帝国大学物語
第二話「春の匂い」後編


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 どれくらいそうしていただろう。
 太陽がそろそろ西に傾いてきたかと思う頃、

「やっと来たか」

 水地の気配を感じ、後ろへ向けて毒づく。
 この気配と渚の気配は、もう見なくてもわかる。

「……よく、気づいたな」

 心から誉めている声が返ってきた。

「あんたと高音さんの気配は独特なんだよ、もう慣れた」
「驚かそうとして気配を殺してきたのだぞ。
 一流の剣士でも察することは出来んものを」

 水地の返事は真面目な物だった。
 本当に、そういった一流の剣士たちと戦ってきたことがあるかのように。

「出来るようになってしまった物は仕方ないだろ。
 どうせ変人研なんだから」

 水地研、横塚研ともに、変人集団として帝大中に名を轟かせている……と言ってよいものやら。

「違いないな」

 くくくと楽しそうに、変人の頭領は笑った。

「それはそうと、このわがまま娘をなんとかしてくれ」

 すぐ横で会話しているというのに、渚は眠ったまんまである。

「一度起きたのか?」
「起こしたんだけどな」

 この体勢に寝返りを打ってなったわけはない。

「寝かせて置いてやれば良かったろうに」
「あのなあっ!男が狼だってことを愛娘にちゃんと教えて置けよ、父親!」
「……そうだな」

 まだ酔いが残っているのか、思わずこちらが叫んでしまった言葉に、水地は優しく渚を見下ろしつつ、それだけを答えた。

「今回は、何もやっていないからな」

 暑いとか言って脱ぎ出したりしなくて本当に良かった。

「確かに、今はよく眠っているな」

 幸せそうな寝顔を確認して、水地は父親の顔で笑う。

「といっても、宴はお開きになってしまったしな」
「勝ったんだろうな」

 横塚との飲み比べ合戦のことである。

「私を誰だと思っている」
「うわばみ」

 研究室内外でまことしとやかに噂される水地の正体最有力候補案で即答してやった。

「あまり、人を過小評価せんでもらいたいものだぞ」
「……人じゃないだろ」

 と、今度は確信を持って突っ込むが、実際そうなのかも知れない。
 水地が帝都一円の妖怪を束ねる立場であっても少しも不思議ではないのだ。

「……高音さんは……」
「どうした?」
「……知っているのか?」

 途中で、台詞を入れ替えた。
 渚が人間かどうか尋ねようとしてやめたのだ。
 人間であろうが無かろうが、この寝顔を見ているとどうでも良く思えてきた。

「安心しろ、問題はない」
「……!」

 水地は、自分が飲み込んだ方の答えとも取れる返答をした。
 やはり、人間かどうか以前の段階で、こいつは化け物だ。
 しかし……安心しろ、というのは……?

「夢織、研究室まで渚をおぶっていってくれ」

 こちらが考え込んだ隙に、水地は半ば唐突ににとんでもないことを言った。

「ちょ……ちょっと待て!どーしてそういうことになるんだ!」
「起こしてやりたくはないからな。研究室までこのままお前がおぶっていってくれると助かるのだ」

 一応答えているようにも聞こえるが、実は全然会話になっていない。
 だが、それ以上の追求は止めておくことにした。
 誘惑に屈したとも言う。
 今少し、渚と一緒にいられるならそれでいいと思ったのだ。

「よいしょっと」
「……ふにゃ……」

 腕を引っ張っても、そのまんま寝ている。

「本当に、酒気は抜いたのか」
「ほとんど残ってない……とは言わんな。実はわざと少し残してある。
 この方が素直だろう」
「まあ……それに異論を挟む気はしないけどさ」

 前と違って、今度はお互いに何枚も服を着ているので、背負うのもずいぶん楽だった。
 改めて思ったのだが、軽い。
 行きに持ってきた七輪より軽いということは無いはずだが、重いとは思えなかった。

 帝大への帰り道をてくてくと歩く。

「なあ、瞬間移動とかは使えないのか?」
「使って欲しいのか」
「……わかった、いい」

 何となく、水地の真意が読めたような気がした。
 にわかには信じがたいことではあるが、先ほどからの言動を総合して考えると……

「あんまり、人を過大評価するなよ」
「なってもらいたいのだが、不服か?」
「不服じゃないけど、今はまだ正気を疑う」
「そうか」

 水地は苦笑して、それ以上は続けなかった。

「大体、この人本人の意思は無視かよ」

 左の耳元から甘美な寝息が聞こえてくるのを忘れるために、何とか会話を続けたいところなのだ。
 例え相手が、その娘の父親であろうとも。
 今度は、水地は答えなかった。
 ただ、その代わりに、

