恋の歌の新しさとは?
text 吉川宏志
今年の歌壇賞は、柳(※【編集部注】本来は「木夘」の字です)澤美晴の「硝子のモビール」30首が受賞した。
くちびるをわれの額に載せたまま髪の先まで眠るきみあり
対話するときの言葉もひとりごとめく夕暮れよ 燕が遠い
先に寝ているねと綴る化学式書きつけてあるノートの端に
三首目からもわかるように、化学者である「きみ」との、どこかすれ違っているような恋愛が描かれている。二首目の「対話するときの言葉もひとりごとめく」という表現に直接的にあらわされているように、一体感を求めて得られないさびしさが、根底にあるのだ。「きみ」が眠っていたり、自分のほうが先に寝たりという場面
を描くことで、自分と相手がすれ違っている印象は、さらにくっきりと伝わってくる。「髪の先まで眠る」といった表現に、リアルな身体感覚があるのである。
きみにわたしの望み重ねる切なさの籠いっぱいの汚れた白衣
剃刀がまぶたに触れるやさしさで忘れられてもいいよきみには
これらは、かなり解釈の難しい作だが、作者の心理の襞がこまやかに言語化されていて、味わい深い歌になっていると思った。「きみにわたしの望み重ねる」とはどういうことだろう。汚れた白衣があふれているような研究生活を「きみ」が続けることを理想として望みながら、その一方で「きみ」に思うように逢えないさびしさを抱いているのだろうか。ほかの読み方もあるだろうが、矛盾した心理を丁寧に歌おうとしている姿勢に好感をもった。また二首目も「剃刀がまぶたに触れるやさしさ」という表現がおもしろい。剃刀のような残酷さをふくむ「やさしさ」とはどのようなものだろう。読者はこうした表現に立ち止まって、その意味をじっくりと考え続けるしかない。静かさの中に、読者をふっと立ち止まらせる内面
の奥行きをもっていることが、柳澤美晴の歌の美点であろうと思う。
「短歌」(中部短歌会)二月号の短歌時評で、菊池裕は「きみにわたしの」「剃刀が」の二首を挙げて、
「この一連を通読して良質な抒情歌だと思うには、思うのだがなにやらクラシカル、端的に云って古臭いのだ。掲出歌に限って云えば、「きみ」の実態がよく伝わってこない。いわゆる類型的な「きみ」でしかない。「きみ」=「私」に還元されてしまっているんじゃないか、などと疑問は尽きない。」
「破綻なく、均一の歌がこぢんまり纏まっている感じ。だから驚かない。怖くない。」
と酷評しているのだが、あまりにも性急に裁断してしまっているのではないだろうか。これらの歌から「きみ」がどのような人間かは、確かにわからないけれど、柳澤が表現しようとしているのは「きみ」と「わたし」とのあいだにある、一体感を味わえない関係そのものなのだと思う。だから菊池の批判はポイントがずれている感じがする。そして、菊池はこの二首をどのように読んだのだろう。先にも書いたように、私はこの二首はかなり解釈に迷う(いい意味で多義性がある)歌だと思う。批判をするのであれば、菊池自身の読みをきちんと示してから行うのが最低の礼儀なのではなかろうか。
また菊池は「古臭い」「驚かない」「怖くない」という言葉で非難しているのだが、恋の歌は必ずしも斬新な表現である必要はないのではないか。恋の思いを、誠実なかたちで表現することがまず大切なのであって、無理をして新奇な表現を作り出すことはないのである。恋の歌には、素直さや純粋さのようなものが最も重要で、それを失ってしまった歌は、結局読者の心に響かない。
柳澤美晴の歌には、自らの恋の思いに誠実に向き合おうとする態度があり、私はそこに最も期待感をもつ。ただ、不安がないわけではない。「歌壇」3月号に、受賞第一作が掲載されているのだが、
あ/フリーズ/逢いた/フリーズ/いくらでも強制終了できる恋かも
といった目新しいような技巧に走っている歌がいくつか見受けられた。柳澤がそれを「古臭い」「驚かない」からの脱却だと、もし考えているとしたら危うい。ほんとうの新しさはもっと別
なところにあるのではないですか、と作者に伝えたいのだが、伝わるのかどうかわからない。
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