ドラマCD「怪盗紅蜥蜴」発売記念
「銀と真紅と紫と」





 怪盗紅蜥蜴。

「じゃあ今回の主役紅蜥蜴はすみれに、探偵明智小次郎役はカンナにやってもらうわね」

 かえでのその言葉を聞き終わると、すみれは何も言わずに席を立ち、そのままサロンを出ていった。

「おかしいですね、どうしたんでしょうか、すみれさん」
「そうでーす。すみれサンの性格なら、
『やはり、主役にはトッップスタアの私こそがふさわしいのですわ、オーホホホホ』
とか高笑いしそうですのに」
「うわあ、すみれそっくり」
「織姫はんうまいなあ」

 物まねは演技の基本。
 アイリスが言った言葉が全面的な誉め言葉かどうかはともかく、さすがは織姫、こういう小技もうまい。
 かくいう彼女も、欧州では数々の舞台を主役でこなしてきたのだが。

「でも、織姫の言うとおりだ。今のすみれの態度は明らかにおかしい」
「久々の主役で緊張している……ということは、ありえないわね」

 マリアの言ったことの前半は正しい。
 すみれはずいぶん長いこと主役をやっていなかった。
 それも、振り返ればカンナとの対決型でこなした主役だ。
 冷静に考えてみると、椿姫や少女紫のように第二主演となるものはあれど、シリアス劇の第一の主演をやったことは、太正十二年以降無い。
 大帝国劇場落成直後は、すみれが第一の主役を張って観客を集めていたのだが。
 それは、彼女としてはいささか不本意の、「神崎雛子の娘」という目に見えぬ肩書きも使っていた。
 一通り帝劇が認知されるようになってから今まで、彼女はぶつくさ言いながらも脇役に徹してきた。
 それは、技術ではまだ稚拙さが見受けられた花組のレベルを上げるために、さくらやアイリスらいわば新人たちを無理矢理にでも叩き上げる狙いがあったのだが。

 彼女のこの意図に気づいていたのは、大神とかすみ、それにかえでと……前副支配人のあやめくらいだろう。
 マリアやカンナなら、どうも意図的ではないかとうすうす察するくらいは出来ていたが。
 しかし、すみれのあの態度の原因はそれとは別の意味があった。

「わかんねえのか、みんな」

 カンナが呆れたように、第一次脚本……実は未完成で脚本と言うにはいささか問題のある冊子だが……をテーブルの上に放り投げた。

「解るわけありまセーン。こんなことレアもレアでーす」
「織姫とレニは仕方ねえとしてだな……、かえでさん。あんた、これ狙ったんだろ」
「……ええ。出来れば振り切って欲しいのだけど……」

 いきなり話を振られたかえでは、しかしいささか済まなそうに目を閉じる。

「どういうこと?カンナ」
「……この帝都で怪盗と言ったら、あの男しかいないだろうが」
『あ。』

 十二年からのオールドメンバーの顔に、その言葉で一斉に理解の色が浮かんだ。

 怪盗銀仮面。




「怪盗、銀仮面……」

 ぱたんと扉を閉めると、窓辺で日に当てていた薔薇の紫が鮮やかにすみれの瞳に飛び込んできた。
 少し土が乾いているようなので、軽く水をやる。
 すみれはこの鉢植えの世話を、宮田にすらさせたことがなかった。

「何を感傷に浸っていますの……。私らしくもない……」

 まだ外が明るいため、うっすらとしか見えない窓ガラスの中の自分に呼びかける。
 目を凝らしてその表情を確認しようとすると、薔薇の香気が微かにすみれを包んだ。

「怪盗……」

 不快ではない香りに、しかし悩みを倍にされてしまったことは確かであった。

 舞台とは、上辺だけの技術でどうにかなるようなものではない。
 舞台の上という虚構の世界にいることを忘れないで、かつその作られた世界の中で役になり切らねばならない。
 役を理解できてもいない演技は、ただの模倣に過ぎないのだ。
 秋公演「青い鳥」以前のレニが、その技術にも関わらずいまいちの評価しか得られなかった原因はまさにそこにある。

 怪盗の心。
 敵である探偵を愛してしまう心。

 愛を知らぬすみれではない。
 しかし、愛にも様々な形がある。
 報われぬ愛もある。
 報われない行動もある。

 あなたは、どんな想いで帝都の夜を駆けていたの……。

 頬杖をついて、どれくらいそうしていただろう。

「……銀仮面……」

 声にもならないつぶやきが、可憐な唇から漏れる。
 それは本名ではない。
 だが、本名とは何であろう。
 彼がそう呼ばれることを望んだ名前。
 それが本当の名前、それでいいではないか。

