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一九世紀の音楽ジャンルの諸問題

カ−ル・ダ−ルハウス


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 シラ−は1789年5月10日にケルナ−に書いた。「かつて人は芸術作品について、そのジャンルが全く規定的でないときに、勝手にそれを古典性だと決めていました。」ジャンルの純粋性は、シラ−もそこへ、躊躇しつつ固執したわけで、文学理論の最も古く、最も疑わしい基準のひとつである。記述的モメントと規範的モメントは区別なく移行しあっている。作品がそれの属するジャンルの概念を満たしているという確定は、同時に美的判断である。

 ジャンル詩学は伝統と結びついているが、他方で非歴史的である。ジャンルの性格は混じり気なく保たれるべきだとされ、自然に与えられた堅固な規範、すなわち歴史を越えた理想、変化を越えた天賦の審級とみなされている。そして個々の作品についての判断は、規範的な詩学ではジャンルの理想との距離についての判断に他ならない。リ−トが「真性の」リ−トなのか、オラトリオが「真性の」オラトリオなのか、という抜き差しならぬ問いは、既に答えが出る前から保守的な精神に陥っており、ジャンル詩学を擦り切れて通俗化された形で生き延びさせる。

 純粋性は、事の自然を自称するものへ依拠し、リアルな歴史へ依拠しないような美学を特徴づけるカテゴリ−である。そして古典主義が決定的にジャンルの純粋性という基準に固執するとすれば、ロマン的芸術理論は歴史意識に刻印され、それを厳しく糾弾した。フリ−ドリヒ・シュレ−ゲルは「厳格に純粋なあらゆる古典的文学ジャンルは、いまや滑稽である」と書いたが、彼が古びたと挑発的に批判したのは、別のものと置き換えられるべき特定のジャンルではなく、むしろ文学をバラバラに閉じたジャンルへ分解する原理そのものである。

 19世紀前半の音楽美学と音楽ジャ−ナリズムでは、古典主義的ドグマが限りなく支配的であった。ライプチヒの僧侶ヨハン・C・W・ペティスクスは、一八〇七/〇八年に『一般音楽新聞』でジャンルの混合をいわば身振り手振りを交えて強く批判し、しかも批判を印象づけるために神学的な比喩を持ち出した。「様々なジャンルの混合は……罪であり、純粋な才能と関係がない。それは支配的な偽のマンネリ、二枚舌の流行趣味の影響に相違なく、自然なとらわれのなさを既にかなり傷つけてしまった。」語彙が特徴的である。純粋性と二枚舌あるいは罪、様式ないし純粋な才能とマンネリ、自然と流行、これらが対置される。そしてあたかも、美的要請が暗黙のうちに倫理的要請であるかのように思われる。「次のように告白することだけが、私に許されている。私はこれらのジャンルを神聖なものとして受けとめており、ジャンルの混乱を、芸術の成果とも天才の証とも認めることができない。」

 ハインリヒ・クリストフ・コッホは、事典執筆者としての距離と中立を保った。本来の二重唱は対話的だが、非本来的でホモフォニ−的な二重唱が独白、つまり別のジャンルへ移行していることが拒絶されるべきではない。「このような二声楽曲のジャンルで芸術の本来の最終目的が問題なく達成されるわけではないので、本来の二重唱の概念と完全には一致しないからといって、理屈にあわないと批判してはならない。」そして「相当数の最近の作曲家は……オペラでも声部を強力に仕上げて、室内の楽曲におけるような困難を楽器に」求めているので、「劇場様式と室内様式の間に境界線を引くこと」は「さらに難しい課題」になったとされるが、このような記述は観察であり、嘆きではない。このように古典の理論家コッホは僭越から遠いが、E・T・A・ホフマンは、フリ−ドリヒ・シュレ−ゲルのロマン的芸術理論と反対に、様式とジャンルの混合に崩壊を嗅ぎとった。「いたるところで同じ表現手段が利用されはじめていることので、ほとんど様式など存在しなくなった。」そして、「ドラマ的オラトリオ」は《メサイア》−それは「オラトリオのなかのオラトリオ」であり、「ドラマ的な筋にまとまって話す特定の人物がいない」−からの逸脱であり、ホフマンはそれを「二流ジャンル」とみなす。ここでは、用語が判断を含意している。また、ユストゥス・ティボ−は「音芸術の純粋性」を復興しようとして、ペティスクスと同じように、『一般音楽新聞』で様式やジャンルの混合を美的・倫理的病理、ないし愚鈍と軽侮した。「これらすべての要素[教会様式、オラトリオ様式、オペラ様式]をひとつにした第四の様式は、……無視してもいいだろう。それは健康な人間の特性を列挙するときに、神経の病を教えるようなものである。」

