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大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》自作解説への注釈
-- 1956年の二つの先行器楽作品および大阪の祭り囃子について --

白石知雄

(『阪大音楽学報』第8号、2010年、55-68頁)


補足:ここでは言及できなかった大阪のだんじり囃子についてはhttp://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100727/p1、大栗裕の室内管弦楽作品についてはhttp://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20100627/p1をあわせてご参照ください。
正誤表

要旨

Hiroshi Ohguri (1918-1982) composed three instrumental works in 1956. In order to positively respond to the negative criticism he received for the first performance (on January 11) of his partially atonal and experimental work, Fantasy for Grand Orchestra, he composed three-movement Petite Suite (Divertimento No. 1) for Winds and Percussion in February (the first performance on February 27). Some themes are written on the basis of traditional Japanese scales in this small neoclassical chamber music. He believed to have resolved "various technical problems on composing Japanese music" (Kansai Geijutsu vol. 48 on May 20) in his third instrumental work of this year, Fantasy on Osaka Folk Tunes (the first performance on May 28). This statement is verified in this study by way of comparing with one of the "Osaka folk tunes" which he made use of, the ritual dance music, Shishimai-Bayashi in some summer festivals in Osaka.

1. はじめに

 大栗裕(1918-1982)は、1956(昭和31)年5月28日神戸新聞会館における管弦楽曲《大阪俗謡による幻想曲》の初演に先立ち、同月20日付けで関西交響楽協会(当時、大栗裕が在籍し、朝比奈隆の指揮でこの作品を初演した関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)の上位組織)が発行した『関西芸術』48号に次のような文章を寄稿した。

 今度の作品は先ず異国の人々に日本の固有の音楽の一端を紹介したいという目的で書かれてある。近時前衛音楽と称してミュージック・コンクレート、或いは電子音楽などと、作曲界に新しい運動が起りつつあるけれども、私は私なりに日本の伝統音楽に対して限りない愛着を感じ、それを理論づける為の努力に異常な興味を覚えている。私の「赤陣」及び二月に宮本政雄氏と関西管楽器協会の特別好意によって演奏された「管楽器と打楽器の為の小組曲」において、日本の音楽に対する私の考え方を幾分盛り込んではみたものの、実際のところ模索しているといった方が当たっていたかも知れない。今度の大阪俗謡(これは大阪の人なら誰もが知っている夏祭の囃子であるが)を主題にした作品を書きながら、私は漸くにして日本音楽の作曲技法に関する種々の問題がやや明確な形となって私の頭に現われ始めた。人は「五音々階」の単純さを云々するけれども、我々が現在残されている数知れない沢山の民謡やその他の音楽を少しでも興味を持って見るならば、そこには西洋の十二音音階に劣らない美的感覚と論理的必然性を発見するだろう。例えば日本の音階における転調法の巧妙さ、それは私の曲で第三主題となって現れる僅か十二小節の旋律に過ぎないがその間に三度も調を転換するのみならず旋法までが変化する。
 私は新しい人々からは保守反動と呼ばれることも敢えて辞さない古くさい陳腐な祭囃子を使ったことに私は私のささやかなレジスタンスと、日本の伝統音楽に対する深い尊敬と愛情をも含めているのだ。(大栗裕 1956b)

 大栗裕が、自身の作曲技法についてこれほどはっきり語るのは珍しい。しかもここでは、反骨心(「保守反動と呼ばれることも敢えて辞さない」、「私のささやかなレジスタンス」)すら表明される。この論考では、作曲者の言葉を手掛かりにして、《大阪俗謡による幻想曲》に至る1956年前半に大栗裕が直面していると感じていた「日本音楽の作曲技法に関する種々の問題」を検証する。

 ただし、上記引用で取り組みの出発点とされた大栗のデビュー作《赤い陣羽織》(1955年6月の初演以来、関西歌劇団関係者はこの歌劇を《赤陣(アカジン)》の愛称で呼ぶ)は扱わない。アラルコンの風刺小説を日本の民話劇に翻案した木下順二の脚本、欧米視察(1953年10月から翌年2月)後の朝比奈隆の提唱で体制を整えつつあった関西歌劇団の動向、歌舞伎演出の再検討(いわゆる「武智歌舞伎」)で名を馳せた武智鉄二による演出など、この歌劇の成立に関わる数々の事柄を分析、評価する準備が、筆者にはまだない。

