたジャンルを美的に基礎づける端緒と考えられたものは、概念で精確に把握されるにつれて、一層決定的に、個別を記述する手段なった。


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