帝国大学物語
第二話「春の匂い」中編
水筒にお茶を注いだままだったことを思い出して、ひとまずそれを飲んで一息つく。
一息ついてしまうと、周りが静かだと言うことに気づいた。
騒ぐ宴会の音が風に乗ってやってくるが、それも遠い。
一番はっきりと聞こえるのが、自分の呼吸する音と、渚の寝息。
次いで目の前にある小川のせせらぎという状態だった。
というのは、さすがに無意識的な耳の識別能力も働いていたのかも知れないが、ともかくこの状況を意識してしまったことは確かである。
「あーもー、起きてくれよ高音さん!
このまんまじゃあんたを襲ってしまうって!」
軽く肩を揺するが起きる気配はない。
かえって服越しに渚の体温を感じてしまったので墓穴を掘ったとも言える。
酔っているせいか、感情の制御が上手く効かずについ大声を出してしまったが、落ち着いて考えてみるととんでもなく恥ずかしいことを言っていたことに気づいた。
自分の頬に血が上ってくるのがやけにはっきりと解る。
「起きろってば!渚!!」
照れ隠しとはいえ、思わず名前を呼び捨てていた。
が、その効果はあった。
「……んー?おはよぉ」
寝ぼけながらも、可愛い声でかろうじて返事が返ってきた。
ぽーっと瞳に霞がかかったような表情で、くいくいと目をこすってる。
「あたま、いたい」
「そりゃそうだろ」
意識がある、とは言いづらいが、全く無いよりはマシだった。
ほっと一息つける。
思ったより渚の症状は軽いようだ。
多分水地が酒気を大分抜いてはいるんだろうと思う。
「人のことだらしないとか言っておいてこれかよ」
毒づいたつもりだったが、あまりうまく行かない。
「ゆめおりぃ、のどかわいた。おちゃ、ちょうだい」
「はーいはいはい」
呆れつつも、渚のほわっとした表情を見ていると怒る気にもなれなかったので素直に入れてやった。
なんだか、楽しい。
「ありがとー」
「あ、」
そういえば自分が飲んだ後洗っても拭いてもいないじゃないかと思い出して、止めようと声をかけたときには、既に渚が口を付けた後だった。
こくこくと飲み干す渚を横目で見ながら、妙にどぎまぎしてしまう。
「ん、おいしかったよ」
両手ではい、とカップを差し出す仕草は、実年齢の十一かそこらよりももう少し幼く見える。
だが、不思議と違和感はなかった。
いつもは微かにつり上げている眉が伏せられて、逆に瞳はいつもよりほんの少し大きく見える。
おそらく、これが渚の素顔なのだろう。
逆に言えば、普段いかに無理をし続けているかということだ。
「どうしたの?」
カップを受け取るのも忘れてその表情に見入っていたので、渚は不思議そうに小首を傾げて近づいてきていた。
びっくりするほど近くに渚の深い瞳がある。
瞳の水面には、驚き慌てふためいている自分が小さく映っているのに、その奥の漆よりも美しい黒の世界に吸い込まれそうな気がした。
その温かい吐息が自分の鼻先をくすぐったことで、はっと瞳の牢から意識が抜け出た。
少し……もう少しその中にいたいという未練を否定できない自分がいたけれど。
代わりにまた気づいたことがある。
酔っているというのに、渚の吐息からは嫌な酒の匂いが少しもしなかった。
かすかに甘くさえ思えたのは単なる気のせいだろうか。
それとも……
一瞬、抱きしめて押し倒してしまいたい衝動にかられてしまった。
いくら水地が察知したとしても、それまでに唇くらいなら奪えるほどの距離しかない。
手を伸ばしそうになって……
その余りに無邪気な表情を見つめてしまい、手が出せなくなった。
伸ばしてしまった手の持っていく先があったので助かった。
そうっとカップを受け取ることにする。
受け取るときに、もし渚の手に少しでも触れたら、もう自分の自制心に自信が持てなかったからだ。
何とか受け取って水筒を閉めようとすると、渚が物欲しそうな目を向けてくる。
「ねえ、おかしある?」
カップを手放して手持ち不沙汰になったので、右手の人差し指を唇で挟んでいる。
「こーの、わがまま娘……」
思わず拳を固めそうになったら、渚はビクッとおびえてしまった。
殴るどころか叫ぶ気も失せる。
どうせ逃亡するんだからと自分で用意して置いた煎餅の包みを開けることにした。
高村煎餅店製で、お気に入りの一品である。
「はい」
「あまいのないの?」
煎餅を受け取りつつ、こちらをがくっとさせる一言を言ってくれた。
ただ、それでもやっぱり可愛さの方が目立つ。
幸い、色々な煎餅の詰め合わせだ。
「じゃ、これと交換だ」
「うん」
白く砂糖がまぶされた煎餅を嬉しそうに受け取って、えいっとでも表現したくなるような動きで渚は煎餅にかじりついた。
ぱりぱり、ぽりぽり、ごっくん。
渚の反応が気になってしまい、その動きの一部始終をじーっと見つめていた。
飲み込んだ渚はこちらを向いてにこりと笑って、
「うん、おいしいね」
一回、心臓が鼓動を飛ばした。
今までに見たことがない……いや、横からなら見たことはある。
水地にしか向けられることのない、渚の笑顔。
それが、真っ直ぐ自分に向けられていた。
煎餅一枚の値段としては破格に過ぎるようにも思う。
ただ、もうちょっと別のことで向けて欲しいと心のどこかが叫んでいた。
そんなふうに、自分で自分の感情を持て余しているうちに、渚は自分の煎餅を食べ終えてしまった。
「ごちそうさま。それじゃあ、おやすみ」
「あ、こら!待て、寝るな!」
「……どうして?」
どうしてって言われても困る。
なんて返事をすればいいんだ!