 代わりに、1956年1月に初演された「もうひとつの幻想曲」を紹介することから始めたい。作曲者の公式発言とは裏腹に、《赤陣》から《俗謡》(以下、《大阪俗謡による幻想曲》を適宜このように略称する)への歩みは一直線ではなく、その間に、実は「日本の伝統音楽」と接点のない管弦楽作品が試みられていた。そのことを確認するためである。

2. 封印された「実験」? -- 《管弦楽のための幻想曲》

 1956年1月11日から15日までの5日間、大手前会館における大阪労音一九五六年一月例会(副題「関響による交響曲と管弦楽」)で、大栗裕の《管弦楽のための幻想曲》(自筆総譜末尾に「1956年1月1日」の日付)という作品が朝比奈隆の指揮、関西交響楽団により初演された。この曲の楽器編成は《俗謡》とほぼ同じ三管編成であり、形式は《俗謡》と同じく序奏(Andante)をともなうソナタ形式で、これも《俗謡》と同じく、快速な主部(Allegro ma non troppo)に速度を落とした中間部(Andante)が挿入されている(《俗謡》の形式については、白石 2008: 45)。

 一方、盛り込まれた素材は好対照である。序奏冒頭のヴァイオリンのオクターヴにフルートを重ねた無伴奏の旋律は12の半音をすべて含み(譜例の十二音音列風の数字付けは筆者)、

譜例1: 大栗裕《管弦楽のための幻想曲》(1956年)冒頭

主部の冒頭、第一主題に相当する弦楽合奏のフゲッタの主題は、半音を多用して、ジグザグに動き続ける。

譜例2: 大栗裕《管弦楽のための幻想曲》(1956年)第一主題

第二主題はト短調に安住するが、ありふれた付点リズムと裏打ちの伴奏型はパロディー的な陳腐さを狙ったのかもしれない。

譜例3: 大栗裕《管弦楽のための幻想曲》(1956年)第二主題

2つの主題の提示・展開・再現プロセスの間に、管弦楽の多彩な効果を駆使する一回限りの音型が次から次へと浮かんでは消える。一種のコラージュ(例えば前年のテープ編集作品の経験を踏まえて1954年に黛敏郎が作曲した《饗宴》のような)を狙ったのか、作曲技法が未熟なのか……。初演を聴いた上野晃は、これを未熟な作品と見なし、「初演曲 大栗裕“オーケストラの為のファンタジー”は、楽想の持続性が乏しく、各々の主題に有機的関連性を欠く」と批評した。

物々しいオケの器に比して音楽は貧しい。ファンタジーの名に相応しく、作曲者のオーケストレーションの実験やデモンストレーションとだけで済まされない。(上野 1956)

また、《赤い陣羽織》東京公演(1956年3月28、29日)を終えたタイミングで『音楽之友』1956年6月号に掲載された大栗裕を紹介する記事で、柴田仁は次のように消息を伝えている。

 彼はその後労音例会のために「幻想曲」を一曲かき、目下ベルリンに朝比奈氏がもっていこうという日本人作品の一つにと苦心の作曲をつづけている。
 大阪労音例会にその作品をだしてみて、もっとも大衆的なその会でどんな受け方をするかをみて、「音楽のあり方」がわかったといっている。この若い作曲家はさすがに賢い人である。(柴田 1956)

この作品は以後再演された形跡がない。作曲者も失敗だったと判断したのだろうか。いずれにせよ、自作解説で「日本の伝統音楽」への「愛着」と結びづけられた《大阪俗謡による幻想曲》には、作曲界の「新しい運動」、「前衛音楽」へ接近しようとするかのような「実験」が先行していたのである。

3. 《管楽器と打楽器のための小組曲(ディヴェルティメント第1番)》における「模索」

 《管弦楽のための幻想曲》の約一ヶ月後、ガスビル講演場における大阪室内楽鑑賞会第八回演奏会で初演されたのが、《俗謡》自作解説で「日本音楽に対する私の考え」の「模索」とされた《管楽器と打楽器のための小組曲》である(自筆総譜末尾には初演当日「1956年2月27日」の日付)。楽器編成は、フルート、オーボエ、クラリネット2、ファゴット、トランペット、トロンボーン、打楽器で、いくつかのパート譜の末尾に演奏者の署名や「Stockholm Radioorchester」、「27/11 1956」等の書き込みがある。朝比奈隆がスウェーデン国立放送交響楽団演奏会で指揮したとされる大栗裕の「ディベルティメント」(岩野、小野寺 2009: 1)は、この作品のことだと思われる。大栗裕は1963年に同じ編成の曲をもう一つ書き、この作品は同年10月31日「大阪フィルのメンバーによる室内楽の夕」で《管楽器と打楽器のためのディヴェルティメント第2番「三つの像」》として初演された。以後《小組曲》は、《ディヴェルティメント第1番》と呼ばれるようになった。

