虚ろなる貴方無き世界
追憶其の七
第九章 忘れない楽園
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「それじゃあ、ちょっと出かけてきますね」
「おう、日暮れまでには……あー、まあ気にしなくていいか」
ようやく以前通りの顔が出来るようになってきたか、と思いつつ、米田は、大分片づいた感のある執務室からあやめと真之介を見送った。
終結宣言以後、一匹の降魔も現れていない。
魔の力も皆無とは言わないが、以前と比べるとほとんど感じられなくなっている。
必然的に、対降魔部隊の必要性も無くなっていた。
もう、大丈夫だろう。
既に、真之介とあやめの二人は三月で完全に除隊することがほぼ決まっている。
本来なら予備役ということになるのだが、必要に迫られるのでもない限り、あんな若い二人をいつまでも軍に関わらせることはないと米田も一馬も判断したのだ。
もともと、二剣二刀を継いでいるというだけでこの二人を対降魔部隊に入れることには抵抗があったのだ。
もう魔との戦いは無いものと信じたい気持ちもあった。
ただ事務上の扱いや除隊したときの退職金の問題などがあって、年度末の三月までは軍籍のままになった。
陸軍少佐と少尉の退職金はそれほど高いわけではないが、元々給料を浪費することの少なかった二人なので、貯金もあった。
使う機会がほとんど無かった三年間でもあった。
結果、新生活のための支度金はそれなりにある。
それに、まだ結婚するわけではないのだ。
色々と話し合ったが、結局、最低でも真田先生の命日から一年は結婚しないということになった。
自分たちのために死んだ人がいるというのに、勝手に幸せになんかなれないというのがあやめの言い分であり、真之介の口に出さない思いである。
それに、二人はこれから藤枝の家と対決することになるのだ。
まだ正式に連絡したわけではないが、仮にも都の守護を司る藤枝家がまったく何も把握していないことはあるまい。
いずれ、真之介との関係についてあやめは家とぶつかることになるだろう。
結婚はそれらに決着がついた後になるはずだ。
もちろん、二人とも負ける気はしていない。
ただ、陸軍を辞めるということは今後の身の振り方を考えなければならない。
そんなわけで、四月からの新居を探しに二人は出かけていったのだ。
結婚前の男女が同棲するというのは、最近の流行になりつつあるらしい。
時代は変わったと米田も思うが、息子と娘の顔を見ていると別に構うまいと思ってしまう。
とりあえず息子の方にはちゃんと稼ぐようには言い付けてあるが、神崎重工からかなり好意的な就職の誘いが来ている。
海軍から出向していた門脇海軍少将……いや、門脇海軍大将が亡くなり、横浜工場が壊滅的な被害を受けた今、復旧ではなく復興をめざす神崎忠義にとって、真之介は何が何でも欲しい人材だろう。
以前からミカサやシルスウス鋼の製造について協力していた間柄なので、話は順調に進んでいるらしい。
本人ははっきりと口にはしていないが、真之介としてはあやめには主婦をやって欲しいらしい。
女性の社会進出盛んなこの時代に、あやめくんほどの人材を埋もれさせるのはもったいないというのが米田の印象なのだが、真之介なりにあやめに変な虫がつかないか心配しているのかもしれない。
「おや、二人とももう出かけてしまいましたか」
そんなことを考えていたら一馬が入ってきて、やけに閑散とした室内を見渡す。
一馬は裏御三家の使命が絡んでくるので軍籍から外れると言うことはないが、慰霊祭が終わった後の年末年始には一旦仙台に帰省する予定になっている。
「なんでえ、ついていくつもりだったのか?
野暮な真似はよそうぜ」
「いえ、仙台への手紙を書いたので出してきてもらおうと思ったのですが、
まあ丁度いいですから私も出かけてきますよ」
「あー、それならついでに写真屋に行って、予約とってきてくれねえか」
「おや、珍しいですね。写真をとるんですか」
「おう。……全員でな」
ニヤリと笑った米田の表情を見て、なるほどと納得し一馬は請け負った。
そういえばここまで集合写真を撮るという気にもならなかった。
写真屋という職業は徐々に帝都に広まりつつある新しい文化だ。
確か近くにあったはずだが、と思いつつ、散歩がてら探すことにした。
この一年の間、のんびりと外出を楽しむこともできなかったのだ。
常に、降魔出現の報に備えて待機しておかなければならなかった。
やっと、やっと平和になったのだ。
日清、日露が終わったときとはまた違った、どうしようもない喪失感とともに米田はそう口の中で繰り返した。
帝鉄の停車場には先に何人も人が並んでいた。
「さて、どこから回るかな」
琴音に作ってもらった帝都各地の不動産業者の一覧表を広げて真之介は少し考え込んだ。
いつも思うのだが、彼は一体どういう情報網を持っているのだろう。
軍の情報網とは系統が異なるようだが、欲しい情報はいつでも即座に揃えてくれるように思う。
「その前に、真之介。
銀座に行かない?」
真之介の片手を押さえてから、あやめは少しはにかみつつ提案した。
そうだ、やっと平和になったのだから約束を果たさないと。
真之介も異議無く頷こうとしたのだが、思わぬ所から待ったがかかった。
「水差すようで悪いけどね、そりゃあ無理だよ、お二人さん」
すぐ前に並んでいた、やけに元気そうな老婆が声をかけてきた。
「どういうことだ?」
「裏通りならともかく、銀座の表通りは先日の嵐で破壊されて歩ける状態じゃないよ。
ほれ、そこの案内板を見てみな。
銀座を通る路線の他、いくつかは赤印が入っているだろ。
帝鉄の線路だって無惨なもんさね」
きまり悪く、二人は顔を見合わせた。
今の二人の恰好は、あやめはいつもの普段着より少しおしゃれをした蒼と深緑の着物で、真之介はどこぞの探偵のようなインバネス姿である。
真之介は普段着で構わないと思ったのだが、無理矢理あやめに着替えさせられたのだ。
そんなわけなので、二人を見て軍の関係者だと気づくことはまず無いはずである。
おそらく老婆は一般的な世間話をしただけで、非難するつもりなどなかったのだろう。
しかし、結果として約束の街を守りきれなかったという事実は、今の二人には堪えるものであった。
おそらくは降魔の塔が帝都各地をなぎ払ったときの一発が銀座を直撃したのだろう。
普段のあやめならそれぐらい調べているはずであったが、ここまで外出らしい外出も出来なかったために知らなかったのだ。
なにしろ、帝都全土で被害を受けた場所は数え切れないのだから。
「これこれ、そう落ち込むんじゃないよ。
お知事さんが仰るには、これを機に銀座全体を再開発していろんな施設が出来るみたいだから」
二人の落ち込み方を見るに見かねたのか、老婆は慌ててつけ加えた。
「……だって」
「仕方がない。約束を果たすのはその後だな。
礼を言うぞ、婆さん」
真之介としてはかなり真摯な礼の言い方なのであるが、世間一般ではこれはかなり問題である。
あやめは思わず頭を抱えたが、老婆の反論はあやめの予想と違っていた。
「誰が婆さんだい。
八十前を婆さんとは失礼な小僧だね。
あたしゃこれでもまだ七十六だよ」
「誰が小僧だ!
