太正十六年
「此岸にて十年」


 五十冊。
 読み終えた彼女の手の中で、ぱたりと微かな音を立てて、最後の議事録が閉じた。

 気がつけば、外は既に夕闇が迫ってきている。
 真南よりやや東を向いたこの棟には、もう部屋に日が差し込まなくなっていた。
 そろそろ明かりをつけた方がいいのだろう。
 明かりだけを求めるのならば。

 これが白昼夢と呼ばれるものならば、もうすぐその時間が終わる。
 理屈ではなく、この時間が限りあるものであると、一人で生きた十年故にわかっていた。

「推薦議事、どれにする?」

 閉じた最後の議事録を積み上げた一番上に置きながら、彼女はふっと尋ねてきた。
 もう少しだけ、時間があるらしい。
 もう少しだけ、話していられるらしい。

「さて、どれにしようかな」

 五十冊に紹介をつけて並べただけでは使いにくいので、その中で注目すべきものを取り上げて置くことが推奨されている。
 そんなことすら、忘れていた。

「私はね、第十一冊と第二十八冊の、桜色のお酒の話題」
「あのなあ、いい加減本気で叱るぞ、未成年」
「……」

 とても叱る様な口調にはならなかったのを聞いて、彼女の目がそっと微笑んだ。
 彼女より酒に弱い自分が言ったところで、確かに説得力がない。
 さらにえば、歳のことなど考えずに惚れた自分が言ったところで、説得力は欠片もない。

「俺は公演二つ。第二十二冊と第四十六冊。どちらも、普段は目を向ける人の少ない帝都の裏面だ」
「この十年、そうやって、ちゃんと調べてきたんだ」
「追いかけていたんだよ、ずっと」

 誰を追いかけていたのかまでは、言うまでもないし、言うつもりもなかった。

「はじめての挨拶と、再会の挨拶が多かったのが特徴かしらね。
 でも、すぐに去っていった人が多いのが残念だけど」

 そういって彼女は部屋の扉近くに目を向けた。
 そこは、十年以上前からずっと、研究室の出席札が掛けられている。
 当時とは名札の掛かっている場所が異なっているが、自分の名札と……

「あ……」

 いつひっくり返していたのだろう。
 十年間、誰から何を言われようとも最上段から外さなかった師と彼女の名札のうち、彼女の名札が出席になっていた。
 研究室生は全て変わったが、その中で変わらない、彼女と自分の名札が、白くひっくり返されていた。

 思えば、あの夜もそうだった。
 彼女がこの研究室を去り、帝都を滅ぼす師の後継者になろうとした、あの夜。
 彼女を止められなかった夜。

 十の歳をさらに重ねたというのに、自分はただ歳をとっただけか。
 また、今度も、止められないのか。
 追いかけていたつもりなのに、今、捕まえることすらできない。

「……変わらないのね、外見はちょっと老けたのに」

 そう言って、微かにうつむいた彼女の肩から、長い黒髪が流れ落ちる。
 黒い御簾が、彼女の表情を隠していた。
 どんなつもりで言ったのだろう。
 彼女は、相手が強く思っていることならば、その心を読むことができた。
 でも、今の声は心の底を見透かしたというより、まるで、願うような声だった。
 願う。
 それは、

 それは、

 すぅ、と。
 十年の時を噛みしめるように、この部屋の大気を口に含んで、

「好きだよ、ずっと」

 十年前に言えなかった言葉を、ようやくにして、声にした。

「いくじなし」

 そうつぶやいてから、
 鳥がはばたくように、ふわりとあがった彼女の顔は、
 薄闇の中で、輝いてさえ見えるほどに、美しく、優しく微笑んでいた。

「私、その言葉を聞きたかった、ずっと」

 いつから、などと、聞くまでもなかった。
 今が十年前だったら、
 あの夜に帰ることが出来たら、
 ただ、それを言うだけで、全てが違っていたんだろう。

「きっと、それが聞きたくて……
 今なら聞ける気がして、来ちゃったのかな」

 撫でるような仕草で、彼女はレコードに針を乗せる。
 今度は声の入っていない、交響楽団によるあの曲が、ゆるやかに流れ出した。

「いつも忘れないでいてくれたみたいだけど、
 この歌を聴いて、どう思った?」
「……会いたいと、思った。
 もう一度、あのときと同じように、会いたかった」
「だからだね、きっと」

 ふっと、窓を閉めているはずの部屋に、風が巻いた。

「ありがとう」

 黄昏という時ももう過ぎた空から、紫の夜が訪れる。
 黄昏が、黄の泉へと帰っていく。
 彼女が翻した漆黒の髪が、その紫に溶けていく。

「いくな……」

 時が戻る。
 この言葉は、十年前と同じ。

「ひとつだけ、借りてくね」

 彼女の答えは、十年前と違っていて。

「誕生日は覚えて置いてほしいけど、歳を数えるのって、無粋だよ」

 彼女の両手に抱えられたのは、二十三輪の青い花。
 
 その、彼女の好きな青が、黒の訪れる前に、世界を群青に染めた。

「……!!」

 見開いた瞳が、長い長い一瞬、群青に射抜かれて、

 出席者は、また、一人になった。

「あ……」

 闇に戻った瞳を、鮮やかな赤がよぎる。
 持っていった二十三輪の代わりに、活けられていた花が一輪。

 彼岸花だ。

 そしてもうひとつ、無くなったもの。
 彼女は、ひとつ、借りていくねと言った。

「あいつ……、持っていっちまいやがった」

 そう、あんなに意地を張っていたくせに、ぬいぐるみが大好きだった。

「かえ……」

 せよ、と言いかけて、止めた。

「取り返しに、行かなきゃな……」

 そんな、無茶苦茶な言葉が、口にした途端にやらなければならないことになった。
 どうするか、考えよう。
 頭の中がいっぱいで、このままじゃ考えられない。
 だから、
 今は浪漫堂と呼ばれるあの店へ、
 師と彼女が愛したあの店へ、行ってみよう。







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