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「青磁社」という名の出版社は私たちで3代目となります。 第一次青磁社は昭和初期に歌集出版などを手掛けていました。 第二次青磁社は昭和40年代頃に詩集出版をメインに、やはり歌集も出版していました。 歌集出版にゆかりある社名を引き継いだ使命を、今後十二分に果たしていく所存です。


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◆ 週刊時評 ◆
川本千栄・広坂早苗・松村由利子の三人がお送りする週刊時評(毎週月曜日更新)

「行けるなり」について
text : 大辻隆弘

 吉川宏志氏の時評を読んだ。基本的な認識は共有できているように思った。
 なによりも、氏自身「行けるなり」という語句を「作者としても、壊れたような奇妙な感覚を生み出すことが狙いだった」と言っているところに安堵した。吉川氏はこの歌を作るに際して、「行けるなり」という破格な語句に違和感を感じ、その違和感を「やけっぱちな気分」を表現するために利用したのである。少なくとも、氏自身は「口語脈をきりっと引き締める」(大口玲子)ような意図で「なり」を使ったのではない。その意味で、吉川氏は、文語と口語に対して、通 常の繊細な感覚をもっていることが私にも理解できたのである。
 そもそも、先に私が「グロテスク」というやや感情的な言葉を使ってまで「行けるなり」という語句を批判したのは、この語句の中に口語と文語の無秩序な混交を見たからであった。「行けるなり」は1文節の語句である。その1文節の語句のなかに口語文法に支配された「行ける」という可能動詞と、文語助動詞が、シンタックスを無視して接続されているアナーキーな状態。思えば、そのアナーキーな状態を私は「グロテスク」という語句で表現しようとしたのだった。
 それはたとえば「おなじ絵を時をたがえて見ていたりあなたが言った絵の隅の青」(『曳舟』)というように、二文構造を持ち、なおかつ文語文と口語文が上句と下句に並置されている歌とは、あきらかに異なった位 相にある現象だ。「行けるなり」は、1文節のなかで口語と文語がおじやのようにぐちゃぐちゃに溶解してしまっている。たしかに口語短歌は成熟してきつつあるが、現時点において日本語の通 常のシンタックスを無視した「行けるなり」を認めてしまうのは時期尚早なのではないか。先に私が言おうとしたのは、正確にはそういう危惧だったのである。
 このような事態は、すでに97年に「たいらし調」という用語でもって指摘されていた事態であった(大辻隆弘「試金石としての『たいらし調』」参照)。今回の「行けるなり」に対する大口玲子の肯定的評価は、この「たいらし調」が、8年を経て短歌の文体のなかに何の違和感もなく定着しつつある状態を象徴しているように思えた。私はあの時評を書きながら、そのことに焦燥を感じていたのかもしれない。
 吉川氏は「〈正論〉だけでは創作の現場は成り立たない」「批判を恐れて自粛することもない」と言う。私もその言葉には同意する。が、その一方、たとえ方便とはいえ「行けるなり」といった語句の容認が、口語と文語の「おじや化」という現象に加担することに繋がるのだ、という自覚は忘れない方がよい。もし、歌人たちのすべてが「行けるなり」という語法に違和を感じない時代が来てしまったならば、「行けるなり」の違和感を逆手にとって「やけっぱちな気分」を表現しようとした吉川氏の意図は、誰にも理解されなくなってしまうだろう。それは氏自身望むところではあるまい。彼自身言うとおり「濫用」は好ましいことではないと私は思う。
 今回の対話で私が学んだことは、日本語という実体化できない「生きもの」をとらえることの難しさであった。有意義な議論を喚起して下さった吉川氏に感謝している。

★「試金石としての『たいらし調』」は私の掲示版「水の回廊」で読むことができます。 http://6060.teacup.com/otsuji/bbs

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