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大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」(1956, 1970)の作曲技法
-- 草稿「大阪の祭囃子による幻想曲」の分析を中心に --

白石知雄

(『大阪音楽大学研究紀要』47、2009年、43-60頁)


原文(譜例等を含む)がCiniiでPDF公開されています。http://ci.nii.ac.jp/naid/110007058544
補足:「大阪俗謡による幻想曲」の演奏データについては、以下をあわせてご参照ください。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20090226 また、「大阪俗謡による幻想曲」で用いられている大阪のだんじり囃子についてはhttp://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100727/p1、獅子舞囃子についてはhttp://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/ohguri-fantasia-osaka2.htmlをご参照ください。

要旨

 大栗裕(1918-1982)の管弦楽作品「大阪俗謡による幻想曲」には、1956年5月28日の初演に用いられ、1999年から大阪フィルハーモニー交響楽団が所蔵する初稿(ただし現存するのはパート譜のみ)と、大阪音楽大学が所蔵する「1970.7.10.」の日付の入った改訂稿(おそらく1970年7月20日初演、大栗文庫A-019)の他に、同じく大阪音楽大学が所蔵する「大阪の祭囃子による幻想曲」と題された自筆草稿(大栗文庫A-018)が存在する。本論は、この草稿をこの作品の現存する最初の着想とみなすのが合理的であることを確認した上で、2つの実際の演奏に用いられた清書稿と比較しながら、この作品の創作・改訂プロセスを整理する。

1. 「耳で聴く大阪」

 「いかにもせわしげ」で「符ゲタが小節線をまたぐ箇所をスコアのあちこちに紛れ込ませるややこしいリズム法」。「うだるような大阪らしさ」をかきたてる「渾々と濁った響きの質感にこだわった楽器法」。「大阪やその周辺で伝えられ、親しまれてきた民謡」等の活用。音楽評論家の片山杜秀はこれらを大栗裕(1918-1982)の特徴であるとし、「大栗の音楽、それは耳で聴く大阪である」と言う(片山 2002: 3-4)。片山の総括が正しいとすれば、1956年に作曲、初演された「大阪俗謡による幻想曲」は作曲者が特質を遺憾なく発揮した代表作ということになる。この作品では、「大阪の人なら誰もが知っている夏祭の囃子」(大栗 1956a)が街を練り歩くように作中を埋め、ペンタトニックを縦に重ねた目の詰まった響きが続く。ここで引用されているのが、大阪旧市街北部の大阪天満宮「天神祭」の地車囃子と、南部上町台地の生國魂神社夏祭りの獅子舞囃子であることは、ほとんどすべての解説で言及される。(注1

 一方、元大阪市音楽団常任指揮者、木村吉宏は、「大阪俗謡による幻想曲」が当時の一般的な聴衆には理解が困難であった可能性を示唆する。

以前に大阪俗謡の演奏を大阪フィル(関西交響楽団)の演奏で聴いた記憶があり、また、オペラ「赤い陣羽織」を見た記憶もあるが、あまり感動を覚えた記憶がない。それらの作品は、当時新しく新奇であり、私にはそれらを理解できる能力にも欠けていた。大栗作品は大阪フィル以外での演奏回数が少なかったように思われ、大ヒットするにはいたっていなかった。(大阪フィルハーモニー協会 2007: 33)

大栗自身は、神戸での初演(注2直前に発表した文章で、

私は新しい人々からは保守反動と呼ばれることも敢えて辞さない古くさい陳腐な祭囃子を使ったことに私は私のささやかなレジスタンスと、日本の伝統音楽に対する深い尊敬と愛情をも含めているのだ。(大栗 1956a)

と意気込みを語っていた。(注3彼の真意はどこにあったのか。この作品は、単に「大阪俗謡をアレンジした曲」(注4だったのか、それとも、手順を尽くして読み解かれるべき「難解さ」を備えているのだろうか。本論は、「大阪俗謡による幻想曲」の現存する複数の自筆楽譜と関連資料をもとに創作・改訂プロセスの一端を整理して、大栗裕の作品をめぐる議論にいくつかの論点を提示することを目指している。

