仕事の記録と日記

白石知雄

ベートーヴェン「ピアノソナタ」Op.54第2楽章について

ある人から、ベートーヴェンのピアノソナタOp.54の第二楽章の形式について、意見を聞かせて欲しいというお申し出があり、2005年3月から5月にかけて、メールで数回、やりとりをしました。

このやり取りは、19世紀初頭のピアノ曲を分析する上で何が必要なのか、そして、そもそも、楽曲分析とはどういう営みなのか、私なりの考えや態度を整理、反省する、良い機会になりました。

ひとつは、構成が「緩い」曲の分析には、形式学が好んでサンプルに取り上げ勝ちな、がっちり組み立てられた曲を扱う時とは別の困難があるということ。

もうひとつは、シェーベルクやその弟子筋に由来するようなタイプの音楽分析、すなわち、「理想の聴き手」(当該音楽の様式に精通しているけれど、その曲を初めて聴く人)を仮想して、音楽の特徴を記述しようとするタイプの分析が、不可避的に、「近代的自我」の視座を要求してしまうということ。その結果、分析を教えることが、どこか、精神分析に似てしまうということです。

その種の音楽分析は、客観的な方法論というよりも(学術論文はそのような体裁にまとめられますが)、主体的にコミットしなければ得られない、近代ヨーロッパの音楽文化のエスノ・メソードなのかもしれません。

以下、私がこの方に送ったメールです。


1

From: SHIRAISHI Tomoo
Date: Thu, 3 Mar 2005 23:13:34 +0900 (JST)

白石知雄です。
お返事が遅くなってすみません。

ただ、今、明日〆切の原稿をかかえていまして、
コメントは、しばらくお待ちください。

ところで、形式分析に関して参照された文献は、
やはり英語中心でしょうか。

ドイツ語圏では、シェーンベルクやその弟子筋に由来する方法論が
かなり洗練された形で発展しているように思います。

日本語で、その考え方をうかがえるものとしては、

・ディーター・デ・ラ・モッテ「音楽の分析」(全音楽譜出版)
 *内容は素晴らしいのですが、誤訳が多いのが難点……。
・ルドルフ・ケルターボルン
 「音楽分析の方法――モーツァルトを例として」(シンフォニア)
・同「ピアノ曲の分析と演奏」(シンフォニア)

ベートーヴェンに関しては、

・カール・ダールハウス「ベートーヴェンとその時代」(西村書店)
 *分析、美学・哲学、歴史・社会学を横断していて、
  意味を取りにくいかもしれませんが。

などが、あるのですが。


2

From: SHIRAISHI Tomoo
Date: Sat, 5 Mar 2005 05:16:35 +0900 (JST)

白石知雄です。

原稿が多少遅れていまして、まだ、きちんと
曲を検討できていませんので、コメントは
今しばらくお待ち下さい。

それから、おうかがいしたの件、詳しく教えて頂き、
ありがとうございます。
お手数をおかけして、すみませんでした。

ただ、多少の記載漏れなどは、私ごときを相手に、
あまり、お気遣いなさいませんように。

私が知りたかったのは、ひとつには、
例えば、エルヴィン・ラッツが「形式学入門」で述べているような、
形式部分の組み立ての「堅固さfest」と「緩さloker」のような
音楽のとらえ方に同意されるのかどうか、そういう見方を
リアルと思われるかどうか、というようなことだったのです。

ラッツの本は、序論(が一番大事というか、そこだけ読めば充分かも)
もご検討のことと思いますが、
ご参考までに、ご意見をおうかがいできれば。


3

From: SHIRAISHI Tomoo
Date: Sat, 5 Mar 2005 13:41:19 +0900 (JST)

白石知雄です。

ドイツ語圏の戦後のまともな作品分析は、ほとんどの場合
ラッツの形式学入門の序論にまとめられているような考え方を
踏まえているので、熟読されることをお薦めします。

演奏の手ほどきを受ける時には、先生の弾き方をそっくり
まねするのが目的ではないし、個々の弾き方と同時に、
音楽のとらえ方とか、演奏を組み立てていく手順、態度を
教わるというか、みならうことが、のちの大きな財産ですよね。

作品分析を学ぶというのも、同じではないかという気がします。

信頼できる基礎概念や、考え方を、素性の確かな人や文献から吸収して、
あと、個々の分析は、自分でやるしかないのではないかと。

先行文献で、個々の細部について、誰がどう言っているか、
というのは、音楽雑誌のレコード聞き比べのようなもので、
本当は、どうでもいい。

論文という形式に分析をまとめるための技術的な手続き、
書式の問題にすぎないような気がします……。

そんな風に考えると、演奏家も作品分析も、さほど違わないことを
やっているのではないでしょうか。

ドイツ語で言えば、どちらも作品の「解釈」ですよね。


4

From: SHIRAISHI Tomoo
Date: Sat, 5 Mar 2005 20:42:43 +0900 (JST)

[...]


