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一九世紀の音楽ジャンルの諸問題

カ−ル・ダ−ルハウス


目次
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 音楽のジャンルが互いに孤立して並存したことはない。一九世紀後半の交響曲は、一見自己完結して輪郭のしっかりしたジャンルであり、独自の法則にしたがって内発的に発展したかのようだが、本当は交響詩との関係(依存関係あるいは相互矛盾の関係)なしには理解できない。あるエポックのジャンルは、端的に言うと体系であり、ヒエラルキ−と類似やコントラストによって分節されている。一八世紀のジャンル体系ではディベルティメントが弦楽四重奏より地位が低く、一九世紀の体系では、交響曲と交響詩が機能的に類似するが美的に対立するジャンルであった。そのエポックが自由に使えるジャンルの貯えだけでなく、音楽作品をまとめたり区別する基準やジャンル間の関連の種類と密度も、あるエポックを特徴づける。

 あるジャンルの別のジャンルへの影響を語るだけでは不十分である。ジャンルは体系においてようやく、ジャンルになるのだから。一方でオペラ、他方でカンタ−タを参照しなければ、オラトリオを作曲技法的にも、美的にも規定できない。(一九世紀には、オラトリオはドラマ的オペラと抒情的カンタ−タから区別された叙事的芸術形式であった。)別のジャンルへ依存することは、ジャンルにとって外面的で二次的なこととして接木的に発展へ介入するのではなく、ジャンルを構成的するメルクマ−ルである。そして、ジャンルをそれが属する体系の外で研究することに意味があるのか疑わしい。リストの《グラン教会のための荘厳ミサ》はミサの歴史から理解されるべきではなく、むしろ交響詩と音楽ドラマで発展した作曲技法の前提に支えられている。そしてブラ−ムスのピアノ協奏曲は、初期ピアノソナタより、同時期の交響曲と結びついている。

 ただし、同じ時代に起きたことがすべて同じ「客観精神」に刻印されているという前提は、思弁的であり経験的ではない。音楽ジャンルをまとめる体系がエポックを特徴づけるといっても、他方でジャンルが別の時代に属しているように思えることも否めない。歴史哲学のドグマに惑わされない歴史家は、ジャンル史研究においても、様式発展の分析におけるように、「同時代の非同時代性」の印象を捨てきれない。一九世紀後半のジャンル体系では、交響詩と弦楽四重奏が極端に対立するだけでなく、別の時代のジャンルである。どちらのジャンルが「時代を音でとらえ」ているのか、一義的に決断できないにしても。(「非同時代性」が「反時代性」と混同されてはならない。「非同時代的」なジャンルを「反時代的」だと嫌う者は、関係概念を価値判断へすり替えるだけでなく、「客観精神」−それは「同時代の非同時代性」という命題を断固否定する−を顕在的ないし潜在的に前提している。)

 エポックを特徴づける体系におけるジャンルの位置は聴き手の「期待の地平」に規定され、音楽受容者にとって、作曲家にとってと同じくらい意味がある。ジャンルは、いわばヒエラルキ−を作る。ただし「高い」ジャンルと「低い」ジャンルの区別が美的差異なのか、三様式説の伝統的な教説に支えられているのか、明瞭に判断できない。後者によれば、ジャンルの高低が対象ないし内容の地位に規定され、形式の地位は関係ないか、もしくは二次的である。つまり、なるほどこうした区別も判断を含むが、判断は美的・作曲技法的というより、社会倫理的である。

