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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)




「商品」としての短歌
text 松村由利子

 「あまだむ」九月号(隔月刊)で、阿木津英が「商品」としての短歌を否定する文章を書いている。
 「『注文』を受けてから歌を作るなどすることは、まともな歌人のすることではない、という気風を先達の歌人から受けて育ったひとりである」という言葉に、平手打ちを喰らったような気持ちになった。このところ注文を受けて歌を作ることの多い私は、自分の怠惰を激しく省みたのだが、「商品」という言葉の否定の仕方にはやや違和感を抱いた。これは「商品」の定義、イメージが、阿木津と私では少し異なるせいかもしれない。

 いちいち「注文」があってなされる文学行為など、いかがわしいものであり、むしろ語義矛盾である。松本(健一)さんのいうように「文学が作者の、いや『生まれてきた』人間のやむにやまれぬ 」行為であるかぎり、経費がいくらで利潤がいくら、よって単価がいくらといった「商行為」での言葉ではかられようがはずがない。
 ところが、短歌という辺境の世界まで、いつのまにか「商品」として売れる短歌を作るのがいいという価値観が浸透してきた。(中略)
 「商品」としての短歌、「商品」としての歌人。いま、歌をはじめる若者の多くは、それが当然だと思っているだろう。「注文」の殺到する歌人が、売れてる歌人で、エライ歌人で、うらやましいと思っているだろう。

 この文章を読んで二つのことを考えた。一つは、「商品」として買う「読者」の存在、もう一つは「注文」と「文学性」である。
 まず「読者」について。
 この週刊時評でも取り上げられていた大辻隆弘の評論集『時の基底』に、「歌集の値段」という文章が収められている。古書販売店の百円コーナーに高野公彦の『淡青』『雨月』があったことから、歌集の価格について考察した内容だ。
 大辻は「歌集の価格というものは『短歌というものにはお金に替えられない価値がある』と信じる読者=作者の共同体によって支えられてきた」と見る。そして、「現在、明らかになってきたのは、そのような歌の価値を支えてきた共同体が崩壊しつつあるという事態である」という。この文章から、大辻もまた「商品」としての短歌を認めていないことがわかる。
 短歌は本当に「商品」になったのだろうか。私はそうは思わない。古書販売店(たぶん、大手のチェーン店)で安く売られていたのは、単に店員がものの値段を知らなかっただけの話である。「お金に替えられない価値」は短歌のみならず小説もコミックも同じだと思う。読者はそれを読む手立てとしてお金を払うのであり、価格はそれを愛好する人口の多寡に左右されるのだ。読者に迎合した「商品」を作るかどうかは、どんなジャンルであっても作者の志の問題である。
 むしろ、短歌はあまりにも読者を限定するあまり「商品」であることを遠ざけてきたのではないか。価格のことだけを考えてみても、歌集が二千五百円から三千円程度と一般 書の平均より高いことは、かなり読者を狭めている。自分では歌はつくらないけれども、短歌をこよなく愛し、さまざまな作品にふれたいと願っている人たちに対して、一般 書に近い価格の「商品」がもっとあってもよいと思う。それは、歌人たちの働きかけなしには実現しないことではないだろうか。そして、そういう読者が増えることは、きっと短歌を豊かにするに違いない。
 もう一つの問題は「注文」についてである。
 阿木津は、冒頭に挙げた言葉の後に続けて、先人たちの姿勢について述べる。

 まともな歌人は、いつでも何十首何百首となく篋底に歌をつくりためて、日々研鑽するものだ。白秋は、毎月の歌の引き出しケースをもっており、原稿依頼があるとそこから取り出したという。茂吉は、歌はもちろん、文章もそのようにしていくつも書いてもっていた。小説家だって、名前が日の目を見たときには、行李いっぱい原稿をもっていなくてはならないと聞いた。
 わたしは、そういう歌人の後ろすがたを見ながら育った。それでも、いっとき「注文」歌人におちいって本当に苦しかった。
 文学行為は、人間のあらゆる行為を「商品」化してしまう資本主義社会での法の論理に矛盾するものであり、抗うものである、という松本(健一)さんの意見にわたしは同意する。そのような文学行為をまっとうしたいものだと、願う。(「あまだむ」二〇〇八年九月)

 注文を受けてから作るという不純を許せない気持ちは、私もよくわかる。作品は常に、内部から突き動かされるような心でもって創出されるべきものだろう。しかし、白秋や茂吉の時代は、今よりもっと世の中のテンポが遅かった。機会詠ということも、それほど多くはなかったはずだ。現代では、注文を受けた時点において以前つくった歌がまるでちぐはぐな雰囲気のものになっているということは、ままあることだ。七首なり二十首なり発表する際、連作としての流れや緩急を考えると、新たにつくる必要性を強く感じることもまた歌人の良心としてあり得ると思う。より高い水準の「商品」を作ろうとする気概、それもまた歌に携わる者の一つの志ではないだろうか。
 注文がなければ歌を作らない、などという歌人は私も信じない。けれども、「商品」も「注文」も時代と共に変わるものであり、それを視野に入れておくのは悪いことではないと思う。

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