詩と短歌のコラボレーション
text 松村由利子
歌人、野樹かずみと、詩人、河津聖恵(かわづ・きよえ)による『christmas
mountain わたしたちの路地』(澪標刊)が出版された。短歌と詩を組み合わせた一つの作品であり、とても意欲的な試みである。
野樹は、一九九一年に二十八歳で短歌研究新人賞を受賞し、歌集『路程記』がある。河津は、現代詩手帖賞やH氏賞を受賞。『アリア、この夜の裸体のために』『神は外せないイヤホンを』などの詩集がある。
早朝はいちばん安い塩パンもまだあたたかい涙のようだ
冒頭に置かれた野樹のこの一首は、フィリピンのゴミ山で働く七歳の少女「クリスティーナ」の食べる塩パンである。クリスティーナは雑多なゴミの中から、空き缶
やビニール袋など資源として再利用できるものを拾い集めて換金して生活している。野樹は、実際に何度もフィリピンのゴミ山に足を運び、悪臭にまみれながら子どもたちと交流してきた。どの歌にも、ドキュメンタリー番組を見て作ったのとは違う迫力があふれる。野樹の歌に呼び起こされたように河津は、愛おしそうに「クリスティーナ、ティーナ、リーナ」と呼びかけ、別
の角度からゴミ山を描写してゆく。
絡み合った歌人と詩人のまなざしはやがて、フィリピンのゴミ山から日本の路地へと向けられる。三十年前の貧しい少女のいじめられる様子や、現代のブラジル人経営の雑貨店、遥か昔のクリスマスの出来事、とイメージは次々に広がる。広島で被爆した在日韓国人たちの痛みと、アウシュヴィッツの見学体験の痛みも交錯し、二人は「路地」が世界中の至るところに存在する現実を描き出す。
本当なのに信じてくれない母さんの男が(あたしに)何をしたのか
メラミン入り菓子大量に捨てられて 食うだろうゴミ山のマリアたち
蛍ほたる生まれる前にこの地球を見おろし父と母をさがしたか
この作品を、私はうまく批評することができない。どこかで「短歌は短歌。一首で屹立する作品が一番だ」と考えている狭量
、保守的な自分がいるのだ。けれども、この小さな詩型には大きなテーマが盛り込みにくいことも知っている。同時代の貧困や飢餓を見なかったことにして、自分の周囲の素材だけを詠っていればそれでよいのか、と疑問に思う。『christmas
mountain わたしたちの路地』が見つめた世界は、連作でしか表現できないだろう。そして、もし短歌だけで詠おうとすると、どこかに弱さが生じてしまうのではないか。
今回、詩と短歌のコラボレーションという新しい形を読み、異なる響きやリズムが交互に出てくることで、それそれが強められているのを実感した。こうした効果
は、歌集に長歌を採り入れたことのある歌人がよく知るところではないだろうか。
クリスティーナ、ティーナ、リーナ、誰だか知らない私の胸の奥を呼ぶ口笛のような名/私の中でクリスティーナが虚しさの袋をひきずる マリアが鉄ピックで魂の急所を刺す/私の中でクリスティーナがゴミ燃える炎に手をかざす 毎日がクリスマスのように寒い/誰のか知らないあかあかとしたぬ
くもりが遥かな私の原初の感覚を共に澄ませていく/誰のか知らない塩パンのざらざらとした感触が私の背後に眠る飢えを目覚めさせていく
コラボレーションというのは、足りないところを補うものではない。違ったものがぶつかり合って、さらに新しい世界を作り出すことである。短歌以外の文学作品とのコラボレーションは、短歌の魅力の再発見にもつながる。歌のテーマや技巧の新しさだけでなく、別
の世界への広がりを求めていくことも、現代短歌には必要なのではないかと思う。
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