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「レニ・・・・、大丈夫か・・・」
もしかしたら大神はこの短時間に劇場中を探し尽くしたのかもしれない。
織姫に言われたとおり、レニはすぐここへ逃げてきたわけではないから、大神は真っ先にここを調べて入れ違いになった可能性が高かった。
この劇場は広い上に複雑な構造をしているため、まともに誰かを捜そうとすると一時間からかかるのが普通である。
花組隊長として驚異的なまでに鍛えられている大神が、ここまで息を切らしているとは。
僕を探すために、必死になってくれたんだ・・・。
ふっと、足が前の方へ、大神の方へ出た。
一歩踏み出してから気づいた。
さっきまで噛みついて引き留めていたフントは、ズボンを離してちょこんとそこにお座りしていた。
レニが顔を向けると、
「わんっ」
と一声レニを励ましてから、自分の仕事は終わったとばかりに小屋の中へ戻った。
大神が作ってあげた、フント専用の小屋の中に。
最後まで足を引き留めていた恥ずかしさを、胸の奥から溢れてくる想いが断ち切った。
「隊長・・・」
わずかの距離を駆ける足ももどかしく、最後は飛びついて大神の首に手を回し、その胸に泣きついた。
大神は驚きながらも、浮き上がったレニの身体を柔らかく抱き止め、泣きたいだけ泣かせてくれた。
微かに感じる大神の汗の匂いが心地いい。
上気した大神の身体に触れているところが、熱でもあるかのように熱い。
どれくらいそうしていただろう。
大神の暖かさが、心の中の凍えたところを融かして生まれた雪解け水がようやくおさまった。
大神は、見上げたレニの睫毛の端に残っていた残り露を、その指でふき取ってくれた。
「隊長・・・」
自分の目の前にいる人を、自分を包んでくれる人を確かめるように、もう一度、噛みしめるようにしてつぶやいた。
ここにいる・・・。
確かにこの人はいてくれている。
あの、薄暗い世界じゃない・・・、ここは・・・。
安心したら、ふっと身体から力が抜けて倒れそうになったが、大神はちゃんと支えてくれた。
「座るかい、レニ」
「うん・・・」
ベンチまでの短い距離、本当は抱き上げて連れていって欲しかったのだが、さすがにそれを口に出す度胸はなかった。
座り慣れたベンチに腰掛け、すぐ横に座ってくれた大神の肩に、一瞬躊躇ってから、思い切って頭をもたれかけた。
アイリスやみんなには悪いと思ったけど、今日はとことん甘えたかった。
しばらくそうしている間、大神は急かしたりせずに、レニが話し出すのを笑顔で待っていてくれた。
一度大きく息を吸い込んで、吐いて、それから言葉を載せる。
「ヴァックストゥームのことを思い出したんだ・・・」
大神はやはり、という顔をする。
「朝、決まった時間になると起こされて・・・、それからいろんな光や音を当てられて、訓練が続いて・・・、薬品の匂いの染みついたベッドに寝かされるときだって、何かを調べられていた・・・」
一つ一つの言葉を、絞り出すように紡ぐ。
それら全てが、忌まわしい思い出だった。
隣りに感じるぬくもりがなければ、思い出すだけでも気が狂うくらい・・・。
「あのとき、医務室のベッドの上で目が覚めたとき・・・、思い出したんだ・・・、ずっと・・・、忘れようとしていたこと・・・。それから、夜、一人で眠れなくなってしまって・・・」
確かに医務室は帝撃の施設であり、軍のそれとほぼ同じ作りをしている。
レニがそれを連想してしまったのも無理からぬことだろう。
「眠ってしまって、意識がなくなってしまったら、次に起きた時に研究所に戻されるような気がしたんだ・・・。だから、今、花組の誰かにそばにいてくれないと・・・、昔に戻ってしまう気がして、眠ることも出来なくて・・・」
そこで、また涙が溢れてきた。
「ねえ、隊長・・・、眠るって、どういうことなんだろ・・・、僕の意識が消えたら、どこにいっちゃうんだろ・・・。また・・・、またあんなところに戻るのは、いやだよ・・・」
だから、アイリスに手を取ってもらって眠っていたのだ。
眠ってしまっても、どこかへ連れていかれないように。
大神は、答える代わりにそっと手を取った。
ここにいるということを、確かめさせるように。
レニは、少し安心して、大神の袖で涙を拭かせてもらった。
「君が、今までベッドを使わなかったのはそのためだったんだね・・・」
大神が思いだしたように尋ねるというより、確かめてきた。
「うん・・・、ベッドというものが怖いんだ。どんなに違うと考えようとしても・・・。だから・・・、健康に良くないってわかっていても、床で眠った方が落ち着くんだ」