2. 「大阪俗謡による幻想曲」1956年稿と1970年稿の概要

 「大阪俗謡による幻想曲」には複数の自筆譜が存在する。自筆譜が複数書かれるに至った経緯については、既に樋口幸弘の解説がある。

渡欧した朝比奈隆は、これを最初にウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団、つづいてベルリン・フィルのコンサートで指揮して大成功を収め、(注5自筆譜は持参した和楽器とともにベルリン・フィルに献呈され、同フィルのアルキーフ所蔵となった。[……中略……]原典は、作曲者の没後かなりたってから朝比奈 隆のリクエストにより一時帰郷し、1999年11月11日、大阪・フェスティバルホールで行われた「大阪フィル第333回定期演奏会」において外山雄三の指揮で久しぶりに演奏されて話題を呼んだことも記憶に新しい。しかし、一方で、スコアを手元に持たない作曲者は、ベルリン後それほど遅くない時期(少なくとも1958年までの間)に手元のスケッチや作曲時の記憶などをもとに作品を再構築、その後の演奏にはこの第二稿が使われたが、以上のような経緯から原典と第二稿の間にはかなりの相違点があり、作品再構築時の記憶違いを修正する目的や他の音楽的理由から1970年に一部改訂が行われ、管弦楽最終稿である第三稿が作られた。以後はこの第三稿が演奏されている。(樋口 2006)

 樋口が「原典」と呼ぶ1956年の清書稿(以下、「1956年稿」と呼ぶ)のうち、スコアは1995年以後、所在がわからない。(注6パート譜一式は大阪フィルハーモニー交響楽団に保管されている。(注7各パート譜の表紙に「Fantasia "Osaka" H. Ohguri」(写真2)、楽譜1ページ目に「"Fantasia" 大阪の祭囃子による」(写真3)と書かれており、作曲時点では、このタイトルが想定されていたと思われる。神戸での初演以後の資料では、日本語タイトルは現行の「大阪俗謡による幻想曲」に統一されている。初演を準備する段階でタイトルが変更、確定されたと思われる。(注8

 1970年に作成された「第三稿」(以下、「1970年稿」)は、作曲者の死後、1997年に大阪音楽大学へ寄贈された(大阪音楽大学付属図書館 1998: 145)。自筆スコア末尾に「1970.7.10.」の記入があり、これが完成日だとすれば、10日後の大阪フィルハーモニー交響楽団万博クラシック公演が、この稿を用いた最初の演奏だと思われる。(注9(1956年稿がベルリンに贈られた後も、関西交響楽団(1960年に大阪フィルハーモニー交響楽団に改組)は「大阪俗謡による幻想曲」を国内で繰り返し演奏している。(注10当時の楽譜事情を考えると、そのたびに楽譜をベルリンから借りだしたとは考え難く、別の譜面が存在したと推察される。これが樋口の言う「第二稿」だが、この所在は確認できていない。)

 1970年稿は1956年稿が手元にない状態で記憶を頼りに再構成されたと伝えられているが、実際に比較すると、両稿の違いは意外なほど少ない。小節数は同じで、速度標語とメトロノーム表示も同一、大半の小節が細部まで一致する。

 「大阪俗謡による幻想曲」は以下の5つの部分から成り立ち、序奏をともない、提示部と展開部の間にエピソード的な中間部が挿入されたソナタ形式と見ることができる。(以下本論では、小節数をT.1のように表記する。)

T.1-38、Lento/Andante(注11(M. M. = 72)、序奏。 T.39-280、Allegro(M. M. = 116)、提示部。第1主題(T.47-62)は天神祭の地車囃子、第2主題(T.128-171)は都節による自作主題、第3主題(T.209-244)は生國魂神社の獅子舞囃子。(注12
T.281-304、Andante(M. M. = 72)、中間部。
T.305-378、Allegro(M. M. = 100)、展開部。(注13
T.379-509、Allegro(M. M. = 116)、3つの主題の再現、第3主題の再現(T.471以下)は第1主題のリズムと組み合わされ、M. M. = 132に加速してコーダを兼ねる。

 このうち、2つの清書稿に明白な違いがあるのは序奏と第3主題の再現(コーダ)である。

 序奏は3つの部分、すなわち(1)T.1-2の神事の開幕を思わせる甲高い笛(2本のピッコロとフルート)と太鼓(小太鼓と大太鼓、1956年稿ではウッドブロックも加わる)、(注14(2)T.3-36の弦楽器の2小節の反復音型の上を管楽器が去来する序奏本体(T.3-36)、(3)T.37-38の閉幕の笛と太鼓から成り立つ。1956年稿は、T.3にまず低音楽器と打楽器が入り、2小節後に第2ヴァイオリンとヴィオラが加わる。1970年稿では、低音楽器、打楽器、第2ヴァイオリンとヴィオラがT.3で同時に入る。言ってみれば、1956年稿でオスティナートが段階的に「フェード・イン」するのに対して、1970年稿は、冒頭2小節の笛と太鼓のシーンから、「ボレロ風」(注15のオスティナートに直接「カット・イン」する。

 コーダ(T.471以下)では、第3主題を演奏する楽器が、1956年稿の2本のピッコロから1970年稿ではファゴットを除く全木管楽器へ大幅に増強され、同時に、旋律全体が完全4度低く移調されている。移調したことによって和音と旋律の音程関係が提示部(T.209以下)と同じになり、しかも旋律はクラリネットやオーボエで演奏可能な音域に収まる。この変更は、旋律をはっきり響かせるための改良と見ることができるだろう。