「だいすき……」

 耳元で、我と我が耳を疑うような一言が再びささやかれた。
 首の回りに力無く組まれていた渚の両手に微かに力が加わって身体が密着する。
 こうなると、いくら服越しでも解ってしまう。
 恥ずかしさで渚を放り出したくなるのを堪えさせたのは、理性か、それとも……

 落ち着いて考えてみれば、水地と間違えているだけである。
 まだ夢見心地で、舌足らずな喋り方だった。

「だーいすきだよ……」

 だから、二言目は聞き流すことにした。
 自分に向けて言われた言葉ではないと思ったから……


*     *     *     *


「ふう」

 研究室内学生室の長椅子に、まだ眠ったままの渚をやっと降ろす。
 重みから解放されたとは思えなかった。
 名残惜しかったとでも言おうか。
 この細い身体が、思っていた以上に軽かったと言うこともある。
 こんな身体で野郎ばかりの大学に入って、激務の水地を支えているのだ。
 渚を見ているのがつらくなって、顔を上げた。

「自宅に戻ると言うことはないのか?」
「助教授室から帰れるようにしてあるのだ。心配は要らん」
「……聞いた俺が悪かった」

 道理で水地の自宅を探している人間は多いというのに、教授会の誰一人として水地の自宅を知らないわけである。
 やはり存在の桁が違うというか、ぶっ飛んでいるというか。
 ここまでやってくれるといっそ爽快でもあった。

「じゃあ俺も帰る。
 明日来なかったら二日酔いで倒れていると思っておいてくれ」
「……ふっ」

 一口も飲んでいないのにこれである。
 さすがの水地も失笑を漏らした。


*     *     *     *


 夢織が帰り、先に帰った学生らが持ってきた宴会道具一式を確認すると、水地は渚をそおっと抱き上げた。
 助教授室に入ると、主の来訪に答えて壁の一部が渦に変化する。
 中に入るとそこは大講堂よりも大きな広間になっていて、そこから更に空間の裂け目を経て、地下都市江戸に至る。
 水地と渚の自宅である屋敷は、この町の中ほどにあった。

「師匠、ただいまのお帰りですか」

 町を巡回していたらしい門番役の刹那とばったり出会った。
 空間の裂け目を見つけて飛んできたのかも知れないが。

「渚は、どうしたのです?」

 水地の腕の中でくー、と眠っているのが誰か、この町に住んでいて間違える者はいない。

「私が目を離した隙に二杯ほど飲みおってな。
 少々子供に戻っておる」
「それはそれは」

 刹那は楽しそうに笑って渚の寝顔をのぞき込んだ。
 病気とか怪我と言うのでなければそれでよい。

「しかし、こうして寝顔を見るのは久しぶりですが……、やはりこう言うときの顔は可愛いですね」

 刹那は拾われた直後の渚を知っているわけではないが、大人になる前の渚とは一年くらい会っている。
 だから、子供としての渚も知っているのだ。
 今のあどけない寝顔は、その頃と変わらずにかわいらしかった。
 今が可愛くないと言うわけではないが、大人になってからの渚は気を張って凛としていることが多いので、可愛いと言うよりも美しいという感想を抱いてしまう。
 つい数年前を知っている分、渚にはこういう表情をもっとしていてほしいと願わずにいられないのだが……