5

From: SHIRAISHI Tomoo
Date: Mon, 14 Mar 2005 06:03:12 +0900 (JST)

白石知雄です。

当方、依然、原稿その他が混んでおります。
(15日過ぎには、多少、時間ができる見通し。)

ただ、あまりお返事が遅れるのは、申し訳ないので、
ひとまず、分析をはじめる前に、Op.54の概略について、
思ったことを書かせていただくことにしました。

(1) 無窮動

Op.54第2楽章について、私がまず思うのは、

「これは、無窮動だ」

ということです。

私は、恥ずかしながら、あなたが述べておられる、18世紀の
「トッカータ」と表示された無窮動の例を具体的には知りません。

私が知っている、無窮動の早い例は、
ベートーヴェン以後ですが、

・ウェーバー(ピアノソナタ第1番第4楽章)
・パガニーニのヴァイオリンの無窮動(たしか室内楽が出典のはず)

くらいです。

18世紀にご指摘のような「トッカータ」があるのだとしたら、
これら、のちに「無窮動」として有名になった作品は、
18世紀の先例を踏まえたものということになるのでしょう。

ベートーヴェンも、自身若い頃は、ピアニストでしたから、
こうした、同時代の曲芸的な趣向を知っていた可能性が
高いのでしょうね。きっと。

(2) 「熱情」終楽章との関係

形式も、聞いた印象もまったく違いますが、
「無窮動」(16分音符で動き続ける急速な2/4拍子)という点では、
次のソナタOp.57の終楽章と、双子の関係にある気がしました。

Op.54 F-durは、高笑いで終わる喜劇的「無窮動」、
Op.57 f-mollは、最後にカタストロフで終わる悲劇的「無窮動」。

このアイデアは、誰かがすでに言っていますか?

私は、ベートーヴェンが、ひとつのアイデアに対して、
同時に複数の可能性(しばしば、シリアスなものとコミカルなもの)を
見つけ出す人という印象を持っています。

交響曲第5と第6は、有名な例ですよね。
ここにも、そうした傾向が見える、と言えそうな気がしました。

(3) style brillante(前古典派風のポスト・ベートーヴェン世代)

私たちは、「前古典派→古典派(+ベートーヴェン)→ロマン派」
という直線的な歴史をイメージしがちですが、実際は、
ご存じのように事情が複雑です。

古典派(ハイドン、モーツァルト→ベートーヴェン)は、実際は、
18世紀のヨーロッパ諸派の「One of Them」、
「イタリア・オペラ」や「ピアノのロンドン派」、
「オーケストラのマンハイム楽派」などが乱立する中の、
いわば「ウィーン派」にすぎませんでした。

同じドイツ語圏でも、例えば、ウェーバーは、マンハイム楽派の、
アンチ・モーツァルトと見られていたフォーグラーの弟子で、
(特に若い頃は)バッハやベートーヴェンに批判的でした。

ウェーバーは、前古典派(マンハイム楽派)から、
「ウィーン派」を飛び越してロマン派に展開した人です。

想像ですが、ベートーヴェンの時代(1790〜1810年頃)には、
特に、自作自演タイプのピアニストの中に、他にも、そうした、
「ウィーン派」を知らない年下(演奏技術はそこそこ)が、
かなりいたのではないでしょうか。

ベートーヴェンは、Op.54で、
(今では忘れられている)そうした同時代の状況を踏まえて、
前古典派しかしらない年下に向けて、
彼らにも理解できるリート形式的な外観
(第1、2部ともにリピート記号つき)の無窮動を書いてみせた、
そういう印象を、私はもちました。

この推測の成否を検証するのは、大変な作業ですが……。
でも、もし私が、この曲を論じるとしたら、

純粋な形式分析のサンプルというより、

「前古典派的な器に新しい発想を盛り込む」

という19世紀初頭のヴィルトゥオーソ風ピアノ音楽(style brillante)
の文脈との関わりに焦点を当てるだろうな、と思いました。

(4) 「無窮動」をどう分析するか?