 上記2点以外に、序奏の最後の2小節(T.37-38)に違いがあるのだが、これは、以下に詳述する「もうひとつの自筆譜」の分析とあわせて検討する。

3. 草稿「大阪の祭囃子による幻想曲」の概要と分析

 「大阪俗謡による幻想曲」には、初演、ベルリン・フィルでの上演、および朝比奈隆によるその後の海外での演奏に用いられた1956年稿と、1970年以後の演奏に用いられている改訂稿のほかに、もうひとつ自筆草稿がある。大阪音楽大学が所蔵する「大阪の祭囃子による幻想曲」と題された全80ページの自筆製本スコアである。所蔵印等はなく、この譜面は遺族から大阪音楽大学に直接寄贈されたと思われる。内容はほぼ「大阪俗謡による幻想曲」と一致する。2つの清書稿がペン書きで統一されているのに対して、この譜面は鉛筆書き(黒と青)とペン書きが混在し、段階的に書き上げられたと思われる(小節縦線は、ペンと定規を用いて、全てのページに同じスタイルで引かれている)。

 1956年稿を参照できない段階で作成された「大栗文庫所蔵作品一覧」には「A--019[1970年稿]の下書き?」と注記されているが(大阪音楽大学付属図書館 1998: 146)、この譜面は1956年稿以前に書き始められた現存する最も古い稿である可能性が高い。「大阪の祭囃子による」という確定前のタイトルが記され(写真1)、1956年と1970年の清書稿には存在しない着想が記されているからである。草稿のT.3以下の第2ヴァイオリンは、清書稿の該当箇所とは異なる音型がペンで記され、その上に鉛筆で消し線が書き込まれている(写真4)。また草稿では、T.25に続けて清書稿に存在しない5小節のトランペットのファンファーレがペンで記され(譜例1)、その上に鉛筆でバツ印と「不要」の文字が大書されている(写真5)。

譜例1 「大阪の祭囃子による幻想曲」第8から9頁(トランペット)

T.3のペン書きの第2ヴァイオリンは、清書稿の日本音楽風の様式では周到に避けられている(後述)「h-c」の導音進行で終わる。T.25に続けてトランペットの新しいファンファーレが入ることは、序奏の構成、ひいては作品全体のバランスを崩す(完成した清書稿では、展開部T.320以下の完全4度の下行グリッサンドが序奏T.3以下や第1主題T.47以下のグリッサンドを連想させるなど、序奏と主部の使用素材が関連づけられている、注13も参照)。様式・作曲技法の点から、作品完成後にこうしたアイデアを改めて書き下ろすとは考えられず、これらは1956年稿完成以前のアイデアと判断せざるを得ない。

 この自筆草稿にはペン書きと鉛筆書きが混在するが、筆記具の選択と書き込み方法はシステマティックであり、書き込みの順序をかなり精確に推定することができる。そうした解読結果から、ここでは、この作品の成立過程と作曲技法を考える上で示唆的な3つのポイントについて、適宜2つの清書稿を参照しながら詳述する。

3.1. 序奏の音響設計

 自筆草稿を冒頭から読み進めてまず明らかになるのは、序奏の冒頭から提示部の第1主題の終わり(T.62)まで、ペン書きによる書き込みが連続してなされていることである。これがこの譜面への最初の記入と推定される。同じくペン書きで(こちらはスコアの最終ページまで)小節縦線が定規で丁寧に引かれていることと合わせて考えると、当初、大栗はこの譜面をペンで一気に書き下ろすつもりだったのかもしれない。

 冒頭4小節から最初の着想と思われる書き込みだけを抜き出すと譜例3aのようになる(掲載スペースを節約するために、いくつかのパートを同じ段にまとめて楽器名を付した)。ここで注目したいのはT.3-4の和声である。第2ヴァイオリンのトリル風の揺れや「グリサンド風」の指定、ヴィオラのトレモロ、コントラバスのピチカートなど、音高を曖昧にする奏法が盛り込まているが、少なくとも楽譜上では、三和音が常にどこかで響いている(T.3第1、2拍のes+fis+hもしくはes+fis+c、同第3拍g+h+dやg+c+e、T.4第1拍のe+g+c、同第2拍チェロのc+es+fis)。

 1956年の清書稿では、同じ箇所が譜例3bのように書き換えられている。譜例3aのT.3-4と譜例3bのT.5-6を比較すると、ほぼ全声部が変更・修正されているのがわかる。(このうちコントラバスの長短2度による音程のぼかしとチェロの和音の変更、低音管楽器の持続音は自筆草稿にも鉛筆で書き入れられている。)ヴィオラとチェロを書き換えたことで、三和音はもはや響かない。そして弦楽器の使用音を小節ごとに書き出すと、