オレはこれでも……えっと……」
自分の歳がいくつか、そういえばまともに数えたことなど無かった。
「二十ぴったり。数えで二十一よ」
毎年、誕生日を数えて祝うのはあやめの役目だったりする。
「ふうん、そりゃ十分小僧だね」
「ぐぬ……」
「ごめんなさい、人生の大先輩。
若輩者だから礼儀に疎いのです」
真之介が唇を噛んだ絶妙の所で、あやめが割って入った。
こちらの態度は十分に礼儀正しい。
「……、そう呼ばれたのは久しぶりだよ。
いいお嬢ちゃんじゃないか。大切にしておやり」
「言われずとも」
「結構結構。……新婚さんかい?」
以前の真之介ならばここでつんのめっていただろうが、今はやけに落ち着いてその言葉を聞くことが出来た。
「まだだ」
「来年、の予定です」
と答えたあやめの顔が、真之介にはやけにまぶしく見えた。
満足そうな顔をした老婆と分かれたところで、あやめはそっと真之介の腕を抱きしめた。
「新婚さんに見えるんだって」
「……悪くないな」
無表情……を装うのに失敗して、頬が赤くなっている。
これでちゃんと嬉しがっていることを、あやめはしっかりわかっていた。
真之介が就職しようとする横浜というのは便利な場所で、日鉄に乗れば東京駅からでも一時間とかからない。
日本最大級の貿易港があるこの場所を自社の根拠地にしたのは、単に神崎忠義が神奈川出身であるというだけではないのだ。
かくて、通勤するといっても路線沿いであれば住居の選択の幅は広かった。
一方で帝都から離れたくないという心情もあって、真之介はまず品川を見てみようと思った。
一ヶ月前には、ここから大空洞に乗り込んだのだ。
「真之介……」
「……終わったんだな」
列車が出たあとのホームからしばらく動かずに、工業地帯を見つめる。
いくつもの建物の向こうで直接は見えないが、その方向には大空洞への入り口があるのだ。
巨大降魔が仕掛けた地震とミカサの爆発の二度の衝撃で、その入り口は完全に閉ざされてしまっていて、掘り直しの計画がやっと出始めたところらしい。
「うん……」
あやめは何か言おうと思ったが、結局それしか言葉が出てきてくれなかった。
まだ実感が湧かないのだ。
真之介とこうやって二人でのんびりとしていることすらも、夢のようだ。
こうして、生き長らえさせてもらえたことすらも。
春ならばまだしも、北西から吹き始めた風は冷たい。
身体を震わせつつ、もうちょっと厚着をしてくればよかったと思ったが、すぐにその考えは撤回することにした。
視線は大空洞入り口を見つめたまま、真之介がコートの裾を翻して包んでくれたから。
線路の向こうから上りの列車が見えてきたので、そのままの恰好でホームを下りて目的地へと向かうことにする。
工業地帯とは逆に歩いていくと、思ったより空気が綺麗だった。
十五分ほど歩いたところで目指す不動産屋を見つけて、早速張り出してある中からこの付近の物件を探す。
「このくらいの相場なら……借りるより買ってしまった方が早いか?」
「ちょっと待ってね」
そう言ってあやめは巾着から帝都銀行の通帳を二つ取り出した。
金銭管理はあやめに全部任せている真之介であったりする。
これでなかなか、税金の扱いが面倒なのであった。
「うーん、これに家具とかまで揃えるとなるとちょっとかかるかしら」
「そんなに広くなくてもいいだろう」
考えていた物件の倍の大きさのものをあやめが指したので真之介は呆れたが、あやめは逆に呆れ返した。
「だって、どうせ自宅にも研究室を造るんでしょ」
「う……」
そう考えていたわけではないが、あまりにも図星過ぎて反論など出来るはずがない。
「それに……」
「それに、なんだ?」
あやめが消えそうな声でつぶやいた一言を拾って真之介は無神経に尋ねたが、
「知らない」
あやめはそっぽを向いてしまった。
もちろんコートの中から出ていないので演技だということはわかるのだが、訳の分からない真之介としては頭を掻くしかない。
「まあお前がそう言うんだったら、しばらく借家暮らしで金を貯めるか」
「知らない」
どうやらちょっと怒らせてしまったらしい。
「別に候補は品川だけでは無いんだが」
「知らない」
「……いい加減機嫌を直せ」
無理矢理こちらを向かせたら、その顔は笑いをこらえていた。
「これで……いいのか?」
「後ろの髪の毛が刎ねてるわよ」
「写らないんだから構わんと思うんだが……」
「気持ちの問題よ」
「あの……、あやめくん、写真屋さんが待ってくれているんだけど」
「あ、はい。済みませんっ」
保留のまま帰ってくると、いきなり写真を撮ると言われてしまった。
考えてみると、対降魔部隊で集合写真の一つすら今まで撮ったことがなかった。
発足は米田と一馬のわずか二人だけで、翌年に真之介が入隊、その翌年にあやめが入隊ということで、いつを以て隊員が揃ったという明確な日にちが無いため、結成の写真というものがない。
そして降魔戦争が始まってからは、こんなことを考える余裕もなかった。
終わったということの記念に、対降魔部隊揃って写真を一枚撮っておこうというのが米田の至って平和的な発想であった。
なのであるが、
「中将閣下……、本当にそれでよろしいので?」
「おう。まったくもって構わねえぞ」
無精な真之介の髪の毛まであやめがしっかり手を入れたというのに、米田ときたら写真機の前で思い切りおどけているのである。
いまにも頬被りをして安来節をやりかねないような顔と言えば一番適切であろうか。
「この年寄りは……」
あきれ果てた顔の真之介であるが、米田が無理矢理にでも自分たちを笑わせようとしているのではないかと思い至って、それ以上何か言うのをやめた。
真之介が気づくくらいであるから、あやめと一馬は言わずもがなである。
「まあ、米田さんらしくていいんじゃないですか」
「ふふっ」
米田はそこで振り返って、こういうときにあやめくんの肩くらい抱いてみせればいいものを、と真之介の鈍さに内心舌打ちしたが、気を取り直して再び写真機に向かう。
「知りませんよぉ」
日露の英雄として名高い戦略家米田一基陸軍中将閣下がこういう人物とは思わなかったらしく、写真屋は冷や汗をかきながら写真機を覗き込んだ。
「はい撮りまーす」
極めて珍しい対降魔部隊四人揃った笑顔の一瞬が、記録された。
概ね、そんな師走である。
東京府はこの一年で家を失ったり職を失った者への生活保護を打ち出しているが、破壊された地域周辺をまるごと含めた再開発も計画しているので、早くも住民との摩擦が生まれている。
ただ、道路や建物の再建作業などがあるため街中はそれなりに活気があった。
一方で、陸海近衛軍の合同慰霊祭は慌ただしく準備が進められていた。
一ヶ月という期間はかなり短いものであったが、ここには、降魔戦争というものに年内に終止符を打ち、翌年からは一新した雰囲気を市民の間に作ろうという内閣府の考えがある。
あまりにもたくさんのことがあった今年一年。
決算を来年に持ち込みたくなかったのだ。
会場は日比谷公園。
病床にあらせられる帝御自らも参列されるにあたり、宮城に近いところが選ばれたのだろうというのがもっぱらの噂である。
十二月十三日の夜も、会場の設営作業に追われる明かりが消えることはなかった。
しかし、公園全土をくまなく覆うには光が足りない。
こっそりと下見をしておこうという者が、ましてそこに隠れることが慣れた者には十分なだけの闇もまたあった。
前日の十四日には、帝都全体が自主的にひっそりとした空気に包まれていた。
「明日か……」
真之介とあやめも、さすがに今ははしゃぐ気になれないらしく、執務室や研究室でおとなしくしている。
新居は四つまで絞りこんだらしいが、まだ悩んでいるらしい。
ただ今日はその作業もせず、二人とも事務仕事をしていた。
「雪か……」
窓がやけに曇っていると思ったら、雪がちらつき始めていた。
帝都気象台によれば、西日本でも各所で雪が降ったので、これからずいぶんと降ってくれるらしい。
ふさわしいとはいうものの、会場の設営をしている人間は大変だろう。