「無窮動」を分析する時には、通常の形式分析とは、
ちょっと違う注意が必要だと思います。

ずっと16分音符が鳴り続けているがゆえに、
「主題」「動機」の輪郭、形式区分が曖昧になりがちだからです。

ラッツ的な言葉遣いで言えば、形式上の組み立てが「緩い」。

もちろん、16分音符の動きのパターンや、和声や伴奏によって、
形式を把握することはできます。

でも、耳に聞こえる手応えは、
どうしたって、それほど堅牢にはなりえませんよね。

そして、そういう、流動性(こうも言えるし、ああも言える曖昧さ)
を楽しむのが「無窮動」ではないか、と思うわけです。

喩えて言えば、
「ワルトシュタイン」のような通常のソナタは、
対象を克明に描いた色彩画。
一方、無窮動は、線の粗密から、ほんのり図柄が浮かび上がる
鉛筆のデッサンのようなものではないでしょうか。

だから、分析も、そのつもりで、あまり肩肘張って、
ここは、このように言うべき、と決めつけるのでないスタンスが
必要になりそうな気がします。

-----------

長くなりましたが、とりあえず、今思いつくのは以上です。

こうした概略のイメージを踏まえて、私なりの分析を、
のちほど(数日あとになると思いますが)、
まとめたいと考えています。


6

From: SHIRAISHI Tomoo
Date: Sun, 8 May 2005 23:11:55 +0900 (JST)

白石知雄です。

お返事が遅くなってすみません。

[...]

曲をひととおり私なりにながめてみて、やはり、
「ソナタ/ロンド/ソナタロンド」
というモデルにこだわりすぎないほうがよいのでは、と思いました。

一般論として確認しておきたいのですが、

「ソナタ形式」や「ロンドソナタ」(あるいはソナタロンド)は、
1830年代以後に確立した概念ですよね。

1800年頃までの音楽理論書には、そもそも、ソナタ冒頭楽章などに、
独自の形式原理を想定していません。

今の感覚では信じがたいことですが、
ソナタの形式が、リトルネロ形式のアリア
(バッハのカンタータにあるような)の一週であるかのように、
解説されていたりします。

ベートーヴェンやそれ以前の音楽を「ソナタ形式」とみなす分析は、
後世の人間が、理解しやすいように、「補助線」を引いたにすぎません。

その「補助線」がうまく機能する(曲の構成を読み解く手がかりになる)
場合はそれで良いわけです。

では、「ソナタ形式」(や「ロンドソナタ」)という「補助線」を
うまく引くことのできない作品に出会ったときにどうするか。

ひとつの道は、「補助線」を修正すること。
(「ソナタ形式」という概念は、形式学の発展のなかで、
そのようにして、鍛えられてきました。)

でも、別の「補助線」を引くことも考えるべきでしょう。

この楽章に、「ソナタ形式」を思わせるいくつかの特徴が認められるのは
間違いありません。

けれども、全体に、組み立てが「緩すぎる」と思います。

例えば、

冒頭は8小節間トニカに留まり、和声的には何も起こらない。
リズムは均質な16分音符の連続。

要するに、「主題」や「動機」と呼びうる「Gestalt」を
設定しないままで進行している音楽だと思います。

これは、様々な「無窮動」の作品の中でも、
この曲の際だった特徴ではないでしょうか。

例えて言えば、全体にソフトフォーカスのかかり、像をぼかした写真。

そして、ここまでフォーカスがぼけていると、
「ソナタかロンドソナタか」といった問いには、
答えの出しようがないと思います。

(ピンボケ写真が、犯人特定の証拠写真にならないようなものです。)

「Gestalt」なき形式プロセスというのは、
ベートーヴェンの中期作品に通底する特徴です。
(ダールハウスの著作の「新しい道」の章をご覧下さい。)

この曲も、そのひとつの例かもしれません。

そして、もしこの曲に私が言及するとしたら、

「Gestalt」がないにもかかわらず、なぜ、あちこちで、
我々後世の人間は、この曲を「ソナタ風」あるいは「ロンド風」と
思ってしまうのか?

という問題を設定するのが面白いのではないかと、思いました。

あちこちの「ソナタ風」「ロンド風」の箇所や技法を抽出することは、
私たちのソナタやロンド概念を反省する(考え直す)良いトレーニング
になるように思いました。

でも、繰り返しになりますが、

「ソナタである」or「ロンドである」

といった分類・判定は、この曲に対しては不可能だし、
無理にそうする必要はないと、私には思われます。

あなたのご意向にはそわない意見で申し訳ないのですが……。

(時間がなく、粗雑な走り書きの感想ですみません。
なんとか、趣旨をくみとっていただければ幸いです。)


7

From: SHIRAISHI Tomoo
Date: Mon, 9 May 2005 02:55:34 +0900 (JST)

白石知雄です。

[...]