肌寒さを感じて、レニは微かに震えた。
「中に入るかい?」
「ううん、もうちょっとここにいたい・・・」
こういったときに肩に手を回すといったことが出来ないのが大神である。
レニはこっそりため息をついた。
しかし、それは自分が落ち着いた証拠でもある。
やっぱり、今この場所は安心できた。
「隊長、アイリスは、怒ってなかった?」
せっかく自分のわがままを聞いて、手を取ってくれていたのに、ひどいことをしてしまった。
アイリスに嫌われたくはなかった。
一番の、トモダチ・・・。
「怒ってはいなかったけど、心配していたよ。一緒にお風呂に入ってくれないから、レニが嫌いになっちゃったのかもってね」
「あ・・・」
大神の言葉に、レニは少し顔をうつむかせた。
その話題に触れられるのが怖かったのだ。
一番、知られたくない過去・・・。
このことを知ったら、隊長はどう思うだろうか。
自分のことを嫌いになってしまうんじゃないだろうか・・・。
恐る恐る、大神のことを見上げる。
限りなく、優しい目。
自分に、ここにいる理由を教えてくれた人の目だ。
きっと大丈夫・・・。
この人は、自分のことを嫌いになったりはしない・・・。
「アイリスの身体・・・、綺麗だったんだ・・・。それで、自分の身体と比べるのが怖かったんだ・・・。僕の身体・・・、・・・・・・・・傷だらけで、汚れているから」
それでも、最後の言葉を紡ぎ出すのに、あらん限りの勇気を必要とした。
大神の顔を見ていられない。
だが、堰を切ったら、言葉を紡ぐのは楽になった。
顔をそむけたまま、話を続ける。
「ヴァックストゥーム計画は、被験者の霊力を高めるのと、身体能力を高めることを、訓練だけじゃなくて、化学的、外科的に実験していたんだ・・・。
効果的に栄養源を与えるための常習的な点滴、病原体から身を守るための様々な薬品の注射、超音波や光の刺激によって脳を活性化させたり、直接筋肉と神経を効果的につなぎ変えたり・・・」
そこまで言って、さすがに言葉に詰まった。
当時の恐怖が蘇ってきた。
人間扱いすらされなかった、あの日々・・・。
「僕の身体に、何回針とメスが入ったのか・・・・、数えたくもなかった・・・」
自分の腕を自分で抱き締める。
服の上に、幾重にも重なる傷の幻影が見えた気がして、また泣き出したくなった。
肩が震え、涙がこらえられなくなる前に、
力強く抱き締められていた。
「あ・・・・っ」
大神の抱擁は、今までで一番強かった。
まるで、自分の心の中にレニを匿おうとしているかのように。
周り全てから、レニを守りきると叫ぶかのように。
「隊長・・・、僕のこと、嫌いになったり・・・しない・・・?」
声を上げるのが苦しいくらいの抱擁だったが、その苦しささえ、嬉しかった。
レニが今尋ねたことを、既に大神は答えているのだ。
だが、言葉として、明らかな答えを欲しかった。
「嫌いになったりするもんか。それに、レニ・・・。前に君の裸を見てしまったことがあったけど・・・、君の身体、綺麗だったよ・・・」
その言葉を聞いて、レニは心臓からの血液が全て顔に流れ込んだかと思ったくらい真っ赤になってしまった。
今思い出すと恥ずかしい、大神に素肌を見られたこと。
そして、大神が言ってくれた言葉・・・。
全身が震えていた。
先ほどまでの震えとは違う。
声にならぬほどの喜びがあることを、レニは初めて知った。
しばらく、喜びの烈震に身をゆだねていたが、やがておちついて、穏やかな喜びにかわるころ、二人はどちらからともなく、身体を離した。
「もう、大丈夫かい」
「うん」
ためらい無く、大神の問いに答えることが出来た。
心も身体も、驚くほど軽い。
わずかに残っていた、過去の鎖が全て霧散したようだ。
「あとでアイリスに笑顔を見せておいた方がいいよ。きっと、まだ心配しているだろうから」
「わかった。これから行って来る。・・・隊長は?」
「うーん、あ!」
尋ねられた拍子に、大神は一つ名案を思いついた。
自分の財布の中味と、今の時間と、かすみにお使いで行かされた帝劇の御用達のお店の記憶が頭の中で瞬時に計算される。
大帝国劇場最強事務員大神一郎の顔になっていた。
「どうしたの?」
「レニ、急用を思いついたから、ごめん、ちょっと出かけてくる。遅くなるかもしれないけど、帰ってくるまで寝ないでいてくれるかい?」
「え?う、うん。いいよ」
最後の言葉にどぎまぎしながらレニが答えると、大神はベンチから立ち上がった。
「じゃ、行って来るから!」
走り出して中庭を出ていった大神の姿を見送りながら、レニは取り残された感じはしなかった。