「そうだろう」

 水地が親馬鹿の顔をしているので、刹那はつい吹き出してしまった。
 とたんに、水地の眉が少し不機嫌になる。
 唇は、笑っていたけれど。

「刹那、来週の練習量は三倍だ。わかったな」

 刹那は苦笑しながら、ほんの少しだけ失笑を後悔した。



「あ、おかえりなさーいっ」

 屋敷の前で木喰の作ったカラクリで遊んでいたあずさとあずみの妖狐姉妹がたーっと駆け寄ってきた。
 ちなみに、お隣さんである。

「済まないが、渚の着替えを頼む」

 渚が大人になってからは、着替えや風呂のことなどには水地は触れないことにしている。
 代わりにやるのはこの二人だ。

「あれ……、渚ちゃんたら、寝ちゃっているの?」

 昔と変わらない可愛い表情に、いつもはちょっと複雑な感情を持っているあずみも思わず微笑んでしまった。
 ひとまず家に運びこむ。

「はーい、渚ちゃん。そんな洋服とっとと脱いじゃおうね」

 大学には水地も渚も洋服で行っているのだ。

「んー、……はぁい」

 寝ぼけ眼ながら、あずさの声に渚はかろうじて返事を返した。

「ん〜〜〜〜、渚ちゃんたら、なんてかわゆいのっっ♪」

 えいえいと渚の柔らかいほっぺをつついて、あずさはすっごく楽しそうである。

「異論は挟まんが、人の娘で遊ぶな、あずさ」
「えっ!?先生聞いてたのぉ。ごめんなさーいっ」

 窮屈なネクタイを取っ払って気分が楽になった水地は、苦笑しながら隣の屋敷に警告を放り込んで置いた。
 隣りと言っても結構大きい屋敷なので、普通なら聞こえる距離ではないのだが、やはり水地は別格であった。
 大学では地下室の会話すらも助教授室で聞いているとまで言われているのである。
 ……事実だが。

 さてこちらも着替え終わって、やはり袴姿の方が落ち着く。
 いつもは渚が入れてくれるのだが、今日はしょうがないので自分でお茶を入れる。
 一応一息ついたが、渚の入れてくれるお茶に比べるとやはりおいしくなかった。
 苦笑していると、浴衣に着替えさせられた渚を二人が運んできた。

「ただいまぁ……」
「……寝かせた方が良いな」

 まだ子供のまんまの反応を見せる渚に、水地は布団を引っぱり出して寝かせることにした。

「二人ともご苦労だった」
「はい。でも先生、早く渚ちゃんをお嫁さんにしちゃった方がいいですよ」
「……あずさもそう思うか……」
「はい。先生ご自身が」

 頷きかけたところで、にこやかな顔のままでとんでもない台詞を言ってくれた。

「あずさ、おしおき」
「きゃーっ」

 水地があずさの足下を一瞥すると、丁度あずさを飲み込むくらいの渦が発生。
 くるくると目が回る程度にあずさを回転させた。

「きゅ〜〜〜」

 ふらふらこてんと倒れる妹を、あずみは慣れた手つきで抱き起こして連れて帰る。

「先生、ごめんなさいね。根が素直な妹なもので」
「……おまえたちなあ」

 含み笑いで脱兎するあずみは、……あまり妖狐には見えなかった。
 その背中に当たらないように水圧弾を放り投げてから、渚の枕元に戻った。

 ただ、あずみには多少なりとも思うことがあるのだろう。
 今は渚に対して「おにいちゃん」である優弥が、本気で渚のことを好きになったりしないかと、いつも怖がっているはずだ。
 ちゃんと渚が、水地であれ誰であれいいから……あんまりひどいのは困るけど……結婚してくれて優弥も綺麗さっぱり諦めて欲しい、
 という考えが推測できてしまうため、それ以上のツッコミはやめておいたのだ。

「せんせぇ……あのね」

 気がつくと渚は、布団から右手だけ出して水地の袴の端っこをしっかと握っていた。
 小さい手なのに、こう言うときは何が何でも離そうとしないという気迫のようなものを感じさせるのは昔から変わっていない。

 眠っている間に捨てられたりしないかという怖さがあるのだろうとは想像が付いているので、これを無理矢理改めさせる気にはなれない。
 嬰児の時にこの子は、隅田川に係留されていた船の一つに置き去りにされていたのだ。
 偶然に……いや、渚の霊力を感知して見つけたのだからある意味では必然かも知れない……水地が拾い上げて、
 そして、今。
 大きくなったとは言っても、実年齢はまだ十二にも満たない。
 自分に焦がれるあまり身体の時間を無理矢理に圧縮して大人になってしまった愛娘の、長く美しい髪を顔からそっとのけて微笑み掛けてやると、渚は本当に嬉しそうな顔をした。
 この笑顔に、悪ガキどもや羅刹や刹那まで大騒ぎするのも解らなくはない。
 だがやはり、水地にとっては父親としての感慨だった。

「どうした渚。今日はつまらなかったか?」
「ううん、たのしかったです」

 ふにゃあとなっているので、お世辞ではなく本心だろう。
 このところ渚は自分の想いを内側にため込んでいることが増えてきたので、たまにこうして言わせてやるのも良いだろう。
 もっともこの有様では、酔いが醒めたときには何も覚えていないかも知れない。
 それがいささか残念だが、渚の本心を確かめることは出来そうだ。
 思春期の娘を持つ父親の悩みである。