「うーんとなあ、食べてすぐ寝ると牛になるんだぞ」
我ながら苦しい言い訳である。
ほとんど小さい子供を相手にしている様な気になってきた。
ところが、
「やだ。うしになんかなったら、せんせいにきらわれる」
と答えた渚の表情は真剣そのものだった。
ちょっと気の毒になってきた。
「えっと、本当になるんじゃなくって、消化に良くないということだって」
「あ、うん、それならしってる」
元々、知識は並はずれている渚である。
そうでなければ、少々の違和感を押し殺して水地の下で講師などやっていられない。
渚が本気で論破しにかかると、その辺の講師や助教授級の人間では相手にならない位なのだ。
水地が十月の一ヶ月間出雲に出張している間、教授会とやりあっていた渚の手並みは昨年に見せられている。
「解っているならもう少し起きていろよ、もったいないぞ」
「ん……そうだね、さくらをみにきたんだよね」
丁度いい具合に風が吹いて、花びらがちょっと多めに降ってきた。
嬉しそうに手を伸ばして受け取る渚の足と言わず髪といわず、やさしげに桜の花びらが飾った。
特に、黒く艶のある髪の毛に降り注いだ花びらはなおのこと色が映える。
桜色の宝石がちりばめられた髪飾りでもしているかのようだった。
「きれいだね……」
もったいないのは渚でなくて自分の方だったらしい。
おそらく、渚の目に見えている光景よりも、自分の見ている光景の方が何十倍も綺麗だろう。
ということは、口には出せなかったけど。
「桜だけじゃないぞ、足下も見て見ろよ」
照れ隠しとは言え、我ながらもったいない言葉だった。
もう少しああしている渚を見ていたかったのに。
でも、下にある土筆などもそれなりに楽しいだろうにと思ったのも事実だ。
案の定渚は、この言葉で下を向いて、あっ、と嬉しそうな驚きの表情を見せてくれた。
「これね、てんぷらにするとせんせいがだいすきなんだよ」
土筆にごめんなさい、と謝ってから渚はそっと土筆を何本か摘み取った。
「そういえば……ふきのとうってでてないかなあ。あれもせんせいがすきなんだよ」
水地の名前がでてくるので、ちょっと面白くない。
「向こうの土手にならあるんじゃないのか。……それに、摘んでも自分で料理できるのかよ」
「わたし、りょうりはとくいだよ。せんせいがいちばんすきなのは、あきのきのこりょうりだけどね。
こんどうちにきたら、ゆめおりにもりょうりつくってあげようか」
素面で聞きたかった台詞である。
水地と渚の家に行くことなど、本来は絶対に起こるわけがない。
大学の誰も、二人がどこに住んでいるのか知らない位なのだ。
教授会が雇った私立探偵がことごとく敗退していることも知っている。
だから、実際には起こらない。
「行けたら、作ってくれ」
「うん、いいよ。たのしみにしててね」
少なくとも、遠い話になりそうである。
とか話している内に、渚は小川のところまで降りて行ってしまっていた。
「お、おい……どうしたんだよ」
水地に面倒を任されているので……いや、そういうことではなくて……思わず呼び止めた。
見れば渚はせせらぎの中で踏めるような石を見つけて、あやうい足取りで渡ろうとしている。
「だって、ふきのとう、むこうにはあるんでしょ」
自分の軽口が原因だった。
それにしたって、足下が危なすぎる。
ふらふら〜としたかと思うと……
「危ない!」
踏み台にしていた石がぐらりと動いて、渚の身体が泳いだ。
思わず受け止めようとして地を蹴っていた。
ところが、
「だいじょうぶ、だよ」
ドシャアッ
平然と渚が宙に浮かんでしまったので、こちらだけが小川に突っ込むことになってしまった。
水地の弟子として、特殊能力の五つや六つ持っていても不思議ではなかったが、それにしたって悪い冗談だ。
そのままふわふわと宙を移動してよいしょっと対岸につくと、少し離れたところにふきのとうがいくつも生えていた。
