穂村弘を巡る考察から
text 松村由利子
同人誌が元気だな、と思う。今年五月に創刊された「町」は、学生短歌会に所属する六人による雑誌で、今月第2号が出たばかりだ。作品、評論それぞれに力がこもっていて魅力的だが、中でも早稲田短歌会に所属する瀬戸夏子の評論「穂村弘という短歌史」は読み応えがあった。
この評論で瀬戸は、「評論家・穂村弘」と「歌人・穂村弘」を別
々の人物と規定して論を進めてゆく。瀬戸は、歌人・穂村の初期作品の魅力が、「青春という一回性」「瞬間性」に負うところが大きいことから、短歌史を俯瞰するという連続性を持たざるを得ない批評家・穂村との間で葛藤が生まれたと見る。評論集『短歌という爆弾』と歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』には、「感動的でスリリングなせめぎあい」があるという指摘は、とても鋭い。
そして、穂村が評論の中で今橋愛の歌について「今橋愛という着ぐるみのなかに入ったような感覚」と評したことを踏まえ、「穂村弘は、穂村弘という着ぐるみの外に、さらに短歌史という着ぐるみを着ている」と切ってみせる。「穂村弘は――自身を空白にし、そこに新たな歴史を書き込んだ穂村弘という短歌史となったのではないか。それは短歌的な〈われ〉=〈私〉という文脈を一周回した棒立ちのポエジーだ」(※アンダーラインは原文では傍点)
そして、『手紙魔まみ』のラストで提示される物語が円環構造であり、物語が進むにつれ作中主体であろう「ほむほむ」の存在感が薄れてゆくことに着目する。瞬間性と連続性という矛盾した二つを手に入れるために、穂村が自らを空白にして、こうした解決方法を生み出したのではないかという分析はとても魅力的である。
刊行されて間もない山田消児の評論集『短歌が人を騙すとき』(彩
流社)にも、刺激的な穂村弘論が収められている。第一章「穂村弘の「私」」で、山田は瀬戸と非常に似たことを指摘する。
多くの短歌において作品の中核をなす要素、たとえば人生についての感慨、人間存在をめぐる洞察、社会に対する批評性といったものは、穂村弘の歌を普通
に読む限りでは、ほとんど感じ取れない。(中略)
きらびやかな表層の内側にある広大ながらんどうの空間。穂村弘の歌はそれと一体のものなのではないか。その空間がもしがらんどうでなかったとしたら、たぶんこういう 歌は成立しない。そう考えたとき、楽しげな見せかけとは裏腹の深い虚無のようなものを感じずにはいられないのである。
言葉を操る技術に支えられ、空洞の上に危ういバランスを保って蝟集している歌の数々は、ひとたびそのバランスが崩れれば、たちまち四散消滅してしまいかねない。そういうはかなさとともにあることも、穂村弘の歌に耀きを生み出す重要な光源のひとつというべきなのであろうか。
「がらんどうの空間」や「穂村弘という着ぐるみ」という見方は、穂村の最近の作品を読み解くうえで非常に有用なキーワードではないかと感じる。幼年時代を回顧した歌など、ひどく危ういところに身を置いた詠いぶりだと思っていたが、それもまた彼のしたたかな計算のうえで作られたものであることが、瀬戸や山田の評論を読んで実感できた。
穂村弘考からは離れてしまうが、瀬戸や山田が、穂村の短歌や批評の魅力に迫ろうと非常に熱のこもった文章を書いているのは、同人誌という場のよさでもあるのではないかと思った。最も書きたいテーマについて、書きたいだけ自由に書ける同人誌にはエネルギーがあふれている。
山田の『短歌が人を騙すとき』は、大部分が同人誌「Es」に書かれた論考をまとめたものである。「Es」は、「Es白い炎」「Es空の鏡」のように毎号誌名を変えて発行されてきた。十一月に刊行された最新号「Es蝕」には、「同人誌は少人数で、いたずらに永続しないことを旨とするべきだと思っている。いつ終刊するかはわからないが、一号ずつに力をこめて、行けるところまで漕ぎ続ければよい」という言葉が記されている。斉藤斎藤を中心に一昨年創刊された「風通
し」のことも思いだす。一号ごとのメンバーで一号ごとに企画を立ち上げる「そのつど誌」も、同様の理想を掲げているに違いない。
そういえば、今秋出版された、山中智恵子の初期作品を丹念に読み込んだ江田浩司の『私は言葉だつた』(北冬舎)も、「Es」に七年あまりかけて連載された評論をまとめたものである。この時評を担当するようになって、「pool」や「新彗星」「sai」、アークの会の「アークレポート」など、いくつもの同人誌を送っていただくようになった。そのどれもがエネルギッシュで躍動感にあふれていて魅了される。この時代に紙の雑誌を刊行することはどれほどお金や時間、情熱の要ることだろうかと、いつも力を与えられるような気持ちになる。力作揃いだけにタイムリーに紹介できないことも多く、自分の力不足を思うばかりである。
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