風景と自己の絡み合い――前登志夫の死
text 吉川宏志
前回、大辻隆弘氏が非常にこだわって書いているメルロ・ポンティの件だが、学術的に読むことはもちろん大切なのだけれど、発想のヒントとして自由に読むことも、そんなに悪いことではないように思う。特に『見えるものと見えないもの』は、現代詩のようなフレーズもしばしば登場する著作で、とてもおもしろい。専門家だけのものにしてしまっては、もったいない気がするのである。たとえば、
「多くの画家たちが語っているように、(事物を眺める)わたしは、事物から眺められていると感じる。」
というフレーズも、とりわけ印象深い。正岡子規は、ずっと草花を眺めて写
生していたのだが、死の直前、草花から見られているという感覚を捉えた歌を残している(「病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも」)。こうした共通
性をもつテクストを関連づけることで、自由な発想を広げていくことも、私たちには許されているだろう。
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前登志夫氏が亡くなられた。葉書のやりとりが何度かあっただけで、ほとんどお会いしたことのない歌人だったが、寂しくてならない。もっとお話をうかがう機会をもてばよかったと悔やまれるのである。
いま、『前登志夫歌集』(国文社)に収められている評論を久しぶりに読み返していて、次のような一節に心を惹かれた。
「風景が、その内面に深く蔵っているフォルムを、われわれの前にあらわすのは、われわれの根源的な働きかけに風景が応じるからであろう。表現とは、その意味で生活的なものに根ざしている。世界と自己との、こうした認識の相互性を成り立たせている一つの時間を思わずにはおれない。」(「谷行の思想」)
私は、このような風景観に、非常に共感する。
わかりやすい例をあげると、建礼門院右京大夫に「月をこそながめなれしか星の夜の深きあはれをこよひ知りぬ
る」という歌がある。恋人であった平資盛を亡くした悲しみのなかで、彼女は星空の「深きあはれ」を初めて体感するのである。当時は、星空をしみじみと眺める慣習は(七夕を除いて)あまりなかったらしい。「根源的な働きかけに風景が応じる」とは、人間の感情に応じて風景がいきいきと浮かび上がってくる現象を指している。
だが大辻氏の視点からすれば、これも「世界」対「自己」という形で二元論的に捉えている発想ということになるのだろう。そのような二元論を、前登志夫はどのように超えようとしていたのであろうか。
さらに読み進めていって、次のような一節に出会い、私はぎょっとした。前登志夫は、斎藤茂吉の「うつせみのわが息々(そくそく)を見むものは窓にのぼれる蟷螂(かまきり)ひとつ」という歌を挙げ、こんなことを書いているのである。
「茂吉においては、自然を見ることは、同時に見られていることでもあった。そうした自然のもっているデモーニッシュな性格に、茂吉は誰よりも敏感であった。」
(「わが山河慟哭の歌」)
なぜこのように、「物を見ることは、物から見られることだ」という思惟が、さまざまな芸術家のなかに共通
して存在するのだろう。じつに不思議で、興味深い問題である。「世界」対「自己」という二元論を超えるみちすじの一つが、もしかしたらここに存在するからなのかもしれない。軽々しく結論を出さずに、じっくりと考えていきたいテーマである。
なんとなく女になりうる心地して菜の花の村に雪ふるを見つ
母の字を指にて書けり春山の雪やはらかくすこしにじみて
生前の最後の歌集となった『落人の家』から引いた。私はこの二首について次のように書いたことがある。
「一面の黄色に、白い雪があたりをぼんやりとさせながら降りかかっていく。夢幻的な風景である。その風景が、見ている作者のなかに入ってくる。だから『女になりうる心地』が生まれてくるわけである。」「『母』という字を雪に指で書いた。すると春山の雪がそれに応えるように滲んできたという。風景との交感が美しく伝わってくる歌である。」(「ヤママユ」2008年2月号)
晩年の前登志夫の歌集には、やわらかな身体感覚を通して、風景と自己が絡み合っている様子を描いた歌をいくつも見つけることができる。こうした歌の良さをどのように継承していくか。それはとても大きな課題であると私は思う。歌とは、ただ保存しているだけではだめで、同じ思いを誰かが繰り返し歌い続けなければ、蒸発するように消え去ってしまうものなのだ。
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