「お呼びですか、すみれさん」

 唐突に掛けられた、だが何の不自然さも感じさせない声が、悩みの反響し続ける乙女の頭を澄み渡らせていく。

「ええ……」

 と、その独特のかすれた声に考えもなく返事をしてから、
 一瞬、
 二瞬、

「!!」

 驚愕という言葉を顔一杯で表現しつつ、すみれはいつの間にか座り込んでいた椅子を後ろに蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
 見れば、季節を無視して常に一輪以上咲き続けている紫の花弁が……いや、それは今は紫の揺らめく炎の華となっていた。

「あまり、淑女にふさわしい振る舞いとは言えませんよ、すみれさん」

 かすれた声ながら、その喋り方はなお優雅さを留めている。
 緩やかに陽炎が立ち、揺らめく視界の中から紫が翻る。
 炎とマントが、いつの間にか夜の訪れていた部屋に鮮やかに踊った。

「悩みに沈むあなたの横顔もまた美しい。しかし、あなたにふさわしい表情とは言えませんよ」

 常ならば恭しく脱ぐシルクハットが、彼の頭上にはない。
 しかし、決して忘れようもない微笑みをたたえた銀の顔は、変わらずにすみれを見下ろしていた。

 ……常ならば。

 ああ、そうですのね。

 いささかと言うには少々痛みの過ぎる哀しみと共に、すみれは残念な確信を抱いていた。
 自分は、夢を見ているのだ。
 自分の弱い心が、つい思い出からこの男を呼び覚ましてしまったのだ。
 永久の眠りについた、この男を。
 自分の弱さに呆れつつ、しかし、この夢は不快ではなかった。

「予告状も無しに、何を盗みに来ましたの?」

 苦笑したつもりだったのだが、その微笑みはあまり苦い物にはならなかった。

「予告状なら差し上げましたよ。今あなたの手の中にあるではありませんか」

 そう言われて示された右手には、紅蜥蜴の……まあ脚本と言うには未だ大雑把な、空白の多い冊子が握られていた。
 先ほどまで、何も手にしていなかったはずなのに。
 驚いてページをめくっていくと、空白だったページの一枚に、忘れもしない紫十字の紋章が刻まれていた。

「今宵一時、神崎すみれさんを頂戴いたします。大帝国劇場一同殿……」

 文面を声に出して読み上げながら、すみれはもう笑うしかなかった。
 夢とは言え、ここまで手際の良さを見せられては賞賛するしかない。

「それで……どこに連れていって下さいますの?」

 冊子を机の上に置くと、目の前に恭しく銀仮面の手が差し出されていた。
 今は……この夢を楽しませてもらおう。
 どこへでも連れていってもらおう。

「二人の怪盗にふさわしき舞台へ。
 花の都東京のもう一つの顔、夜の帝都へようこそ」
「え……?」

 二人の。
 銀仮面はそう言った。
 戸惑っているうちに、すっと手を取られていた。

「円陣十仙、幻姿。そして、五仙、光翼」

 取られた瞬間、銀仮面の言葉と共に、自分の衣装が変化していた。
 真紅を基調とした、悩ましげに身体の線を強調した衣装。
 身体を取り巻くように、紅の蜥蜴があしらわれていた。
 なんともきわどいデザインだが、ここまでされてはすみれはいっそ気に入った。
 下品にならないギリギリのラインは、ある種芸術的でもある。

「あなたがデザインしましたの?」
「いいえ、あなたの心が考えた姿を映しただけですよ、紅蜥蜴」

 こともなげに、すみれの揶揄する言葉を受け流しつつ、紫の炎を翼と換えて銀仮面は窓を開けた。
 かつてのような黒い魔物の翼ではなく、輝ける翼だ。

「さあ行きましょう、紅蜥蜴!」
「ええ、負けませんわよ、銀仮面!」

 気がつけば紅蜥蜴の背にも飛竜の如き翼が現れていたが、それも当たり前のように思えた。
 秋の匂いをたたえた涼しげな風を身体いっぱいに受けて、二人の怪盗は十三夜の夜空に舞い上がった。

