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原因不明のレニの錯乱から三日経っていた。
この間、大神はまったくレニと話せなかった。
姿を見かけて話しかけようとしても、レニの方からさっと逃げてしまう。
あるいは、眠っているかだった。
「レニが昼寝とは、珍しいな・・・」
楽屋で、アイリスの手を握ったまま座り込んで眠っているレニを見つけて、大神は言うとはなしにつぶやいていた。
「実は、昨日もこんな様子だったんです」
マリアが切実な声で、しかし、レニを起こさないように小さな声で大神に報告する。
「練習にもあまり身が入っていないようで、疲れ切った顔で楽屋に戻ってきてすぐ、アイリスにすがるように眠ってしまったんです」
「夜の間、眠っていないんじゃないかな。かといって、この様子じゃあ単なる不眠症というわけでもないだろうけど」
「ええ。ですが、尋ねてみても答えてくれないんです」
どうやら、避けられているのは大神だけではないらしい。
しかし、アイリスの手を取っている所を見ると、アイリスは例外のようだが。
「アイリス、あれからレニと話をしたかい?」
「んー、それがね、レニはアイリスのこと少し嫌いになっちゃったんじゃないかな・・・」
予想外に、寂しそうな表情と声が返ってきた。
「今、こうやって手をつないでいるのにかい」
見た目には今まで通りに見えるのだが。
「あのね、おとといにアイリスがおふろに入ろうとしたら、レニが先に入ってたの。いつもだったら、背中流しっこするのに、レニはぷいって出てっちゃったんだ」
「ふーむ」
しかし、アイリスのことが嫌いになったわけではないだろうと大神は思った。
嫌いになったのなら、今のこの状況はおかしい。
それは、そのときにレニの心に何かがあったのだ。
それがレニが取り乱した原因と何らかの関係があるのは確かなのだが。
「レニ?」
考え込んでいた大神は、アイリスの声で我に返った。
レニの瞼が微かに動いている。
それはまあ、いくら声の大きさに気をつけていても、これだけ近くで会話をしていたら目も覚めるだろう。
「レニ・・・」
うっすらとレニが目を開く。
開いたとたん、レニはぱっと跳ね起き、警戒するような体勢を取って・・・、周囲を確認するように見回した。
「・・・あ・・・、隊長・・・」
レニの顔に微かに朱が差したように見えた。
しかし、確認することは出来なかった。
次の瞬間、止める間もなくレニは部屋から出ていったからだ。
「レニ!」
「レニ・・・・」
ふりほどかれた手を掲げたまま、アイリスが途方に暮れている。
「お兄ちゃん・・・」
「わかってる。なんとかレニと話をしてみるよ」
「お願いします、隊長・・・」
こうなっては、大神に任せるしかない。
しかし、マリアはさほど心配していなかった。
なぜなら大神は、かつて同じように殻を作り上げていた自分を救ってくれたのだから。
* * * * *
「はあ・・・」
逃げるとは言っても、レニにしては珍しいことに、明確な方向性をもって逃げていたわけではない。
ただ、足の向くまま逃げていたと言ってもよい。
階段を上がったり下がったりして、気がつくと、
足下にフントがいた。
「わんっ?」
不思議そうな顔でレニのことを見上げる。
無意識のうちに、帝劇で一番気に入っている場所、中庭に走り込んでいたのだった。
「わんわんっ!」
レニが何の反応も返してこないので、心配そうにフントが吼えた。
「フント・・・僕は何をしているんだろうね・・・」
怖かった。
確かにそれはある。
しかし、目を覚まして、大神の存在を確かめたときに感じたのは、今の自分を見られることの恥ずかしさだった。
冬服を着ている十二月で良かったと思う。
少しでも、自分の身体を隠してくれるから。
「フント・・・君は綺麗だね・・・」
真っ白なフントの毛を撫でながら、我知らずそんなことをつぶやいていた。
「まったく、何をやっているんですかー?」
「え?」
ハッとなって後ろを振り返ると、呆れ顔で織姫が立っていた。
背後に人が近づいていたのに、声を掛けられるまで気づかなかったのである。
しかし、そんな己の迂闊さを叱咤することも出来ぬほどレニはとまどっていた。
織姫がここへ来ることは珍しい。
レニは昔から織姫とそれほどノリがあってはいなかったので、必然的に住み分けをしていたとも言える。
今、心が乱れているときに、出来れば会いたくなかったというのが本音だろう。