Vn:   h     e |   c   f
Vc:           | b     f
Va: a+h dis+e | b+c e+f
Cb: a+h dis+e |     e+f
-------------------------
    a+h dis+e | b+c e+f
譜例3a 「大阪の祭囃子による幻想曲」T.1-4
譜例3b 「大阪俗謡による幻想曲」1956年稿T.3-6

奇数小節と偶数小節で、同じ組成の四音和音が半音ずれて響くことがわかる。そしてこの四音和音は、弦楽器の書法から、第2ヴァイオリンのh-e、c-fの完全4度の枠組みをコントラバスやチェロのaとdis、bとeがぼかしたものだと考えられる。チェロが完全4度を響かせることと相まって、この楽譜は、自筆草稿のような3度ではなく、完全4度を主成分とする音響を意図しているように見える。1970年稿も、ヴィオラが第2ヴァイオリンと同じ音型に書き換えられていることを除いてこれと同一である。すなわち、この作品の序奏部は、最初の着想からその後の推敲のどこかの段階で、3度主体から4度主体へ音響の基本デザインが変更されている。(清書を目指して書き始められたかにみえるペン書きが序奏をひととおり書いたあとで中断しているのは、音響設計の根本的な見直しに起因するのかもしれない。)

3.2. 主部におけるペンタトニック

 提示部以後は、小節線がペンと定規であらかじめ書かれていることを除いて、すべてのページが鉛筆で書き下ろされたのち、ペンと青鉛筆で修正されている。大栗裕は、この作品の直前に完成した「管楽器と打楽器の為の小組曲」(大阪音楽大学付属図書館大栗文庫B-013)と翌年の「序奏と舞」(同A-011,023)でも、ペン書きの清書稿の他に鉛筆書きで全体を仕上げた第一稿を作成している。おそらくこれが当時の彼の標準的な作曲手順であり、「大阪の祭囃子による幻想曲」も、ペン書きで一気に書き上げることを断念した後に、まず鉛筆で最後まで仕上げる方針に切り替えたのではないかと思われる。そしてこの主部の草案でとくに注目したいのは、スコア上下の未使用の五線に書き入れられたペンタトニックの覚え書きである。

 大栗は、既に一部を引用した本作初演直前の文章で次のように書いている。

今度の大阪俗謡(これは大阪の人なら誰もが知っている夏祭の囃子であるが)を主題にした作品を書きながら、私は漸くにして日本音楽の作曲技法に関する種々の問題がやや明確な形となって私の頭に現われ始めた。人は「五音々階」の単純さを云々するけれども、我々が現在残されている数知れない沢山の民謡やその他の音楽を少しでも興味を持って見るならば、そこには西洋の十二音音階に劣らない美的感覚と論理的必然性を発見するだろう。例えば日本の音階における転調法の巧妙さ、それは私の曲で第三主題となって現れる僅か十二小節の旋律に過ぎないがその間に三度も調を転換するのみならず旋法までが変化する。(大栗 1956a)

草稿の第3主題の欄外(T.209-220)には、「三度も調を転換する」の言葉の通り、三種のペンタトニックが書き込まれている(譜例4a)。しかも写真6にあるように、これらのペンタトニックに共通する3つの音(e, a, h)に丸印を付けて、五線の左端には、この3音を積み重ねた和音を書き出している。実際の譜面では、この3音に旋律の開始音(d)を加えた四音和音が獅子舞囃子の背後に響く。スコアの欄外に、旋律の旋法を分析して、そこから和音を抽出する一連のプロセスがはっきり書き込まれているのである。

写真6 大栗裕「大阪の祭囃子による幻想曲」スコア第209から210小節(ピッコロ)
譜例4a 「大阪の祭囃子による幻想曲」T.209-220(ピッコロ)

 そしてさらにT.259から獅子舞囃子は完全5度高い位置で4小節ずつ3つに分割して金管楽器で変奏される。ここでは、最初の4小節が第1のペンタトニック、次の4小節が第2のペンタトニック、最後の4小節が第3のペンタトニックで和声付けされる(譜例4b)。

譜例4b 「大阪の祭囃子による幻想曲」T.258-261, T.265-268, T.271-274

3.3. ピチカートの揺らぎ

 序奏のオスティナート音型を取り巻く静的な音響は、4度を主成分として三和音を排除していた。一方、主部では、「大阪の俗謡」から抽出したペンタトニックを縦に積み重ねる、いわば「過剰な」四音和音や五音和音のなかに三和音が飲み込まれている。そして使用するペンタトニックを頻繁に切り替えて、移調することで、機能和声における「調の転換」に相当する多様性(緩い構成であるとはいえ、ソナタ形式を成り立たせるような)を実現している。しかしそれでは、序奏の静的な音響設計と、主部の過剰で自由度の高い音程操作はどのように媒介、接続されているのだろうか。