私が言いたかったことの力点は、

>「ソナタ形式」や「ロンドソナタ」(あるいはソナタロンド)は、
>1830年代以後に確立した概念ですよね。

という部分です。

つまり、ベートーヴェンの音楽を、後世の人が考え出した
ソナタ形式やロンド形式という概念で分析するだけでは、
だめではないか、ということです。

最近、ピリオド楽器・ピリオド奏法が注目されていますが、
ベートーヴェンを、ソナタ形式やロンド形式でながめることは、
19世紀以後のモダン楽器でベートーヴェンを弾くようなものだと
思うのです。

ピリオド楽器で弾いてはじめてわかる特徴があるように、
ソナタやロンドといった近代形式学の見方をはなれて
はじめて見えてくるものがあるはずです。

ソナタでもロンドでもないこの楽章は、もしかすると、
そういうことを言うためのサンプルなりうるかもしれません。

失礼ながら、あなたの発想は、(まだ?)モダンな(19世紀以後の)
形式学を、十分に相対化できておられないように思います。

そして、そうした「近代形式学」の呪縛から自由なスタンスで
この楽章を語るためには、この楽章だけを、そして、いわゆる
「形式」だけを見ていては、たぶん、だめだと思います。

私が何度も、無窮動等々ということを言っているのは、
そのためです。

ハイドンやクラーマー等々との関係などを調べておられるようですから、
そちらを研究の主軸にされてはどうでしょうか?

P. S.
分析の細目については、繰り返しになりますが、
この曲の形式が「緩い」ことが大前提です。

「提示」だの「展開」だのといった、厳密な分析用語は、
曲ががっちり組み立てられている場合にはじめて意味をもちます。
この曲について語るためには、そうした分析の常套句の使用を
自粛するところからはじめるべきだと私は思います。


8

From: SHIRAISHI Tomoo
Date: Mon, 9 May 2005 08:58:01 +0900 (JST)

白石知雄です。

何度も書いているように、この曲がソナタかロンド等の詮索について、
私の見解は「判定不能」です。

そう思うから、別の切り口が必要、と言ってるわけでしょう。

「無窮動」とのからみが気に入らなければ、
他の何かをご自身でみつけてください。

あとは、是非、ご自身で探求されることを期待します。

これで、ひとまず、この件は終わりにしましょう。

私にとっても、色々と勉強になりました。
また、機会があれば、どこかで遭遇することもあるでしょう。
どうもありがとうございました。


補足


From: SHIRAISHI Tomoo
Date: Thu, 9 Jun 2005 20:19:53 +0900 (JST)

白石知雄です。

[...Erwin Ratz, Charles Rosen等について...]

細かいことですが、ラッツの組み立ての「堅固さ/緩さ」は、
ソナタ、ソナタロンド等の楽曲全体の形式ではなく、
ひとつの楽曲を構成する諸部分の特徴を指す言葉だったと
記憶していますが、違いますか?

例えば、ベートーヴェンの初期ソナタ冒頭楽章では、
主要主題が「堅固」に組み立てられ、一方、副次主題は「緩い」
等々というように、書いていたと思うのですが。

少なくとも、私がメールの中で書いたのは、そういう意味です。

そして、ダールハウスが言うベートーヴェンの「新しい道」は、
ベートーヴェンが、いわゆる中期になって、「堅固な主題」を
設定しなくなったという話のはずです。

また、

[...]

1通目で、私は、

>ドイツ語圏では、シェーンベルクやその弟子筋に由来する方法論が
>かなり洗練された形で発展しているように思います。

と書いていますよね。

[...]

私が、わざわざ、

「ラッツの形式学入門の序論にまとめられている“ような”」

と婉曲に書いているのを見落とさないでください。

ラッツの本は、「シェーンベルクやその弟子筋に由来する方法論」の
代表という意味で名前をあげました。

そして、C. ローゼンも同じ系譜に属する人ですよね。

要するに、「シェーンベルクやその弟子筋に由来する方法論」を、
ドイツ語圏の人は、主にラッツで学び、英語圏では、今、
C. ローゼンがよく読まれている(実際悪くない本だとは思います)。

ですから、

[...]

両者に大きな違いがなかったとしても当然です。

私が知りたかったのは、

そうした、両者に通底する考え方のエッセンスを
あなたが把握しておられるのか、
また、それを実際の分析で使える「スキル」として
会得しておられるのか、ということです。

ローゼンは、読者に「スキル」を習得させる教科書としては
書かれていないので、考え方が近いにしても、ラッツのほうが
「教科書」として使いやすいと思ったのですが……。

気に入って頂けなかったとしたら残念ですが、仕方がないですね。

[...音楽分析の心構えをめぐって...]

私がメールで言っていることは、「思想問題」ではありません。
曲をどういう角度から、どういう精度で分析するかという、
職人技的な「スキル」の問題です。

[...]

また、ダールハウスは(私もそうですが)、そもそも
「一つの何かの実りあるもの」を目指してはいないと思います。
世の中には、答えがひとつに修練する問題も
あるけれど、そうではない問題もある。

意見が割れている状態に、私たちは慣れるべきです。

ひとつの楽曲について、様々な見解があることは、
一向にかまわないのではありませんか?

[...]

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by 白石知雄 (Tomoo Shiraishi: tsiraisi@osk3.3web.ne.jp)