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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



批評とは何か
text 松村由利子

 先々週の「週刊時評」に掲載された川本千栄の「評論に求めること」に対して、いくつかの反響があった。
 江田浩司の「短歌の批評について考えてみませんか――川本千栄への問いかけ」(http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda137.html)と、西巻真の「評論に求めることって何ですか?」(純響社 http://junkyosha.com/jihyo/02.html)である。
 時評であるからには、この反響を含めて「短歌の批評」について取り上げなければならないと思いつつ、少々気が重い。その理由は二つである。一つは、川本の分が悪いこと、もう一つは、このテーマを論じるには自分の力が不足していることだ。
 まず、これまでの流れを整理する。川本は、時評で山田消児『短歌が人を騙すとき』(彩 流社)を取り上げ、短歌における「私」と虚構の問題を明快に読み解いたものとして高く評価した。次に、江田浩司著の初期山中智恵子論『私は言葉だつた』(北冬舎)に触れ、山田の文章に比べ、江田の文章は分かりにくいと指摘。そして、歌壇にはこういう分かりにくい文が蔓延しているのではないか、「難解な事柄を難解なまま提示するのでは評論を書く意味はない」と断じた。
 これに対し江田は、それほど歌壇に難解な評論が蔓延しているとは思えず、自分の評論と山田の評論とでは、分析するテクストもアプローチの仕方も違うと反論。さらに「テクスト分析は詩歌をわかりやすく翻訳するのとはわけが違う」「批評とはテクストと評者との対話である」と述べた。
 西巻は、川本と江田のやりとりを紹介し、川本の文章も「用語はものすごくかたくるし」く、そういうかたくるしさを嫌う風潮が今の歌壇にはあるのではないかと問題提起している。
 ざっと見渡すと、途中まで「私」と虚構について述べていた川本が、そこから急に江田の山中智恵子論を引用し、評論全般 の難解さへ飛んでしまったこと自体、無理があったと思う。引用された箇所は、確かに「一人称」や「われ」について語られた部分であったが、川本は、「私」と虚構に関する山田と江田の論を比較分析することなく、江田の文章の分かりにくさ、そして歌壇全体の問題へと無理やり引っ張ってしまった。恐らくは常々短歌の評論に対して不満を抱いていたことが出てきたのだろうと思われるが、評論の書き手として定評のある川本にしては、乱暴な展開だった。
 江田の反論は非常にきっちりとしていて、テクストと批評の関係性、読者の存在などについて異論はあるだろうが、論旨に破綻がなく、言いたいことは非常によく分かる。
 二者に対して書かれた西巻の文章の方が、はるかに挑発的であり、分かりにくい文章になっている。話し言葉でやわらかく書かれてはいるが、「これは日本でテクスト論が一般 化する前段階の、初期のフランス系のテクスト論者が述べていたような『表層との戯れ』と言い換えてもいいんでしょうか」「実は、こう言った方法、80年代には流行したんですが、日本では全く一般 化しなかったんです」といった、読み手を限定する、やや鼻につく表現が多い。
 しかし、西巻が、川本と江田との間ではっきりとは交わされなかった用語の問題に触れたのは、問題提起として評価できる。文章の「難解さ」の多くは、用語によるところが大きいからだ。西巻は、川本の用いる語を「かたくるしい」と批判、「短歌のOSの変化」「サプリメント化した世界」といった新しい批評用語は分かりやすく、受け入れやすいと述べている。このあたりは論点の拡散にも取れるが、批評用語の共有、新しい概念の創出は批評の在り方を考えるうえで外せない問題だろう。
 短歌の批評は、それ自体、非常に難しい。その難しさは、歌人が自らの作品をつくりつつ、評論もものするという特殊性にある。作家と文芸評論家がすみ分けている小説の場合と全く違うのだ。江田自身、かつて「短歌の批評は普通 、自己の創作と不即不離の価値観のもとで行われる。当然それにともなう功罪はある。しかしそれゆえにこそ、批評と実作が切り結ぶ論が要求される(http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda62.html)」と述べている。
 文章の難解さは、「抽象度の高さ」と「用語の問題」の二つによるところが大きいと思う。どちらも「誰に向けて書くか」という批評の在り方に深く関わっている。誰に向けて書くかということは、歌人それぞれのスタンスによってかなり異なると思われるので、そこを明らかにして初めて、文学全体の批評の状況との突き合わせが可能になるのではないか。最初から「テクスト論」云々を振りかざすと、収拾がつかなくなる。
 私自身はずっと、分かりやすい文章を心がけてきた。それはなぜか、と問われると戸惑う部分もある。短歌の評論を書くのは、誰に向けて、何のためなのか。自分の問題として改めて問いつつ、批評全体について考察を深めたい。


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