「いかがですか紅蜥蜴。帝都の全てを見下ろす気分は」

 不思議な感覚だった。
 翔鯨丸の艦橋から見下ろすのともまた違う。
 自分の真下までも、帝都という名の宝石箱の中で自ら光を放つ宝石たちが煌めいていた。

「許せませんわ、銀仮面!
 貴方はこんな光景を独り占めしていらっしゃったのですわね」
「ずるいとお思いですか?
 ですが今は貴女と二人の物ですよ」

 夜会で聞いたなら長刀を以て応えていたであろう台詞だが、今のこの状況には誠ふさわしく思えて、紅蜥蜴は心から笑っていた。
 あのようなしがらみに満ちた世界からかけ離れた、こんなにも素敵な世界。
 帝劇の中とはまた違った、魅力にあふれた世界。

「慣れてきましたか?それでは一つ怪盗らしく行きましょうか」
「ええ!」

 銀仮面が案内する形で、二人はとある豪邸に忍び込んだ。
 空からはいる二人には、塀も番犬も何の意味もない。
 庇の上に立ち、すっと窓を開けようとする銀仮面を、紅蜥蜴が制した。

「ここは私にお任せなさい」
「いいでしょう。お手並み拝見と行きましょう」

 銀仮面が言い終わらぬうちに、蜥蜴の裾が翻って、音もなく窓が外れた。

「お見事。さすがは怪盗紅蜥蜴」

 旧知の人間に当然のこととして言うかのような口調であったが、同時にささやかだが心のこもった拍手を送られると悪い気はしない。
 うまく響かないようにしているのが、器用なものだ。

「ここはね……」

 すうと部屋の中に降り立ちながら、銀仮面は一寸解説を入れた。

「私の知り合いの刑事が糾弾しようとしてくれているのですが、なかなか悪辣な手を使ってくぐり抜けている侯爵殿の邸宅なのですよ」
「まあ。でも……」

 艶然と紅蜥蜴は微笑んだ。

「私と貴方にかかっては、命運は尽きてしまったようですわね」
「もちろん。あくまで紳士的に、社会的にですが彼の息の根を止めて差し上げましょう」

 やましいところがあるだけに、夜中でも勤勉に警備の者が起きていたが、もちろん二人にかなうわけもない。
 眠りこける彼らを後目に、追加となる悪事の書類を調べ上げ、地下室に監禁されていた農村の少女たちを助け出した。
 そこでいささか腹を立てた紅蜥蜴は、わざと侯爵閣下を起こして差し上げることにした。
 無数の人形たちと巨大な蜥蜴を幻で作り出し、襲わせて。
 一瞬目覚めたものの、侯爵はあっさりと失神してしまった。

「ほほほほほ、無様ですこと」

 どこか悪戯をして遊んでいる子供のように紅蜥蜴は笑った。

「さて、このような小物にいつまでも構っているのも飽きて来ましたね」

 束になった書類を何処かに収納して……シルクハットのない今どこに隠しているのだろう……銀仮面は再び翼をはためかせた。

「まだ夜は長い……。次なる場所へご案内しましょう」
「ええ」

 そのあと、一夜にて帝都中が舞台となった。
 解放されたようなもう一人の自分。
 のびのびと夜空を飛び回り、何重にも閉ざされた扉や金庫を破り、中の金品を廃屋街にばらまく。
 展覧会にも出されない、好事家が秘蔵していた美術品の数々を無料で拝見する。
 かなりの量になった書類を届けに、警察にすら忍び込む。
 全て、考えもしなかった体験だった。

 だが、夢は終わる。

 すみれが、
 そう意識したのが先だったか。
 遠く太平洋の水平線が白み始めるのが先だったか。

「……どうやら、夜も終わりのようですね」

 気がつくと、銀座上空に戻っていた。
 ひんやりとした早朝の大気の中に、うらめしくも先走る陽光の暖かさを感じつつ、二人は旅立ちの窓に戻ってきた。

「いかがでしたか、怪盗の気分は?」

 気がつくと、神崎すみれの服装に戻っていた。
 銀仮面も翼をしまい、床の上に立っている。

「大変参考になりましたわ。誉めてさし上げますことよ」

 それが、すみれらしい最大級の賛辞であり感謝の言葉であったことを解らぬ銀仮面ではあるまい。
 すみれはそう確信しつつ、いつもの口調で語った。
 「ありがとうございます」などという言葉をこの男は喜ばない。
 何故なら、

「ありがとうございます」

 と、この男が優雅に語る機会を奪ってしまうことになるから。
 昔……まだこの男を毛嫌いしていた頃に夜会であったときとは明らかに違う、優しさに満ちた動作であったことが、いささか嬉しかったことも否定できなかった。

「では……そろそろお別れの時間ですね」
「お……お待ちなさい……、私は……」

 まだ貴方に聞きたいことが、
 などという台詞をすみれの口から言わせる銀仮面ではない。

「私はいつも貴女のことを思い、貴女のことを考えて帝都を駆けておりました」

 炎で器用にシルクハットの形を作って、恭しくそれを振りつつ一礼する。
 間違いなく、夢にまで見た銀仮面の姿だった。
 その姿が、再び陽炎のように薄れていく。

「あ……」

 引き留めようとして……その手を伸ばしきることが出来なかった。

 わかっていたはずでしょう……。
 わかっていたはずでしょう……!