 ア−ノルト・シェリングは一九一一年に、一九世紀に発展したオラトリオの理論を次の命題にまとめた。曰く、「オラトリオは芸術形式として是非とも崇高のカテゴリ−に属し、それと矛盾するものに耐えられない。喜劇的なものと諧謔的なものは、普通のものや日常的ものとともに、その提示法から排除される。これらはカンタ−タやジングシュピ−ルのものである。」シェリンクの要請の基礎となる様式理論によれば、崇高は「高い」様式の対象と性格特徴である。喜劇的なものと普通のものは「低い」様式に割り当てられる。だが、こうした性格づけは中立的でない。様式の区別は、明らかに美的区別、価値判断へ移行している。カンタ−タとジングシュピ−ルは一九世紀に、日常的なものを対象として受け入れたので、要求の低いジャンルとみなされた。音楽作品の内容を本来の構成的モメント、形式を単なる外枠、「衣装」と把握する美学や芸術理論では、形式の地位を内容と無関係に規定することなど考えられなかったからである。オラトリオが、バラバラになってもなおかつジングシュピ−ルより高く評価されたわけではない。より高いものをつかもうとする美的意図こそ決定的だ、という倫理的に動機づけられた議論は転倒できる。要求が高くなれば、それだけ失敗との落差が広がる。しかし、「高い」様式ないし崇高な様式は、成功しているかぎり、「低い」様式よりも一層完全だ−セザンヌの言葉をパロディすれば、良く描けた聖母は良く描けた泥棒より良い−という確信はしっかり根づいている。そしてとりわけ、「高い」様式ほど難しいというイメ−ジがあり、このイメ−ジが様式理論上の細分化から美的判断への移行を正当化した。音楽の細密画に秀でた作曲家が大きな形式、音楽ドラマやオラトリオ、交響曲を目指したのが一九世紀の基本特徴であり、このエポックの美学は、「高い」様式というカテゴリ−の両義性に特徴づけられる。

 ジャンル理論と美的判断の取り違えは、音楽をめぐる文学におけるだけでなく、音楽そのものにもしばしば混乱をもたらす。これは大きく広がった形式を過剰に高く評価する。特徴的なのは、フェルディナント・ハントが一八四一年に交響曲をドラマに譬えた判断である。「文学が発展とともにドラマを目指すように、器楽の頂点は交響曲である。」一九世紀前半の文学理論では、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレ−ゲルやヘ−ゲルにおいて、ドラマが最上級のジャンル、「頂点」とみなされる。ドラマは主観的抒情詩と客観的叙事詩をの統合、主観と客観の統一だからである。歴史哲学、美学、ジャンル詩学のイメ−ジが相互に浸透する。そして交響曲が主観的で客観的な芸術形式だというハントの解釈は、明らかにドラマ理論のモデルに依存している。「交響曲はソナタと同じように、さまざまな状況を経過する魂の遍歴を性格的に提示する。」それは主観的である。だが、「個々の個別性がその内面の遍歴を表明するのではなく、音詩人は彼の直観を、ドラマ詩人がするのと同じやり方で、客観化せねばならない。」交響的ポリフォニ−は、いわば対話の性格をもっている。

 だが、交響曲が器楽の「頂点」だという美的・歴史哲学的ドグマは、一九世紀の作曲家たちが、シュ−マンやチャイコフスキ−のように本来抒情的なのに大きな交響曲(その典型は《エロイカ》)を目指す野心を抱いた理由である。シュ−マンのハ長調交響曲やチャイコフスキ−の《悲愴》に付着する脅威や強制のモメントは聞き逃しようがない。他方で、メンデルスゾ−ンが《イタリア》や《スコットランド》のような交響曲で《エロイカ》ではなく《田園》に結びつき、展開部を中心とする大きな形式から逃れたとき、そこへ導く感情を、人は美的・歴史的な礼儀と呼ぶことができる。

 ヒエラルキ−におけるジャンルの位置は、理論と批評がそれを固定しようとしているが、揺るぎないものではない。ソナタは一八三〇年前後に、シュ−マンが察知したように危機に陥り、「地方的なもの」、「カント−ル音楽」へ堕落した。逆にエチュ−ドは演奏会曲、性格曲へ昇格した。そして変奏チクルスの美的・作曲技法的要求は、最高と最低の両極、前衛とキッチュへ分裂した。一九世紀に、変奏チクルスほど芸術作品と駄作の違いが際立つジャンルはない。一方で図式的変奏曲の制作はたやすく、他方で、あらゆる個々の変奏に特徴的な刻印を与えつつ全体形式の彫塑性とチクルス全体の内的まとまりを保証するのは難しかった。だからジャンルが秘教性と通俗へ分裂しがちなのは、わからないことではない。注目すべきなのは、一八一八年に出版された『音楽百科事典』でのジェロ−ム・ド・モミニィの判断である。彼は一方でベ−ト−ヴェンと距離を保ち(彼はベ−ト−ヴェンの変奏曲に「独創というより奇妙なもの」をみている)、他方でジャンルが無趣味へ沈むことを嘆いた。「ソナタを作ることができないので、人は幻想曲と変奏曲で代用する。これは、趣味を堕落させるバガテルとともに次に来るものなのだろうか?」つまり一九世紀には、変奏チクルスに二重のジャンル伝統が存在した。そしてメンデルスゾ−ンが作品五四へ与えた「厳粛な変奏曲 variations seriueses」というタイトルは、作品の性格を表示するだけでなく、低級なジャンルである「華麗な変奏曲 variarions brillants」と混同されないための予防線でもあった。変奏曲を芸術作品として提示し、音楽における会話のト−ンやサロンのト−ンへの境界を越えないことは、一八四〇年前後には自明のことではなかった。

