アイデアと文体
text 松村由利子
「かりん」の全国大会が八月二十三日から二十五日にかけて、仙台市で開かれた。「短歌の過去と未来」と題して数人が話した中で、特に「アイデアと文体」について取り上げた米川千嘉子の言葉に引き込まれた。
米川は、短歌が機知やアイデアを表現の中心とする面を持つ一方で、文体そのものからにじみ出る「意味を上回る動き」「言葉そのものの存在感」などが大切であることに触れた。以下はその例として挙げられた自作である。
<アイデア>
機械われ一度ぶるんと働いて生んだ子十七歳(じふしち) 凹んでゐるよ
こはいこはいあたたかい冬みんな坐しみかんきんかんぽんかんのやう
<文体>
曇り日の月を待つときもの言はず甕照るやうにもの思ふひと
匿名無数のこころはひとりの青年に噴きてこころは死にながら刺す
自らを機械になぞらえたり、温暖化する冬にも暢気な顔をして坐っている人間を柑橘類に見立てたりするアイデア勝負の歌を、米川は「ある種のわかりやすさがあり、落ちが見えやすい」と評する。なかなか月が出ないのを待っている沈黙の時間を詠んだ一首目の「もの」、秋葉原の殺傷事件を痛ましく詠った二首目の「こころ」は、敢えて「ごちゃごちゃした感じ」を出した作品という。同じ言葉を繰り返しているようで深みを加え、ひとつながりのものとしてぼあんと広げる文体を作りたいと話した。その流れで挙げられた近代の作品が次のような歌であった。
夢のすぢわれことごとく君にさへ告げも得ぬかな人間は憂し 与謝野晶子
初めより命といへる悩ましきものを持たざる霧の消えゆく
咲くやがてこぼるる萩の白き花石にたまりて空曇りたり 窪田空穂
よき眼せる人やと見るに行き過ぎて又あらはるるよき眼もつ人
王朝的な韻律に近代的な表現を付け加えた晶子の作品は、ひとことで言える内容をゆるい表現でもって、手ざわりの厚い感触、たゆたう時間を作り出している面
白さがある。アイデア自体ではなく、言葉のある官能性で人間の内面
を訴えている。また、空穂は散文的なところから近代的な表現へと向かう文体をもつ。「萩」の一首は結句でぱっと景の変わる面
白さがあり、小刻みな時間、リズムの積み重ねによって時間を創出する文体だと指摘する。「よき眼せる人」も動的なリズムによって、わくわく感、喜びが見えてくる。現代短歌はいろいろなことを取り入れてきたが、アイデアだけでは何かが落ちてしまう。合理主義だけでは歌の求心力が削がれてしまう。文体を味わう力が歌を豊かにする――そう米川は語った。
続いて話した川野里子もまた、「最近の短歌は、機知や感覚、アイデアだけが共感されている。それは非常に瞬間的な共有でしかなく、文体の問題もろとも、時間との対話を考えなければならない時代になっているのではないか」と指摘した。
米川、川野の話を聞き、自分がアイデア勝負の歌ばかり目指してきたことに気づいた。「結論が早い」「もの言いが早い」と言われ続けてきた自分の歌の貧しさが腑に落ちた。言葉自体が内包するわけの分からなさ、すっきりと割り切れない厚み、じくじくとした温もり……そんなものを重ね、米川の言う「何かもごもごと言葉が訴えてくるもの」に近づきたい。しかし、時代は果
たして文体の深み、面白さを共有してくれるのだろうか。誰もが早足で歌を鑑賞する今、わかりやすいアイデアの方にどうしても目が向いてしまうのは無理のないことでもある。
時代を超えて残る粘り強い文体の創出、そして近代短歌の鑑賞と検証が、私たちの担う大切な課題だと思う。
|