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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)



第二芸術論・前衛短歌
text 川本千栄

 角川「短歌」2月号から共同研究「前衛短歌とは何だったのか」が始まった。第一回は「前衛短歌の登場1」、副題は「占領期文化の克服へ―前衛短歌の戦後史的必然を考える」、執筆者は三枝昂之である。アメリカによる占領と、GHQの出版物検閲における戦前戦中の否定・当時のナショナリズム否定の指針が、敗戦による国民の自信喪失と相俟って、日本人の心的傾向がアメリカ民主主義讃美・国語の否定・伝統否定・伝統詩否定へと繋がっていく様子を解き明かしている。さらに伝統詩否定論者による「第二芸術論」の隆盛と伝統詩側の受けた痛手、またそれが前衛短歌に繋がったとする時代の流れを解きほぐしている。まさに前衛短歌の序章の時代である。
 また、2月11日には花山多佳子ら女性六人のシンポジウム「今、読み直す戦後短歌」の二回目が行われ、その副題は〈「第二芸術論」の時代〉であった。非常に近い時期に第二芸術論に対する論考を二つ見聞したことになる。このシンポジウムと三枝の論に関しては先週の週刊時評で松村由利子が詳しく取り上げているので、なるべく重複しないところを述べてみたい。
 三枝の論で目立つのは、その口調の強さである。論旨は、三枝の『昭和短歌の精神史』(本阿弥書店2005年)で第二芸術論について述べた部分とほぼ同じなのだが、今回の文章は短い分だけ言葉が激しい。まずアメリカ讃美の風潮を「あきれるほど軽薄なこうしたアメリカ追従が、伝統否定に広がり、伝統詩否定の風向きを強くした」と論断し、続けて強い口調、悔しさのにじむ論調で「第二芸術論」を痛罵している。

…第二芸術論のような粗雑な論がなぜ短歌を痛打できたのか。…理由はただ一つ、と見える。古いものを否定し、壊す行為はすべてよい。…そういう占領期文化の追い風を受けたから、…占領期という時局に便乗したからである。…
…正しく読み、データを丁寧に集めれば、開戦の高揚と敗戦の茫然自失は一目瞭然である。その両方を怠ったところに、臼井(吉見)の軽薄と知的不誠実がある。…
…近代の戦略的見解をそのまま借用し、占領期の混乱に乗じたところに桑原(武夫)の軽薄と不誠実がある。…
…小野十三郎の「奴隷の韻律」はどうだろうか。…これは反論不可能な主張と言わねばならない。短歌や俳句のリズムが嫌いだ。これは小野の嗜好の問題で、論ではないからである。…

 三枝はこのように第二芸術論とその提唱の中心人物であった臼井吉見・桑原武夫・小野十三郎に対して強い批判の言葉を連ねている。第二芸術論は昭和二十一年から二十三年頃に出た論であるのに、それから六十年以上経った現在においても、三枝昂之という一人の歌人をここまで憤らせていることになる。逆説的ではあるが、私はむしろこのことに、第二芸術論の影響の強さ、歌人に対する破壊力を感じてしまう。
 第二芸術論がなぜここまで強い影響力を持ったかについて、私なりに思ったのは、何よりもそれが感情論だったからではないかということだ。当時の歌人たちも有効な反論が出来なかったのだが、三枝も言うように感情論に対する論理的な反論は難しい。後世の立場に立てば、第二芸術論を冷静に整理できるが、敗戦後の当時は大きな混乱期であり、何が正しく何が間違っているかがひっくり返った時期なのだ。歌人たちの感情も乱れていた状態で、現在から見たように第二芸術論の論としての粗さを突くのは困難だったのではないか。言ってみれば、どちらの側も論理的ではなかったのだ。居丈高に伝統文学を攻撃する側も、伝統文学に携わりながらそれを擁護できずに心弱りしている側も、敗戦という未曾有の事態の下で、同じ精神的な傷を負っていたのだと思うと痛々しい。
 また、女性六人のシンポジウムでも第二芸術論の醸し出した雰囲気が、当時の雑誌などを使ってかなり詳細に再現されていた。川野里子が美術の世界にも伝統批判の声が起こった事を取り上げていたことが印象深かったが、そうした伝統否定は直ぐに収まったわけではない。思えば1980年代のバブル期の前後ぐらいまで、西欧のものは何でも格好良く、日本のものは何でも格好悪いという風潮が実際にあったし、私もそれを記憶している。シンポジウムでの発言を聞いている時に、そうした体感にも近い感覚を思い出したのだが、その記憶を短歌に結びつけたことによって初めて、私は敗戦後の伝統否定、そして第二芸術論の与えたダメージの幾許かを自分のものとして感じることができた。
 角川の連載も、女性六人のシンポジウムも次は前衛短歌の時代がメインになってくるだろう。三枝は2月号の論の中で、塚本と大岡信との前衛短歌論争において、塚本は大岡よりもむしろ小野十三郎の短歌批判に答えていると思われる点を掘り起こしている。そして論の結語で、「前衛短歌とは第二芸術論克服のための表現改革の運動である」ときっぱり位 置付けている。三枝の論の展開は充分に納得できるものではあるのだが、ある芸術運動の盛り上がりはそんなに意識的・意図的なものなのだろうか、という疑問も持つ。
 さらに、あまりにも単一的に原因と結果が照応し過ぎているようにも思う。実際は複数の要因が絡み合って結果 に到るのではないだろうか。「歌壇」3月号で奥田亡羊が「現代短歌におけるアニミズム」という評論を書いているが、その中で奥田は、前衛歌人をアニミズムの観点から位 置づけようとしている。奥田が以前から主張していることであるが、前衛短歌を見る際、こうした視点などを考慮して複眼的に見ていく必要もあるのではないかと思ったのだった。


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