除雪作業で駆り出されるのではないかと米田が考えていたら、案の定、三時間後には待機中の陸軍兵の半分に除雪作業が命令される事態になった。
外を見ると、少なくとも十センチは積もっていそうである。
これは帝都各地が大変なことになっているのだろう。
「断る理由はない」
研究室の真之介に命令を告げに行くと、珍しいことに実験もしておらず、すぐに命令に従った。
あやめが早速持ってきた防寒装備を真之介に着せていく。
久々の出動となるが、対魔戦闘よりもずっと気は楽だ。
そして口には出さないものの、慰霊祭を前に考え込んでしまった気分を少しでも晴らすことが出来そうだった。
はっきり言って単純作業である。
こんなところで必殺技を使うと騒ぎになるに決まっているし、別にそこまで効率を重視したい気分でも無かったので真之介も魔法一つ使わずざっくざっくと雪かきをやっている。
無言ながらも隣りで作業している自分の労働を軽減させようとするのが、あやめには嬉しかった。
仙台出身の一馬は、東北北陸出身者でまとめられて屋根の雪下ろし部隊に回されてしまった。
帝都の長屋は大雪など想定していない造りの物が多いので、簡単につぶれかねないのである。
かといって、屋根の雪かきなど慣れてない帝都市民である。
紙芝居屋の夫婦が住まう長屋の雪下ろしを終えた後で、活きの良さそうな紙芝居屋が感謝の言葉とともに出してくれたお茶がずいぶんと懐かしい気がした。
そういえばこの帝都で三年戦ってきたが、直接人から感謝されるという感覚を忘れていたような気がする一馬であった。
米田はふんぞり返っているのが性に合わないので、一兵卒と一緒に日比谷公園の除雪をやっている。
ただし、ここは警備も兼ねていた。
まさかとは思うが、宮城の目の前とは言え帝が参列される式典である。
爆発物を仕掛けられる可能性もあるので、雪かきは徹底された。
五十年前、帝がこの帝都、いや江戸に来た頃は不平士族の叛乱を警戒していたものだが、時代は変わった。
雪は夜半には止み、当日の朝は晴れ渡った空が広がった。
冷える朝だ。
あらかじめ塩が撒かれていた道もあちこちで凍っており、ある程度日が高くなるまで滑る者の姿が絶えなかった。
それでも、笑う者はいない。
各所に残っている雪に音が吸い込まれ、帝都はずいぶんと静かだった。
続々と人が集まる日比谷公園も、その人数に比して音はあまりにも少ない。
参列者の中に、優しそうな顔立ちの婦人に連れられた十歳くらいの男の子と七つかそこらの女の子がいる。
このたびの戦いにおける英霊の筆頭に挙げられることになった北村海軍大将の遺族である。
もう、何が起こったのか理解できない歳ではないだろう。
男の子は嗚咽をこらえている母と妹の手をしっかりと握って、正面に書かれた父の名を見つめていた。
米田は、見ていられなかった。
北村と家族には複数の勲章と海軍元帥の称号、多額の慰霊金が贈られることになっている。
しかし、どれだけの物を積んだところで、死者は家族の元には帰れないのだ。
帝都全体が静まり返った中、参列者の最後として近衛軍に守られた帝が二重橋を渡って会場に御姿を見せたのは午前十時のことである。
式典が始まった。
開式の辞を陸海軍のどちらがするかで揉めたが、結局加藤総理が行うことになった。
次に、帝のお言葉となる。
そのとき、気配が動いた。
よく隠し通したものかもしれない……しかし、攻勢に移るときには敵意でわかる。
「近衛軍!」
これから帝がお言葉を述べられようという寸前に叫びを上げられるのは、帝の信が厚い米田くらいだろう。
近衛軍方術士団長たる春日以下十数名が、帝の御前に盾となって揃いきるのとほぼ同時だった。
「轟!爆裂岩破アァッッ!!」
会場真っ正面で土砂が跳ね上がった。
大地を揺るがす轟音とともに、帝の盾となった近衛団員の半分がなぎ倒される。
「狼藉者!」
爆弾による攻撃ではない。
何者かが土中から姿を現しつつ、妖力を最大限に込めた技を使ったのだ。
土煙の向こうに巨漢の姿がうっすらと見える。
一馬は、その姿に見覚えがあった。
「米田さん!あのときの羅刹です!」
「春日ァッ!もう一人いやがるぞ!!」
「三十六式!飛騨の氷壁!」
「魁!氷刃冥殺!!!!」
気温と周囲の状況を活かした氷の技同士が、万を数える参列者の目の前で激突する。
「くっ……!近衛軍がぁ!」
二人目の逆賊は対照的にかなり小柄だった。
技をなんとか凌いだ春日士団長は、一瞬子供ではないかと思ったが、ただの子供がここまでの技を繰り出せるわけがない。
それに、発せられた声は大人の物であった。
油断は出来ない。
「帝には指一本触れさせんぞ!逆賊!」
今上帝は明冶帝のように君臨する大帝ではない。
しかしそれは、降魔戦争の最中にあっても屈さぬこの太正の自由にして不屈の精神の支えでもあるのだ。
春日は近衛軍でありながら今上帝を信仰していない。
しかし、心より敬していた。
「百七十三式、屋島の一矢!」
光剣と同様の霊力で形作られた弓矢から大気を引き裂いて霊矢が飛ぶ。
捉えたかに見えた。
しかしその寸前に先の巨漢が立ちはだかり、鎧の如き筋肉でそれを受け止める。
「兄者!」
「くそっ……!初手はしくじったか……!」
近衛軍は既に帝の周囲を完全に固めている。
簡単には突破できそうにない。
「羅刹、こうなったら……」
「させねえぜ!刹那ぁっ!」
「米田か!!」
今上帝への尊敬は春日と思いを同じくする米田である。
末席にいるであろう真之介とあやめはどうしているのだろうかと思ったが、真之介があやめをかばっているのかもしれない。
それに、この密集状態で真之介の技は危険だ。
ここは自分たちで解決すべきだろう。
幸いというべきか、米田はこういう状況での戦いにも慣れている。
密集していた人々が逃げようとするのを神業のような動きでかき分けて、駆けつけるのも速かった。
豪快に振り下ろされた神刀滅却を片手では堪えきれず、小さい方の賊……刹那は、両の爪を交差させてこれを辛うじて防いだ。
交錯点で火花が飛び散ったのは、衝撃か、ぶつかり合う視線ゆえか。
「生きていたとはな……、おめえさんたちが……」
「フン……、死ぬわけにはいかなくなったのだ」
三ヶ月前、帝都の地下に作られた亜空間都市江戸において、米田と一馬はこの二人と戦っている。
そのときには諸々の事情で決着が付かなかったが、江戸の崩壊と共に死んだものとばかり思われていたのだ。
以前戦ったときには感じられなかった凄まじい執念が、刹那の瞳に感じられる。
「奴らはもう帰らねえ……。
あの巨大降魔も死んだ。
これ以上戦ってどうするつもりだ!」
「まだ終わってなどいない……!
師や渚たちと誓った約束は、まだ果たされていないのだ!」
「腹いせだけで帝都を壊して回るつもりか、おめえらは!」
「違う」
刹那の動きが僅かのひととき止まった。
小さな体躯と童顔からは不釣り合いに過ぎる憂いに満ちた目を向けられ、米田はその隙に切り掛かることがためらわれた。
それはただの敵の目ではなく、彼が乗り越えてきた多くの者たちと同じ目だった。
「米田、貴様は、亡き友との約束を捨てられるか」
巨漢の賊……羅刹が後方で群がる兵を食い止めている音が響き渡る中だというのに、その声は米田の耳にはっきりと届いた。
「貴様も覚えているだろう。
俺たちはあの子との約束を果たす。そして……」
刹那から、再び強烈な敵意が発せられる。
「あの都と同じように、この都も滅ぼす!!」
「刹那!!」
刹那は見覚えのある笛を取り出して吹き始めた。
米田は止めようとしたが、踏み込むよりも早く群がってきた無数の昆虫に行く手を阻まれた。
剣で切って追い払おうにも半ば実体がない。
しかし突っ込もうとすれば虫たちが群がってくる。
ただの虫ならば気合いで吹き飛ばせるが、刹那の妖力を受けていてはそれも通じなかった。
この冬場にどこから出てきたのかと思うほどの膨大な数の昆虫が付近に溢れて、周囲は大混乱だ。
しかし、この都を滅ぼすと叫んだ割には、やることが目くらましに近い。
何を企んでいる……?
