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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)




短歌史に関わるということ
text 川本千栄

 「短歌研究」七月号所載の座談会「若い歌人の現在」を面 白く読んだ。若い世代が口語・私性・短歌史・作歌の場などの問題についていかに真剣に考えているかがよく分かり、頼もしい限りだと思った。参加者の年代とその主な活動の場は、野口あや子、二十代前半、結社所属。吉岡太朗、二十代前半、大学の短歌会運営。石川美南、二十代後半、同人誌など。奥田亡羊、四十代前半、結社所属。そして司会は加藤治郎である。奥田はやや年配であるが、彼が明確な問題意識を持って常に話題をリードしていたことで読み応えのある座談会となっていたし、また、二十代三人の活動の場がそれぞれ異なるのも面 白いと思った。これをネットにも結社にも詳しい加藤が司会していたため、議論がバランスのいいものになっていた。

加藤 私たちの世代というのは例えば岡井隆と塚本邦雄、寺山修司を含めた前衛短歌を踏まえていると明確に言い切ることができた。皆さんの世代は、なかなかうまく言いにくいのかなと思っているんです。もちろん吉岡君のように短歌史は関係ねえんだというのもいいと思うんだけどね。何か一言で言い切れます?今、自分は何を踏まえているんだというときに。
石川 …今までの短歌全体を吸収したところで、じゃあ自分は何を書いていくかという意識は確実にあります。ポスト・ニューウェーブという表現が正しいかわからないですけど、ニューウェーブという時代をきちんと語るべきなのは私たちかな、という思いもあります。…
奥田 今、加藤さんが前衛短歌を踏まえて自分たちはやっていたという話をされたんだけれども、名前が挙がったのは塚本邦雄と岡井隆と寺山修司ですよね。でも前衛歌人はその三人だけではなかったはずです。例えば前衛短歌運動の参加者を十人挙げるとすれば誰を挙げるか。…
野口 その三人くらいしか私も浮かばないですね。
奥田 …それ以外に春日井建が入ったり、葛原妙子が入ったり。で、あと五人、どうしましょう?前衛短歌運動というのは何だったんだろうというのは、絶対問わなければいけない。そこからしか出発点がないわけですね。…

 奥田はこの後、前登志夫と山中智恵子の名を挙げ、彼らは「私」の変容をさせながら原初的で神話的な世界を開いていった、それも前衛短歌運動の大きな成果 だったと述べる。この発言は、前衛短歌運動を修辞の面でだけ捉えるまとめ方に、異議を唱えているのである。奥田のように、「前衛短歌運動の影響を受けたが、その当事者で無い」立場の者によって、前衛短歌運動とは何だったのかという考察がもっとなされるべきだと思う。そしてそれはまだあまりなされていないとも思う。
 同じく、石川が述べているように「ニューウェーブの影響を受けたが、その当事者では無い」立場の者によって、ニューウェーブについての考察がもっとなされるべきだろう。
 石川が言うように、彼女たちの世代をポスト・ニューウェーブと言えるかどうかは疑問だ。前衛短歌やニューウェーブは既成の短歌に対して新しい短歌を目指す意識的な運動であったが、今の若い世代がそうした意識的な運動をしているという印象はあまり感じない。ただ「ニューウェーブの影響を受けた、同じような世代の人々」ぐらいのゆるいくくりで彼らをそう呼ぶのなら使えるだろうが、何か統一した運動があるという誤解をまねくようであれば、そうした呼称は避けた方が無難かもしれない。
 ある短歌史上の大きなうねりを総括するのに、当事者で無い方がよいと私が思うのは、やはり当事者の目には短歌史の流れというのは多角的には見えにくいだろうと思うからである。その一例として、この座談会の冒頭ページに司会の加藤がまとめた「平成二十年間の短歌界メモ」が年表の形で載っているのだが、大物歌人の没と「アララギ」の終刊、そして二十世紀末に刊行された二つの辞典(事典)の刊行以外は、ほとんどがニューウェーブがらみの記述になっている。これに良し悪しをいうつもりはないが、ニューウェーブの中心人物の一人であった加藤治郎の目にはこの二十年間はこんな風に見えているのかと思うと、非常に考えさせられる。
 三枝昂之の『昭和短歌の精神史』を読んだ時にも感じたことなのだが、歴史をまとめるには、ある程度、時間が出来事を洗う間が必要なのだと思う。それによって、大きなうねりと見えたことが次第に相対化され、冷静な考察が可能になるのだ。反対に、当事者が性急に自分の存在を短歌史に結び付けようとすると、多角的な視点を持ち得ないだろうと危惧するのである。そういう意味で奥田には時間をかけて前衛短歌について考察して欲しいと思うし、石川やさらにもっと直接的影響の少ない者にはニューウェーブをじっくり検証してほしい。その過程で、現在の若い世代がどのようなものを踏まえているかが明確になってくるだろう。
 司会の加藤に「短歌史は関係ねえという立場」と言われていた吉岡太朗だが、彼の短歌史に関する考え方は、私には至極納得のいくものであった。

吉岡 …べつに短歌を勉強しないって話ではまるでなくて、要するに短歌史というもので短歌を見ないというつもりなんです。既に整えられたコスモスではなくて、カオスなものとしてこれまでの何かというものを読んで、その中で自分にとっての短歌というものを作り出していけたら…

 前衛短歌一つとっても、まだその総体をつかみきれていない。短歌史はまだまだカオスの状態なのだ。お墨付きの短歌史を早々にまとめるのではなく、様々な立場から検証を続けていくのが短歌に関わる者の責任ではないかと思った。

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