風かよふ山の若葉に降る雨を眺めてをりぬ病ひ癒えよと 拾ひたるいのちと人のいふなればころびし崖の底を覗くも 谷間には髑髏ひとつしろく光りうすむらさきの靄たなびけり 一匹の百足を捕へ若葉夜の娘とわれは戸惑ひてをり 郭公の啼きたる夜にこの夏のよだか来啼けりたれをくやむや 守宮ゐる夜の窓の下かぎりなくしづかに繭は編まれをりたり 鹿多くなりたる山か夏草のしげれる道に立ちつくすのみ
すでに坪野哲久は、一九八八(昭63)年に亡くなるが、哲久が昭和を代表する歌人であり、合著歌集『新風十人』('40・5)の一人であったことは、よく知られている。しばしば前川佐美雄と併称されてきた。また、プロレタリア歌人として苦闘したことも、かなり知られるが、哲久が島木赤彦の最晩年の弟子であった。そのことは忘れられているのではなかろうか。 一九二五(大14)年の四月、哲久は東洋大学に入るとともに、学友の高井直文に連れられて、当時東京の麹町にあったアララギ発行所を訪ね、赤彦に会って歌評を受けている。それから毎月、赤彦の面会日を待つことになる。いうまでもなく赤彦は、翌二六年の三月に亡くなるわけで、それは満一年にみたないが、この出会いを終生哲久が大事にしていた、そのことを考えてみたい。 ちなみに哲久は「わが日々の断章W」(「短歌」'70・4)のなかで、面会日の赤彦の思い出を執筆している。その一つとして、赤彦が自信をもって自作を示したときの印象を記す。それは二五年の旅行詠の一首。 谷かげに苔むせりける仆れ木を息づき踰ゆる我老いにけり 木曽を歩いた「峡谷の湯」の一連のもので、山道の苔むした倒れ木が、己が身の暗喩となっている。これを読んだ哲久は「大へん心細い気持ちがした。と同時に、作者が何か強いて老を誇張しているようにも思われ、いそいで念頭から忘れ去ろうとしたのであった。思えば、それはぼくが未熟な若輩であったからであって、赤彦の死病はすでに、このころからはらんでいたのである」とし、そのため「あとあとぼくは、赤彦を思うたびにこの一首が心中を去来し、涙を流すことになる」と、その折に理解できなかったことを悔やしんでいた。 さらに哲久は、二六年四月の「恙ありて」を引く。 もろもろの人ら集りてうち臥す我の体を撫で給ひけり 隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり 魂はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り こうした一一首を挙げながら、これらは「傑作」であって、「赤彦の歌は、ぼくが年をとると共に少しずつ解きほぐされていったように思われる。そして今は、大正期最大の歌人の一人であるという結論に達した」ことを述べる。「赤彦は、表現のぎりぎりの場において、大きなたたかいを彼流に成し遂げたのだと思う。われとわが身を削る如く苦吟し、自分の歌を責めぬいたのだ」と認めるに至る。評価の核心は「そうした表現のたたかいを透過して後にうち拓かれた、最晩年の自然の息づかいではなかったか」というものであった。赤彦の他界は四九歳、哲久がこれを執筆したのは六三歳である。 こうした哲久の赤彦への理解は、たんに旧師を追慕するものではなかった。これより先に、戦後一〇年に発表した「現代短歌鑑賞−島木赤彦秀歌」(「短歌」'55・4)が、そのことを如実に示す。たとえば、 わが庭の柿の葉硬くなりにけり土用の風の吹く音きけば 雪降れば山よりくだる小鳥おほし障子のそとに日ねもす聞こゆ こうした自然詠から、一首目について「単純化はさすがに至り得ている」と言い、現在の歌壇は「もっとしゃれた表現でなければ満足できないようになっている。そしてますます歌柄が小さく浅くなり、本質的には通俗の道を辿っている」ことを突く。また、二首目の「ひといきに澄み入ること」の難しさを言い、赤彦に比して「現代の歌はきたいにはね上っている。荒蕪している」ことを警告する。「われわれは両足をもっと大地に密着させ、現実諸相の中核に迫りつつ、生の存在を確認しなければならない」との自己批判を試みていた。 ここで、先の「わが日々の断章W」に戻ろう。 「およそ芸術にとって、鍛錬は不可欠であるとぼくは信じて疑わない。その前提として、創造者そのものにも、鍛錬が加えられなければならない。あくまで創造者として、本物の人間でなければならない。このことは人間の自由や表現の自由と、相反するものではないのだ。人間は人間の自由さの中において、自己鍛錬を加えなければならない。表現の自由もまた、その自由さの中において、表現の鍛錬を実行する……。」 これは、哲久なりに「赤彦の鍛錬道」を受容してきた自負をあらわし、哲久を理解する批評軸ともなろうか。 ますます恣意的な作風が増える現況において、哲久の「鍛錬道」を見直したいとする箴言を挙げておきたい。