「また会ったな、真宮寺一馬」
寄せ来る兵たちをものともせずになぎ倒しつつ、羅刹は静かに口を開いた。
お互いの強さは知っている。
生半可な相手ではない。
「まさか、君らがまだ生きていたとは」
「死なぬ。オレも兄者も、死ぬわけにはいかなくなったのだ。
必ずやこの帝都は滅ぼしてみせる」
兄の命令を至上のものとする羅刹だが、この言葉は刹那の受け売りではない。
信念を同じくする、源の思い出は同じなのだ。
「これ以上の暴虐はさせない。
君らの執念に屈するわけにいかないのはこちらも同じだよ」
一馬はゆっくりと荒鷹を抜いて構えた。
万の参列者がいる会場で必殺技を使うわけにはいかない。
もちろん破邪の血統として対魔専用の必殺技は修めているが、それも万能ではない。
味方をすり抜けるといっても、周囲への被害は少なからず出るのだ。
それに、果たして手加減して通用するものか疑わしい。
「いくぞ」
小さく鋭い声とともに、一馬は一気に間を詰めた。
振るわれる荒鷹を、羅刹は鉄球のついた鎖で受け止める。
いや、荒鷹を下手に止めようとすると鎖が切られると判断してか、受ける寸前で力を弱めて荒鷹を絡め取りにきた。
体格に似合わず、器用で俊敏なのがこの羅刹という男だった。
刀を引けばその隙に攻撃される。
一馬はあえてそこからさらに踏み込んだ。
完全に懐の中だ。
絡め取られる前に逆手に持ち替え、柄に霊力を込めて思い切り羅刹の鳩尾に叩き込み、その反動で離脱する。
「逃がさんぞ、真宮寺!」
前のめりに倒れかけた羅刹の身体が踏みとどまり、異様な気配が立ち上る。
彼は確か、召喚術を……!
とっさに精神を集中させて術に抵抗する。
しかし、術は飛んでこなかった。
「うぬぬぬ……!」
羅刹は確かに精神集中をしている。
しかし、標的は自分ではないらしい。
まさかと思い、羅刹の視線を追いかけると、刹那が昆虫を召喚して混乱の極みとなっている方だ。
しかし、米田を召喚してどうする。
まて、その向こうには確か近衛軍がいたはず。
「そうか!」
二人は全てここまで計算尽くだったのだ。
一見帝に迫ろうとする刹那は単に陽動で、狙いは離れた所からの羅刹の召喚術。
止めなければ。
一端引いた一馬だが、霊剣荒鷹に気力を込めて狙いを定める。
先ほどのような小技で揺らぐような羅刹ではない。
幸い、対降魔部隊の一員ということは周りに知られているらしく、やや遠巻きにされているので、巻き添えにしてしまう可能性は先ほどよりいくらか低くなっていた。
やむを得ん!
「破邪剣征、桜花霧翔!!」
強大な一馬の霊力を一点に集め針のように絞り込んだ一撃が羅刹を直撃する。
無論、最大奥義である桜花放神に比べればこの技の威力は落ちる。
それでも技は威力があればいいというものではない。
たった一人の戦場でもない限り。
真之介君は、それを分かっているのだろうか。
あまり、感傷に浸っている余裕はなかった。
「はああああああっっ!!」
羅刹は精神集中を崩すことなく、その気合いで一馬の技をこらえた。
無論無傷ではないが、倒れるほど深い傷でもなかった。
ましてや羅刹ならば。
「来たれ!この日の本で最も尊きと呼ばれし者!」
「しまった!!」
羅刹の召喚術が発動した。
数ヶ月前に江戸で見たときには、精神集中無しに幾多の兵を自分の武器の間合いに召喚しては薙ぎ払った羅刹である。
これだけの精神集中はよほど念には念を入れたのであろう。
だが、
「く……!」
発動したはずの術は効果を及ぼさなかった。
理由は分からないが、驚愕した羅刹は一馬にとって十分な隙を見せた。
強力な耐久力を誇る羅刹といえど、精神力を集中していなければその力を十分には発揮できないはず。
「破邪剣征……」
「魁!空矢蟲殺!!」
必殺技を叩き込もうとした一馬の斜め後ろから黒雲のような虫たちが襲いかかってきた。
やむなく技を中断して大きく跳んでかわす。
確認しなくても分かる。
弟と絶妙の連携のとれる刹那だった。
「この至近距離でも無理か、羅刹!」
「済まぬ兄者……!霊格が高すぎて今のオレでは……」
「……仕方がない!」
元々敵陣のど真ん中に強襲をかけたのだ。
初期の混乱は徐々に収まり、包囲網は閉じられつつある。
いざとなればこの命と引き替えにでもと思っていたが、目的を達成する前に死ぬわけにはいかない。
「脱出するぞ、羅刹」
ようやく虫たちを一掃した一馬はその言葉に疑問を覚えた。
この兄弟が出てきた穴からは既に遠ざかっている。
いや違う、この二人にはそんなものをたどり直す必要はなく……
「いかん!みんな下がれ!」
「遅い」
「巨大降魔への生け贄となるがいい……!」
羅刹と刹那の妖力が一つに合わさって爆発的に膨れ上がる。
「都よ……、我らを二度追い立てし都よ……」
「我らが想いの前に、滅び行け!!」
それは規模こそ劣るものの、真之介とあやめが作り出す現象に酷似していた。
『爆殺!!覇道壊塵撃!!』
式典会場の中央から放たれた、爆発を伴った幻矢の流星が人の群を削り取っていく。
一馬は何とか止めようとしたが、全方向に繰り出された技の一部を食い止めるのでやっとだった。
包囲網は、完全に崩壊した。
してやったりの表情で駆け出しながら、刹那は振り返った。
無理な体勢だというのに、動きが少しも衰えない。
「降魔を倒したなどと思わないことだ!
よく覚えておけ、帝都の者どもよ!