 ヒエラルキ−における位置は一見ジャンルの単なる外面的で二次的なメルクマ−ルに思えるが、実は内的メルクマ−ルである。そのエポックに感じられたような別のジャンルとの関係は、ジャンルやそこにまとめられた作品の性格の一部なのだから。そして逆に、ジャンルをはっきり確定できないような作品の美的・作曲技法的要請は、その作品の分類のヒントになる。たとえばブラ−ムスの弦楽六重奏曲作品一八が単純で解放的なのは、彼がジャンル伝統としてディベルティメントを想定していたことの徴だと考えられるわけで、この作品を弦楽四重奏の伝統から理解するのは問題である。(いずれにせよ、六重奏は単なる編成のヴァリアントで、固有のジャンルではない。)

 ハインリヒ・クリストフ・コッホによると、ディベルティメントはソナタ(この概念は弦楽四重奏のような編成類型を含んでいる)より地位の低いジャンルである。「楽曲を足り立たせる様々な楽章は多声的に組み立てられるのでもなく、本来のソナタ類型のように大きく仕上げられてもいない。諸楽章の大部分は特定の性格をもたず、耳を楽しませる単なる音画であり、特定の感覚の表現やその変形を求めない。」そして反対に、「ソナタの部分」については次のように書かれている。ソナタの部分は「こうした緩く並列された個々の旋律部分から成り立ってはならない。そうした諸部分をまとめた、たとえばいわゆるディベルティメントにおけるような全体は、我々の耳に快い単なる音の混合、あるいは規定されない音画を含んでおり、そこから我々の想像力が生み出すことができるものは、その場かぎりの状況で好まれるにすぎない。このようなものではなくて、ソナタの部分は、特定され貫徹された性格を主張するのであれば、完全に相互に関連する旋律部分から成り立たねばならない。旋律部分はそれぞれ非常に感情豊かに発展し、そのことで全体のまとまりと性格を獲得するのであって、イメ−ジないし感覚は脇道へ逸れない。」ディベルティメントの特性である部分の緩い並列や性格の無規定性は、コッホの記述によると中立的なジャンルのメルクマ−ルというより、美的・作曲技法的欠陥である。コッホは「低い」様式(ディベルティメントもそこへ属する)の価値が低いことへの言及を避けているが。様式的なものと美的なものは区別なく浸透しあう。そして、ブラ−ムスもドグマにとらわれ、六重奏曲作品一八の単純さを固有の完全と感じるのではなく、ディベルティメントを萌芽的な弦楽四重奏と考えていたと思えてならない。ちょうど彼がセレナ−デ作品一一と一六を交響的習作、大きな形式の前段階と考えていたように見えるのと同じように。

 一九世紀の音楽ジャンル体系を一八世紀のそれからはっきり区別する特徴のひとつは、声楽と器楽の関係の変更である。器楽の解放は事実として二世紀遡るが、美学での宣誓がようやく一九世紀前半になされた。一八世紀の美学はもっぱらオペラ美学であった。そして一八〇二年、《エロイカ》の二年前になってもまだ、ハインリヒ・クリストフ・コッホの主張−歌われた音楽は器楽の手本であり、歴史的のみならず美学的にも(事の自然として)そうである−が疑いなく支配的な考えであった。器楽は、作曲技法においてもはや器楽に依存せず、しかもその反対であったが、美学では声楽に依存しつづけた。美学は、「語る」ことのない音楽は空疎な響きであり、芸術でなく「機械」だ、というドグマから出発した。人は、器楽の意味を声楽との類似と違った風に把握することができなかった。コッホは書いている。「おそよ器楽は歌の模倣であり、とりわけ協奏曲は充実した伴奏をともなう独唱歌の模倣、言い換えればアリアの模倣である。だから、アリアの目的は常に協奏曲の目的をも規定する。協奏曲奏者は、特定の感覚を個別的な感じ方で表現すべきである。」「およそ器楽は歌の模倣に他ならないのだから、交響曲は合唱の位置にあり、合唱のように、集団の感覚の表現を目的とする。」器楽の依存性は、一六世紀の作曲技法では明白な事実だったが、一八〇〇年前後の美学では、抽象的な類似に色褪せていた。