 水地はその気になれば、人の精神の表層くらいは相手に全く気づかせることなく読むことが出来るが、最近は滅多にその能力を使わなくなった。
 必要とあれば今でもその腕は錆びていないが、愛娘の心を無理矢理暴くのは父親として気が引けたのだ。
 酒で自己を見失っているときに尋ねるのも少し良心が咎めるが、無礼講のあとと言うことで許してもらおう。

「そうか、楽しかったか」

 夢織に尋ねておいたものの、実のところある程度までは把握している。
 それと、夢織が結局手を出さなかったことも。

「はい。つくしとね、ふきのとうをとってきたんです。
 あしたおひるごはんにでもいただきましょうね」

 そういえば渚の服といっしょに、二人が包みを持ってきていた。
 多分あの中に入っているのだろう。
 鮮度を落とさないように、あとで冷蔵しておかなくては。
 渚の作ってくれる料理はいつも確かに美味いのだが、やはり旬の物は格別である。
……そう思ってから、これではあずさを責められんといささか反省するが、今は……まあよかろう。

「それとね……、ゆめおりがね、どうしてかわかんないけど、いつもよりほんのすこーしだけやさしかったんです」
「……そうか」

 渚の嬉しそうな顔につられてついつい微笑んでしまった。
 ただ、心中では少し苦笑していたりする。
 夢織がいつもと違っていた理由は簡単なのだ。
 ここにいるときのように素顔で話せばいつもそうしてくれるのだよ、と言おうか言うまいか悩んだが、結局、言わないでおくことにした。
 いつか、渚が自分で気づくまで待っていても良かろう。
 ただ、本人はどう思っているのだろう。

 夢織は、いずれしっかり鍛えてやろうと思う。
 それに、この江戸にも連れて来ることもしなければ。
 今は帝都に固執している彼だが、この地下都市を体験すれば考えが変わるかも知れない。
 自分につっかかって来る分、考える能力は疑っていない。
 その考えを修正してやればよいだけだ。

「彼のことは好きか、渚」
「はい、好きです」

 おやおや。
 何の屈託もない答えが返ってきた。
 どうやら今のところ優弥たちと同じ扱いらしい。
 それでも外界の人間としては、茶霧に次ぐ特例なのだけれども。
 ただ、帰りに夢織の背に揺られながらの言葉が気になる。
 なぜなら。

「でもね、やっぱりせんせいのことがいっちばんだーいすきです」

 水地に言うときはこう呼ぶのだ。
 あのときは「大好きだよ」と言っていた。

 見込みはあるぞ。
 十の年齢差なぞ気にするな、青少年。

 どんなに渚が純粋に想ってくれていても、水地は愛娘を妻にする気はない。
 しかし現状では、四方木が言い寄ってもまるで揺らぐ気配がなかったと聞いている。
 それでは困る。
 誰か良い相手を、と悩んでいたところなのだ。
 そこへ昨秋のあの出来事である。
 大学から遠ざけようとしていた路線を転向したのはどうやら正解だったようだ。

 婿探しを熱心にする父親というのもなかなか滑稽な物だろうなと苦笑すると、渚が不思議そうな顔をした。

「せんせぇ……わたしのこと、きらいですか?」

 言ったことをあしらわれたと思ってしまったらしい。
 この切なげな顔に水地は弱かった。
 黒鳳にバカ親と酷評される最大原因でもあったりする。

「大丈夫。お前が心配することではないよ」

 そういって安心させて、渚の睫毛をそっと撫でてやる。
 もうおやすみなさい、の意味だ。

「はい」

 素直な返事が返ってきた次の瞬間には、もう渚はくーと寝息を立てていた。


*     *     *     *


 翌日は、夢織と渚は二人揃って二日酔いで研究室を休んだ。
 土筆と蕗の薹は、その日の昼食ではなくて夕食になった。
 味は、水地の御飯がいつもより一杯進んだことが示しているだろう。



「これ、返しておく」

 ようやく出勤できた朝、渚は、学生室の掃除をやっていた夢織に向かってつっけんどんに包みを押しつけた。
 しっかり洗濯して畳んである。
 ちょっと驚いて受け取る夢織の表情も見ないで、ついと講師室へ向かう。
 いつも通りの、高音講師と犬猿の仲の夢織の間の態度だった。
 ただ、学生室を出るときにこっそりと小声で

「……ありがと」

 とつぶやいたのは水地だけが聞いていて、助教授室でほくそ笑んでいた。

 いつも通りのはずの研究室の朝が、今日も始まる。
 包みを受け取った夢織が窓から見上げた空は、日本晴れであった。





水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。