 既に述べたように、序奏では最初と最後に笛と太鼓が鮮烈に鳴り響く。この2小節のユニットを詳しく分析すると、1小節目から2小節目にかかる甲高い笛と、2小節目後半の太鼓の間に、2小節目第2拍でバチを打ち付けるようなヴィオラとチェロのピチカートが入る。そして甲高い笛(および4拍目でこれに加わる木管楽器とヴァイオリンのクラスター風の複合音)や太鼓が草稿から1970年稿まで同一なのに対して、ヴィオラとチェロのピチカートの音程は、3つの自筆譜それぞれ違っており、試行錯誤の跡が見える(譜例5)。

譜例5 序奏部分の比較(左上「大阪の祭囃子による幻想曲」T.1-2、右上「大阪俗謡による幻想曲」1956年稿T.1-2、下「大阪俗謡による幻想曲」1970年稿T.1-2およびT.37-38)

 自筆草稿のペン書き(譜例3左上の2小節)におけるc音のオクターヴは、ピッコロの剥き出しのh音からの上行導音進行(h-c)、もしくは、第1ヴァイオリン(同譜例中段上声)の最高音からの5度進行(g-c)、もしくは第2ヴァイオリン(同譜例中段下声)からの下行導音進行(cis-c)という三重の文脈で機能和声的な意味での「不協和からの解決」に聞こえる。序奏の最後でもまったく同じ進行が繰り返されるので、序奏は完全に閉じてから、主部の祭り囃子が始まることになる。

 しかし自筆草稿にはのちに鉛筆書きでコントラバスのb音が書き加えられ、第2小節のピチカートはcis音に変更される。甲高いピッコロは低いb音と干渉して音程が曖昧になり、ヴィオラとチェロのピチカートは、第2ヴァイオリンのcis音をそのまま受け継ぎ、解決を先送りしているように聞こえる。1956年稿もこの形である(以上、譜例3右上の2小節)。

 そして1970年稿(譜例3下の4小節)は、この2つのアイデアを組み合わせている。冒頭の2小節は2小節目のピチカートがc音に戻され、バスのb音で弱められているとはいえ、導音進行あるいは5度進行による「解決」の役割を果たす。一方、序奏の最後の2小節では、ピチカートがcis音を保持して、しかも、この音高を保ったままで加速(accel.)して、そのままアレグロの主部へなだれ込む。

 1970年稿の序奏と主部を切れ目なくつなぐアイデアは、こうした音程の微調整によって実現する。完全4度やペンタトニックを主体とするこの作品は、細部のつぶれたような「濁った」響きを特徴とする。しかし響きの「濁り」は無秩序ではなく、半音の違いを聴き取る作曲者の「耳」によって繊細に制御されているのである。

4. 大栗裕のユーモア

 大栗裕の音楽の「濁々と濁った響き」(片山杜秀)は、透明度の高い調性音楽に慣れた耳に「新奇」(木村吉宏)な印象を与える。しかしこうした音響を実現する4度やペンタトニックの堆積という作曲技法それ自体は、1956年の日本人作曲家の管弦楽作品として目新しいものではない。この作品の神戸での初演を聴いた上野晃は「音素材そのものの展開には貧しさを免れ得ず、観光ポスターのような単に表面的な日本調を音で外国に紹介する安易さに、僕は聊かはづかしい思いをさせられた」(上野 1956: 121)と感想を述べている。

 大栗はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会の成功を受けた朝比奈隆帰朝特別演奏会(注16のプログラムで、「この曲は異邦人に異国趣味を起させ得るのは、作者の意図であって、この音楽的な感動が直ちに芸術的な価値と結びつくものとは思ってもみなかった」と応じつつ、次のように書く。

無理に云えば此の効果ばかりを狙った作品の好評は、作者が予め計算し、設定した効果が、効果そのものとして働いたということ、そして次に日本伝統の音楽もその取扱いの如何によっては、西欧人の理解と共感をある程度得られるという可能性を立証したことであると思われる。この後者の問題は我々にとって非常に重要であって、今後の日本の音楽が当面する一つの方向であるとも考えられる。(大栗 1956b)

上野が作曲技法の質(「音素材そのものの展開」の「貧しさ」と「観光ポスター」を思わせる「安易さ」)を問題にするのに対して、大栗は聴き手に対する効果を強調する。「観光ポスター」風のペンタトニックは「予め計算し、設定した効果」であり、それが「西欧人の理解と共感をある程度得」たことが重要だったのである。

 そして大栗裕は、上の引用文を次の一文で締めくくる。

又それとは別に、あの大阪の夏祭の笛と太鼓の囃子をベルリンの人達がどんな顔をして演奏したかを、私の見ることが出来なかったのは最も残念であった。(同上)