 《小組曲》は3つの楽章から成り立ち、初演演奏会プログラムの自作解説(大栗 1956a)によると、「第一の部分はアレグロソナタ形式」、「第二の部分はモデラート、アンダンテで三部形式」、「第三の部分は[…中略…]ロンド形式アレグロ」である。続けて作曲者は次のように書く。

そしてこの曲全体については民俗的な基盤の上に立って我々がその伝統的なものを西洋音楽の形式にどの位適応させるかと云う日本の作曲家たちが常に当面するであろうところの問題に対する一つの試行にすぎないと云えよう。(同上)

この作品には、日本風の素材によるインヴェンションの趣がある。弦楽器第1楽章の第一主題は完全4度の平行で提示される。

譜例4: 大栗裕《管楽器と打楽器のための小組曲》第1楽章冒頭

また第3楽章では、ロンド形式の第二エピソードに相当する部分で、都節音階(陰旋法)のすべての構成音d, es, g, a, bが同時に鳴る。直前まで、ファゴットの八分音符(d音)の上で、「テンテケテケ……」とトランペット(b、g音)が小太鼓を模したようなリズムで踊っているが、g-mollの和音は第2転回形で安定せず、都節を縦に積み重ねた厚い響きに脅かされる。西洋風の三和音と日本風の、いわば「旋法和音」を衝突させる試みである。

 4度平行と旋法和音は、この「模索」段階の小品では部分的な効果や色彩に留まっているが、三カ月後に初演された《大阪俗謡による幻想曲》では、4度平行が序奏、旋法和音がソナタ形式の主部の音響設計の基調へと格上げされることになる(白石 2008: 47-50)。

譜例5: 大栗裕《管楽器と打楽器のための小組曲》第3楽章より

4. 大栗裕と大阪の獅子舞囃子

 《管弦楽のための幻想曲》と《管楽器と打楽器のための小組曲》を踏まえると、《大阪俗謡による幻想曲》は、前者で試みた拡張されたソナタ形式に、後者で模索した日本風の素材と技法を盛り付けた作品と見ることができそうである。ただし《俗謡》の素材は、もはや漠然と日本風なリズム・音階ではなく、現実に伝承・演唱されている「大阪の夏祭の囃子」である。大栗裕の自作解説は「第三主題」として用いた節回しの「調の転換」に着目しているが(第209小節以下、後述)、彼は大阪の祭囃子について何を知っていたのだろうか? そもそも、ここで彼が着目した大阪の祭囃子とはどのような音曲なのか?

4.1. 大阪の獅子舞囃子

 《大阪俗謡による幻想曲》の「第三主題」に似た笛の節回しは、現在でも大阪市内の複数の祭礼で聞くことができる。この節回しの由来は伊勢大神楽であるらしい(伊勢大神楽の成立や概要は、北川: 2000, 2008など)。伊勢大神楽講社の太夫たちは、移動の道中や、神事の合間の「放下」と呼ばれる芸能で、大阪の夏祭りで聞かれるのと同じ節回しを今も演奏している(森田 2009: 73-74など)。そして澤井浩一の調査によると、大阪で伝承される獅子舞に伊勢大神楽系統の芸態が認められ、幾つかの祭礼に関して、伊勢大神楽系の太夫が囃子に関与したことを示す記録や伝承があるという(澤井 1996)。

 また、大阪の夏祭りでは、獅子舞のお囃子に合わせて七五調の詞で歌うことがあった。上田長太郎は、1937(昭和12)年に過去十数年の夏祭りの動静をまとめた『大阪の夏祭り』で、

獅子舞は支度が簡単で、僅かな練習ですぐ出来るし、それに見た目が派手で賑かだから年々盛んになって、渡御のない夏祭でも獅子舞だけは出るといふところもあって、夏祭の花形の一つになってゐる。(上田 1937: 64)

