文語を用いることに理由が必要な時代
text 吉川宏志
角川「短歌」9月号の特集「文語で短歌を作ろう!」について、「短歌現代」10月号の〈歌壇時評〉(大辻隆弘)と〈31チャンネル〉(匿名時評)がともに批判していて、なかなかおもしろかった。
「自分の主張を、字数を合わせ、とりあえず短歌の形にまとめるために、文語を摘み食いする。そこには、一つ一つの言葉が持っている歴史的な重みに対する思いや尊敬の念はこれっぽっちもない。」(大辻)
また、〈31チャンネル〉のタイトルは「文語思想論」であり、「(文語は)技術ではない。思想問題である。」という結語で締めくくられている。「思想」とは何を指すか、この文章ではもう一つ明確ではないが、〈伝統を大切にする生活態度〉のようなものであるらしい。ここにも、大辻の文章と同じように、文語をハウツー的に使うことへの嫌悪感がよく表れているのである。
話題が重なるときは重なるもので、「短歌往来」10月号は「『サラダ記念日』刊行20年」という特集を組んでおり、松村正直が次の歌などを引用しながら、以下のように書いていることにも注目させられた。
君の髪梳かしたブラシ使うとき香る男のにおい楽しも 俵万智
「それぞれ結句の「楽しも」「言えり」「あらん」といった箇所に文語の助詞・助動詞が使われている。本来、口語にするか文語にするかというのは文体の問題であり、そこにはそれぞれの作者の思想があった。そして当然、一首の中においてある程度の統一が必要なものであったはずである。それが、『サラダ記念日』においては、口語と文語の混用がしばしば行われている。冗漫になりがちな口語を定型に収めるために部分的に文語を使う、定型に字数を合わせるために結句だけを文語にするといったことが頻繁に行われている。そして、それは実用的な面
において、口語と定型との相性の悪さに一つの解決策をもたらしたと言えるだろう。」(「伝統的な二つの力」)
ここでも「作者の思想」という言葉が使われていることに驚かされたのである。もっとも松村は、「思想」よりも「実用」を優先した俵万智の方法を肯定的に捉えている。ある意味で、定型にぴったりと合わせて明るいリズムを生み出すという「実用」を大切にしたところに、俵の「思想」があったとも言えるだろう。青春や人生を、自分の言葉でポジティブに変えていこうという「思想」である。ところがその方法が一人歩きをしはじめ、文語と口語の混用が非常に安易なかたちで蔓延することになってしまった。
だから、私も基本的に大辻の意見に共感する。文語がハウツー的に用いられることには大きな違和感をもつのである。ただその一方で、文語を使うことは「思想」か、と言われると、ややためらいも感じてしまう。「一つ一つの言葉が持っている歴史的な重みに対する思いや尊敬の念」が大切だというのは正論だと思う。けれども、それが保守的なイデオロギー性を帯びてくることには警戒したい。
以前は、口語で短歌をつくることに理由が必要だった。そのころは「等身大の自分を表現するため」「同時代に広く言葉を伝えるため」といった一種の〈大義名分〉がよく聞かれたものである。ところが逆にいまは文語で作ることに理由が必要な時代になってきているのだろう。すると私たちはついつい「伝統を守る」というようなわかりやすい理由に飛びついてしまう。けれどもそこで一歩立ち止まって、文語を用いる意味をもう少し自由に、柔軟に考えていく必要があるのではないか。
おもむろに没せむとする石階(きざはし)に泥ふふむ潮(しほ)騒(さや)げ 騒がむ 岡井隆『鵞卵亭』
短歌を初めたころ、このような歌に触れて、たいへん新鮮に感じたことがあった。「さやげ さやがむ」という文語のリズムがじつに伸びやかなのだが、海をただ見つめている作者の深い孤独感も伝わってくる。潮に向かって「さやげ」と命じ、自らも「さやぐ」ことを望んでいるのであろう。激しく乱れたい願望がこの文語からいきいきと感じられるのだ。こうした文語の畳み掛け方は、古典にもおそらくあまり例がないものだろう。文語も、使い慣れてくると非常におもしろい動かし方ができるようになる。文語とは決して硬直したものではなく、自在に情感をあらわすことのできるものなのである。文語は楽しいものなのだ、という素朴な親近感が、「伝統」や「思想」の根底にあってほしい、と私は思う。
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