ベルリンの名手たちが大阪の祭り囃子を演奏する光景は、ミスマッチのユーモアを誘発するものだったかもしれない。樋口幸弘によると、生國魂神社の宮司だった二宮正彰が獅子舞囃子に次のような歌詞を付けて、「作曲者がこの曲を書いた当時は、盛んに歌われていた」という。

生国魂(いくたま)獅子舞、よい景気。おたやん、こけても、鼻打たん。大阪名物、夏祭り。(樋口 1993)

ベルリン・フィルが、それと知らないままに「おたやん(おたふく)、こけても」と口ずさむ姿を空想するのは愉快である。大栗裕は、神戸で若手音楽評論家を恥じ入らせた大阪俗謡のペンタトニックが、ベルリンでの演奏という特別な文脈においてユーモアに転化することにどこかの段階で気づいたのだろう。

 そしてこのようなユーモアを見出したとき、作曲者は、もはや聴衆に「見られる(聴かれる)」作り手の立場を離れ、いわば堅苦しい壇上を抜け出して、演奏を「見る(聴く)」観客席へと想像上の立ち位置を移動している。彼のコメントは、聴衆に対峙して何らかの音楽上の問題提起をするというよりも、聴衆と同じ側に立ち、聴衆とともに音楽を楽しむ態度を表明しているように見える。「耳で聴く大阪」という大栗裕のイメージは、このように身軽で気取りのない聴衆との関係性が前提となっているように思われる。(注17

付記:本論文の作成に当たり、資料と多くの貴重な情報を提供してくださった大阪フィルハーモニー交響楽団、特に事務局長小野寺昭爾さん、資料の閲覧と貸し出しを許可してくださった大阪音楽大学付属図書館大栗文庫と音楽博物館、写真撮影を引き受けてくれた岩田寛子さんに心より感謝します。

1)本作は、1955年末あるいは翌年初頭に朝比奈隆の同年6月ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会出演が正式決定した後、ベルリンでの演奏を想定して作曲され、同年5月28日に神戸で初演された。作曲者は、「夏祭りの囃子」を実地で再確認することなく、記憶をもとに引用したと思われる。本作における地車の鉦(ちゃんちき)のリズムは8小節16拍の一定のパターンに固定され、「みるみるうちにリズム型が変化して、いつのまにか一連の大きな流れがかたちづくられる」(井野辺、網干 1994: 150)ということはない。生國魂神社の7月11、12日夏祭りの獅子舞囃子は、今も本作第209から220小節(以下T.209-220と表記)に似た篠笛の節を伝承している。なお、天神祭で奏演される道中囃子(同上: 186-189)も生國魂の獅子舞囃子と酷似する。「大阪の各神社の夏祭りの獅子舞やそのお囃子には、それぞれ少しづつ違いがあるものの、逆に共通する部分も多く見られる」(樋口 1993)。 [→本文へ戻る]

2)神戸新聞会館落成記念関響グランド・コンサート、1956年5月28日、神戸新聞会館大劇場。大阪音楽大学音楽博物館が所蔵するチラシを見ると、「大阪俗謡による幻想曲」には「(ベルリンフィルハーモニー管弦楽団に捧ぐ)」と添え書きされている。 [→本文へ戻る]

3)日本の伝統芸能に依拠する立場をレジスタンスと位置づける発想は、大栗裕の歌劇「赤い陣羽織」を演出した武智鉄二の芸術観を連想させる(白石 2008参照)。 [→本文へ戻る]

4)例えば朝比奈隆は、NHK交響楽団機関誌『フィルハーモニー』1978年9月号のインタビューで、この作品を「大栗裕という大阪の作曲家の大阪俗謡をアレンジした曲」と説明している(朝比奈 2002: 108)。 [→本文へ戻る]

5)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団1955/1956年第5回交響曲特別演奏会(Berliner Philharmonisches Orchester, 5. Konzert der "Symphonischen Zwischensaison")、ベルリン高等音楽院ホール、1956年6月21、22日。大阪フィルハーモニー交響楽団が所蔵する当日のパンフレットには、J. Rfr.の署名で次の解説がある。「H. Okuri[原文のまま]の大管弦楽のための幻想曲にも、日本の民謡が用いられている。短い序奏の後で、土着の打楽器(指揮者、朝比奈隆が持参した)によって打ち鳴らされるリズムが全曲を支配する。このリズムは、毎年、大阪の町で夏に催される祭りの音楽から取られている。」 [→本文へ戻る]

6)1995年6月20日、元ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団副コンサートマスター、ヘルムート・シュテルンがベルリンからハルビン滞在中の朝比奈隆のもとへこの作品のスコアを持参した(木下、岩野 2002: 44-45)。朝比奈は「一度贈ったものを受け取るわけにはいかない」とスコアをシュテルンに返したと伝えられている。 [→本文へ戻る]

