ご都合主義的言語観
text : 大辻隆弘
角川短歌9月号の特集は「短歌における口語と文語」である。実作のためのハウツウものの企画だが、そのなかに「口語体に文語が入った秀歌」という項目が立てられているのがおもしろい。口語体の短歌がすっかり定着した今の短歌界の現状がうかがえるからだ。
例歌は次のようなものだ。
やわらかいスリッパならばなべつかみになると発熱おんなは云えり 穂村弘
みどりごと散歩をすれば人が木が光が話しかけてくるなり 俵万智
これらの歌は、口語文体にも関わらず結句に文語の助動詞が使われている。こうすることによって「深みと手ざわりを出すことに成功している」(東直子)「文語体でまとめると落ち着きが生まれる」(松坂弘)と評者はいう。
ここにあるのは、「効果さえあれば、時代を越えた言語を併置してもかまわない」という、きわめてご都合主義的な言語観であろう。結句に文語を入れると短歌らしくなる。文語でまとめると深みや重みが生まれる。それだけが大切であって、その言葉がその背後にどんな歴史を担っているかは無視してかまわない……。そういう功利主義的発想が、ここには顔を出している。
たしかに、何をもって文語とし何をもって口語とするかは、議論が分かれるところだろう。また、文語と口語の混交は、なにも今に始まったことではなく、と指摘する人もいる。が、言語の歴史性を無視して恣意的に、勝手気ままにつなげてもよい、という発想が無条件に許されてよいとは、私は思わない。
たとえば、この特集のなかで大口玲子は、吉川宏志の「旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月でる」の一首をあげて第三句「なり」に「文語助動詞の力」を感じると言っている。私には信じがたい。通
常の言語感覚からすれば「行ける」という口語の可能動詞に「なり」という文語の助動詞をつなげた「行けるなり」という語句は、グロテスク以外の何ものでもない。これが「口語脈をきりっと引き締めている」などとは、到底思えないはずだ。もしここに「文語助動詞の力」を感じるとしたら、それは歌人の語感の衰弱なのではないか。
かつて上田三四二は、短歌を「日本語の底荷」だと言った。そこには、滅びつつある日本語を支える最後の砦が短歌であり歌人である、というプライドがあったはずだ。日本語への愛も、言葉を携わる者としてのプライドもかなぐり捨て、ひたすら自己主張に邁進する歌人たち。それを見るのは、つらい。
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