 カンタ−タとバラ−ドも私生児の嫌疑をかけられたジャンルであった。とらわれのない者が概念でつかむ議論は様々である。だが、ジャンルの純粋さというドグマへ抵触する混合形式として嫌疑をかけられていることは、いつも同じであった。

 マテゾンは、一七五九年に教会カンタ−タを軽侮した。そこでは、レチタティ−ヴォとアリアから成り立つ「本来のカンタ−タ」である独唱カンタ−タと、モテットや教会コンツェルトという「教会曲」が交差しており、「掻き集められた存在」として「カンタ−タの自然」に反する。「カンタ−タをいわゆる正式な教会曲へ数えると、それはあらゆる楽器を編成されるだけでなく、合唱、コラ−ル、フ−ガなどと混合してしまい、そのことでカンタ−タ本来の特性である偉大な部分が失われる。カンタ−タの真の自然はこうしたことに耐えられないので……、これらすべてがアリアとレチタティ−ヴォと入り交じると、混合が快適になり、おかしなことになる。これだけは、書法の主要分類において、固有の安定して特別優れた正式のジャンルではない。これはカンタ−タではなく多くの書法を寄せ集めた存在である。」一〇〇年後に、ゴットフリ−ト・ヴィルヘルム・フィンクは、カンタ−タをやはり「奇妙な混合」、二流ジャンルとみなすが、その理由は、多様で異質な作曲技術原理(レチタティ−ヴォとアリアの「モノディ」風と合唱の「モテット」風)の結合ないし寄せ集めだからではなく、抒情的モメントとドラマ的モメントが侵食しているからである。「芸術時代」の美学は、別の理由によるにしても、一八世紀前半の様式とジャンルの理論におけるのと同じように、カンタ−タをジャンルとして疑っていた。「カンタ−タも抒情的なものとドラマ的なものより劣っている。カンタ−タはこれらを完全に満足させることができないし、最高に魅了したり、深い悲しみを生み出すことができないからである。しかも、上記二つの文学をこの観察したり描写するだけの物語と奇妙に混合すると、それらの長所も失われる。」カンタ−タを詩学の三位一体図式に組み込めないことは、フィンクによると、同時にアフェクト内包の欠陥でもある。美学の多様な要請の間の矛盾、つまり一方の感情作用と他方のジャンルの純粋さのドグマの間の矛盾は、意識に浮上しなかったし、少なくとも否定されなかった。

 ケストリンはカンタ−タを弁護しようとしたが、抒情性、叙事性、ドラマ性の混合が疑わしいという古典主義的先入観を捨てなかった。彼は、前提を否定して原理的に批判するのではなく、カンタ−タが純粋な抒情的ジャンルだと説明することで、因果律的に批判した。「語の正しい意味におけるカンタ−タ、すなわち大きな抒情的声楽作品は、リ−トの高度に普遍的なやり方による再生産であり、人間一般に意味をもつ内容を音楽で仕上げる。内容は、ただの個別感情ではなく、全体感情である。」声部の交替がドラマ的だという考えは、ケストリンによると間違っている。「声部の分割は表現のただの音楽上の手段である。……声部分割そのものに意味はない。各声部がアリア、二重唱などの様々な人物なのではなく、それらはただの声部である。個々の声部が全体となってはじめて、カンタ−タの名に値するものが語られるのである。」カンタ−タは、いわば細分化され、個別モメントへ分割された合唱リ−トである。

 他方で、ケストリンは様式とジャンルの混合の弁護者、音楽美学のフリ−ドリヒ・シュレ−ゲルではなかった。ハントは、抒情性と叙事性やドラマ性の結合がバラ−ドの特徴だと中立的に記述して問題なしと思っていたのだが、ケストリンは、バラ−ドを自己矛盾に満ちていると感じた。古典主義の自己主張は頑強であった。

