解体されていく「情緒」
text 吉川宏志
「現代詩手帖」七月号から「討議近代詩」(野村喜和夫+城戸朱理)の連載が始まった。第一回は吉本隆明がゲストで、次のようなエピソードを語っている。
一九六〇年ごろ、品川駅で学生とともに国電を通さない闘争をしていたところ、いつのまにか学生が「赤とんぼ」(三木露風)を歌いだしたという。
「赤旗の歌でも「インターナショナル」でもないんだね。学生さんが危機的状況のなかで突然思い起こしたのがこの歌で、それが大合唱になったのを覚えています。日本的な情緒、情念、形式、内容、音数律、それがそれなりにみんな一致している。」
それに対して城戸は、
「まさにある種の日本列島的な自意識と感受性みたいなものの在りかを示しているとしか言いようがない。そこには何か真綿にくるまれるような快い絶望があるような気がします。」
と応えている。
ある意味でこれは戦後まもないころに出た第二芸術論の繰り返しであると言える。「ゆうやけこやけの/あかとんぼ」という七・五調の音数律に籠もりやすい日本的な情緒を、批判的に捉えるところから、現代の詩歌を生み出していこうとする姿勢である。それが重要な視点であることはよくわかっているのだが、戦後六十年を経た現在でも、同じ構図が生きていることに、いささか驚きを感じずにはいられなかった。
逆に、ベストセラーになった藤原正彦の『国家の品格』では、日本的な「情緒」が現在失われてきていると捉え、その再評価を提唱している。藤原の目からすれば「赤とんぼ」を歌って何が悪い、ということになるのではないだろうか。前回書いた「感動」を求めるメンタリティーとも底辺ではつながっているのかもしれない。
これはあくまで現象だけを見たうえでの感想だけれど、これほど「(日本的)情緒」に対する評価がねじれている時代も無いような気がする。現代詩は「情緒」を一種の仮想敵として成立してきた一面
があったのだろうけれど、詩の外側から見れば、なぜ「情緒」に抵抗しているのか、その理由が見えづらくなっている。現代短歌でも同じことで、「五・七」のリズムに先天的に「情緒」が宿るとは信じられなくなってしまった。
あの子紙パックジュースをストローの穴からストローなしで飲み干す
盛田志保子
という歌など、いちおう「五・七・五・七・七」のリズムになっているのだけれど、小池光は「短歌じゃないと私は感じる」と発言している。短歌的な「情緒」は抵抗する対象ではなくなって、なし崩し的に解体されていっている。それでいいのか、というのが今最もアクチュアルな問題なのだと思うが、「情緒」を肯定するか否定するか、という二項対立的な問いに、今でも落とし込まれてしまいやすい。第二芸術論のように、是か非かという二者択一を迫るのではなく、問い自体を組み換えるべき時期が来ているのではないか。
八十五歳になるという米口實の歌集『流亡の神』が出た。
砕氷にしづめて冷ゆるしろがねの瓶子を採りて酒を飲みたり
人生の余白に遊ぶ夕つかたあぢはひうすき川魚を食む
ジョウビタキ啼きつつ山を移りゆき剥がれて落つる午後の日差しは
古調なのだけれども、湿っぽい感じはせず、むしろドライである。老いを歌った歌も少なくはないのだが、五・七・五をくっきりと刻んだリズムが、若々しい張りを与えている感じがする。
この文章で私は「情緒」という言葉をあまり疑いもなしに使ってしまったけれども、短歌的な情緒というものも、決して一つに固定化できるものではない。「赤とんぼ」のようなしみじみとした懐かしさだけがすべてではないのである(もちろん私は「赤とんぼ」の情感の良さも認めているのだが)。そのような微妙な差異をどのように伝えていくのか。それが短歌に関わる私たちの重要な仕事であるのかもしれない。
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