とした上で、生國魂神社や天満宮の「獅子舞の唄」の歌詞を掲載している。(注1昭和初期、大栗裕が天王寺商業学校(1931(昭和6)年入学、1936(同11)年卒業)の吹奏楽でホルンを吹き、中之島の朝日会館などの演奏会に通っていた時期である(大栗 1970)。

 ただし、大栗裕が最も親しんでいたのは、資料や記述が充実している天神祭ではなく、現在も毎年7月11、12日に行われている生國魂神社の夏祭りだった可能性が高い。大栗裕の出身地は、通常、船場あるいは島之内と紹介されるが、本籍は南空堀で、戦中戦後の東京暮らしののち、1948(昭和23)年頃から、一家は空堀商店街の一角に暮らした。《大阪俗謡による幻想曲》を作曲した1956(昭和31)年当時、彼は生國魂神社の氏子域の住人だったのである。(注2作曲者本人は、《俗謡》の自作解説では、単に「大阪の夏祭の囃子」という言い方をしている。似た節回しが市内の複数の祭礼で聞かれることを知っていたからだろうか。しかしこの旋律を使えば、周囲から「地元のお囃子を使った」と認識されることもわかっていただろう。事実のちの第三者の解説では、《大阪俗謡による幻想曲》の「第三主題」は常に「生國魂神社の獅子舞囃子」と説明されている。

4.2. 篠笛の「揺らぎ」、囃し唄との共振

 残念なことに、大栗裕が最も親しんでいたと思われる生國魂神社の獅子舞囃子について、現在公表されている採譜・録音例は見当たらない。ここでは、公刊されている天神祭のお囃子の1941(昭和16)年(日本放送協会 1993)と1960(昭和35)年の録音(本多 1998)を参照しながら、大栗裕の作品を論じる前提として必要な範囲で、大阪の獅子舞囃子の一般的な特徴をまとめるにとどめたい。

 伊勢大神楽や大阪の祭り囃子では、7穴の篠笛が用いられる。

左手  右手   甲音 乙音 譜例6での表記
○○○ ○○○○ 7  七  シ
●○○ ○○○○ 6  六  ラ
●●○ ○○○○ 5  五  ソ
●●● ○○○○ 4  四  ファ
●●● ●○○○ 3  三  ミ
●●● ●●○○ 2  二  レ
●●● ●●●○ 1  一  ド
●●● ●●●● 0  〇  シb

● …… 指穴を閉じる
○ …… 指穴を開く

篠笛は指穴の間隔が均等であるため、上記の運指に沿って、「7」から「6、5……」と順に指穴を閉じていくと、隣り合う音程は、西洋音楽の全音に近い幅から笛の先端へ行くほど狭くなる。すべての指穴を開いた「7」と「6」の間の音程、すべての指穴を閉じた「0」と「1」の間の音程は、全音よりもやや広い。「4」と「3」の間は半音より広く、「3」、「2」、「1」の間は、もはや全音より狭い。しかし西洋音楽に慣れた耳には、「7、6、5、4……」が、ほぼ「シ、ラ、ソ、ファ……」の全音階に聞こえる。《俗謡》の譜面から判断すると、大栗裕も篠笛の音程を近似的な「ドレミ」で聴いていたと思われる。(なお篠笛は、フルートのように同じ運指でオクターヴの高低を吹き分けることができる。運指表では、高いオクターヴ「甲音」をアラビア数字、低いオクターヴ「乙音」を漢数字で表記した。)

譜例6: 大阪の獅子舞囃子(1941、1960年)と大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》(1956年)

 譜例6は、このような篠笛の音程の特性を踏まえて、上記2つの録音例を採譜したものである。譜例最上段に、それぞれの箇所に現れる音と、そこで基本になっていると推定される運指をまとめた。譜例6の2、3段目は1941年の録音の篠笛と囃し唄、4段目が1960年の録音の篠笛。実音は、両例とも約全音低く、六本調子の笛(西洋風に言えば「B管」)を用いていると思われる。譜例5段目に、大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》第209小節以後のピッコロの旋律を、比較が容易になるように実音から完全5度低く移調して掲載した。

 大栗裕の管弦楽曲と比較する上で確認しておきたいのは次の2点である。

(a) 篠笛の揺らぎ

 採譜結果を比較すると、2つの録音(そして大栗裕の《俗謡》の該当箇所)の音の上がり下がりはよく似ている。しかし実際の演奏では、より複雑な運指が工夫されていた可能性があり、しかも旋律には、部外者が正確に聴きとることが困難な細かい装飾が加えられる。また、篠笛の奏者たちは、祭礼の現場で長時間演奏を続ける際、節回しの細部を即興的に変化させ続ける(森田 2009や網干、井野辺 1994で、リズムのさらに多彩なヴァリアントを確認することができる)。採譜結果を「読む」かぎりではシンプルな節回しだが、祭礼の現場では、細部が絶えず揺らぐため、旋律パターンを把握・記憶するのは意外に難しい。大栗裕が作曲の際に参照したのも、このように絶えず揺らぎ続ける節回しであったと思われる。

(b) 囃し唄との共振?