さっきまで大神が座っていたところにそっと触れてみる。
まだ、ぬくもりが残っていた。
* * * * * * *
アイリスと、一緒に待っていたマリアの二人には、簡単ながら事情を話し、ちゃんと謝っておいた。
それが終わると、自分の部屋に戻って時計とにらめっこしていた。
夕方近くに出ていった大神は、九時になってもまだ帰ってきていないようだった。
心配はしていない。
大神はちゃんと約束を守ってくれる。
それ以上に、大神が何をしに出かけていったのかが気になった。
悪いことではない。
それだけは確信していた。
九時半を回った頃、なにやら階段の方からズルズルという音が聞こえてきた。
しばらくして、また同じような音が聞こえてきた。
今度は、自分の部屋の前まで音がやってきた。
コンコン
戸が軽やかに鳴った。
「レニ、大神だけど」
はじかれたように椅子から立ち上がって扉を開ける。
別に鍵を掛けていたわけではないから、入ってもらうだけで良かったはずなのだが、気がついたら身体が動いていた。
「隊長・・・?」
扉を開けると、大神が立っていたのだが、大荷物を抱え込んでいた。
おまけに、横には同じくらいの大きさの荷物と、小さな荷物、それから・・・
「これ・・・、畳?」
楽屋に敷いてあるのを見ているので、横に置いてある畳にはどこか違和感があった。
まず、敷いていないで一枚だけ立てかけてある。
畳の表面が少し緑がかっていて、草のものらしいいい匂いがする。
レニは知らなかったのだが、新しい畳とはこういう物なのである。
「ベッドが嫌でも、畳の上に布団なら問題ないだろうと思ってね」
大神はそう言って手に持っていた大荷物をほどいていった。
「ああっ」
中から出てきたのは、真新しい敷き布団であった。
もう一つの大荷物からは掛け布団と枕が出てきた。
「これ、僕に・・・?」
今日は何回喜べばいいのだろう。
なんだかまだ信じられない気持ちだった。
「今日中に何とかしてくれって頼んだら、こんな時間になってしまってね」
そう言いながら畳を運び込んだ。
「ここでいいかな?」
「う、うん」
部屋の端の方に畳を置こうとして、大神が尋ねてきた。
特にこの部屋には何かがあるというわけではないので、どこでも問題はないのだ。
強いて言うなら、ドライフラワーにして保存してある、アイリスからもらった花飾りがあるくらいだ。
畳を置いた上に敷き布団を敷き、掛け布団を整える。
さすがに雑用は得意である。
「それから・・・と」
小さな荷物から出てきたのは電灯だった。
一旦電気を消して、部屋の電灯を取り替える。
点け直すと、薄暗かった部屋がずいぶんと明るくなった。
今までの少し陰鬱な雰囲気はどこにもない。
「どうかな、レニ。気に入ってくれたかい」
「うん・・・、隊長・・・、ありがとう・・・!」
「これでもう、一人で眠れるだろう」
「あ、あの・・・、隊長・・・」
大神が部屋から出ていこうとするので、レニはあわててその服の裾を掴んだ。
「レニ・・・?」
「あの・・・、その・・・今夜・・・、そばにいてくれない・・・?」
「レニ・・・それは・・・」
さすがに大神もこれには慌てた。
「今夜だけ・・・、ずっと、手を握っていて・・・。今夜そうしてくれたら・・・、多分もう大丈夫だから・・・」
なんだ、そういうことか。
大神は心の中で一安心していた。
「隊長・・・、お願い・・・」
すがるような目で、真っ直ぐに大神のことを見上げてくる。
これを断れる大神ではなかった。
「わかったよ。でも、今夜だけだからな」
「うん・・・、じゃあ・・・、パジャマに着替えたいから、あっち向いててくれる・・・」
帝劇に来てすぐのころは、裸を見られることも何とも思っていなかったレニが、着替えを見られたくないと言ったのは、人間としてかなり成長していることだ。
なお、パジャマはアイリスに引っ張られていって最近買った物らしいが、大神はまだ見たことがなかった。
「いいよ、その間外に出てるから・・・」
「いっちゃやだ!」
思ったより大きな声になってしまったので、大神だけでなく言ったレニもびっくりしてしまった。
「いっちゃ・・・、やだ・・・。どこにもいっちゃ・・・やだ・・・」
「・・・、わかったよ。レニ。向こうを向いていればいいんだね」
大神は扉の方を向いてその場に座り、レニが着替えるのを待つことにした。
とはいえ、同じ空間、すぐ近くで美少女が着替えているというのは、あまりにも刺激的である。
大神の鍛えられた感覚は、目で見ていなくても音や気配で何をしているのか何となくは分かってしまう。
いかんいかん・・・!