まだ何も、何一つとして終わっていないのだということを!」
会場の四方八方から聞こえてくるように幻術を使って追いすがる兵たちを翻弄し、日比谷公園の外へと二人は消えた。
「なんたることだ……」
自身も負傷した加藤総理は、報告されてきた被害の大きさに天を仰いだ。
死者の鎮魂をするべき慰霊祭の会場において、閣僚二人と将官三人を含む三百余名が犠牲となったのだ。
怪我人はその十倍以上になる。
それも相手はたった二人で、しかも逃げられてしまったのだ。
殺された者たちはまったく浮かばれまい。
「帝はご無事か?」
内務大臣の岩見が重傷で意識がないため、大石官房長官が代わって答えた。
「幸い御身体にお怪我はありませんが、多くの者が死んだことにお心を痛めていらっしゃいます」
かろうじて不幸中の幸いと言うべきか。
病身の帝にあまり心労をおかけしたくなかったのだが、今回は目の前も目の前だ。
「賊は帝の御身命が狙いだったようだな」
「おそらくはそうでしょうな。
人心に混乱を招く手段としては、こう言っては何ですが的確ではあります」
京極陸軍大臣代行は加藤総理の言葉に、ため息とともに相槌を打った。
呆れているのである。
在位中の帝を毒以外で暗殺しようなどというのは、飛鳥時代に蘇我氏によって行われて以来千四百年に渡ってなかったことだ。
帝の権力、権威が他の豪族とさして変わらなかった時代の話である。
時を経たこの時代においては、帝の崩御は都の霊的人的混乱を引き起こす。
明冶帝の崩御が降魔戦争の遠因の一つであろうと京極は考えていたくらいだ。
自分ですら一考した結果断念した策をとったあの二人組には呆れるしかない。
「しかし、慰霊祭はいかが致しましょうか」
遠山文部大臣が話を本題に戻した。
「もはや中止にするしかないのではないか」
「ここまでの被害が出てはな……」
閣僚二人が死亡し、五人が重軽傷という極めて異常な事態である。
残された者たちの弱気な発言も無理はなかったが、そこに待ったがかかった。
「首相、ご無沙汰しております」
「そなたは……帰国していたのか」
一説には政界最大の実力者とも言われる、花小路伯爵である。
貴族院議長も務めている彼であるが、この二ヶ月ほど欧州に出かけていたはずだ。
「みなさん、ここで中止しては日本国が丸ごと賊に屈したことになる。
国の威信と、そして亡くなった者たちのためにも慰霊祭は続行していただきたい」
「方術士団も伯爵の仰ることに賛成です。
特に霊的に大きな意味があります」
「わかりました。
式次第から一部の予定を削ってでも、正午には始めましょう」
慰霊祭会場で起こった前代未聞の事件に、世間ではまた号外が飛び交ったが、それでもなお粛々と行われた祭事のおかげでなんとか落ち着きを保つことが出来た。
ただし、式の直後に加藤総理が過労で倒れたことは内密にされた。
「で、いつ日本に帰ってきたんですかい」
夕食を挟んで米田は尋ねた。
相手はこの館の主、花小路伯爵である。
「今朝横浜だよ。
雪があと一日長ければ式に間に合わなくなるところだった」
慰霊祭の後ということで、珍しく酒はない。
米田はとことん和食派だし、花小路もこのところ洋食ばかりだったので、白米に味噌汁、あとは漬け物に鮭の切り身と、この顔合わせにしては質素であった。
冬である。
「ずいぶんかかりましたな」
「情報だけは速くなったからね。
帝都の戦況が逐一報告されてその度に揉めてくれたよ」
「……面目ねえ」
花小路は、世界の裏に存在している超国家組織賢人機関の一員である。
三大宗教の長や古き支族の族長など、想像を絶する顔が並ぶこの機関の目的が世界征服ではなく世界平和であることはある意味で幸いなことだと言える。
花小路はここ数ヶ月間、その本部に出向いていた。
その正確な場所は米田でさえ知らない。
地中海沿岸のどこかだとは思うがあくまで想像の域を出なかった。
「いや、元はと言えば朱宮君を止めることが出来なかった私の至らなさを糾弾するための召喚だったからね……」
「連中は帝都に注目しているのか」
旧友の名前が出たのでしんみりとしそうになる自分を堪えて、米田は気になることを尋ねた。
「している。
何しろシルクロードの現代の終着点だ。
このところの異変と連動して、上海などの大陸沿岸都市はもちろん、巴里や倫敦でも霊的均衡に若干のゆらぎが見られているらしい。
人ごとでは済まないのだろうよ」
かつての大交易路は今も僅かばかり流れを変えただけで、地球規模の霊脈となっている。
……らしい。
米田にも未だにピンと来ない話だ。
「それから、起こった内容もだな。
降魔が群を為して塔を作ったという情報を聞いたときには全員絶句したよ」
米田としてはこの一年、というよりは半年で立て続けに起こったことがいずれもとんでもないことなので、そろそろ神経が麻痺しそうになってきている。
軍人の悪癖だと気を引き締めねば、正常な感覚を失ってしまいそうだ。
「結局、事態が収まったと言うことで話は終わったが、一度は最終手段の話も出たのだ」
最終手段。
その単語を口にするとき、花小路の顔は一気に苦くなった。
「そいつは……」
米田は尋ねたのではない。
その答は知っている。
口の中が一気に乾いた。
宮城から宝具が奪われたとき、あれが奪われずに済んだのは喜ぶべきことなのか、哀しむべきことなのか。
「だから気になるのだ。
あの二人の賊はまだ終わっていないと言った。
僅か二人に巨大降魔の真似ができるとも思わないが……」
「ああ、あの二人はそう簡単に諦めちゃあくれねえだろうな……」
その二人こと、刹那と羅刹の二人は、実はその時花小路の屋敷のすぐ近くにいた。
「政界の古狸め、予想以上に食えん男だ」
闇に沈み、低く抑えた声で刹那はうめいた。
密かに館に侵入して花小路の身柄を確保しようと思ったのだが、簡易的ながらも感知と防御の結界が施されていた。
刹那にとって解いて解けない術ではないが、それをすると感知されるという仕組みだ。
一介の政治屋の屋敷ではない。
「やはり、奴が裏で何らかの機関とつながりがあるというのは本当なのだな、兄者」
「対降魔部隊を作るときに米田に協力したのも奴だ。
十分に考えられるな」
忌々しげに館を見つめる。
強行突破も出来なくはないが、中に米田の気配も感じる。
目立つことをして米田に足止めを食らっている間に対降魔部隊や方術士団に囲まれたら、奴らもそこまで無能ではない、今度こそ対策を考えてくるだろう。
「……予定を変更するぞ、羅刹」
「おう」
どこへ、などと聞くことはない。
羅刹が刹那の言うことに異議を唱えたことなど、今までにただ一度しかないのだ。
数刻後、二人は銀座の一角にいた。
かつては蒸気灯の光に包まれていた銀座であるが、先の巨大降魔の攻撃によって軒並み破壊されており、まともに原形を留めている建物は片手で数えるほどしかない。
その残った建物にも灯りはなく、周囲を巡回する軍人もいなかった。
月も見えず、わずかな星明かりで辛うじて建物と瓦礫の輪郭を把握できる程度である。
その闇夜の中で、刹那は、懐から一冊の書物を取り出した。
放神記書伝ほどではないが、これはこれで相当に古い本だ。
表紙には、銀座文書と記載されていた。
栞を挟んでおいた箇所から、灯りも付けずに何枚か頁をめくりながら、周囲を何度か確認する。
「ここだ」
刹那は、地脈から地番の見当を付けて目的地を探し出した。
意を汲んだ羅刹は粛々と周囲の瓦礫を取り除いていく。
煉瓦が多い銀座の中にあって、古木によるものと思われる板や柱の破片が多く、それらの大半に無数の呪符が貼り付けられていた。
ただし、呪符の中のいくつかはごく最近貼られたもので、その筆跡も二人にとって見覚えのあるものだった。
瓦礫があらかた取り除かれると、呪紋が連ねられた四本の柱だけは無傷であることがわかった。
「師よ、使わせていただきます」
それらの柱に対して刹那は一つ一つ呪文を唱えていき、呪符と呪紋を全て取り払った。
そこで四本の柱の中央に、それまで見えていなかった石の蓋が現れる。
