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◆ 社名の歴史 ◆
「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆ふたたび社会詠について(「かりん」2006.11月号より転載)
ふたたび社会詠について
text : 小高 賢

 岡野弘彦最新歌集『バクダット燃ゆ』に次のような作品がある。

  地に深くひそみ戦ふ タリバンの少年兵を われ は蔑(な)みせず
  十字軍をわれらたたかふと 言ひ放つ 大統領を許すまじとす
  ひげ白みまなこさびしきビンラディン。まだ生きてあれ。歳くれむとす
  砂あらし 地(つち)を削りてすさぶ野に 爆死せし子を 抱きて立つ母
  国敗れて 身をゆだねたるアメリカに いつまでも添ひて 世を狭めゆく

 私たち日本人の心情がよく出ている作品だ。アメリカをまったく支持していない。三首目のように、ビンラディンにこころが傾いている。しかし、政府はアメリカ支持を声明し、アフガン空爆の際にはインド洋まで、現在のイラク戦争では、実際にはじめて海外に自衛隊を派遣した。
 近年、奇妙に思えるのは、日米同盟という単語である。おそらく小泉政権以前には存在しなかった固有名詞である。新聞も躊躇なく使う。日米安全保障条約の存在が基礎になっている。その上で、最近、より密接な関係が築き上げられたという意識のもとで使われ出したにちがいない。
 岡野の作品にもどれば、感情のレベルでタリバンへの肩入れがうかがわれる。五首目のような苛立ちがある。なぜアメリカに追随しなくてはならないのか。その気分は、たしかに私たち読み手も共有している。
 しかし、国として日米安全保障条約を批准している。アメリカに身をゆだねざるをえない側面 がある。政治的な事実だ。五十年近く私たちは安保という手の上にいる。日本国内に基地をもつアメリカが攻撃された場合、当然のように共同歩調をとることになる。その意味ではたしかに日米同盟なのだ。五首目を推し進めれば、安全保障条約をどうするのかという議論になるはずだ。短歌はそこまで考えなくてもいいのかもしれない。しかし、現代の社会詠を思うとき、はたして力をもつのだろうか。
 私たちの天上に日米安全保障条約が覆っている。事実上、安保は日本国憲法の上位 概念として存在しているのではないか。アメリカの世界戦略の変化のたびに憲法解釈がゆがみつづけていることは、歴史的経過を見ればあきらかだ。第九条は大事である。しかし、皮肉なことに安全保障条約とセットであった側面 もある。
 現在、憲法論議がまきおこっている。改正論者もいる。九条絶対死守の立場もある。ただ、不思議なことに、いずれにしても、その議論のなかに日米安全保障条約をどうするという視点が薄いことだ(沖縄以外の地域で)。
 沖縄が大半負担している現在の基地問題。日本から出て行ってもらいたい。私たちの願いだ。しかし、そのためにはアメリカとの安全保障条約を考えなおさなければいけない。憲法違反だから、自衛隊は解散し、日本は丸腰になるべきだ、という意見もあるだろう。一方、自前の軍隊にして、戦力を保持するという意見もないとはいえない。
 自衛隊だけではないが、多くのことをアメリカに依存している現実を、本当は遡上に載せなくてはならないはずだ。でも私たちのほとんどが、眼を塞いでいる。いちばん基本的なところで、未来像の構築を回避している。
 短歌の鑑賞に、こんな素人の生硬な論議を持ち込んだのはほかでもない。現在の社会(世界)のありようを、どうしたら短歌が扱えるかを考えてみたかったからである。自分の戦争体験を重ね合わせて、現代の悲劇をうたいあげた岡野作品に共感、同感することは多い。しかし、どう考えても、対象や主題に対しての感慨や視線は、外部からのものである。爆撃する、される、その外側に立っている。爆死した子を抱く母には、同盟国の日本にも責任がある。そしてお前にもある。なぜアメリカを止めてくれないのか、と抗議する権利はあるだろう。その視点に対して、どう応えられるだろうか。
 二首目に「大統領を許すまじ」といっている。その大統領の横槍じみた要請に応じているのは日本である。そのことに私たちは怒りや恥を感じているのだろうか。
 外側に立っている社会詠だというのは、そういった意味である。岡野を特別 にあげつらって問題にしているのではない。岡野にかぎらず、現代の社会詠は、外部に立たざるをえない。立たなければ歌えないことも事実なのである。誠実であればあるほど、そうなってしまう。そのむずかしさをいっているのである。

  されど日本はアメリカの基地日本にアメリカの基地があるのではなく
                  (馬場あき子『九花』)
  一度もまだ使いしことなき耳掻きのしろきほよほよ 海外派兵
                  (佐佐木幸綱『百年の船』)
  爆撃のテレビニュースに驚かず蜘蛛におどろく朝の家族は
                  (小島ゆかり『憂春』)

