虚無感からの出発
text : 吉川宏志
今年の現代歌人協会賞は、松木秀の『5メートルほどの果てしなさ』と日置俊次の『ノートル・ダムの椅子』に決まった。日置の歌には別
の場で触れることにして、ここでは松木の歌集について取り上げたい。これまでの受賞作とは、どこか異質な感じがするからだ。
日本に二千五百の火葬場はありてひたすら遺伝子を焼く
物質がはかなさという構造をとるつかのまを生命という
松木の歌の底流にあるのは虚無感であり、それがシニカルな笑いの形をとってあらわれる。一首目の「二千五百」というリアルで無意味な数字の出し方がおもしろいし、「遺伝子を焼く」という結句にはどきっとさせられる。一見軽く作られているが、「火葬場は」の「は」など、助詞の使い方にも巧さがあるのである。
ただ、こうした虚無感に歌集全体がとどまっていることに、私はかすかな苛立ちも感じた。たしかに現代の日本はどうしようもなく閉塞的であるかもしれない。未来に希望はないのかもしれない。けれども、その空しさの中で、何かなまなましい葛藤を見せてほしいと思ったのである。たとえばかつての受賞者の大口玲子の歌には、ぼろぼろになりながら空しさに耐えている痛みがあり、そこに私は心を打たれた。それと比べて、松木の歌は、絶望感をあまりにもブラック・ジョークとして完結させてはいないだろうか。傍観的な機知に終わっていないだろうか。
しばしば引用される「アメリカのようだな水戸のご老公内政干渉しては立ち去る」といった歌は、一面
的なアメリカ観をなぞっているにすぎない感じがして、私はおもしろいとは思わなかった。社会詠は、作者の存在を揺るがすような地点から歌われていないと、読者に強く迫ってこない。「核発射ボタンをだれも見たことはないが誰しも赤色とおもう」も気の利いた歌だが、やはり奥深さに欠ける。
もちろん、この歌風が松木の持ち味であることはよくわかる。だが、虚無感を繰り返し歌うだけであれば、いつかマンネリが訪れる。そこをどう乗り越えるかが課題だろう。私は、数は少ないが次のような歌に心を引かれた。
自転車を運転すればあっさりと涙出で来る季節となりぬ
松木は北海道登別に住むという。寒冷な土地に生きる実感がよくあらわれた歌であろう。こうした身体感覚を回復するところから、新しい世界が生まれてくるように思ったのだ。
|