これにも極めて厳重に封印が施されていることがわかる文様が描かれていた。
師が再封印したときの話を聴いていなければ、文書が手元にあっても解けなかっただろうなと刹那は軽く自嘲する。
あの子ならば、苦もなく解けただろうが。
超重量の蓋を羅刹が渾身の力を込めて持ち上げると、その下には、黄金でできた能面が収められていた。
それ自体は翁とも鬼面ともつかぬ形状でありながら、能面以外の何物でもない雰囲気を持っていた。
両目には涙のようにも見える呪符が貼られて、これそのものにも厳重に封印が施されていることが伺えた。
「これが……、大久保長安の死面か」
刹那は、徳川家康に仕えた猿楽師にして金山師の名を感慨と共につぶやいた。
銀貨金貨の鋳造に関わる銀座、金座と呼ばれる機関の創設者でありながら、徳川家康配下の権力争いに敗れて抹殺された人物である。
今刹那の手にある銀座文書には、この大久保長安に関する怨霊の取り扱いが記載されていた。
例えば、現在銀座と呼ばれている地が、銀座を創設した者の怨念を封じるために、本来の銀座とは異なる箇所をわざわざ銀座と名付けられたものであることも。
その最新の記載は明冶二年であり、その地の改名を行った文明開化以降、銀座は大久保長安の怨念の力を利用して、帝都に張り巡らされた外陣内陣の力を取り込み、急速に発展したことが伺える。
刹那たちの師は、単独で外陣、すなわち八鬼門封魔陣に直接作用できるこの大久保長安の怨念の力を用いて、ミカサ建造で混乱した帝都の霊脈を再構築し、降魔を呼び出した。
こんなものを用いなくても、師ならば自らの力で出来ると思っていたが、その頃から既に、隅田川の水神であった師の力は衰えていたのだろう。
あるいは、河川浄化の法に自ら関わっていた師自身の力では、降魔を蘇らせるという自己否定とも言える作業ができなかったのかもしれない。
それが太正四年の四月。
あれから未だ三年も経っていない。
寂寥感を飲み込んで、刹那は面を手に取った。
純金製なのか、見た目より遙かに重い。
「む……っ!」
面を掴んだ刹那の手が、意志に反してのろのろと動き、その面を顔に嵌めようとしていった。
「これは……!」
「兄者!」
異常を察した羅刹が、その太い腕で刹那の細腕をがっしりと掴み、危ういところでその動きを止めさせた。
「……よくやった、羅刹。
大久保長安め、これだけ封じられていてまだこれほどのことができるとはな」
「兄者の身体を乗っ取ろうとしたのか」
「おそらくな。
残念だが、復活などさせんぞ、大久保長安。
しかし安心しろ、貴様が恨む都への復讐は果たさせてやる」
それ以上触らないように、面を風呂敷に包み、二人はそのまま隅田川の河口に架かる永代橋へ向かった。
ここには警備兵がいたが、後で騒ぎにならないように幻術で身を隠し、鉄製の橋の上弦に登った。
夜の空を映しているだけではなく、内的要因にもよって黒々とした水面を見下ろす。
蒸気文明を支えるために流れ込む廃液で、隅田川の浄化能力はとうの昔に限界を超えていた。
しかしそれでもなお、河川浄化の法は生き続けてはいるはずだとあの子は言っていた。
天海僧正に法を委ねられた主である水神が亡くなった今でも。
だが、もう不要だろう。
そうして造り上げようとした都は、これから滅ぶのだから。
刹那は今度は直接触れないように注意しつつ、大久保長安の面を取り出す。
「沈め、鎮め、静め、その怨念以て古の浄化の法を堰き止めよ!」
「行け、往け、逝け、水底へ!」
面は呪法に使われることに抵抗を見せたが、水神の弟子たる二人が隅田川上で仕掛けた呪法には抗しきれず、ゆっくりと降下していき、水面にわずかな波紋を残して河中へと姿を消した。
ややあって、深みから妖力の波動が地震のように伝わってきた。
「……これでいい。
あとは湾内に怨念を集めるだけだ」
「元巨大降魔討伐軍総司令官、畑中敏朗陸軍大将に相違ないな」
「いかにも」
未だ包帯の取れぬ身体を寝台から何とか起こして、畑中大将は突然の闖入者を睨み付けた。
子供のような外見だが、昨日の日比谷公園で遠目に見た。
確か名前は、
「逆賊、名前を刹那と言ったか」
「覚え置いて頂けたとは光栄だ」
「こちらこそ、帝の代わりの標的とは光栄だ」
大空洞で負った傷の後遺症で、この闖入者と格闘することは出来そうにないが、易々と屈するつもりはない。
しかし、来るべきものが来たか、という覚悟はある。
「目的は何だ。
巨大降魔の仇討ちか?」
それなら首を差し出してやってもよいかも知れぬ。
自らの至らなさ故に死なせてしまった幾千の霊に、あのような慰霊祭一つで詫びることが出来るとは考えていなかった。
「いや、巨大降魔への生け贄になっていただく」
「残念ながらそれは無理な相談だな。
もはや大空洞への道は閉ざされている」
畑中は心中舌打ちしつつ、冷静にかつ律儀に答えた。
この者たちが企んでいることの全容を知り、何とかして伝えなくてはならないのだ。
「その心配は無用だ。
少なくとも帝都内で殺せば多少の効果は望める。
だが閣下には別の方法を用意した」
そこで刹那は黙り込んだ。
畑中の言葉に乗せられて喋りすぎたことに気づいたのだ。
冥土の土産など持たせようとすればどこか一つしくじったときに致命的な事態を招きかねない。
慢心してはならないのだ。
この場は早急にやることを果たすべきだろう。
「……、さらばだ、畑中大将」
遠くに感じる弟羅刹の気に自分の気を重ねていく。
遠距離では極端に成功率の落ちる羅刹の召喚術を拡大するための方法だった。
こうして用いれば、中継する刹那からの距離として術が使える。
畑中が言いしれぬ圧迫感を覚えて、枕元に置いてあったペンにとっさに手を伸ばして掴んだ直後、その身体は転移させられていた。
「そういえば、もう一人いたのだったな」
迫り来る死の恐怖を押し殺しつつ、畑中はその巨漢を睨み付けた。
明かりはないが、漂わせている雰囲気だけでその存在ははっきりと確かめられる。
あと周辺の情報として解るのは、足下が不安定で周囲に水音がすることだ。
どうやら、船の上らしい。
「ここはどこだ?
帝都からそう外れてはおるまい。
おそらくは東京湾か?」
水平線があるらしき高さを取り巻くようにしてポツポツと明かりが見える。
「閣下には、この海に沈んでいただきたい」
「年寄りには堪えるな」
その答で畑中は、ここが東京湾内であることを確信した。
帝都内なら効果があると言っているのなら、使える海は当然ここだけになる。
「近づくな」
羅刹が自分を捕まえようとするのを感じ、畑中は軍人のたしなみとして隠し持っていた短剣を引き抜いた。
寝間着に近い服装でもこういうものを携帯しているのは軍歴の長い男の悪癖だが、最期に役に立ってくれたようだ。
「あがかれるな、見苦しいぞ」
「見くびるな。
この命、部下たちにならともかく貴様らにいいようにくれてやる義理はない」
「!」
羅刹はやっと気づいて止めようとしたが間に合わなかった。
短剣の刃が畑中の胸に深々と突き刺さる。
「ぐ……っ!」
しかし刺しどころが悪かったのか、一瞬で絶命とまではいかなかったらしい。
羅刹は慌てて畑中の首を掴んで海に投げ込んだ。
この海によって溺死してもらわなければ効果が薄いのだ。
「敵方ながら、見事なり……」
しかし羅刹は、それでもなお畑中を見誤っていた。
海中に沈みながらも、畑中は自分の着物の左腕部にペンを走らせていた。
水中で書いたものがどこまで残るかは疑問だったが、暗くて確認のしようがない。
いかに東京湾とはいえ、前日に雪が降った後で水温はかなり低く、出血のために気が遠くなりそうになる。
漢字など書ける状態ではない。
ひらがなを生んだ日本文化に感謝しつつ、文字を連ねた。
だが、やがてペンを握る手が動かなくなる。
これまでか。
溺れ死ぬのと出血死するのとどちらが先か。
奴らの思い通りになるのは帝国軍人最期の誇りとして拒否したい。
水を飲まずに耐え続けようとする意識が徐々に薄れていく。
その真闇の中で、何かが見えたような気がする。
あれはなんだ……?