しかし、織姫はそんなレニには構わず、さらにつかつかと近づいてくる。
「少尉さんが探してましたよー。まっすぐここへ来るならともかく、劇場中走り回ってから来るなんて。少尉さんまで劇場中走り回って、うるさくてかないませーん。おまけにアイリスまで悲しませて、何様のつもりですか」
「お、織姫には関係ない・・・!」
自分が逃げていたことを思い出して、慌てて立ち上がり、中庭を出ようとした。
だが、織姫はそれを阻むようにすっと立ちふさがる。
元星組、そして世界的な女優である彼女の身のこなしは決してレニにひけをとるものではない。
「関係ない・・・、ですか。このワタシに、言ってくれますね」
織姫の表情に、微かに悲しみめいたものが浮かんだのを、レニは気づかなかった。
「織姫・・・、そこをどいてよ・・・」
レニの身体が、肉食獣のそれを思わせる姿勢をとった。
力づくでも、という意味だ。
そんなレニを見て、織姫は先ほどの表情を覆い隠してから鼻で笑った。
「フフン、フント!レニを捕まえなさい!」
フントはいきなり名前を呼ばれて、きょとんと織姫を見つめる。
レニは織姫の予想外の行動にとまどっていた。
織姫とフントは別段それほど仲がいいわけではない。
いかにフントが、この霊力渦巻く帝劇に住んでいるためか並の犬より遙かに賢くて人の言葉をある程度理解しているといっても、一番仲のいいレニを捕まえろなどといって、聞くわけがない。
しかし、織姫はひるまなかった。
「フント!少尉さんをここへ連れてきます!レニをここに捕まえておきなさい!」
「えっ!?」
大神が来ると聞いて、レニがとまどった声を上げる。
余計なお世話というものだ。織姫は自分を悩ませて楽しんでいるのだろうかと考えてしまう。
いつも通りに見える織姫の表情から、その真意を読みとることは、今のレニには不可能だった。
しかしその間にフントは織姫の真意を大体理解したらしく、レニの足下に駆け寄り、がぶっとレニのズボンの裾に噛みついた。
「な、何をするんだよフント!離してよ!」
フントを振りほどこうとするが、フントは大事なトモダチである。
力づくで振りほどくなどといったことが出来るわけがなかった。
おまけにフントは四本の足でしっかと踏ん張って、てこでも動かないぞと言う様子である。
「お願い・・・、フント・・・、隊長が来ちゃう・・・」
いつものレニからは考えられないような、気弱な泣き言めいた言葉が漏れるのを聞き、織姫は今度こそあきれ果てた。
「まったく、フントの方がアナタよりよっぽどアナタ自身のことをわかってまーす」
「え・・・・?」
「しばらくそこでわめいてなさーい。すぐに少尉さんを呼んできますから」
そういって、織姫は優雅に身を翻してすっと建物の中に消えた。
残されたレニは、フントを振りほどくことも忘れてそこに立ちつくしていた。
「僕・・・、僕は・・・・」
「きゅうううん」
噛みついたままながら、フントが何かを言っている。
その声が限りない優しさに満ちていることを、レニは心のどこかで気づいていたかもしれない。
しかし、それを心にとどめている余裕はなかった。
彼女が今、一番会って欲しくなく、一番会いたい人が息を切らして飛び込んできたからだ。
「ここに・・・来ていたのか・・・やっぱり・・・」
「隊長・・・」
* * * * * *
「まったく、世話を焼かせまーす・・・・」
損なことをしたか、とも思う。
大神の前で、最近のレニは驚くほど女性的な面を垣間見せることがある。
大神もまんざらではない様子で、織姫にとってレニは花組屈指の難敵でもあるのだ。
しかし、と思い直す。
星組にいた頃の自分たちは、味方ではあっても決して仲間ではなかった。
それがヨーロッパでの戦いであの結果を招いたということはなかったか。
自分たちが、仲間であればあるいは・・・。
「やれやれ、ワタシも少尉さんに毒されたようですねー」
今唯一そばにいる星組の頃からの仲間に、少しばかり塩を送ってやっても悪くはあるまい。
彼女も同じく敬愛、あるいはそれ以上に思う男によって教えられたこの意識は、わずかの後悔の苦さを消してしまうほど心地よかった。
「フフン、こう言うときはピアノを弾くに限りまーす」
一度だけ、中庭の方を振り返る。
アナタに譲ったわけではありません。貸しですからね、これは・・・。
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