7)使用五線紙に「関西交響楽協会」の銘、表紙右上に「Berliner Philharmonisches Orchester Berlin-Dahlem」の所蔵印。第2ファゴットと第1、第3トランペットのパート譜に「ビーレフェルト、1958年12月5日」、第1フルートと第1トランペットには「デュイスブルク、1960年1月27、28日」と書き添えた演奏者の署名。書き込みから、朝比奈隆のヨーロッパ各地の演奏でこれらのパート譜が(ベルリンから借り出され)使用されたとわかる。 [→本文へ戻る]

8)6月のベルリン・フィルハーモニー演奏会パンフレットの表記は「HIROSHI OKURI: FANTASIE FU¨R GROSSES ORCHESTER / LENTO-ALLEGRO-ANDANTE-ALLEGRO / DEM BERLINER PHILHARMONISCHEN ORCHESTER GEWIDMET」で、「Osaka」の語はない。このドイツ語タイトルの出典は不明。その後の欧州上演での表記は未調査。 [→本文へ戻る]

9)万博クラシック・大阪フィルハーモニー交響楽団、1970年7月20日、フェスティバルホール。日下部吉彦の曲目解説に「大阪俗謡による幻想曲」の使用楽譜に関する記述はない。 [→本文へ戻る]

10)例えば、1958年8月1日、関西交響楽団富山演奏会(詳細未確認)、1960年5月27日、大阪文化まつり(新歌舞伎座、朝比奈隆指揮、ここから大阪フィルハーモニー交響楽団)、1962年4月1日、ライオンズクラブ記念大会(丸善石油高校講堂、遠山信二指揮)、1962年8月17、18日、和歌山労音例会(和歌山市民会館、外山雄三指揮)。以下、同種の演奏会が続く。本文冒頭で引用した木村吉宏が聴いたのも、こうした一連の演奏のひとつであったと思われる。演奏記録は、大阪フィルハーモニー交響楽団事務局長小野寺昭爾氏から情報提供を得た。 [→本文へ戻る]

11)1956年稿の序奏にはLentoと記され、ベルリン・フィル公演プログラム(注8参照)やこれに対する各紙の批評、朝比奈隆帰朝記念公演プログラムもこの表示を採用している。自筆草稿と1970年稿の表記はAndanteである。Lentoへの変更が1970年稿でAndanteに戻された理由は不明。 [→本文へ戻る]

12)「大阪の祭囃子による幻想曲」と題された草稿(後述)では第3主題冒頭(T.209)に「Poco Meno」と記されているが、この表記は2つの清書稿には存在しない。 [→本文へ戻る]

13)主部の3つの主題と中間部の旋律は、譜例2で示したように冒頭部分の動きが類似する。このアナロジーは、展開部で第1主題と第2主題が酷似したリズムに変奏されることで顕在化する(T.313以下とT.360以下)。

譜例2 「大阪俗謡による幻想曲」1970年稿T.55-62、T.128-135、T.209-206、T.281-286

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14)序奏について、樋口幸弘は「祭を前にして神事がとり行われているような」(樋口 2006)、片山杜秀は「神道の神楽や仏教の御詠歌の雰囲気」(片山 2002: 4)と形容している。 [→本文へ戻る]

15)片山杜秀は、第2次大戦期の日本に「一種の《ボレロ》熱」があったとする。片山の推論では、この頃、複数の主題を組み合わせる西洋音楽に対抗して、「新しい東洋の音楽は、たとえば展開や変奏を伴わないひとつの主題による音楽」ではないかとされ、「そのとき日本の作曲家たちがひとつのモデルとして発見したのがラヴェルの《ボレロ》であった」(片山 2005: 14)。朝比奈隆は、戦時中の「ボレロ風」邦人作品のひとつ、深井史郎「ジャワの唄声」の初演(1943年1月19日、新交響楽団)を指揮しており、当時、大栗裕は東京交響楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団)のホルン奏者だった(東京フィルハーモニー交響楽団 1991: 132)。 [→本文へ戻る]

16)朝比奈隆帰朝特別演奏会、大阪産経会館、1956年8月20日。この演奏会では冒頭で日独国歌が演奏され、ベルリン・フィルの6月の演奏会の曲目(大阪フィルハーモニー協会 1997: 115等参照)がモーツァルト「ロンド ニ長調」K. 382を除いて再現された。 [→本文へ戻る]

17)朝比奈隆は、関西の作曲活動について、1953年関西交響楽団東京公演時の宮沢縦一によるインタビューで次のように語っている。

宮沢 関西の作曲家はどうです。
朝比奈 たくさんいるけれども、映画の仕事をしてる人がかなり多いので関西は映画の盛んなところだからね。それに放送局も三つもあるから、そこでいろいろなドラマとかそういうものをやっている人があり、又宝塚劇場という舞台がある。この三つのスタッフなんだな。だから諸井先生みたいに、書斎に閉じ籠ってシンフォニーを書いているという人がいない。(朝比奈、金沢、宮沢 1953: 97)

