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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

小説家の慨歎――『日本語が亡びるとき』を読んで
text 松村由利子

 川本さん、広坂さんが水村美苗の『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を取り上げているので、私もさっそく書店に出かけて買ってきた。今月八日現在で、お茶の水・丸善ではノンフィクション部門一位 だそうで、入り口近くの新刊コーナーに平積みになっていた。
 第一章は、引き込まれるようにして読んだ。著者が米国のアイオワ大学が主催する国際創作プログラム(IWP)に参加し、ボツワナやイスラエル、ハンガリー、ヴェトナム、ノルウェーなど、日本以外の十九カ国から集まった作家たちと交流する様子は非常に生き生きと描かれていて面 白かった。「人はなんとさまざまな条件のもとで書いているのであろうか」「さまざまな作家が、それぞれ<自分たちの言葉>で書いている」と水村は何度となく思う。各国の作家たちが潜在的読者数の多寡にかかわらず書き続けてきたことについて、私も胸を熱くした。そして、英語圏を除くすべての言語圏で、やがて母語と英語という二つの言葉を必要とする時代が来るという危機感は、よく理解できた。
 しかし、だんだん読み進むうちに面白くなくなった。ヨーロッパにおける言語の盛衰の歴史や、日本の戦後の国語政策に関する説明などは、水村に教わらなくても別 の本でいくらでも知ることができる。
 著者が小説家だから仕方ないが、大筋において「文学=小説」という前提で論が進められていることにも違和感をもった。もし水村が短歌の世界を知っていたら、こんなことは書かないだろうと思うことがいくつもある。
 例えば、「「文語体」を過去へと追いやるうちに、若い世代の日本人は、「文語体」で書かれた詩歌を読む習慣さえ失っていった」という箇所がある。「若い世代」が何歳から何歳くらいなのか、「読む習慣」とは何か、甚だ漠然としているが、水村が短歌総合誌の最新号を一冊でも読めば、「そうは言い切れないのかな」と思うに違いない。
 また、水村は近代の小説を礼賛してやまないが、「文語体」だけが美しく絶対的なものなのか。いま書かれている小説と近代の小説とでは、自我、人間関係、社会状況などの捉え方が全く違う。テーマや方法論も進化し続けている。短歌だって同じである。近代歌人の作品は今なお私たちを魅了するが、その豊かな土壌の上に現代短歌がある。水村自身、文語体で書かれた詩歌のことを「あの懐かしい」と過去のものとして評しているのに、なぜ現代の詩歌、現代の小説のよさを見ようとしないのだろう。
 文学に対する美意識は人それぞれだから、そのことで水村を責めても仕方がない。私は、短歌が小説に比べて恵まれていることを再認識したことで、この本に感謝したいと思う。水村は、日本人が漱石の『三四郎』でさえ「原文」で読めなくなりつつあることを嘆いているが、私たちは茂吉の『赤光』も晶子の『みだれ髪』も「原文」で読むことができる。テキストによっては、歴史的かな遣いではあるが旧字体でなく新字体、というものも多いが、ほとんどの歌集はオリジナルの表記で読める。そのことを今まで特に意識したことはなかったので、意表を突かれた気がした。
 水村が糾弾すべきなのは、国語教育だけではなく、「出版語」を生み出す出版界でもあったのではないか。国語教育を変えなくても、出版されたテキストをオリジナルに戻すことくらい、読者が本気で望めば実現できるだろう。例えば、中勘助の『銀の匙』が「原文」で出版されたら、喜んで買いなおす人は多いと思う。しかし、すべての近代の小説を「原文」に戻して読むことは、出版界の厳しい状況からして、やはり不可能だろう。そう考えるとき、近代短歌をそのままの形で享受できている幸せは、何らかの形で現代短歌に反映されているのではないかという気がする。
 川本さんの引用した岡井隆、川野里子の発言を読んだときは、「短歌も亡びつつあるのだろうか…」と暗い気持ちになった。しかし、あまりにも近代小説に執する水村の嘆きを読むうちに、短歌の近代と現代は小説の場合ほど断絶しておらず、私たちは豊かな流れの中にまだ身を置いているのではないかと思えるようになった。

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