 数十年後、一八二六年にハンス・ゲオルク・ネ−ゲリは、器楽が本来の、いわばそれ自体にたどりついた音楽である、という正反対の考えを目立たない挿入文で、まるで言うまでもない常識であり、ざっと思い起せば十分であるかのように(命題として主張したり基礎づける必要がないかのように)示した。「……音芸術に関して−つまりここではいつも器楽のことだが−……」。この注釈は、注目すべきことが自明のこととして提示されているがゆえに、美的意識の、ほとんど考えられないほど深刻な転換の兆しである。

 だが、器楽の解放が一九世紀に支配的になったという仮象は、偶然的で証拠のないことではないが、幻覚である。この誤謬は特徴的である。世俗オラトリオ、ドラマ的カンタ−タ、合唱バラ−ド、合唱讃歌、一九世紀のドキュメントとしてのこうしたジャンルの意義は評価してもしすぎることはないが、二〇世紀に完全に忘れられた。こうしたジャンルに空前絶後の明瞭さで刻印されていたエポックが、振り返ると器楽の時代とみなされている。ベ−ト−ヴェンにもかかわらず、そうではなかったというのに。世俗合唱音楽の大きな形式が一九世紀(一九世紀はそこへ自分の姿を再確認していた)に身分不相応な束の間の名声を誇っていたとすると、それは後世になって、同じくらい身分不相応な死後の冤罪を蒙っている。

 声楽の優位という命題は一九世紀後半にも主張されたが、理由は様々で、しかも対立していた。ワ−グナ−は、交響曲が音楽ドラマへ止揚され古びたと確信するが、ゲルヴィヌスは、器楽を越えた進歩へ器楽から後退する復古を対置した。解放された独立器楽は芸術としての音楽の堕落形式であり、復活の期待はかつての声楽へ回帰することにしかない。器楽は「歌音楽の模倣に他ならない」し、抽象であり、「十全な内包と彫塑的生命を与えるのでなく、図式 Schema と幻 Schemen を与えることしかできない」。声楽という本来の音楽の色褪せて空洞化した模象として、器楽は芸術性格を求めたとたんにジレンマに陥る。「器楽は完成の高みにあって自らの性質を思い知る。器楽は模倣ができず、対象がなく、それゆえ内容がなく、破滅を自覚する。こうした欠陥を取り繕う努力は、音楽史における悲喜劇的部分と名づけられるだろう。」標題音楽の実験は、「言えないことを言おうとする試み」に他ならない。だが逆に、自分自身に満足する器楽は無意味な遊びであり、語の強調的な意味での芸術の名に値しない。そして、音楽美学上では敵対したワ−グナ−と同じく、ゲルヴィヌスも次のように考えている。器楽において作曲技術の進歩は可能だが、そのことでこのジャンルが精神を置き去りにしたことが一層明白になる。このイメ−ジは、芸術の終焉というヘ−ゲルの宣告を想起させる。ヘ−ゲルも、一方で芸術が外面的にさらに発展すること(いわば内的な死を越えた影の存在)を否定しないが、しかし他方で間違いなく確信している。「芸術は、我々にとっての最高度の規定から判断すると、過去のもの」である。

 声楽の優位を基礎づけたり弁護したりする美学と歴史哲学の命題の論争に対応して、一九世紀の音楽の現実で、声楽の様式は分裂し、極端なものへの乖離した。「音芸術の純化」のために復興し模倣された古い音楽は声楽であった。だが、一九世紀の新音楽、「未来の音楽」も声楽であった。「未来の音楽」の器楽ヴァリアントである交響詩は音楽ドラマの陰にあり、器楽の終焉というワ−グナ−の理論によって、その美的存在権を脅かされていたからである。声楽の復古的ジャンルは進歩的ジャンルとまったく分離していた。

 声楽では、自己否定へ突き進むほどの歴史主義が、器楽では考えられないほど実践された。古代様式がモテット作曲を広く支配した。しかもエドゥアルト・グレルにおけるだけでなく、ブラ−ムスにおいても、女声合唱作品五七はチェチリアの手法による様式コピ−とほとんど区別できない。

