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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)




単純化の陥穽
text 川本千栄

 去る六月二十八日土曜日、兵庫県芦屋市で、小池光と穂村弘の対談「コトバの可能性と不可能性」を聞いた。タイトルは難解だが、お互いの選んだ十首の歌を読みながら、近代から現代までの短歌を語り、現代短歌の持つ問題とこれからの短歌の可能性を語り合うという内容だった。興味深く思った点を挙げてみたい。

うつくしきをとめの顔がわが顔の十数倍(じふすうばい)になりて映りぬ
                             斎藤茂吉
突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼
                             塚本邦雄

 これは穂村が選んだ十首中の二首であるが、彼はこの二首を二項対立的な観点で選び、作者の対象へのまなざしを対比している。穂村はこの二首にたいして、茂吉は現実を見るまなざしのままに即物的に映画を見ているが、塚本は最初から映像を見るまなざしがあり、現実に対しても再生可能な、フィクショナルなものとして見ているのではないか、と分析した。そして現代は誰もが塚本のように、現実の出来事を映像を見るような視点で見ており、茂吉のように、つまり、まるで初めて映画というものに接した人のようなまなざしで物を見ることはもう誰もできない、この変化は不可逆的なのだと述べた。
 それに対して小池は、塚本の歌は現実を見てというよりロバート・キャパなどの戦場カメラマンの写 真を見て作ったのではないか、つまり歌った対象が既に現実を再生したものではないか、という意見を述べた。さらに、塚本は戦争を歌にする時、意識して旧日本軍のイメージをはずしている、例えば「兵」「兵隊」ではなく「兵士」という言葉を使って、どこか無国籍風のつくりにしている点を指摘した。茂吉の歌に対しては、茂吉の物の見方の特徴として、全体像を見ていない、物として面 白いものを局部的に見ている、と述べた。
 全体を通して、小池は一つの歌一つの問題それぞれに対して、個別 に考えを述べていた。訥々とした話し方も魅力であり、茂吉の物の見方が前衛にも通 じるものがある、茂吉の歌の特異な部分に短歌の今後の可能性がある等々の指摘から、茂吉が現代でも人気のある理由の幾許かをつかむことができた。
 一方、穂村は問題点を二項対立的な対比で捉えながら、いくつかの事象を上手く分類していた。それを通 じて、問題点を明確にし、時代や短歌の課題について大きな視点で提示していたと思う。挙げられた二首にしても、私が自分でレジュメを見ているだけでは、ただ歌が並んでいるだけだったが、穂村が作者の対象へのまなざしという点で対比させた時、それぞれの歌が時代背景と作者の個性と共に立ち上がってくるように感じた。
 しかし、穂村が、二首の対比のみを以て茂吉と塚本という歌人の対比に換え、さらに近代と戦後という時代の対比に換えていくのを聞いていると、次第に違和感を覚え始めた。この茂吉・塚本の対比は穂村の近著『短歌の友人』の中でも論じられていることだ。少しその部分を引用する。

 〈近代〉を代表する歌人として斎藤茂吉、〈戦後〉を代表する歌人として塚本邦雄を想定するとき、我々は次のような印象を抱かないだろうか。すなわち塚本邦雄の歌は確かに凄い、でもどこかオモチャのようでもある、一方、斎藤茂吉の歌はやはり凄い、そして全くオモチャのようではない、と。この印象の違いはどこから来るのだろう。
                  「三つの時間」(『短歌の友人』二〇〇七)

 近代歌人の中で斎藤茂吉が、戦後の歌人の中で塚本邦雄が傑出した存在であったことは論を待たないだろう。しかし茂吉は近代歌人の、塚本は戦後の歌人の、典型と言えるだろうか。その彼らをそれぞれの時代の「代表」に想定するのは、甚だ無理があるように感じる。むしろ彼らは時代の枠組みに収まらないところこそが魅力なのだ。この傑出した二人の歌人を、それぞれの時代の「代表」として挙げ、その歌を対比することは、果 たして近代と戦後を対比することになるだろうか。二つの傑出した個性の対比に終わってしまう、つまり、個性に還元すべき次元の問題を、時代に還元しているのではないか。近代と戦後という対比にするのならせめてもう一人、北原白秋なり近藤芳美なりを挙げ、近代・戦後の分析をもう少し丁寧にしないと論に無理が生じるだろう。
 穂村は一つの個別的な事象を鮮やかに説明した後、それを全体に当てはめていくという論理展開を用いることが多い。例えば、対談中の、現代は誰もが塚本のような映像を見る視点で現実を見ている、などのまとめ方である。穂村が「今はこれこれな時代ですから、歌がこうなるんです」的な大まとめの意見を言い、小池が「いや、みんながそうじゃない、少なくとも自分は違う」といった反論をする場面 もあった。
 確かに対比点に対する穂村の目の付け所は鋭いし、名前をつけるセンスは抜群である。今までにも、「わがまま」「棒立ちのポエジー」「圧縮と解凍」など穂村の作った用語が歌壇の論を活性化してきたことも事実である。穂村が、事象を単純化してそれに魅力ある名前をつけた上で、対比する点を明確にして問題を提示した時、目の前の霧が晴れたように感じる読者もいることだろう。
 しかし、明快で分かりやすいことには常に落とし穴がある。単純化したときに零れ落ちてしまうもの、そこにこそ大事な問題があるのではないか。近代の代表を茂吉、と言った時点で短歌の近代の大事な問題点が多く抜け落ちてしまう。戦後の代表を塚本、と言った時点でも同様である。そしてその代表を全体に当てはめた時に、論は最初の鋭い分析から随分離れた地点に到達してしまうのではないか。先日の対談で小池がポツポツ反論していたのはそうした点であると感じた。

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