頭の中で戦闘演習の場面など、関係のないことを思い浮かべるようにしてかろうじて自制する。
それでもあからさまに耳をふさぐなどしてはかえってレニに気を使わせてしまうから、衣ずれの音などは聞こえてしまう。
「こっち、向いていいよ」
永遠と思えた甘美な拷問はレニの言葉で唐突に終わった。
振り返ってみると、そこに立っていたのは間違いなく一人の美少女だった。
「どうかな・・・、隊長・・・、どこもおかしくない?」
レニらしい水色のパジャマは、模様もない単純な物だったが、左胸の所に小さな花の刺繍がしてあった。
少し大きめに思えたが、それが逆にレニの可愛らしさを引き立てているように見えた。
「ああ、よく似合っているよ」
少し不安げだったレニの表情がパッと明るくなった。
「じゃあ・・・」
そっとレニが手を差し出してくる。
大神はダンスのエスコートでもするようにその手をとった。
安心して、レニは布団の中に潜り込んだ。
ふわりとしていて、雲の中にいるかのような感触が気持ちよかった。
いままでの毛布とは比べ物にならないくらい暖かさは、どこか大神に抱き締められている気がした。
握りしめている大神の手から、布団の中に優しさが満ちてくるようだった。
眠りにつくには少し早いかもしれないが、意識は眠りの淵に近づいている。
いつも眠るときに感じていた失墜感は感じない。
ここに戻ってこれるという、安心の中に包まれていた。
「たい・・ちょう・・・、I・・ch・・・・lie・・be・・・・di・・ch・・・」
くー
ドイツ語らしい発音を聞いて、その言葉を考えていたら、レニは気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「レニ・・・」
Ich liebe dich. 英語に直すと I love you. である。
コンコン
「レニ・・・」
大神を現実に引き戻したのは、扉の向こうから聞こえてきた声だった。
「マリアか・・・?」
「隊長?」
大神が声を潜めて返事をしたので、マリアの声も静かに返ってきた。
そうっと気配も音も消して入ってきた。
「これは、隊長が買ってきたのですか?」
「ああ、楽屋で眠っていたのを思い出して、畳の上ならちゃんと寝られると考えたんだ。よかったよ」
それだけではありませんよ。
マリアはあえてその言葉を口にはしなかった。
楽屋で昼寝をしているときとは、何かに耐え続けているような寝顔だったのが、今はかすかに微笑みさえ浮かべて幸せそうに眠っている。
布団からちょこんとのばされたレニの手が大神の手をしっかと握りしめていることに、少し嫉妬を憶えないでもないが、あの寝顔を見させられてはしょうがないかと思ってしまう。
「それで、どうして手を握ったままなんですか?」
それでも、少しは大神をいじめたい気分になってしまった。
「あ、うん。レニにどこにも行くなと言われて、今夜だけはこうしていると約束してしまったんだ・・・」
空いている方の手で困ったように顔をかく大神の笑顔を見て、マリアは安心することにした。
やはり、この人は私たちを救ってくれた人だ・・・。
「しょうがありませんね。本日の見回りは私がやっておきましょう」
「すまない・・・、マリア」
「ふふっ。でも、今度穴埋めをしてもらいますからね」
顔の引きつった大神が声を上げようとするところ、唇に指を当てるジェスチャーをして遮る。
「お静かに、レニが起きてしまいますよ」
「あ・・・」
置いてきぼりを食らったような表情の大神をほおって、マリアはさっさと部屋を出ていってしまった。
でも、まあいいか。
一晩中このかわいらしい寝顔を眺め続ける贅沢を味わうのも一興だろう。
マリアも、部屋の外で微笑んでいた。
これでレニはきっと立ち直る。
クリスマス公演のヒロイン役候補が増えたわけだが、それは歓迎すべき事態である。
奇跡の鐘の鳴る日は近い。
終
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。