 他方でワ−グナ−は、一九世紀の新音楽の極限である《トリスタン》の音楽言語が、それを基礎づける言葉なしには理解されないと確信していた。器楽への転用はナンセンスである。進歩と歴史主義は、どちらも第一義的に声楽で起こる傾向にあった。

 声楽が両極へ分離したということは、ジャンルを規定するモメントである機能とテクストが一九世紀には乖離し、同じ方向へ作用しなかったということである。機能と結びついたモテットや宗教カンタ−タのようなジャンルでは、復古的傾向が有力であった。レ−ヴェのようにバラ−ドでは新しいものを恥じなかった作曲家が、のちにオラトリオ《祝祭の時》にまとめられた教会カンタ−タでは保守的であった。

 逆に、テクストが個別的な文学でありジャンルの例と把握されなかった世紀にあって、テクストとの結びつきは表出へ傾いた。つまり、音楽表現が慣例や固定からの逸脱に固執したので、いつも新しいものを目指すことは、テクストの提示であることで弁護された。一八四一年にフリ−ドリヒ・ハントは、音楽ドラマのシェ−ナのようなジャンルを固有の種と認めはしなかったが、アリアの特殊形式として容認した。またリ−トと区別される抒情モノディでは、形式伝統を無視することができた。形式が第一義的にジャンルを規定する器楽では、それは考えられないことだったのだが。テクストとの結びつきによって、新しく未知のものが基礎づけられ、正当化された。

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 あるエポックに並立する音楽ジャンルは、その年齢やそれが由来する様式伝統におけるだけでなく、公的な意識において占める地位によっても区別される。音楽ジャンルは、いわば多様な階層へ属している。いくつかは支配的様式(常にそれが支配者の様式であるわけではないが)の担い手として現れ、他のいくつかは陰にある。たとえば古典では、粗雑に一般化すると、オペラと交響曲以外に弦楽四重奏が決定的であり、反対にカンタ−タとリ−トが、豊かな生産にもかかわらず、ほとんど非関与的である。

 ジャンルの評価、何が中心的で何が周縁的かという決断では、美的モメントと共同体的モメントが密接に絡んでいる。だが、美的判断が共同体的に基礎づけられるのか、逆に共同体的判断が美的に基礎づけられるのか、一般的かつドグマ的に確定するのは意味がない。一八世紀後半における弦楽四重奏の特権は第一義的に美的・作曲技法的に動機づけられ、リ−トの過小評価は共同体的に動機づけられていた。

 このように、あるエポックのジャンル体系は、それが自由に使える貯えによるだけでなく、ジャンルを組み込みむ階級秩序(個々の作品もそこからほとんど逃れることのできない)によっても特徴づけられるわけだが、逆に体系の交替は、かなりの部分で階層の組み替えと把握できる。支配的な様式と対抗して新しいもの、ないし新しく見えるものは、しばしば低く評価されたジャンルと結びついており、それを変形するが、その実体を食い尽くすことはない。十九世紀の特徴的ジャンルであるリ−ト、抒情的ピアノ曲、交響詩は、二次的な音楽ないし低級な音楽を高級化することで、シュ−ベルトとリストにおけるようなものになった。抒情的ピアノ曲というジャンルが新しかったのではなく、それと結びつけられた美的判断、どの作曲技法が適切かということに関する美的判断が新しかった。

 他方で、それまで支配的であったジャンルは、美的・共同体的関与性を失っても、まったく解体されたのではなく、むしろ背後へ押しやられた。そして後世に復興される可能性は排除されない。交響詩は、十九世紀において、それを美的囚われとみなす敵対者でも否定できないほどの地位を占めたジャンルだったが、二十世紀には、音楽の地下室へ押しこめられた。交響詩の芸術性格は損なわれたが、その存在は傷つけられなかった。

 リ−トがシュ−ベルトと後期のベ−ト−ヴェン(発展への影響はなかったが)の前からジャンルであったというのは誇張であり、美的評価と大衆性は反比例の関係にあった。ハイドンとモ−ツァルトのリ−トは社交辞令 Parerga、機会作曲であり、仲間内の gesellig 目的に由来し、それに規定された。それらを古典的芸術概念の意味で考察すると、その美的要請を見誤ることになるだろう。