海の底の、そのまた底に……、あれは都……
畑中陸軍大将の遺体が発見されたのは翌朝のことである。
波間を漂っているところを朝漁に出た漁師が見つけたのだ。
陸軍省に一報が入ったのは、彼の行方不明を聞いて京極大臣代行が対応を協議し始めた矢先のことである。
直ちに数名が遺体の収容された築地警察署へ派遣されて本人であることが確認された。
死因は失血死であり、早期に発見されたために遺体も服も痛みは少なかった。
そして、所々判別不能だったが、その遺言も陸軍省に届いた。
「せつな、……けにえ、うみにおくり、こうまはま……わりでは……」
大体の意味は分かる。
あの二人は生け贄を使って降魔を蘇らせるつもりだ。
「くそっ……!」
米田はやり場のない怒りを堪えきれず、手近な机に拳を叩き込んで天板を割ってしまった。
陸軍内でも孤立がちの米田にとって、またも一人、共感できる人物を失ってしまったのだ。
これによって地方から帝都に呼ばれた面々の発言力が強まることは必至だが、それ以上に、友となれたであろう男を失ったことが、米田には痛かった。
策に長けたところのある刹那のことだ。
巨大降魔討伐隊司令官というだけではなく、米田に近い者ということで彼を狙った可能性もある。
それがなおさら腹立たしい。
もっとも、若い二人にはこんな醜態は見せられない。
今執務室にいるのは一馬のみだ。
「まだ終わりではない、でしょうね」
「ああ」
米田はまだ一馬に、昨夜花小路から聞かされたことは話していない。
言えるものか。
生け贄になる覚悟をしておいてくれなどと。
彼をこの帝都の戦場に連れてきたのが自分であっても、いや、ならばこそなおのこと、一馬を妻や娘のところに生きて帰してやらねばならないのだ。
「放神記書伝の記述、覚えていらっしゃいますか?」
「いや、ここにある……」
米田は、引き出しから白い布に包まれた古い本を取りだした。
二将の乱の後で、旧友である朱宮中将が持っていた写本をその弟である朱宮公爵から譲り受けたのだ。
「降魔の起源について、書かれてありましたよね」
「ああ、確かこの辺に……」
写本ではあるが、それでも相当に貴重な本だ。
めくるにも少し注意しなければならない。
しかし、途中でその手を早めてしまった。
魔神器に関する記述をとっとと飛ばしてしまいたかったのだ。
「……」
「……ここだな」
降魔の発生は西暦で言うところの1500年代にまで遡る。
逆に言えばそれ以前の記述には出てこない、比較的新しい魔物だとも言えた。
当時の戦国大名の一人北条氏綱が行った降魔実験によって、かつて武蔵国に隣接して存在していた大和国は魔の力の暴走するこの世の地獄と化し、やむなく海下……今で言う東京湾へ封印された。
隆盛を誇った国に住んでいた、数万ともいわれる住民たちとともに。
降魔は、このときに死んだ人々の怨念が、降魔実験の影響によって実体化したものとされる。
その後、湾に注ぐ河川を利用した浄化の法により、何百年という時を掛けて少しずつ浄化していったはずだったのだが。
「畑中大将の遺体が見つかったのも東京湾。
単に、帝都に近いから、だけではないのでは?」
「……」
日比谷公園で羅刹と刹那は「生け贄になれ」と言った。
降魔への生贄とするのなら、その発祥の地で行うのが最も理にかなっている。
「しかし、巨大降魔ってのもよくわからねえ。
あいつが現れたのは大空洞の底、日本橋の地下だぞ。
元水神が作ったと言うが、そもそもあれは降魔なのか?」
「今思いついたんですけどね、海中って言っても、単に沈めただけなら見つかりますよね。
東京湾は浅いですから」
軍艦を航行させるために、海軍は日本周辺海域の深さをかなり厳密に調査している。
そのときに何か見つかってもいいはずだ。
「そうでないわけですから、実際は海底よりさらに地下に封印されているわけですよね」
一馬はそこで、壁に貼られた帝都近郊地図に目をやる。
日本橋から東京湾まで、大した距離ではない。
「そういやあ、大空洞で真之介の奴が氏綱の魂を発動させたときも……」
鳴動がして、とてつもない存在感を感じた。
それもどこか隣に思えるくらいすぐ近くにだ。
「終わってねえ……ってことか……」
米田はすぐに陸軍の生き残った幹部らに掛け合ったが、反応は鈍かった。
「この期に及んで帝都に戒厳令を敷けとでもいうのか。ふざけるな」
一歩も引かぬという態度で拒絶の意を示したのは守屋陸軍大将である。
大空洞突入作戦には参加したものの、地震によって行く手を阻まれてしまったために道半ばで引き返したことが幸いして、膨大な死者の列には加わっていない。
だが米田も京極も、今になって、この守屋大将を見くびりすぎていたことを認めざるを得なかった。
「せっかく巨大降魔が死に、慰霊祭も終わったというのに、たかだか二人の賊のために軍が丸ごと動いては、人心の不安を招く。
帝国陸軍の任は帝都の民を守ることぞ。
帝国陸軍自体が狙われたとして、揃いも揃って浮き足立ってどうするのだ」
「そういう問題じゃねえんだよ。
畑中の遺言の意味が分からねえのか。
この帝都に生きている奴全員が、奴らの目標になりうるってんだよ!」
「生け贄といったな。
呪術ならばこそ、人心の乱れもそれに劣らぬ餌になるおそれがあるぞ」
それは確かに事実ではある。
刹那たちが帝を襲った理由の一つではあるはずなのだ。
しかし、どうしてか。
米田は違和感が拭えなかった。
守屋は、ここまで呪術に理解がある人物ではなかったはずだ。
今までそのことを隠していたのだとしたら、今になってその偽装を脱ぎ捨てたのはなぜだ。
その疑問が米田の顔に出たのを見て、京極も自分が覚えた違和感が気のせいではないことに気づいた。
だとすると、南雲方術士団副団長に山崎真之介の身柄を引き渡したのが守屋であることはほぼ間違いないと思われた。
しかし、それを追求することは自分の所行も明らかにすることになってしまうため、京極は話題への介入を見送るしかなかった。
「そもそも軍は軍を相手にするように出来ている。
神出鬼没のそういった魔物を退治するのが貴君の部隊の役目ではないのかね」
逆に、別の理由で消極的だったのは池谷陸軍参謀総長だった。
いかに復活すると言われても実感できないのだ。
要塞や軍艦は復活などしない。
「それに京極中将、巨大降魔の死は確実なのではなかったのかね」
そう話を向けられ、京極は返す言葉に詰まった。
京極もこの立場の悪さは実感している。
巨大降魔が死んだと確信しているのは間違いないが、魔の力が完全に沈静化する前にあえて終結宣言を出させようとしたのは事実だ。
もはや自分以外に帝都でことを起こす者はいないだろうと確信しての発言だっただけに、自分の甘さが悔やまれた。
そもそも多くの者に言わせれば、若僧がどさくさで就任した大臣代行の地位である。
この上巨大降魔が復活すれば、解任の上降格だろう。
結局この会合で米田の要求の大半は通らず、警護の増強は加藤総理を始めとする重要閣僚と、中将以上の幹部のみが辛うじて認められた。
守屋大将自身は自らの警護を拒否したのが、なおさら、気になった。
そして、刹那、羅刹の捜索は対降魔部隊と、対魔物実戦経験の多い根岸中将直下の一隊のみとなった。
亜空間都市江戸の消滅以来逃げおおせていた二人を捜索するのに不十分であることは、やるまでもなく明白だった。
最も危機感を募らせたのは近衛軍方術士団である。
畑中大将の遺言ともいうべき内容が伝えられた直後に、春日士団長は三人の副団長を集めて対応を協議した。
「並の降魔だけならばまだなんとかなりましょう。
しかし、巨大降魔がもう一度出てくれば、もはや倒す術が無いのではありませんか」
最若年の富山副団長が危機感をそのまま声にしたような口調で語る。
先の戦いで巨大降魔を倒せたのはミカサという最大の武器があったからだ。
そのことは星龍嫌いの春日も認めざるを得ない。
