生活から詠む社会詠
text 川本千栄
十一月七日、名古屋で行なわれた「多文化共生を短歌から考える」というシンポジウムに参加した。昨年、ブラジル移住百周年を記念してブラジル移住百人一首が編まれ、このたびその色紙展が行なわれた。今回はその記念のシンポジウムということであり、短歌を通
じて日系社会、多文化共生について考えるという趣旨である。パネラーは清水正人(「水甕」)、刀根美奈子(「塔」)、棚木恒寿(「音」)、直井貞松(書家)。司会は小塩卓哉(「音」)。会場は「文化のみち二葉館」、旧川上貞奴邸を改装した美しい建物である。
「み」のかたち美しいとブラジルの少女言い何回も書く眼を光らせて
早口のポルトガル語でわれに言う「給食費すこし待ってほしいの」
刀根美奈子『エスフォルソ』
ドッジボールすればクラスがまとまるという信仰がこわす弱者を
クラスには帰りたくない子供らにチャイムが鳴れば勧告せねば
同『三重県短歌協会合同歌集第十七集』
刀根は三重県在住。小学校の非常勤講師として外国籍の子供たちに日本語を教えている。非常勤という立場で、日本の教育システムからこぼれ落ちかけている外国籍の子供たちを詠うが、三・四首目には教育システムそのものやそれを運用する教師たちへの批判も感じられる。また、一首目に関する刀根の話が興味深かった。「み」というひらがなは元々「美」の草書体から出来た字だが、それを知らないブラジル人の少女が「み」の字は美しいと言った、どこか言語の本質のようなものが伝わったのではないか、という内容であった。
プレス機にくれてやりたる劉の指酔ひて二本が四本に化けて
外人と呼び捨てたるもさん付けて切るも味噌糞ジャポネといふは
「マナウスじゃジャポネだつたさ」カルロスの月下の十指組まれたるまま
回覧板に口おほひつつ一等のカーナビ引きしは外人さんと 清水正人『波座(なぐら)』
清水は静岡県在住。浜名湖西岸の湖西市で食堂を経営している。湖西市の全住民における外国人登録者の割合は10パーセントに迫る勢いだという。また、日本人の失業率は5パーセントほどだが、湖西市の日系ブラジル人の失業率は70パーセントにものぼる。清水の食堂にはそんな外国人労働者が客として多く来るため、歌には労働災害にあったり派遣切りにあった労働者たちが詠われる。日系ブラジル人はブラジルではジャポネ(日本人)と呼ばれ、日本へ来ればガイジンと呼ばれるが、派遣切りの時には丁寧に「さん」付けで言い渡される。企業とはそういうものなのだ、では済まない。四首目のように巷の人々も、福引の一等賞が「外人さん」にとられてしまったことを、こそこそ囁きあっている。
刀根と清水が自分の作品について発言した後、二人の歌をどのように読んだかを棚木が発言した。作者が元々持っている資質に多文化の問題が引き寄せられている、外国籍の人の心理に同調するものが作者の内面
にあるのだ、という棚木の分析は頷けるものであった。
社会詠というのは何であるかという定義には数々の意見があるだろうが、私は、自己の生活の中で社会と接している部分を詠うのが、最も社会詠本来の在り方なのではないかと思っている。テレビや新聞のニュースに反応して作った時事詠は、社会詠とは微妙にずれるように思うのだ。そうした時事詠の場合は、詠む方には直な痛みが無い。やはり本人が何らかの痛みや喪失感を抱えて詠わないと読む方にも感情が伝わらないのではないか。清水の歌集を読んでみると、初期の歌にはニュースを見て作った歌が幾つもある。例えば、先に挙げた「回覧板…」の歌と近い制作時期に、えひめ丸事件を詠った連作で「あかつきに冷たき舳先(みよし)さらしゐむ宇和島水産高校えひめ丸」などの歌があるが、前者は押し寄せる異文化という素材を通
して、人間の持つ保守性や偏狭さが浮き彫りになっており、後者の歌とは格段に違う迫力を持っている。
ただ、そうした生活に密着した素材の場合は、素材に頼りすぎると「社会問題提起としては良くても、歌としては良くない」という事態に陥ることもある。修辞も含めて、「いかに歌にするのか」という問題を並行して考えていかなければならないだろう。
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