歌を捨てる力
text : 吉川宏志
佐藤通雅の第八歌集『予感』は、ゆったりとした文体に味があって、とてもいい歌集であった。たとえば、こんな歌。
春草はほこほこ生ひて山の辺の墓碑ねんごろに包みをるなり
庄内に入るころほひの無人駅天つくばかり花の大桐
南野(みなみの)は無人駅にて女男(めを)ふたり降り行きたれどやがて分かれぬ
三首目の歌は、夫婦あるいは恋人と思って見ていたが、実は他人で、別
々の方向へ向かって歩き出した、という場面を詠んでいるのだろう。何でもない光景だが、不思議に忘れがたい印象を残す。佐藤は、墓場や無人駅といった人気のない場所を詠みつつ、懐かしい温もりを読者に感じさせる。いなくなった人の気配がまだ残っているように。
ただ、正直に書けば、最近の佐藤の歌を、私はさほど魅力的に感じていなかった。佐藤の個人誌「路上」は昨年百号を迎え、彼は三百首詠を発表している。しかし、「個の領域に人を追ひこむシステムが強権の温床であり企みである」「朝ドラはまたもヒロイン。若いだけで売れる時代はもう終ったつーのに。」など、自分の思想や感情をあからさまに書いた歌が多かった。あまりに意味が前面
に出すぎていて、読むのがつらい感じさえしたのである。
ところが今回の歌集では、そうした歌の多くが捨てられている。自分が言いたかったことを消すのは、作者にとっておもしろくないことであろう。けれども、露骨な表現を捨てることによって、かえって歌集の奥行きは増してくる。墓碑や無人駅の歌が、豊かな存在感を持つようになるのである。捨てることも、あるいは創作の一部なのかもしれない。
先ほど〈いなくなった人の気配が残る〉と書いたが、捨てられた歌の気配も、不思議に残るような気がする。歌集はじつに空白の多い書物であるが、その空白を味わうということが本当にあるのだ。
ゴミ以下のものとして穴に放らるるかかる場面には既視感がある
これは鳥インフルエンザを詠んだ歌。作者は「既視感がある」とぽつりと言うだけで、何も語らない。しかし、この一首から私たちはホロコーストの場面
を鮮明に連想する。そして「既視感」を感じてしまうほど、人間が大量
殺害を繰り返す存在であることを、強く意識させられるのである。空白の力である。
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