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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)




『風景と実感』批評会レポートUP!!


「週刊時評」は年末年始12/29はお休み、1/5より再開いたします。
「大辻隆弘ブログ」12/20更新!

2008年・「リアル」と「近代」
text 川本千栄

 私の担当する2008年最後の時評である。今年この週刊時評を書きながら何度も立ち止まった言葉は「リアル」と「近代」であった。短歌だけでなく、今年色々な芸術分野で、リアルという言葉が目についた。例えば12月13日付けの朝日新聞文化欄の「美術 回顧2008」という記事では、副題の一つが〈「リアルさ」再考する機運〉となっている。少し記事を引用してみると〈「何がリアルか」が見えにくくなるなか、…リアルさや現実感を再考するような試みが多かったのは、ある意味当然といえた。〉〈…江戸末期から明治期、西洋のリアルな絵画や写 真に出あった私たちの先達は、どう対応したのか。〉〈…リアリティー、現実感は、ただそっくりでは現れてこない。…の個展が得難い体験を与えたのも、彼女たちが、社会と自身の内面 を掘り下げて「実感」を表現していたからだろう。〉
 このように、何がリアルかが見え難い、という印象を持ちつつ、近代の黎明期にまで遡って現実感はどう表現されてきたかを考える、という論の筋道は短歌のそれと全く重なる。美術界でも「リアル」は大きな問題意識の核となっているようだ。
 一方、小説の分野ではケータイ小説が、大ブームになった2007年を経て、今年2008年、ケータイ小説を論じた評論が出版された。そこでもリアルは大きな論点になっている。『ケータイ小説は文学か』(石原千秋著 ちくまプリマー新書 2008)によると、ケータイ小説は「実話」を基にしているという形式を採り、「実話」であることを作者が後書きで示すのが一つの定番だそうである。そうした後書きをいくつか紹介し、「リアル」を「現実・本物」、「リアリティー」を「現実らしさ・本物らしさ」と定義づけた上で、石原はこう述べる。〈「ケータイ小説にはリアリティーがない」という批判は肩すかしを食うことになる。そこにあるのは、「リアル」だけなのだから。…「リアリティー」を感じさせる工夫のすべてを「リアル」に負っているからである。〉
 「「実話を基にした」というスタイル」を採り、それを後書きで示唆する手法は『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』で穂村弘が取ったものとよく似ている。このようにリアルに関する考察は、小説の分野だからといって、短歌に携わるものが他人事として流すことはできない。
 短歌の分野においても、最近相次いで発行されている若手の同人誌で、「リアル」という言葉が問題になっている。特に注目したのは『pool』vol.6の座談会「もう少し、歌のリアルを考えてみる」と『新彗星』No.2の評論「風景の喪失/他者の変質」(柳澤美晴)である。
 『pool』の座談会で内山晶太は、かつては「歌の世界のリアル」と「現実の世界のリアル」に差があったと述べ、さらに、従来の短歌は全て「虚構が現実を説得している歌」であった、「文語で作ることが既に虚構」であった、それらの歌には「歌の世界のリアル」があった、しかし口語の流入により、短歌で詠われるリアルが「歌の世界のリアル」から「現実の世界そのもののリアル」に変わっていった、という見解を述べた。その上で内山自身はそうした変化が短歌にとって良いことか悪いことかは別 の話であるとしている。
 内山のような視点で「従来の歌」―おそらく近代短歌やその系譜上にある歌―を論じた例は少ない。「文語で作ることが既に虚構」という見解も一見逆説的で、語義解釈が分かれるかもしれないが、従来の短歌が、歌とはこのようなもの、という枠組みの中で作られていたのは確かだ。その枠組みの一つに、例えば日常会話とは違う文語を使うということがある。こうした歌に対して、口語を使い、従来の歌の枠組みを外して詠うことによって生れるのが、写 実とは違う、現実そのままのリアルである。出席者である若い歌人たちの中で、内山以外にも何人かは、「現実の世界のリアル」だけでは歌が痩せるという意見を述べていたことが、私には驚きであり発見であった。
 『新彗星』vol.2.での柳澤美晴の評論「風景の喪失/他者の変質」はここ数ヶ月の間に書かれた、若手による相互批評の中では白眉のものと思えた。 柳澤は同世代の作品の中から、まず一点目に、没場所性が顕著な作品を引き、〈「今の私」にこだわる姿勢は、風土という直線的な時の蓄積に対し、疑いを抱いた結果 の産物であるようにも見える〉と分析する。風土性を失ったのではなく、意識的に排除しているという認識である。そうした没場所性の強い作品には、〈「今、ここにいる私が確かめたリアル」が荒々しく息づいている〉という肯定的な面 と、〈「自分にとってのリアル」を追い求めていくことには、リスクが伴う。…物事が全て作者の認識の範囲内に置くことができるように設計し直されてしまう〉という否定的な面 があると分析する。二点目に、物語性の強い歌に表れる他者像について、〈自分とは異なる来歴を持ち、異なる思想や価値観のもとに生活をしている他者の実在感が極めて薄い〉と評する。それが高じると、〈歌の中の風景も他者もほとんど心象に近くなってしまうのではないか〉と危惧している。ヴァーチャルな世界と現実の世界との境目がぼやけつつある現在において、柳澤の提言は一考の価値があるだろう。
 内山の見解や柳澤の論について考察しようとするならば、全て近代短歌に立ち戻らなければならない。リアルを考え始めると、どの分野でも必ず「近代」という命題に突き当たる。先の『ケータイ小説は文学か』においても、著者は〈「ケータイ小説は」を「近代文学の終焉」の一つの里程標と見るか、それとも新しいジャンルの誕生と見るか〉という点から論を始めている。近代文学がリアリズム(写 実主義)を根幹の一つとしてきた以上、リアルの揺らぎは近代的価値観の揺らぎへと直結するのだろう。2009年も引き続き、「近代」に立ち返りつつ、現代短歌の論点を考えていきたいと思う。

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