それに、自分一人では巨大降魔を封印することもできなかっただろう。
だがその事実と、倒す方法がないとは必ずしも同一ではない。
「まだ、手がないわけではないでしょう。
二剣二刀の儀の存在を忘れていませんか」
佐々木が言った二剣二刀の儀とは、今は対降魔部隊の四人が手にしている四振の刀を使った封魔の儀式である。
元々対降魔部隊を結成する際に、米田はこの儀式のことを考えていたはずだ。
「それは米田殿も承知のはず。
だがしかし、米田殿は二剣二刀の儀の詳細を未だ掴んではいないようだ」
春日は近衛軍を司る者として二剣二刀の儀の詳細は知っている。
しかし、伝えなかったのだ。
「今は、術者に問題がありすぎるわ」
答えたのは最高齢の南雲副団長である。
先日の侵入者との戦い以来、その雰囲気はもはや鬼気迫るものとなっていた。
記憶を一部欠落させられており、その欠けた部分は取り戻せていない。
しかし、それに絡むと思われるところへの執念が半ば狂気を帯びてきており、春日たちでさえ時折恐怖を感じることがあった。
「術者に?」
「山崎真之介だ」
予想通りのその名前を告げる口調は、凶つ呪言にも等しかった。
「今の奴が破邪に関する儀式を行えるとは思っておらぬ。
むしろ、私は巨大降魔よりも山崎真之介の方を危険視しているのだ」
「今の彼は落ち着いているとの報告を受けております。
なお彼を暗殺するつもりですか?」
「忘れたか、佐々木。
奴が抱え込んでいる氏綱こそが、そもそもの降魔の発祥と言っても過言ではないのだぞ」
そう言われては佐々木も春日も返す言葉がない。
「巨大降魔、聖魔城、北条氏綱。
この三つが相乗効果をもたらす前に何としても食い止めねばならん。
業腹だが今は二人の賊を捕らえることが最優先だ」
元々は春日光介の父玲介とともに維新の折にも活躍した古株の南雲である。
団長である春日といえどその言葉にそう逆らう訳にもいかなかったし、何より、春日自身も同様の危機感を否定できずにいた。
「太正六年もあと十日あまり……何としても越年は防がねばならん。
年をまたげば、降魔たちを払う手段が限られる」
方術士団としては、一年の災厄を払う除夜の鐘とともに、降魔戦争で積もり積もった怨念を浄化するてはずを整えていたのだ。
年の改めは穢れを落とすために最も有効とされる。
この時を逃すと、降魔たちの怨念を鎮める手段が恐ろしく限られてくる。
春日としては、出来れば「あれ」に頼ることはしたくなかった。
そのためには、何としても年内に逆賊どもを捕らえて、降魔戦争の再燃を防がなければならなかった。
「せめて戒厳令くらいは敷いて欲しいところだったな」
貴族院議員の大物と呼ばれる人物の屋敷内で、刹那は爪についた血を拭いつつ、誰にとはなくつぶやいた。
近衛軍と対降魔部隊、それから陸海軍の一部がこちらを見つけ出そうと躍起になっていることは察していたが、こちらは闇に潜むことに長けているのだ。
この程度の警備体制をくぐり抜けることなど造作もない。
本業である警官たちにそれらを加えても、帝都にいる要人全てを警護することは不可能である。
ねらい所などいくらでもあった。
あえて米田と縁の薄い要人を五人ほど殺したところで、米田は事実上花小路伯爵の警護から動けなくなり、真宮寺一馬は加藤総理の警護に張り付けになった。
これでかなり動きやすくなったといえる。
そして、刹那が一番懸念していた山崎真之介は、宮城二重橋前の警護に当てられた。
さしもの刹那も知らなかったが、帝を暗殺しようとした賊がいる以上、最大の戦力を帝の警護に割り当てる、というのが守屋大将の言い分だった。
もし彼に遊撃任務が命じられていたら、刹那と羅刹は追いつめられていたかもしれない。
まるで真之介に首輪を付けて縛り付けておくかのようなこの対応に、二人は助けられた。
十二月の二十五日までに生け贄となった要人の数が六十を超えたところで、池谷陸軍参謀総長もことを表沙汰にすることに踏み切ったが、時既に遅かった。
要人とは人の流れの集まる場所でもある。
たとえ霊格が低くても、これだけの数を集めれば生け贄として相応の効果は上げられた。
その不安が、年末という圧迫感とともに人々にのし掛かる。
政府は危機を煽りかねない情報を統制しようとしたが、要人が何十人も暗殺されていては全てを防げるものではない。
魔物の姿が見えないにしても、何かが起こっていることを悟るには十分だった。
むしろ、魔物の姿が見えないからこそ、人々は想像力を掻き立てる。
噂が噂を呼んだ。
そして、世間胸算用の季節が刹那と羅刹に味方した。
一年間の支払いが集まるこの季節は、江戸の昔から金の絡んだ揉め事が多発する。
当然の様に刃傷沙汰も起こる。
だが、下手人不明のままの刃傷沙汰は、容易に魔物の仕業と連想させる状況が整ってしまった。
その状況を意図的に掻き立てるために、刹那は羅刹に命じて通り魔のような暗殺もさせた。
ある新聞が社説で、見えざる魔物が帝都に跋扈しているのではないかと書いたことが、その不安への最終的な着火となった。
帝都には、いないはずの魔物がいたことになった。
姿の見えない魔物が帝都に跋扈している。
要人だけでなく一般人も標的になる。
一般人だけでなく要人も標的になる。
そうして、噂が徐々に真実味を帯びてくるのだ。
実際に、誰もが標的になった。
刹那と羅刹は、心情から年頃の少女には直接手を下すことを避けていたが、治安が悪化することで、間接的には少女たちも「魔物」の標的となった。
「降魔戦争は、終わっていない」
一人殺すごとに、羅刹は呪言のようにそう呟いた。
聞くものが無くても、それはやがて真実となる。
こんな状況で今更戒厳令を敷いたところで情報が錯綜しており、二人を捕縛するどころではなかった。
春日や米田の焦りをあざ笑うように、日めくり暦の残り枚数は一枚、また一枚と減っていく。
「この帝都の一年のツケを踏み倒すつもりか、刹那、羅刹……!」
米田は二十九日になって、危険を覚悟で花小路の警護を一時的に解き、彼らが身を寄せる可能性がある水神の名残を漁ったが、これも時既に遅かった。
いずこかに身を寄せるどころか、刹那と羅刹はこの二週間一睡も取っていないのではないかと思わせるほどの頻度で昼夜を問わず死者を積み重ねていたからだ。
帝都中を巡る疑念と怨念は東京湾にたどり着き、浄化されることがなくなった大和から湧き上がる怨念と相乗して、海面を沸騰させんばかりに色濃く淀んでいった。
「俺たちの勝ちだ。米田」
十二月三十一日の夜。
羅刹と刹那の姿は連日のような要人邸宅ではなく、蒸気灯の届かない路地裏でもなく、大久保長安を沈めた永代橋の上にあった。
東京湾の黒い水面を見下ろせば、既にお膳立てが十二分に整っていることが伺える。
刹那が懐中時計を見やったところで、遠くから除夜の鐘の音が響いてきた。
百八の煩悩を払うという鐘だが、もはやそれで払いきれるようなものではない。
「師よ、我らに力を」
刹那は、自分の術能力の低さは承知している。
もちろん通常の尺度で考えれば並たいていの術者ではないが、師や、二人が守りたかった少女に比べればどうしても見劣りすることが否めなかった。
だが、足りなければ力を借りればよいだけのことだ。
師の司ってきた力と、端的な生け贄という手段、大久保長安という媒体。
そして、常に一緒に生きてきた頼もしい弟もいる。
「いくぞ羅刹!全ての力を込めろ!」
「おおう!」
繰り返される真言とともに、東京湾の中央に自然ならざる波紋が幾重にも立つ。
「来たれ、不滅の魔物降魔よ!!」
「この帝都を、今度こそ灰燼に帰してしまえ!!」
その声に応えるように、水面を割いて翼あるものたちが上がってきた。
第十章 底無き血海
初出 平成十三年八月一日
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