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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

一首に即した批評を
text 広坂早苗

 「短歌現代」2月号の歌壇時評「穂村弘という問題」(小高賢)を面 白く読んだ。常々自分の感じていたこととほぼ重なる論旨だったからだ。
 小高の主張は、穂村の批評には感心するが、その短歌作品は「うまく感受できない」というものだ。うまく感受できないというのは、端的に言って、良さがわからない、良い作品だと思えないということである。ところが、穂村の作品の評価は、歌壇の内外において高い(のだと思う)。第一歌集『シンジケート』は、刊行から16年後の2006年8月に更に版を重ねていた。無論、穂村の現在の作品に魅力を感じるから、読者は過去の歌集を求めるのだろう。ネット上で検索すると、他の短歌作品は読まないが、穂村の歌は大好きだという人達のブログがたくさんあることもわかる。昨年は短歌研究賞を受賞し、歌壇内部からも高い評価を受けたと言ってよいのだろう。穂村の作品がこれほど高評価を受けているのに、その良さがよくわからないので、小高は(私も)悩むのである。
 小高は次のように言う。

 穂村についてふれた文章にはつとめて、読むようにしてきた。自分の読みに何がたりないのか。頭を低くして教えてもらいたい気分であった。短歌作品の鑑賞には習練が必要である。ただ読むだけで、そのよさがわかるというものではない。読みどころ、ポイントがあるだろう。(中略)「小高さん、こう読むのですよ。そうすれば、おもしろいでしょう」といった解法(?)を、ずっと期待していたが、現在まで、願いはあまりかなっていない。

 話題性のある穂村の作品は、引用されたり批評されたりする機会が多いはずだが、小高の指摘するように、「具体的に一首の中に鑑賞が踏み込まない」「抽象的」「鑑賞が作品を離れて、自己展開している」というものが多い印象がある。なるほど、こういうふうに読めばいいのか、と納得させられる批評になかなか出会わない。穂村の作品の中に、読解の手がかりとなるものが少なく、具体的な鑑賞を拒むからだろうか。迎えて解釈し、自分勝手な読みを楽しむ読者ばかりに、高く支持されているのだろうか。それとも、批評者の側が、穂村の作品を具体的に読み解き説明する言葉を持っていない、つまり穂村の新しさに追いついていないからなのだろうか。
 短歌研究賞の受賞対象作品「楽しい一日」について考えてみたい。

食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕
グレープフルーツ切断面に父さんは砂糖の雪を降らせていたり
あいつだよあいつこないだ学校のトイレでうんこしてたんだって
物凄い舌たらずです 真夜中にうなぎのぼってゆく視聴率

などの作品を含む連作30首である。選考委員の講評のうち、受賞作そのものに踏み込んで評価しているのは、馬場あき子と岡井隆のふたりだけだった。(石川不二子は他の作品を推薦したことを、高野公彦は受賞作は評価せず、穂村の他の作品を評価する旨を、それぞれ述べている)岡井は「自分の幼年を回顧してゐるなんて単純にうけとるわけにはいかない」「『父さん』は誰なのか、特定しにくい。(中略)安心して読んでゐるとどこかで奇妙な迷転に会ふ」と述べる。これが二首目の作品を評価する根拠のようだ。馬場は「現代の怖さも危うさも、おかしさも哀しさも、子供の世界のこととしてうたえばそこにかえって今日的な実感が漂う」と述べ、「少し前の時代や時間が匂う豊かさ」「『うなぎのぼり』などという古い比喩が文化の先端で使われているおかしさ」などを評価しているが、これで作品の良さを十分に説明し得ているだろうか。(少なくとも、「うなぎのぼり」という古い比喩をそのまま使うことではなく、動詞として造語的に使うことがねらいだったのは確かだ)歌壇外にも流通 する穂村作品の人気に押されて選んだ選考委員の、後付の理由のように思えてしまうのだが、実際どうなのだろうか。
 「短歌研究」2008年11月号の短歌時評(桜川冴子)は、「頑として守っている穂村弘の短歌における幼児性」は、物質的に満たされ、欠落によって成長することのできなかった穂村世代の「世代の苦しみを感じさせるとともに時代への批評性をもつ」と述べている。穂村の関心が、なぜ幼年時代の回想へと向かうのか、なぜ文体・用語を含めて幼児性を露わにしようとするのか、桜川なりのアプローチを試みた文章だと思ったが、どのように「時代への批評性」につながるのか、十分に説明し切れていないように感じる。
 作品の言葉に即して一首をきちんと読む。その上で、「楽しい一日」一連の魅力を十分に語る批評を、読んでみたいと思う。残念ながら、自分にはその力がないからだ。
 角川「短歌」1月号の短歌月評(山田富士郎)は、「歌壇」2008年12月号の穂村作品「東京タワー、朗読のために」を、出征時の体験などを織り込んだ宮地伸一の巻頭作品と比較しつつ、次のように評する。

 幼さももちろん演技されたものだから、歌の印象から作者の精神の幼さを引き出すのは明白な誤りである。しかし何故、どうしてこういう歌を作るのかは多くの人にとって謎なのではないか。宮地伸一にとっても謎だろう。もし穂村の歌が歌なら宮地の歌は歌ではない、そういう関係が二人の間にはある。

 山田は、穂村の歌と宮地の歌を、同じ「歌」という枠組みの中に置くことはできないと明言する。両者を共に認めることはできないと言うのだ。作品の出来映えはともかく、宮地の歌はさほど読みに困難を伴うものではないので、山田の言葉はやはり、穂村の作品を評価する困難さを示唆していると思う。なぜ幼年期にこだわるのか、そこにどのような意味があるのか、作品のどんな点をどのように評価するのか。一首に即して、具体的な言葉で語る批評を切望している。

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