レッテル貼りへの悲しみと怒り
text 吉川宏志
短歌史には名前を残しているけれど、現在あまり読まれていない歌人が存在する。大野誠夫(1914−1984 茨城県生まれ)もその一人であろう。
坂出裕子の『無頼の悲哀 歌人大野誠夫の生涯』が刊行された。大野の歌と人生を丁寧にたどった労作である。驚かされるのが、大野の生い立ちの凄まじさだ。非常に富裕な家に育ちながら、母の虐待を受け、下男のような生活をさせられる。後には家を追い出され、資産を継ぐこともできなかった。しかし、家名に傷がつくという理由で、大野はそうした家庭の秘密を歌にせず、晩年までほとんど人に語ることもなかったのである。それ以外にも二度も妻子と離別
するなど、さんざんに辛酸を舐めた人であった。私もこの一冊を読むまで、大野がそんな人生を送っていたとは全く知らなかった。三省堂の『現代短歌大辞典』にも、そうした境涯については少しも触れられていない。
当時も、私生活を語らない得体のしれない人と思われていたようである。それは大野の作品の評価にも微妙な影を落とす。第一歌集『薔薇祭』は戦後の焼け跡風景を描いた歌が中心で、傷痍軍人や浮浪児や娼婦などの姿を詠んだ歌が数多くあらわれる。
地下道のうす暗がりにいのち生き哀しき子らはいかに育たむ
大野の人生を知って読むと、自分と同じように親の愛情を受けられなかった子供たちへの共感が込められていることがわかるのだが、それを知らないと、浮浪児への単なる〈同情〉のように見えてしまう。〈同情〉は傍観的な態度より、かえって反発を買う可能性があるのだ。私もかつて『薔薇祭』を読んだとき、こうした歌が非常に嫌味に感じられた記憶がある。
また大野は病気のために軍隊体験をもたなかった。そのために戦後、〈厳しい体験を戦時中にしなかった人〉という目で見られることもあったようである。坂出裕子は、
「戦争に直接かかわることの出来なかった者には、本当の戦後もまたなかったのである。」
と述べているが、この言葉は重い。そのため大野は〈戦後派〉とは扱われず、〈戦後の風俗を詠んだ歌人〉という一段低い位
置づけをされることになったのである。さらに、歌に「フィクション」があってもよい、ということを(創作では当たり前のことなのだが)、或る意味で不用意に発言してしまったために、真実の歌ではないというレッテルを貼られてしまう不運もあったらしい。
「『通俗詠』『フィクション』というレッテルを貼られ、読む価値がないと見なされた歌集はどんどん棚の奥に追いやられ、読まれることが少ない。中身を知っている人が、ほんとうは少し違うんだよと言う声は、レッテルの前に無力で、レッテルのひとり歩きは止まらない。」
という坂出の悲しみと怒りに満ちた言葉を、私たちは真摯に受け止める必要があるであろう。現代でもこのようなレッテル貼りは相も変わらずに行われているのではなかろうか。歌集はレッテルに惑わされず、自分の目で判断して読む必要があるのである。
ただ、
「短歌の世界では、最近に至るまで、作者の個人的情報は作品理解のために不可欠な要件と見なされ、作品の評価にも関わってきた。(中略)短歌は、芸術として、文学として、作品だけでは自立しえない詩型として認識されているということなのだろうか。」
という坂出の問題提起は、やや性急であったかもしれない。同じ言葉であっても、作者の人生を知っているか知らないかによって、〈読み〉が大きく変わることがある。それは短歌のマイナス面
であると同時に、プラス面でもあるのだろう。「作品だけで自立する」ことを目指すことは、かえって短歌の可能性を狭めることになるように思うのだ。
少年のわれを襲ひしゆゑ知らぬ女豹(めへう)の飛べるごとき恐れよ
『胡桃の木の下』
という歌は、坂出の読みによれば、虐待をしていた母を象徴的に描いていることになる。現実の母をそのまま表現することができなかったので、このような比喩表現が用いられることになったのだろう。この一首だけを読めば、それほどいい歌とは思えないのだが、坂出の読みが加わることによって、とても印象深い歌へと変貌する。このように、優れた〈読み〉によって奥行きの深さが生まれてくるのが、短歌の醍醐味なのだ。作品だけで自立することが全てではないのではないか、というのが現在の私の考えである。
私は大野の歌をそれほど読んでこなかったのだが、坂出が彼の人生と歌を関係づけて読むことにより、大野誠夫の歌の良さを再認識させられた。坂出裕子さんは非常に貴重な仕事をされたとおもう。
末尾に、本書の「大野誠夫百首抄」から、少しだけ彼の歌を引用しておきたい。
北風を知らぬ反面が樹にありと書きし日記を思ひ出でて探す
『薔薇祭』
妻の身にめざめしいのち鮎のごとくひと日光れりわれのかたへに
『行春館雑唱』
空谷(からだに)に満ちてこゑなき日のひかりいつぽんの枯木包みはばたく
『水観』
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