「働く貧困層」と短歌
text 広坂早苗
「短歌往来」に連載中の「編集長インタビュー」を毎回楽しく読んでいる。歌人や短歌に関わる人をゲストに迎えて、及川編集長が鋭く質問を投げかけるコーナーである。7月号のゲストは、元毎日新聞社学芸部の酒井佐忠氏。短歌や俳句の「専門編集委員」として、毎日歌壇・俳壇の紙面
作りに長く関わって来た人であるという。短歌・俳句に関わるジャーナリストとしての率直な発言が興味深い。
及川「今は批評会といって、コンパクトなかたちで意見を言い合うとてもいい方向だと思います。とてもいいんだけれども、皆さん話が上手くなっている。ところがそこに本音が見えないというか何というか……」
酒井「本当に歌評とか一首評にしても、テーブルスピーチするようにそつなくまとめられて(笑い)」
及川「僕の二十代の頃はドキドキしたというか、もっととんでもないこと言っちゃったりして。」
酒井「そこで本音が出てくるという。」
及川「そうだったと思うんです。」
酒井「私もそれは感じます」
短歌の批評会に関するこのくだり、確かにこういう感想もあるだろうなと思いながら読んだ。所属結社の歌人や在住地域の歌人の歌集批評会等に度々出かけるが、私の実感としては、顔をよく知っている者同士の会であるほど、厳しい批評が交わされる。作品に対して忌憚のない批評をすることが、相手に対しての誠意であり、純粋に作品についてのことなら何を言っても「恨みっこなし」だという前提が、共有されている安心感。それが遠慮のない批評を可能にするのだと思っている。以前、超結社の歌会に参加したとき、ある匿名の作品について批判的な感想を述べたところ、後で別
の参加者に、「誰の作品かわからない時には、自分はあんなに手厳しい意見は控える」と言われ、考え込んだ記憶がある。たぶん「テーブルスピーチ」のような批評は、こうした「安心感」のない場において見られるものであって、実は批評会よりも、総合誌の作品批評などの方に多くあるのではないかと感じる。結社に所属しない歌人が若い世代を中心に増えているというが、結社でなくとも地域のグループなど、ある程度顔ぶれの定まった批評の場に所属することが、より良い批評をする/される上で、必要なことなのだろうと思った。
酒井「塚本さんはもちろん島田修二さんとか春日井建さんとか前さんとか、いわゆる著名な個性的な歌人が亡くなったあと、歌壇というのはかなり……。」
及川「転換期にきちゃってる」
酒井「転換期を過ぎて、空白期に入っているような感じがしますよね。逆にネット系が出て来ましてね。その中から新しい波というかニューウェーブの人たちが育ってくるかどうか……。本当に今どうやって生きていくかという若い人達の悩みを吸い上げるような短歌がないですね。若い人がフリーターとか色々悩みがある中でそれを短歌にぶつけるというような、現代の悩みを短歌や一冊の歌集が吸収するような、そういう作品があればいいなと思っているんです。」
この部分を読んで、小林多喜二の『蟹工船』が若い読者を得て、ブームになっている現象を思い起こした。非正規雇用の若者を中心とした「働く貧困層」が、自らを蟹工船の労働者と同一視し、親しみを持ってこの小説を読むのだという。酒井氏は、『蟹工船』に替わる現代の若者の歌集を求めているわけだが、昭和4年発表のこの小説が受け止めた若者の気持ちを吸収するような短歌は、本当にないのだろうか。
「働く貧困層」と直接関係があるわけではないが、最近話題となった奥田亡羊の第一歌集『亡羊』など、その可能性があるのではないかと思う。
宛先も差出人もわからない叫びをひとつ預かっている
青空に満ちくる声を聞きながらバットでつぶす畑のキャベツ
負けるしかなくて掴んだ夕焼けを呪文のように引きずっている
兵役につくこともなく三十を過ぎてつまらぬものを殴りぬ
社会の圧力に抗せず、押し殺さざるを得ない叫びや怒り、遣り場のない悔しさが、鮮やかに表現されている。「青空に満ちくる声」の重圧に負けるしかない自分のみじめさを、真正面
から見つめる自意識が光る。共感する若い読者も多いのではないだろうか。作者は40代で、酒井氏の言う「若い人」の範疇に入らないのかもしれないが、現代の若い世代の抱える葛藤を、十分にすくい上げている歌集だと私は感じた。
4月に逝去した前登志夫の追悼特集が、いろいろな雑誌で組まれている。読むたびに、失われた存在の大きさに圧倒されるのだが、では現在は本当に「空白期」なのか。今すぐ答の出るものではないが、後続の新人にも良い仕事がある。それだけは言えると思う。
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