大栗裕は、関西交響楽団に提出した楽員カードに「昭和十一年 大阪市立天王寺商業卒業 卒業後家業ニ従事スル傍ラ映画音楽ノ編曲ソノ他各種演奏ニ出演セシコトアリ」と申告しており、十代後半から映画撮影所に出入りしていたと思われる。東京交響楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団、1941-1945年)、日本交響楽団(現・NHK交響楽団、1946-1949年)、宝塚歌劇団(1949-1950年)、関西交響楽団/大阪フィルハーモニー交響楽団(1950-1966年)のホルン奏者を務めながら、1955年に歌劇「赤い陣羽織」で作曲家としてデビューした後には、ラジオ、テレビの放送音楽を多く手がけた。(「大栗文庫所蔵作品一覧」(大阪音楽大学付属図書館 1998) には放送音楽が123作記載されている。)諸井三郎が「書斎」の作曲家だとしたら、彼は「現場」で生涯を過ごした作曲家である。必ずしも最新の技法を用いているわけではない彼の音楽は、映画の観客や放送の視聴者、そして天王寺商業学校における彼の音楽活動の原点でもあった吹奏楽の愛好者など、交響曲演奏会に足を運ぶとは限らない幅広い聴衆層に向けられていた可能性を考慮しなければならないだろう。 [→本文へ戻る]

参照楽譜

大栗裕「大阪の祭囃子による幻想曲」、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫A-018、オーケストラ総譜。
大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫A-019、オーケストラ総譜、1970年7月10日。
Ohguri, H. 「Fantasia "Osaka" - Fantasia 大阪の祭囃子による」、大阪フィルハーモニー交響楽団所蔵、パート譜。

参考文献

朝比奈隆、金沢益孝、宮沢縦一 1953 「関響の上京を迎えて」、『音楽之友』1953年7月号、94-99頁。
朝比奈隆 2002 「私の歩み、N響の歩み」、『指揮者の仕事 朝比奈隆の交響楽談』、実業之日本社、93-114頁(初出『フィルハーモニー』1978年9月号、NHK交響楽団)。
井野辺潔、網干毅(編) 1994 『天神祭なにわの響き』、創元社。
上野晃 1956 「楽壇の話題・記録・思潮 関西楽壇」、『音楽藝術』1956年8月号、119-122頁。
大栗裕 1956a 「『大阪俗謡による幻想曲』について」、『関西芸術』48、1956年5月20日。
大栗裕 1956b 「自作について」、朝比奈隆帰朝記念演奏会パンフレット、1956年8月20日。
大栗裕 1970 「個人的な、あまりに個人的な」、『大阪音楽界の思い出』、大阪音楽大学、325-334頁。
大阪音楽大学付属図書館 1998 「大栗文庫所蔵作品一覧」、大阪音楽大学音楽研究所『音楽研究 大阪音楽大学音楽研究所年報』15、145-153頁。
大阪市音楽団創立60周年記念事業委員会(編) 1983 『大阪市音楽団60年誌』、大阪市教育委員会。
大阪市音楽団(編) 2003 『大阪市音楽団創立80周年記念誌』、大阪市教育振興公社。
大阪フィルハーモニー協会(編) 1997 『大阪フィルハーモニー交響楽団50年史』。
大阪フィルハーモニー協会(編) 2007 『大阪フィルハーモニー交響楽団創立60周年記念史』。
片山杜秀 2002 『日本作曲家選輯 大栗裕』解説、NAXOS、8555321J。
片山杜秀 2005 『日本作曲家選輯 深井史郎』解説、NAXOS、8557688J。
木下晃(写真)、岩野裕一(文) 2002 『木下晃写真集 朝比奈隆円熟の80代』、音楽之友社。
シュテルン、ヘルムート 1999 真鍋圭子訳『ベルリンへの長い道――戦乱の極東を生き延びたユダヤ人音楽家の記録』、朝日新聞社。
白石知雄 2008 『大阪フィルハーモニー交響楽団 大栗裕の世界』曲目解説、2008年4月15日。
東京フィルハーモニー交響楽団(編著) 1991 『東京フィルハーモニー交響楽団80年史』。
樋口幸弘 1993 『吹奏楽名曲コレクション31 大栗裕作品集』解説、東芝EMI、TOCZ-9195。
樋口幸弘 2006 『大栗裕の世界』解説、大阪音楽大学自主製作CD。
渡辺佐 1977 『聖フロリアンの鐘――大阪フィル欧州公演の記録』、第一法規出版。

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