 1940年の録音における囃し唄(譜例6の3段目)は、3小節目の最高音が篠笛(同2段目)に比べて、ほぼ半音低く、5小節目で、ようやく篠笛と同じピッチに上がる。逆に9小節目以後では、篠笛が「0」(もしくはこの音は出しにくいのでその替え指)で吹いていると推定される箇所で、歌唱のピッチが十分に下がらず、約半音高い(網干、井野辺編 1994に掲載された囃し唄の採譜も同様の特徴を示している)。

 一方、1960年の録音(譜例4段目)の場合、3小節目の篠笛は「7」の運指と推定される最高音のピッチを何らかの方法で下げているように聞こえる(網干、井野辺 1994にも同様の特徴を示す採譜例がある)。尺八でいう「メリ」である。限られた録音・採譜例だけで判断するのは危険だが、お囃子に合わせた歌唱には、細部の音程をいわば「丸める」傾向があったのかもしれない。そして1960年の録音がこうした唄の「癖」に接近しているのは、祭礼の現場で、篠笛と周囲の群衆の囃し唄が大らかに干渉・共振し合っていたことを示唆するのかもしれない。

4.3. ピッコロのマーチと中心なき五音音階

 伊勢大神楽や大阪の夏祭りの篠笛が絶えず揺らいでいるのに対して、《大阪俗謡による幻想曲》では、常に同一で変化のない旋律が繰り返される。しかし群衆のかわりに、様々な楽器が旋律を取り巻く。

 《大阪俗謡による幻想曲》では、獅子舞囃子の導入に先立ち、まず小太鼓のリズムが始まり、弦楽器群の4度を積み重ねた和音がアウフタクトで加わる。この和音は、ヴァイオリンが低い音域で「太く」響き、獅子舞囃子を吹くピッコロの「甲高さ」、「鋭さ」を引き立てる(このあと、4度和音のアウフタクトは、今も生國魂神社の獅子舞で聴かれる「ヨイショ」のかけ声に似たリズムに変化していく)。獅子舞の「練り歩き」は歯切れの良いマーチのリズムに翻訳され(日本の笛にタンギング奏法は存在しないが、ピッコロは歯切れの良いスタッカートで吹く)、祭りの活況は、旋律を繰り返すごとに楽器が加わる響きの厚味で表現される。旋律の単純な反復は篠笛の揺らぎに慣れた耳に違和感を与えかねないが、西洋音楽の語法に慣れた耳には、常套的だが効果的な舞台音楽風のオーケストレーションが祭りの喧噪を連想させる。

譜例7: 大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》(1956年)第207から210小節

 獅子舞の篠笛の節回しは全体として簡明な印象を与えるが、採譜してみると、譜面上に2つの半音が隣り合ってしまう(下記譜例8の《俗謡》のピッコロの譜面ではe-fとf-fis)。前節(b)で考察した「メリ」の効いた篠笛の演奏では、ほぼ半音間隔での音の使い分けがさらにはっきりする。大栗の言う「調の転換」は、この事態を整合的に解釈する試みだったのではないだろうか。

例えば日本の音階における転調法の巧妙さ、それは私の曲で第三主題となって現れる僅か十二小節の旋律に過ぎないがその間に三度も調を転換するのみならず旋法までが変化する。(大栗 1956b)

 大栗は《俗謡》の草稿で、獅子舞囃子にもとづくピッコロの旋律の欄外に譜例8のように3種の五音音階を書き込んだ(白石 2008: 50-51)。d-e-f-a-hからfis-e-c-h-aを経てc-h-a-f-eへ、おそらくこれが「調の転換」という彼の主張の実体である。