 ただし、交響曲カンタ−タについては、考えが分かれた。ここでは交響曲とカンタ−タという極端なものが突き合わされており、作品の数は少ないが、これは一九世紀の特筆すべき混合である。モデルと美的設立台帳は第九交響曲だが、この作品は、伝統を基礎づけ、ジャンルに法則を与えたというより、むしろ崇高な例外と感じられた。一方で、交響曲カンタ−タというジャンルでは(もっとも暗黙の例外作品から成り立つのだから、ジャンルではないのだが)、音楽上の敵対者たちが一同に会していた。合唱と管弦楽の交響曲には、メンデルスゾ−ンの《讃歌》も、リストの《ファウスト交響曲》と《ダンテ交響曲》も、またやや距離を置いて、ベルリオ−ズのドラマ的交響曲《ロメオとジュリエット》やドラマ的伝説《ファウストの拷罰》も含まれた。他方で、異質な部分、つまり交響的部分と合唱的部分の合成法はそれぞれ個別的であり、ジャンルの原理に動機づけられてはいなかった。《ファウスト交響曲》にとって、神秘の合唱は付録であった。リストは、ベルリオ−ズの《幻想交響曲》と違って、亡霊騒ぎで終わることに抵抗した。そして《ダンテ交響曲》のマニフィカトは楽園を音楽で描写する。リストはワ−グナ−の判断に惑わされており、とらわれのない状態ではなかった。

 ジャンルの純粋さのドグマへ固執した古典主義者の判断は、音楽作品をジャンルの例としてではなく個別として把握したロマン主義者の判断と真っ向から対立した。モ−リッツ・ハウプトマンは、一八四一年一二月一〇日にフランツ・ハウザ−へ書いたように、メンデルスゾ−ンの《讃歌》を雑種でマニエリスティックだと感じ、シュ−マンはこの作品を「全体の形式」と讃えた。彼が言いたかったのは、「このような目的[音楽祭]にこれほどぴったりなものなど考えられない」ということである。ジャンルの混合を彼は気にしなかった。ジャンルの混合は、彼にとって、破門に値するのでもなければ、フリ−ドリヒ・シュレ−ゲルにとってのような美的プログラムでもなかった。ジャンルの法則ではなく、個々の作品の個性こそが、美的判断の審級であった。純粋さという古典主義的ドグマは、シュ−マンにとって、死であり、拒絶すべきものであった。彼は、ペダンティックに図式を満たすだけの作品を「悪しき古典性」と呼ぶことも躊躇しなかった。

 シュ−マンがグル−プとしての「古典者」を語るとき、彼らは「ただの中道」であり、「ロマン主義者」と区別されており、手本そのものではなく、その模倣者、一面的で俗物的な古典信奉者を意味した。古いものを古典的で手本になると讃えるロマン主義の敵は、自分たちの理解できない新しさを規範の破壊、完全さの崩壊と呪咀した。アウグスト・カ−レルトは、一八四八年に「芸術時代」を回顧して、作曲家を「派閥」へ分類した。彼は「古典者」へモ−ツァルト、フンメル、シュポアを数え、「ロマン主義者」へベ−ト−ヴェン、ウェ−バ−、シュ−マン、ベルリオ−ズ、リストを数えた。

 古典的なものという概念は、一九世紀前半には、一方で古いけれども永続するもののイメ−ジであり、他方で完全な手本のイメ−ジであった。だが、個々の規定メルクマ−ルはしばしば相互に矛盾した。古いものすべてが古典だったわけではなく、古典的なものがすべて古かったわけではなく、端的に言うと、古代にも駄作があるし、現代にも個々の完全な作品があったのは否定できなかった。論争は、具体的な事例について初めて成立した。ある者が古いと言って拒絶したものを、別の者は古典的と讃えて保護した。クリスティアン・フリ−ドリヒ・ミヒァエリスは一八一四年に書いている。「愛好家の多くは、よく見ると尊敬すべき価値のある音芸術を、古い、と冷淡に判断する。そしてこの判断は様々に言い換えられている。それは古びた、面白くない、今となってはもはや意味がない。そしてこうした判断は、しばしば、いわゆる古典的な作品へ下されている。だが古典的な作品は、古さにもかかわらず、通の立場、つまり一面性を越えた崇高な趣味からすると、本質的に古びていないし、決して古びないのである。」「通の立場」から判断するミヒェアリスは歴史意識を前提したわけだが、歴史意識は自己目的ではなく、一面性、狭量、とらわれを制御したり、解消したりすることに利用された。歴史学は予備知識であった。