 それぞれリアルだし、先にいった困難さを十分に意識している。発見があるし技術的にも巧緻にできあがっている。おそらく現代短歌のすぐれた作品であることは間違いない。
 一首目。結果として、日本がアメリカの従属国になっている現実が詠まれている。上二句の事実の指摘こそ、まさに安保の問題だからだ。ではどうするのか。もう私たちは、その先に一歩出ていかなければならないのだろう。
 戦後史は、アメリカの世界戦略で、日本が蹂躙されてゆく歩みでもあった。日本国憲法発布された直後、ダレスは日本の再軍備を主張する。朝鮮戦争の戦況が不利になったからである。恒久平和をうたった憲法を押し付けてから数年もたっていない。その圧力に、吉田茂は苦肉の策として保安隊を創設し、それがいまの自衛隊に発展している。まさにアメリカの都合なのである。それが憲法解釈の変遷になってあらわれていることはいうまでもない。
 二首目の海外派兵など、その際たる例であろう。いままでは軍隊を外地に派遣しなかった。できないという解釈だった。それが、あっという間にイラクに自衛隊が派遣される。小泉首相の国会での迷答弁に象徴されるように、きちんとした裏づけはない。単にアメリカの要請と日本の追随があるだけなのだ。佐佐木の作品はその微妙さをじつにうまく作品化している。絶妙の比喩である。
 だが、気になるのである。私たちはこの作品をどう感受しているかという点である。怒りとか、切迫感をうしなっているのではないか。「なるほどなあ、そうだよなあ」で終わっていないだろうか。
 現代の社会詠、時事詠のむずかしさはここにシンボリックにあらわれている。いうまでもなく、技術的に優れていなければ作品は読まれない。しかし、うまくできていると、逆に読み手が「フーン、うまいなあ」で終わってしまうきらいがあることだ。おそらく、この海外派兵の作品も、岡野の例でいったように、作者が外部に立っていることで、読み手に題詠的にしか感受されないことから来ている。
 小島ゆかりの作品もうまいなあと思う。画面では殺戮が続いている。いまやイラクは内乱状態ともきく。自爆テロで何十人死んでも、一行のニュースにしかならない。アフガニスタンのことなど、だれも気にしようともしない現実。作者はその自分たちのありように意識的だ。爆撃に驚かず、蜘蛛の出現に騒ぐ家族。どこかおかしいのではないかと自省している。誠実な作品だ。しかしここでも、気になる。その先がないのだ。ここで止まってしまう。
 「新しき国興るさまをラヂオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな」(土屋文明)、「中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ」(宮柊二)、「世をあげて思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ」(近藤芳美)といった作品は、先に挙げた馬場などにくらべ、かなり素朴なつくりである。技巧的でもない。直叙的だ。しかし、それゆえに読み手に届くものがある。その差。これは私たちに到来している困難さではないだろうか。
 つまり、作者は外部に立たざるをえない。社会や時代は、私たちのはるか彼方を通 過しているようにして動いている(そうしか見えない)。社会に対して鋭敏でありたい。歌人として、人間として、少しでも作品の上で訴えたい。その誠実な対応が挙げたような作品なのだ。ところが巧緻なゆえに、あるいはうまく出来ているために、意外にひびいてこない。そのアポリアが私たちの前にある。

  おそらくは電子メールでくるだろう二〇一〇年春の赤紙
              (加藤治郎『環状線のモンスター』)
  NO WARとさけぶ人々過ぎゆけりそれさえアメリカを模倣して
              (吉川宏志『海雨』)
  熱いお茶に淹れかへようか遠国の戦さがどうやら 終りへむかふ
              (林和清『匿名の森』)
  戦争をなくす呪文を口々に唱えて人のつらなりが すすむ
              (松村正直『やさしい鮫』)

 下の世代的の作品をみてみよう。私は、このような作品にかなりの危惧をもつ。一体、社会と自分の関係をどう考えているのだろうか。危機感がゼロのように見えてしまう。加藤の電子メールと赤紙のとりあわせ。どう読んでも他人事である。二〇一〇年はまもなくである。そんなことが現実的にありえない。何かをいえたと思うのはかなりの錯覚ではないか。吉川宏志の場合も同様である。だからどうなのかという視点。それに自分は何なのだろうという照り返しが少ない。松村の作品も吉川に似ている。社会の現実とどこか切断されている。そこに自分を差し出して、対象と自分という二分法を変化させるという欲望は希薄である。林はあえてニヒルになっている。絶望的な状況認識といっていいのかもしれない。だから反社会的に詠むのだろう。しかし、世界の現実に無関心ではないよというポーズにしか見えない。
 岡野たちは巧緻だが、外部に立たざるをえない。そうでないと、歌えないからだ。加藤たちは内部から詠もうとする。自分の気分に正直に対象を掬おうとする。すると、作品は観察に終わる。つまり自分たちの言動が、対象やテーマに近接できないという断念が透けて見えてしまう。
 ともかく社会を歌えばいいという素朴な意見は論外であるが、社会や世界に関心をも持っていても、なかなか作品とし結実しにくい。題詠に陥らず、かつ読者と感情を交換できる作品とは、どういうものだろうか。現代短歌は困難な場に立たされている。

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