譜例8: 大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》(1956年)草稿より

 しかし、大栗裕の日本音階に対する理解には曖昧なところがある。例えば、都節音階の第5音は上行と下行で変化するという上原六四郎の仮説(上原 1927: 103)をあてはめると、この旋律は最初の4小節がe音を第1音とする都節、次の4小節で同じ旋法が完全5度高い位置へ移り、最後の4小節で5度低い位置へ戻ったと解釈することが可能であり、移調はあるが、旋法は変化していないことになる(譜例9では、上原に倣って上下行の第五音をそれぞれ「上5」、「下5」と表記した)。

譜例9: 大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》(1956年)と都節音階

また、《俗謡》が発表された頃、小泉文夫は既に終止音概念の再検討を起点に日本音階の再整理に着手していたが、(注3《俗謡》草稿への大栗裕の書き込みは、そもそも五音音階に終止音を想定しているのか、はっきりしない。中心を想定しない五音音階は、日本音階の理論としては不徹底かもしれないが、作曲家を自由にする。ちょうど無調音楽が調的和声の機能に抗い、中心なき無重力の音響を志向したように、大栗裕は、「日本の伝統音楽」の五音音階を、5つの構成音が対等な音響空間とみなしていたのかもしれない。

5. 大栗裕と「三人の会」

 「日本の伝統音楽」への愛着を語る大栗裕の姿勢は、ひとまず民族主義と分類できそうだが、少なくとも1956年の段階では、大都市大阪の「都節」の音曲を用いる姿勢に、バルトークの「農民音楽」の理念がもてはやされた当時の日本の民族派との接点は、意外に少ない。大阪の夏祭りの囃子は、「神と旅する太夫さん」(北川 2008)がこの地にもたらしたものであった。大栗裕がそうした由来を知っていたのか、現状では不明だが、ともかく彼は、その節回しに「調の転換」があると信じ、夏祭りを融通無碍に動き続ける音響体として作曲した。冒頭で引用した作曲者としての公式発言は「日本」という祖国、大阪という地元・足下を見直すように促しているかのようだが、大阪の街は絶えず人が往来しており、彼の音楽では、音がせわしなく横滑りする。(翌年の織田作之助原作の歌劇《夫婦善哉》では、天満の子守唄や船頭小唄、旦那衆が唸る義太夫節が入り乱れる大正末から昭和初期の大阪の街場が舞台になる。)

 改めて歌劇《赤い陣羽織》を含めた初期作品を一覧すると、むしろそこには、当時、注目を集めていた「三人の会」の團伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎への秘かな対抗意識が透けて見える。《赤い陣羽織》(1955年)の原作者は、團伊玖磨の《夕鶴》(1952年)と同じ木下順二だった。《管弦楽のための幻想曲》におけるコラージュ的な楽想の羅列と近代オーケストラの機能をフル活用する欲望は、作品の完成度はともかく、黛敏郎の「pour grand orchestre」の副題を持つ《饗宴 Bacchanale》(1954年)と目指す方向が類似する。そして《大阪俗謡による幻想曲》は、朝比奈隆が指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会(1956年6月21日)で、芥川也寸志の《弦楽のための三章三楽章》(1953年)とともに演奏され、芥川の作品と同じかそれ以上に好評であったと関西では報道された。大栗裕は、あたかも東京の「三人の会」に比肩しうる作曲家が大阪に出現したかのように処遇されたのである。

 ただし、《管弦楽のための幻想曲》に関連して紹介した先の柴田仁の記事が示唆するように、大栗裕は「聴衆の反応」を見て作風を変える、いわば腰の低い音楽家でもあった。仮に東京への対抗心があったとしても、それは自己顕示欲ではなく、東京と同等のものを関西の聴衆に提供したいと望む、職人の心意気のようなものだったのかもしれない。

謝辞:本稿執筆にあたり、大阪の夏祭りの獅子舞と篠笛について、奉納のこども獅子舞を主催する生國魂神社夏祭り実行委員会会長の原田壽幸様、そして岡村ひかる様から多くの有益なご教示をいただきました。またこの論考は、大阪音楽大学付属図書館「大栗文庫」研究プロジェクトの成果にもとづき、参照した演奏会プログラムは、同音楽博物館所蔵資料を用いています。同校および同博物館の関係者の皆様、この論考の原形になった大阪大学音楽学講座演習での口頭発表の機会(2009年1月12日)を与えてくださった根岸一美先生と伊東信宏先生、そして電話でのぶしつけな質問に丁寧に応じてくださった大栗亜佐子様に心より感謝します。