 こみ上げてきそうになるものを、すみれは必死でこらえた。
 かつて銀仮面の眼前ではついぞ見せなかったのだ。
 そんな自分を、彼に見せるわけには行かない。
 夢が終わるまで、泣くわけには行かない!

「忘れないで下さい。それでも私はあなたをお守りします。あなたの傍にいます」

 かすれたその声が薄らいでいく。
 その言葉は銀仮面本来のものではない。
 特別公演「銀仮面」において、彼を慕う少女を演じたすみれが、舞台の上で銀仮面に掛けられた言葉だ。
 そのことが、ことさらに事実を強調する。

「どうして……どうして空に飛び去って行きませんの……。
 まるで……まるであなたが……」

 その言葉の先を続けることは出来なかった。
 立ち上る薔薇の香気に包まれて、すみれの意識は眠りに落ちていったから。










 寝覚めは、いいとも悪いとも言えなかった。
 身体はともかく、精神が寝付けなかったせいだろうと勝手に考えた。
 朝食をとってもまだ落ち着かないので、サロンでお茶を飲むことにする。

「やあ、すみれくん」
「あら、少尉ではありませんの」

 朝は事務室で仕事のはずの大神がふらりと現れた。
 理由は大体想像がつく。
 昨日の自分の態度を心配したマリアやカンナが、大神に様子を見てくれるように頼んだのだろう。
 ありがたいとは思うが、どうも気分が乗らない。

「紅茶でもお飲みになられますか、少尉」
「あ、ああ。そうだね。
 久しぶりにすみれくんの腕前を見せてもらうことにするよ」
「まあ。ではその代わりに銘柄を当ててもらいましょうか」
「ええっ……?うーん……これは……、セイロンかな?」
「残念。アッサムですわ。まだ難しかったようですわね」
「う、うん」

 どうも、話の切り出しに苦労しているらしい。
 その不器用な配慮は嬉しいのだが、いささか場が重い。
 沈黙に耐えきれなくなって、すみれは傍にあった蒸気ラジヲのスイッチを入れた。

『……いて、次のニュースです。
 昨夜未明、赤石侯爵邸に賊が押し入り、執事が昏倒させられた上に侯爵閣下の裏取引の帳簿などが警察に届けられると言う怪事件が起きました。
 手口から見て黒鬼会の仕業ではなく、怪盗を気取った模倣犯の可能性もありますが、これに対して警視庁銀仮面対策課の塚本警視は……』

 ガチャンと茶器が危うい音を立てて、ようやくすみれは自分が身を乗り出してラジヲに聞き入っていたことに気づいた。
 きっと自分の顔中が驚愕という言葉で満ちているに違いない。

「あ、あの……すみれくん。大丈夫かい。
 聞けば昨日も……」
「夢を見ておりましたの、少尉」

 横で大神が慌てふためいてくれるので、かえって自分は冷静さを取り戻すことが出来た。
 それとも、これも触媒の力の一環なのかもしれないが。

「夢?」

 ともあれ大神本人は、すみれが何を言わんとしているのかわからず、鸚鵡返しに尋ねるのみである。

「ええ……銀色と……真紅の夢を」

 もう、大丈夫。
 ……礼を言いますわ。





「私からの贈り物、うけとって頂けまして?」

「……君とこんな形で出会いたくはなかったよ」

 公演「紅蜥蜴」のラストシーン。

 自ら明智の銃に撃たれながらも彼の腕に抱かれつつ、主題歌「愛は永久に」を歌う。

「結ばれぬ愛がある……あなたの愛の真実知った……」

 そのときすみれは、共演するカンナでも満場の観客でも無い、ここにいない一人の男のために歌っていた。










「愛は永久に」
作詞:広井王子氏
サクラ大戦 新・歌謡全集収録
平成十一年夏、サクラ大戦歌謡ショウ挿入歌







平成十一年十月十七日書き下ろし

すみれの部屋に戻る。
楽屋に戻る。
帝劇入り口に戻る。
夢織時代への扉に戻る。