やっぱりふきのとうに「ごめんなさい」と言ってから、三つほどをつみ取った。
「ゆめおり、あったよ。ありがとう」
「あーもー、勝手にしろぉ」
こっちはずぶぬれである。
自分がとんでもない莫迦にしか思えなかったので、思わずぶっきらぼうな言い方になってしまった。
それにようやく気づいた渚は、今度は最初から宙に浮かんでこちらに戻ってきた。
手にはしっかりふきのとうを持っている。
「……ごめんね」
そっと渚が触れたところから、服があっさりと乾いた。
一体どれだけの技術を持っているのかわからないが、特に難しいことをやっているという意識はないらしい。
釣り合うためには、どれくらいの実力が要求されるんだろうとふと考え込んでしまった。
「おこってる……?」
「もう、怒ってない」
そんなふうに恐々と聞かれては、こう答えるしかないじゃないか。
上目遣いに見上げる渚の視線を受け止めながら、渚の身長が自分の肩ほどまでしかないことに初めて気づいた。
いつもは身に纏っている雰囲気が、実際よりもずっと渚の身長を高く見えさせているのだ。
だけど、今はその背丈そのままの渚が、ずいぶんと小さく見えた。
安心したように渚はてきぱきと服を乾かしてくれた。
さほどの時間も置かずに、全部乾いた。
少しかさかさしているが、そんなに気持ち悪くはない。
それより、土の付いたふきのとうを抱えているので渚の服の方が汚れている。
「これ、使えよ」
こちらももう乾いた煎餅の外包袋を手渡してやった。
嬉しそうに受け取った渚はふきのとうと、さっき摘んで置いた土筆とを袋に入れた。
「……なんだか、つかれちゃった。……おやすみ」
「え?」
よいしょっとそこに座り込むと、渚はこちらにもたれかかるようにして倒れてきた。
慌ててこちらも腰を下ろして受け止めると、目がまた寝ぼけ眼になっている。
「こら、俺は先生じゃないってば、起きろ、高音さん!」
呼べどもほとんど反応がない。
「なーぎーさ!相手を間違えているぞ!」
「ふにゃ……」
「何が、ふにゃ、だ」
一二度もぞもぞしたが、今度は名前で読んでも起きそうにない。
水地と間違えているのだろうか、安心したようにこちらの右肩にもたれかかっている。
こんな不安定な状態でよく眠れるなあと感心している場合ではない。
これではさっきより状態が悪くなってしまった。
眠るときにこちらを向いていたわけではなく、かくんと頭を倒してくれていたために、間近で渚の寝顔を見ずに済んだのは不幸中の幸いか、幸い中の不幸か。
ともかく、目を向ければ絹のように艶やかな光沢をもった黒髪である。
ここに来る前に朝風呂にでも入ってきたのだろうか、ほんのりと微かにだが石鹸の匂いがしたような気がする。
それで前の一件を思い出しそうになって、慌てて頭から振り払う。
今アレを思い出すのはまずい。
絶対まずい!
かろうじて振り払ったときには、息を切らしていた。
さっきの小川への跳躍といい、つくづく自分が道化に思えてくる。
この美しい髪だって、水地に綺麗だと言ってもらいたくて手入れしているんだろうに。
情けなくなって、髪をすいてやる気も失せた。
「……だいすき……」
まるで追い打ちのように、微かな声で渚は寝言を言った。
どんな夢を見ているのやら、水地に向けていった物に決まっている。
自分の立場なんて、今の状態と同じく座椅子か枕でしかないんだろう。
いたたまれなくなって、そっぽを向くと、あざ笑うように冷たい風が一陣吹いてきた。
横目で渚の、今日は少し薄手の服装を見て、乾いたばっかりの自分の上着を左肩だけ脱いで裏返して、右肩に寄りかかっている渚の肩にそおっと掛けてやった。
そうすると、渚の長い髪を見なくて済む。
合計三枚か四枚の布越しに渚を実感しつつ、天を仰いでいた。
水地助教授室に戻る。
近代都史研究室入り口に戻る。
帝大正面玄関に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。