 ベ−ト−ヴェンがリ−ト作曲では、器楽と違って、一八〇〇年前後にもまだ慣習の枠内にとどまったことを、彼が何よりも器楽作曲家になりたかったことの証拠だと説明するのは不十分である。リ−トというジャンルについての支配的な考えの影響が、もうひとつのモメントであった。リ−トは一八世紀に、一九世紀におけるのと違って、抒情的告白ないしパトスを要求されたのでなく、「役割詩」として提示されており、作曲家は一定数の様式や態度から、その役割を選択した。テクストと機会に適切な「ト−ン」を選ぶことが評価された。語るリ−トはフランスのロマンツェ、抒情的なリ−トはイタリアオペラのカヴァティ−ナ、仲間内のリ−トはドイツのジングシュピ−ル、宗教的なリ−トはコラ−ルと結びつけられた。

 シュ−ベルトによってようやく、リ−トが語の強調的な意味での芸術作品になった。ベ−ト−ヴェンによる抒情的ピアノ曲とバガテル、ショパンとリストによるエチュ−ドも同様である。そしてシュ−ベルトが作品一と二として出版したのが《魔王》と《糸を紡ぐグレ−トヒェン》というリ−トだったのは、彼がリ−トのジャンルとしての新しい美的要請を意識し、それを記録しようとしたことの徴である。同時代人にも同じように感じられた。一八二二年に『ウィ−ン芸術新聞』は書いている。「シュ−ベルトのリ−トは、議論の余地のない長所をもって天才的傑作へ高まっており、没落した趣味を再び救済することに役立つ。」リ−トを「傑作」として語ることなど、一八世紀にはほとんど考えられないことであった。

 一九世紀の抒情的ピアノ曲はリ−トないし抒情モノディの器楽による対案だが、ソナタの秘教性と変奏チクルスの会話のト−ン(ギャラント様式の堕落形式)の間に抜け道を探すことから成立した。ヴェンツェル・ヨハン・トマシェクは一八四六年に出版された自伝で、一八一〇年前後の時代について書いている。「既にかなり前から、ピアノのためのソナタや管弦楽のための交響曲が信じられないほど等閑になっていた。無数の変奏曲でピアニストはソナタを埋め合わせ、序曲で管弦楽は交響曲を埋め合わせた。こうして時代の趣味が浅薄になりはじめたので、私は文学へ避難所を求めた。文学ジャンルのいくつかが音の領域に根づかないものか、そしてそのことで、ますます狭まりつつあった音の文学を拡張できないか、見極めるためである。」トマシェクによるピアノのためのエクロ−グ、ラプソディ、ディテュランブスの美的要請は一八世紀のピアノ小品である「手遊び Handstuck」や「バガテル」から区別されるが、他方で一八世紀の目に見えないピアノ曲と一九世紀の「ピアノ詩」の間に伝統の関連があるのは否定できない。トマシェクの抒情的ピアノ曲は、新しいジャンルだが、前提のないジャンルではない。このジャンルは、それまで周縁的で低く評価されていたジャンルから成立した。実用音楽であったものが芸術性格を獲得した。

 一八世紀のもうひとつのジャンルである性格曲との区別はさらに難しい。器楽に対象がないことは、模倣美学の支配下で美的意味の欠如とみなされていたのだが、性格曲は、アフェクト、気質、性格を「描く」ことで器楽に内容を与える試みであった−まるで器楽が声楽の影絵であるかのように。カ−ル・フィリップ・エマヌエル・バッハは、ベルリン社交界の婦人たちの肖像を音楽で描き、名指した。《ロット夫人》はメヌエット、《アウグスト夫人》はポロネ−ズ、《スタ−ル夫人》は悲劇的なオペラ場面の器楽による模倣で提示された。

 模倣美学の解体は性格曲から美的存在権を奪ったが、存在権のないまま、性格曲は数十年間生き延びた。性格曲は抒情的ピアノ曲へ解消された。抒情的ピアノ曲は、古代的特徴を気分の提示と結びつけたかぎりにおいて、「芸術時代」の美学と合致した。そこでは外面的なものと内面的なもの、直観された像と主観的感覚が相互一体である。

 一八世紀の性格曲は仲間内の芸術であった。バッハの《スタ−ル夫人》を支えるト−ンはジャンルの限界を越え、しかもおそらく美的・共同体的な礼儀の限界を越えている。これに対して抒情的ピアノ曲は、古代文学ジャンルの地位を要求することで古典的・ロマン的美学の強調的芸術概念を予見した。気晴らしと感傷を織り混ぜた音楽の保守主義が芸術作品になり、忘我の美的瞑想を要求した。