 他方で、古典者、つまり古典的な作者と考えられたのは、詩学に依拠して、手本となる作者、とりわけ特定のジャンルないしジャンル群の手本作者であり、各ジャンルに適切な様式の作者であった。ティボ−は、古典的なものを「手本」と明確に定義し、教会様式、オラトリオ様式、オペラ様式という三つのジャンル様式を区別しており、先に述べたように、その混合や転用を戒めた。教会様式の古典者はパレストリ−ナ、オラトリオ様式はヘヘンデル、オペラ様式はモ−ツァルトである。ティボ−のカノンは代表的なものであり、ようやく一九世紀後半になってから、しかもためらいがちに、バッハがプロテスタント教会音楽の古典者と是認されるようになった。

 ジャンル伝統は直接的で断絶のない伝承というより、むしろ歴史意識から再構成されたものだったわけだが、こうしたジャンル伝統の違いから、ブラ−ムスの女性合唱作品五七とモテット作品二九の様式の区別が説明されるだろう。作品五七は様式的にパレストリ−ナを思わせ、作品二九はバッハを思わせるのだが、これは、歴史の貯えから勝手にモデルを抜き出した偶然的で恣意的な古代主義ではなく、テクストへ基礎づけられていた。ジャンルの手本作者が一方ではパレストリ−ナ、他方ではバッハであった。

 ティボ−のカノンにはベ−ト−ヴェン、つまり器楽の古典者を補うことができそうに思えるが、ティボ−は器楽を忘れていた。器楽は音芸術の崩壊と感じられたからである。だが、ベ−ト−ヴェンが一九世紀前半に「ロマン主義者」と呼ばれ、「古典者」と呼ばれなかったのは、音楽のジャンル詩学にとって意味のないことではなかった。(そして「ロマン的ベ−ト−ヴェン像」が歪んでいるとしても、それが歴史を作ったという事実は変わらない。)ベ−ト−ヴェンは、グリ−ペンケルルが言うような「ベ−ト−ヴェン主義者」の手本だったが、語の伝統的な意味での手本作者ではなかった。彼を見習うことは、その作品を手本として利用することではなく、それを乗り越えることであった。(ただし、フ−ゴ・ヴォルフの弦楽四重奏曲では、ベ−ト−ヴェンの作品九五の主題と形式の輪郭が明瞭であり、本来反復できないものが反復されている。)手本としての古典的なものという概念は関与性、ないし少なくとも美的正当性を失った。そしてベ−ト−ヴェンが伝統を基礎づけたとしても、それは、逆説的に言うと、独創的なものの伝統あるいは革命的なものの伝統であった。

 一九世紀にも、一七世紀におけるのと同じように、第一作法と第二作法があった。そして伝統の二極分化は、メンデルスゾ−ンが器楽作曲で「進歩的」で「ロマン的」だが、宗教声楽では古代主義的で、ヘンデルとバッハに依拠したことが把握できるようになる。オラトリオでは、交響曲と弦楽四重奏曲におけるよりも古い伝承が支配的であり、それは、独創性と新しさより手本の模倣を求めるような伝統であった。

 古典者がジャンルの手本だというイメ−ジは、一方でロマン的芸術理論に根絶され、他方で、それらを前提から切り離す歴史化の意識に変わった。(ただし歴史化は両義的であった。歴史化は客体化であり、伝統との距離を生んだが、同化でもあり、過去の再構成へも向かうことができた。)当時の認識では、ジャンルの本質が規則の規範の総体と把握されたのではなく、歴史的発展において示される。そこでは、明白で差異化された刻印が希薄で平板な刻印に並んでいたが、特定の作品でジャンルの理念が−ヘンデルの《メサイア》におけるオラトリオのように−実現されたり、その歴史が目標に−その最後においてではなかったにしても−到達する、とは言えなかった。

