「虚ろなる貴方無き世界」第八章「帰らない人々」より後。
師走という言葉に寂しさを覚えずにはいられない。
いつかは叩きのめしたかった師は、去年の師走に逝ってしまった。
もう一人の師でもあった少女は、……もういない。
抜け殻のようになった研究室を預かり続けることを決意して、二人の師の代わりに自分が走ることになっていた。
陸海軍の合同部隊が大空洞に乗り込み、降魔の首魁を討ち取ったことで、ようやく町中を自由に動けるようになったことも大きい。
そんな師走である。
仮設学舎が出来、研究室の共有をしていた東洋史研が出て行ってくれたことで、ようやく大掃除に着手することができた。
地下室を埋め尽くすように待避させていた古書や古記録を整理し直す。
一部は学部生に手伝って貰ったが、あまりにも曰くありすぎのものが多く、自分でさえ触っていいのか悩むものも多い。
勢い、作業は深夜に及んだ。
研究室に泊まり込むことも多い。
どうせ帰ってやることもないので、その点では苦ではない。
もしかしたら少女が帰ってくるかもしれないというありえない思いを抱きながら、思い出深い長椅子で眠ることが、狂おしいだけで。
その日もまた、甘苦い悪夢の中にあった。
そこから、仕掛けておいた鳴子にたたき起こされる。
「何奴!」
跳ね起きるとともに、鳴子を鳴らした侵入者に飛びかかる。
闇の中でよくわからなかったが、子供のような背丈だった。
殴りかかる寸前で、それに気づき、止まる。
この時間に子供がこんなところに来るはずがない。
ならば、それが金銭目当ての盗賊であるはずもない。
この近代都史研究室に、いや、師に縁のある人物に間違いない。
「来訪を予告せずに失礼申し上げる」
人影は闇の中で一礼してから、手の中に火を灯した。
燐寸を擦った気配もなく、妖術の類であることは容易に察せられた。
長い前髪のせいでまなざしこそわからなかったが、背丈とは裏腹の苦悩に満ちた大人の顔だった。
「……我らが師の縁の方ですね」
「いかにも、水神水地新十郎に師事せし刹那と申す。
貴君のことは、あの子からよく聞き及んでいる」
心臓が跳ね上がった。
あの子、が。
「……私で何かできるとは思えませんが、貸し出しのご依頼でしょうか」
「話が早い。
銀座文書という書が、こちらの書庫にて保管されているはず。
それを借り受けたい」
断るべき依頼であることは明白だった。
この時期にこの人物が来たのは、降魔戦争の終結と無縁であるはずがない。
不穏の種となることは必定だ。
だが、断ることができなかった。
師を同じくし、あの少女のことを懐かしく振り返る人物を、帝都の敵と解っていても、敵視することができなかった。
あるいは刹那というこの人物はそう思わせるように考えて言ったのかもしれない。
……いや、そうではないだろう。
この人物が本気になれば、私を殺して奪い取ることなど容易なはずだ。
それをしないということが、師と少女に対するこの人物の思いを明らかにしていた。
「……わかりました。しばしお待ち下さい」
整理中に、嫌でも目立つ古書だったのでよく覚えていた。
師の蔵書の中でも、研究室外に持ち出すことを禁じるという呪法まで掛けられていたのだ。
そんな書物や宝物はさすがに数少ない。
だが、おそらくこの人物への貸し出しは、師の呪法も認めるだろう。
案の定、手にした古書は抵抗らしい抵抗をみせなかった。
かつては地下室への移送さえ拒んだものが。
「こちらです」
「確かに、お借りする」
受け取るその態度は、師への敬意に満ちたものだった。
「一つ忠告する。今年中に帝都から離れられよ」
唐突に、そんなことを言われた。
「……出来ません。貴方なら、それができますか」
「……そうであったな。貴君も我らが師の弟子か」
納得したように頷くと、刹那氏は速やかにその姿を消していた。
それが招く結果は時をかけずして明らかになった。
これで私も少女と同罪であろう。
そんな罪の共有に安らぎを覚える自分が救いがたいと思う。
その文書が返却されるのはそれから十年後。
すでに逝去した借り手ではなく、元対降魔部隊長、米田一基中将より返却されることになる。
対降魔部隊SS第七弾「虚ろなる貴方無き世界」第九章「忘れない楽園」に続く