 交響詩は一九世紀を特徴づける標題音楽ジャンルだが、この概念は、交響詩を含むのであれば、狭く考えられてはならない。リストの目標は、アグネス・ストリ−ト=クリンドワ−スへ宛てた一八五〇年一一月一六日の手紙に書かれているように、「音楽を文学芸術と内的に結合することで更新すること」であった。これは、いつも特定の文学作品、『ハムレット』、『理想』、ヘルダ−の『プロメテウス』などが交響詩のモデルであったことを意味しない。《オルフェウス》は標題のない交響詩であり、文学的基礎づけは、オルフェウスが世界文学の形象であることで十分であった。リストは文学伝統から出発したのであって、個々の作品から出発したのではない。ラマルタンの讃歌『レ・プレリュ−ド』は、交響詩が完成したあとからプログラムと説明された。だが、こうした転倒は、伝記的、心理的に面白いかもしれないが、美的には非関与的である。リストが目指した「文学との結合」は、音楽作品と結びついた文学がその手本であることを前提しないのだから。

 交響詩は標題音楽から生まれた。《タッソ−》は、−前形態においてメヌエットを欠いていたが−ゲ−テのドラマの音楽による導入と考えられていた。だが、リストはジャンルの起源をはるかに越えている。トマシェクの証言によると序曲は地位の低いジャンルであり、序曲の台頭を彼は「時代の浅薄な趣味」の兆候とみなしたのだが、リストは交響詩でそれを至高のものへ引き上げた。そしてこうした美的要請こそが、気晴らしで事足れりとする一八世紀の標題音楽との違いである。交響詩は高級化された標題音楽、より高い至高の様式へ昇格した標題音楽である。

 交響曲と比べた場合の当惑も、相当程度に美的に根拠づけられる。二〇世紀には、テクストやイメ−ジの支えを必要とするのが音楽の無教養の徴であり、器楽の意味を落としめるとみなされるが、一九世紀にはちょうど反対に、「純粋な音」(ヘ−ゲルがそう名付けたような)が言語と感じられた。それは、語っていることが感じられたが、その内容を把握したり納得することを拒む。アウグスト・ヴィルヘルム・アンブロスは、一八五六年、つまりリストの最初の六つの交響詩が出版されたのと同じ年に書いている。「もちろんこうした音作品[ベ−ト−ヴェンの交響曲]に比べて、ハイネの言うような≪響きの才能≫をもつ音作品は成熟していると感じられる。こうした音楽は、規定された表現を求めて格闘している。それはまるで囚われた精神のようであり、彼が救済されるのは、彼を現象させたたったひとつの言葉を発言することによってである。彼自身は言葉を発してはならない。だが別の者が黙ってその前に立ち、正しい言葉を懸命に探し求めている。」

 リストでは、標題音楽を基礎づける美的動機が社会的動機と交差していた。音楽、とりわけ器楽は、ベ−ト−ヴェンにもかかわらず、ヘ−ゲルがかつて言及したように、教養人に軽侮され、地位の低い芸術であり、文学に及ばないとみなされていた。ヘ−ゲルは書いている。「作曲家の側ではその作品に特定の意味、イメ−ジと感覚の内包や、それを分節して封じ込めた経過を想定することができる。だが彼は、そうした内包に煩わされることなく、彼の仕事の純粋に音楽的な構造といった建築法的な精神領域と取り組むこともできる。ただしこうした側面へ向かうと、音楽生産から思想と感覚がなくなりやすい。それは教養と心の深い意識を必要としない。」(U 522.)ヘ−ゲルがあからさまな過小評価を語るこの文章は世論の表現であり、こうした世論は、リスト(彼の美学理論では社会的動機が少なからぬ役割を演じている)にとって挑発と感じられた。音楽はそれ自体では不完全であるという傾向を内在するのだから、文学へ移行したり、文学を枠ないし支えとして利用しなければならない、つまり文学こそがより高い芸術形式であり、美的教養の中心的な対象だ、という命題に対して、彼は刺激的なアンチテ−ゼを突きつけた。「音楽は傑作において、次第に文学の傑作を自らのうちへ取り込む。」文学(単なる読み物ではなく、世界文学)は音楽の前提、交響詩で音楽形式へ移行する素材とみなされている。


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