 手本としての古典的なものという理念は徐々に放棄された。ホルスティヒはまだこの理念に固執したが、混乱して矛盾した。他方で彼は、「あらゆる時代の芸術がその古典者をもつ」ことを受け入れたからである。彼は、あるエポックに固有の手本作者が別のエポックには通用しないという何でもない事実を見落した。「手本とモデルがそのようなものであり続けるのは、長所をひとつ以上の特性によって保っているもの、すなわち謙虚にいくらかの距離を保ち、借り物の輝きへの疑念を自由に語ったものだけである。」

 三〇年後の一八三五年には、あらゆる時代の芸術がその古典者をもつという格言は、ミリティッツによって、古典的と呼ばれた作品は、それが成立したエポックだけのものである、と読み替えられた。「ヨ−ロッパ諸国において精神的な努力が明白で実を結んだ時代は、それぞれが自分たちの立場にとっての古典的作品を伝承した。」古典的なものは永続するのではなく、完成と把握されるべきであり、こうした完成は、そこに純粋に刻印された様式とともに色褪せる。「一六〇〇年から一七四〇年までに作曲されたものは、室内と劇場にとっては−教会音楽ではそれ以前のものが厳格に持続していた−その時代の古典であった。今の我々の考えでは、もはやそのように評価できない。」古典的なものが死ぬという命題は、さしあたり逆説的に思えるが、いずれにしても意味が明瞭ではない。古典的なものを手本、作曲のモデルと考えると、あるエポック様式の手本は別のエポック様式のそれではありえないことになる。だが、古典的な作品が記憶と音楽実践で生き延びたとすると、たとえ模倣されなかったとしても−そしてミリティッツは古典を作曲の手本と考えることを止めているように思われる−、その作品は古典的である。だがら、古典的なものがはかないという考えが意味したのは、以前のエポックから現在へ生き延びた作品が歴史的ドキュメント以上のものではなく、その美的内容、芸術性格が失われたということである。「バッハ、グラウン、ヘンデルの音楽は……古典的だったが、それは彼らの時代とその概念にとってであるにすぎない。人はその適切さを認め、同じように聴くべきである。過去のものを尊敬するだけでは、あとのものを盲目的に不当評価することになり、かえって尊敬を欠いて一面的である。」

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 音楽が第一義的に音楽の外で規定された筋や出来事の部分モメントであったエポックには、ジャンルの研究は、音楽が果たした機能へ向かった。そしてジャンルがしっかり基礎づけられていたことは、一方でそれが個々の作品の性格と構造に刻印されたり、予め書き込まれていたことに示され、他方で、−一見すると最初の規定モメントと矛盾するようだが−異質なものを受け入れても蝕まれないことに示された。対立要因や応用が豊富にあることは、ジャンルが堅固な証しであり、ジャンルが弱体であることを意味しない。そして逆に、ジャンル様式の純粋さへ固執すると、ジャンルが老いる。反省にもとづいて復興することは、ほとんどいつも無駄である。

 自律原理、つまり音楽を音楽の外の前提と目的から解放することは、ジャンルの代わりに個々の作品を個別的で一回的な形象として作り出すことを意味した。しかも、作品がジャンルの刻印を受けおり、ジャンルが本質的でただの空疎なヴェ−ルではなかったとしても、重点はジャンルやその規範ではなく作品にある。作品は、ジャンルの伝統を糧として吸収し、実体として取り込む。端的に言えば、作品がジャンルを実現し生き延びさせる手段なのではなく、ジャンルが作品を形成する手段である。

 しかし、機能音楽と自律音楽という対比は粗雑すぎて細分化が足りず、音楽史の現実を正当に評価できない。第一に、機能と結びついた音楽の優位が突然自律原理に破られたり、完全に止揚されたわけではない。極限の間を中間段階が媒介しており、そこでは、音楽の機能や大きな文脈への依存性と自立した存在と意義への傾向が均衡を保っていた。バランスは絶えず脅かされてはいたが。しかも、こうした移行は音楽史の大部分を満たしているのだから、そもそも中間段階と呼ぶことが疑わしい。一四世紀のモテットや一六世紀のマドリガルも、一八世紀の代表具現的オペラも、機能音楽と自律音楽という単純な二者択一から漏れる。