1)上田が掲載している歌詞は、生國魂神社が「大阪名物 夏まつり/生玉獅子講は よい景気/おたやん こけても/鼻うたん ヨイショ」(上田 1937: 65)、天満宮は「一 浪花の名物 天神さん/御神燈あほぐ お祭りに/舞ふはお獅子の 花の舞[……以下「二」、「三」が続く]」(同上: 67)。 [→本文へ戻る]

2)東京交響楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団、1941年入団)と日本交響楽団(現・NHK交響楽団、1945年入団)のホルン奏者を経て、大栗裕は昭和24(1949)年に宝塚歌劇団に入団、翌年から関西交響楽団に在籍する。一家が大阪へ戻ってから生まれた次女、亜佐子さんによると、氏子として祭礼に参加したわけではないが、近所に獅子舞が来た記憶があり、父に連れられて、生國魂神社の夏祭りを見物したと言う。また、当時わざわざ天神祭を見物に出かける習慣はなく、他の地域の祭礼を見てはいないとのことだった。 [→本文へ戻る]

3)小泉文夫『日本傳統音楽の研究』の出版は1958年であり、そのもとになったNHK交響楽団『フィルハーモニー』の「日本伝統音楽研究に関する方法論と基礎的諸問題」連載は1954年3月号から1956年2月号だが、同誌1954年1、2月号「日本人の音階」での「一オクターブに終止音が二つある」という主張は、既にのちの「核音」や「テトラコルドの積み重ね」の概念を予見させる。「今まで種々雑多にたてられて来た音階論も、終止音についてはっきりした立場をとることにより、一つのものに統一することが出来る。[…中略…]一オクターブの音階の中、終止音が二つあり、それらは五度音程の間隔にある。」(小泉 1954: 18)。 [→本文へ戻る]

参照楽譜

大栗裕《管弦楽のための幻想曲》、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫A-012、総譜、1956年1月1日。
大栗裕《管楽器と打楽器の為の小組曲》、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫B-013、総譜とパート譜一式、1956年2月27日。
大栗裕《大阪の祭囃子による幻想曲》、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫A-018、総譜。
大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》、大阪音楽大学付属図書館大栗文庫A-019、総譜、1970年7月10日。

参考文献

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上田長太郎 1937 『大阪の夏祭り』、上方郷土研究会。
上野晃 1956 「関響二つの邦人を含む労音一月例会」、『ミュージック&バレエ』46、1956年1月20日。
上原六四郎 1927 『俗樂旋律考』(岩波文庫93)、岩波書店(初版:金港堂、1895年)。
大栗裕 1956a 「管楽器と打楽器のための小組曲」、大阪室内楽鑑賞会第八回演奏会プログラム、1956年2月27日。
大栗裕 1956b 「『大阪俗謡による幻想曲』について」、『関西芸術』48、1956年5月20日。
大栗裕 1970 「個人的な、あまりに個人的な」、『大阪音楽界の思い出』、大阪音楽大学、325-334頁。
北川央 2000 「伊勢大神楽 -- その成立をめぐって -- 」、横田冬彦編『シリーズ近世の身分的周縁A 芸能と文化の世界』、吉川弘文館、117-152頁。
北川央 2008 『神と旅する太夫さん 国指定重要無形民俗文化財「伊勢大神楽」』、岩田書院。
小泉文夫 1954 「日本人の音階 (1)」、NHK交響楽団『フィルハーモニー』1954年1月号、17-21頁。
澤井浩一 1996 「伊勢大神楽と大阪の獅子舞 -- 大神楽研究の課題整理 -- 」、『大阪市立博物館研究紀要』28、1-11頁。
柴田仁 1956 「大栗裕」、『音楽之友』1956年6月号、191頁。
白石知雄 2008 「大栗裕『大阪俗謡による幻想曲』(1956, 1970)の作曲技法 -- 草稿『大阪の祭囃子による幻想曲』の分析を中心に -- 」、『大阪音楽大学研究紀要』47、43-60頁。
日本放送協会(編) 1993 『復刻 日本民謡大観 大阪編』現地録音CD、日本放送協会。
本多安次(監修) 1998 『復刻 日本の民俗音楽 風流13』、日本伝統文化振興財団、VZCG-8029。
森田玲 2009 「伊勢大神楽の音曲構成 (3)」、『たいころじい』34、70-76頁。

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