 第二に、機能音楽の意味は、外部の目的と結びつかない自律的な音楽と分離されたことで、深刻に変容した。使用価値と芸術性格は、従来の音楽ではひとつのことであり、自ずとわかることだったので反省の必要がなかったのだが、一九世紀になって、ロマン的芸術理論が優勢になるとともに切り離されてしまい、対立を解消する試みはどれも無駄であった。自律音楽を純粋芸術と讃え、機能音楽を二次的な応用芸術と見下すような美学では、芸術概念も機能概念も、その意味を変化させる。実用音楽という語につきまとう侮蔑のニュアンスは、機能を果たす音楽が一九世紀前半から甘受してきた美的判定を押しつける。機能を果たす音楽は、欠陥なく作曲されても、低級な芸術とみなされるか、さもなければ芸術の概念から排除された。一七、一八世紀の実用音楽を話題にすることは、概念として機能音楽と自律音楽の分離を前提してしまっているので、時代錯誤的あるいは誤解である。実用音楽は、自律音楽の陰にある機能音楽である。そして一八〇〇年前後に成立した強調的な芸術概念の裏面、もしくは補完的対立物として、これはロマン主義起源のカテゴリ−である。

 美的判断の変化は、低い様式の意味づけの転換へ最も端的に認められる。「低い書法」は、一八世紀のマテゾン、マ−ルプルク、シャイベの様式理論では、音楽の手段と形式の美的に中立的な総概念であった。反対に一九世紀では、作曲家が低い様式と低いジャンルで書くと馬鹿にされる危険があった。彼の才能と卓抜した作曲技術を誰も疑わなかったとしても。ヨハン・シュトラウスは、ブラ−ムスが彼に驚嘆したにもかかわらず白い目で見られたし、オッフェンバックについては言うまでもない。一八世紀のディヴェルティメントは馬鹿にできないジャンルだったが、一九世紀に低い様式に決めることは、もはや音楽技術のただの選択ではなく価値判断を誘発し、美的・共同体的な断念を意味した。ただし、少なくとも世紀の始めには地域的な違いがあった。美的宣言の覇権は、北ドイツにおいて、南ドイツやオ−ストリア、スイスにおけるよりはるかに強力であった。ヨハン・シュトラウスやフリ−ドリヒ・ジルヒァ−、あるいはネ−ゲリのような存在は、ベルリン、ましてやライプチヒでは考えられなかった。

 第三に、機能音楽と自律音楽を峻別するのは歴史と異質な虚構である。媒介と宥和の試みが、一見疑わしく散発的に思えるにしても、両極化以上に一九世紀を特徴づけているからである。ハイドンの《天地創造》、ベ−ト−ヴェンの第九交響曲、メンデルスゾ−ンのオラトリオとワ−グナ−の音楽ドラマ、市民文化が自らの理念を音でとらえたこれらの作品は、機能音楽にも自律音楽にも分類できない。これらの作品は二者択一の彼岸にあり、これらの作品を支えた芸術宗教とともに、信仰と世俗の対立から逃れようとした。

 礼拝音楽は硬直して通俗化していた。ヨハン・クリスティアン・ロ−ベにとって、教会音楽が「文化の一部」であるという見解は、教会音楽は一般に理解できるように非芸術的でなければならない、という結論を含んできた。一八世紀が夢想した「高貴な単純さ」の理念は、馬鹿馬鹿しいものの符丁へ失墜する。「結局、教会的な感情の音楽による表現法は、それを把握し、感じることができるためには、芸術の教養が要求される例のやり方であってはならない。はたして多くの人々が、このような芸術の教養を獲得することができるだろうか?」使用価値と芸術性格は相互矛盾に陥る。

 他方で、音楽は礼拝的ではないが宗教的だという理念は、エポックの美学思考を規定する中心動機であった。シュ−マンがゲ−テの『ファウスト』から作曲する場面を選択するときに宗教的モメントを重視したのは、彼の書いたミサとレクイエムが礼拝を想定していなかったという事実と同じくらい特徴的である。

 ヘ−ゲルが言うような「芸術宗教」は分裂した現象であり、音楽の機能性と自律性の対置を細分化し、しかも混乱させる。芸術作品に美的敬虔が捧げられ、美的敬虔が宗教的敬虔の座を占めて、宗教的敬虔の形式を世俗へ転用したわけだが、これは芸術の自律、それ自身以外の目的から芸術が独立することを前提した。他方で、芸術による宗教的覚醒との境界は明確ではなかった。違いをわからなくする媒介審級は感情であった。ベルリンの神学者マルティン・レ−ベレヒト・デ・ヴィッテが一八一五年に匿名で出版したパンフレット『新しい教会』によると、「芸術と文学」は、「我々の時代の教養人にとって、宗教的感情を喚起する最も効果的な手段である。感情において、信仰は最も直接的に示される。だが、宗教的感情に最も役立つのは芸術である。」しかもヴェッテは、音楽が諸芸術のなかで「最も精神的」だと考えた。芸術宗教と感情宗教、つまり美的敬虔の対象としての芸術と宗教的覚醒の手段としての芸術は、厳格かつ抽象的に考えると対立するのだが、魂の現実においてはいつも相互流入していた。

 もともと宗教的であった作品も感情宗教の領域へ引き込まれた。ゴットフリ−ト・ウェ−バ−は、一八一二年に「教会音楽のほうが、ドイツやイタリアのオペラからのアリアや二重唱よりも演奏会に適している」と考えた。演奏会は、−彼の考えを補うと−美的敬虔へ調律されるべきである。決定的なのは、覚醒される感情であり、それが生じる環境ではない。そして礼拝の式次第は距離を置いたイメ−ジであり、ウェ−バ−にしてみれば環境に他ならない。「あらゆる歌曲は特定の感覚を表現し、描写すべきである。しかし、そうだからといって、外的な環境がこのような感覚と一致することを、歌曲が必要としているだろうか?」想像上の礼拝が現実の礼拝の代理を果たすわけだが、これは、音楽の感情表現の基礎づけや動機づけとして、想像上の劇場状況と何も違わない。「音芸術は世界から切り離されており、そこでの言語は歌である。音芸術は我々を虚構の王国へ引き入れる。音芸術が聴感覚へ説得的に語かけるとき、それは想像力へそれを取り巻く状況を喚起するのである。」神聖な式次第は美的仮象においても有効に作用しており、そのことで逆に、美的仮象が宗教的なものへ高められる。

 音楽に捧げられる美的敬虔と音楽によって覚醒された至福の感情が相互に移行しあうような領域では、音楽ジャンルや音楽様式の区別が混濁し、どうでもよくなる。教会様式、オラトリオ様式、オペラ様式の混合をティボ−は一八二五年に強く批判したわけだが、リストは一八五四年に、様式の混合を宗教的で社会的な熱狂とともに要求した。彼は論文『未来の教会音楽について』で、硬直して通俗化した礼拝音楽に取って代る「人類の音楽」のユ−トピアを草案した。「それは恩寵に満ち、力強く効果的でなければならず、巨大な関連で劇場と教会を一体化すべきであり、ドラマ的である同時に神聖、輝かしく開花すると同時に簡単、祝祭的であると同時に真剣、熱烈であると同時に冷静、嵐であると同時に平安、明白であると同時に内面的でなければならない。」リストが夢想したのような「人類の音楽」の理念は実現しなかったが、ワ−グナ−の「舞台神聖劇」に、リストの予見したものがあるのかもしれない。世紀半ば以後になると、リストはかつて自分が軽蔑していた礼拝用の実用音楽を高級化しようとした。そしてアドルフ・ベルンハルト・マルクスのオラトリオ《モ−ゼス》をめぐる判断のなかで、彼は神聖な機能と美的感情の高揚の境界を曖昧にするのではなく、明確に強調した。「その本性と全然ちがうのに、何故タイトルがオラトリオなのだろうか?……この作品は礼拝ではなく芸術と結びついており、我々の信仰よりも、むしろ想像力へ向かっている。この作品は対象をポエジ−化するが、我々の祈祷に役立たない。この作品は、あらゆる芸術作品と同じように我々の感情を高めるが、敬虔へ高まって現実の祈りへ同調することはない。戒律と信仰、祭壇と司祭がいなければ、あの隔絶された領域へ達することは不可能である。」


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