聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第二十六話、獅子宮の千尋」




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 見下ろすは、一頭の獅子。
 見上げるも、一頭の獅子。
 そして、それに従う燦然たる星々。

 獅子宮の入り口へと続く最後の大階段を挟んで、両者の視線がぶつかり合う。
 ただし、星々の多くの者はいぶかしんでいた。
 階段上に待ち受ける子獅子座の聖闘士セイントからは、何の小宇宙も感じない。
 小さいのではない、まったくのゼロにしか思えないのだ。
 さらに、見下ろしているといってもそれは顔が下を向いているというだけのことで、よく見ればその瞳さえ閉ざされていた。
 こんな聖闘士が、青輝星闘士シアンスタインのナンバー2たる獅子座レオのゼスティルムがここまで警戒する価値のある聖闘士だとでもいうのか。
 その疑念の中、ゼスティルムだけは険しい表情を隠しもせずに両手を大きく広げて、後ろから来る星闘士たちを押しとどめていた。

「さあ、雌伏もここまでだ、蛮。
 むざむざと貴様の手に乗る私ではないぞ」

 その言葉が聞こえたのか、フッと蛮の雰囲気が変わったことに、まず青輝星闘士たちが、そしてほとんど間を空けることなく残りの星闘士たちも気づいた。
 小宇宙が、爆発的に……、そう、文字通り星が爆発するがごとき猛烈な勢いで増大していく。

「これは……!」
「まるで、新星……!」
「下がれ!伏せろ!」

 予期していたゼスティルム一人が、付き従う星々に言い伏せながら、最後の五十段を一気に駆け上がる。
 蛮の瞼が、火蓋を切るように開かれたのはそのときだった。

クワアァッ!!

 蛮の身体から発せられる輝く小宇宙が掲げられた両腕に集中し、駆け上がるゼスティルムとその後ろの星々に向かって放たれた。

「フィニッシュバスター!!」

 それは流星や彗星の領域を飛び越えて、地上に降りてきた恒星をも思わせる巨大さで星闘士たちの頭上に迫る。
 これに対抗するのは、青色に輝く星闘士第二位の星。

「シャイニング・フレア!!!」

 こうなることを予期していたゼスティルムは、弾くのではなく、全力で小宇宙を燃え上がらせた灼熱の必殺拳を繰り出した。
 奇しくも、どちらも輝ける星のごとく。
 二つの星が真っ向から激突した。
 相殺するにしても、いずれも威力が強大すぎた。
 灼熱の余波がのたうち回る龍のように瞬時にして周囲を駆け巡り、十二宮の石段すら一部が昇華するほどの高温領域が発生する。
 必然的に生じる爆風はゼスティルムの後方に控える星闘士たちを大地に押しつけ、耐えきれないものは遙か後方まで吹っ飛ばした。

「なんて威力……!
 青銅聖闘士ブロンズセイントにまだこれほどの者がいたなんて……!」

 金牛宮の檄もゼスティルムとよく渡り合ったが、彼がゼスティルムと互角以上に戦うには黄金聖衣ゴールドクロスが必要だった。
 しかし子獅子座の聖闘士が黄金聖衣も無しにここまで星闘士全軍を足止めする圧力に、青輝星闘士射手座サジタリアスのマリクは感嘆の念を禁じ得なかった。
 彼自身、他の星闘士たちを太陽風から守るように小宇宙を燃え上がらせていて、身動きがとれない。

「しかし……、長くは続かんでしょう」

 慣習的にマリクに対しては若干の敬語が出るバイコーンのアクシアスは、未だに自分が青輝星闘士になった実感が薄いらしい。
 それでもやることはきっちりやっていて、四人の赤輝星闘士を背中にかばっている。

「ええ。新星は、星の終わり。
 長くは保たないでしょう」

 乙女座の青輝星闘士イルリツアの言葉が後押ししたわけでもなかろうが、やがて光と熱は急速に収斂へと転じた。
 徐々に視界が晴れていき、確認するまでもなくゼスティルムは健在だった。
 だが……、

「しかと覚えているとも。
 そなたは、自らの力を溜めて一息にそれを解放できるのだったな。
 その憔悴ぶりでは、二時間や三時間ではあるまい。
 どれほど長く五感を閉ざして小宇宙を高めていた?」

 蛮はこの一交で力を使い果たしたように、全身は滝のような汗で濡れ、ファイティングポーズを取ることもできずに両手を両膝について、辛うじて倒れずに堪えているといった有様だった。

「四日……」
「その間不眠不休か」

 当然のように首肯した蛮に、聞いていた一同唖然となった。

「なるほどな。
 空港で会ったときから一言も喋らなかったのは、既に小宇宙を高める集中に入っていたからか。
 見上げたガッツというべきか」

 言葉通りの称賛に満ちた口調で感心しながらゼスティルムは、邪魔は無くなったと見て石段を登りきり、蛮の眼前に立った。

「今の一撃で我ら全員を仕留めるつもりだったのだろうが、星闘士に同じ技は二度も通じぬ。
 当然にして、同じ手は二度も通じぬ。
 既にエチオピアで私に手の内を見せたことを、今少し考慮すべきであったな」

 ゼスティルムの口調は出来の悪い弟子に言い聞かせるようでもあったが、その右拳に集まる小宇宙は容赦がなかった。

「健闘への手向けだ。せめて苦しまずに死なせて……」
「ライオネット・ボンバー!!」

 息を切らしてあえいでいたはずの体勢は、両膝に全力を込めて飛び上がるためのバネを全身で蓄えるものだった。
 四日間高めに高めた小宇宙は、一撃で燃え尽きるほど小さくはない。
 ただ、四等星までの星しかない子獅子座の聖闘士として、小宇宙を伏せることは得意であった。
 至近距離から全身これ肉弾と化して突っ込む蛮に対して、さしものゼスティルムも回避すらままならず、直撃を受けることになった。
 最大の攻撃力を発揮する両膝が胸部に命中し、ゼスティルムの体勢は大きく揺らぐ。
 だが、倒れない。
 
「これで倒れては……くれんか」
「当然だ。
 エチオピアで見せたように、せめて星衣クエーサーを欠けさせる位でなければ、私を倒すなど夢物語と知れ!」

 逆にこちらも至近距離から、ゼスティルムは揺らいだ姿勢を元に戻す勢いをも込めて、渾身の右ストレートで蛮の顔面を捉えようとする。
 命中の直前、蛮はわずかに首を捻った。

「!!」

 眉間を打ち抜くはずの光速拳は、蛮のわずかな動きによってずれ、子獅子座のヘルメットに当たることとなった。
 ゼロ距離でゼスティルムの渾身の拳を受けては、いかに貴鬼が鍛え直した新生聖衣といえど大破は免れずに吹っ飛び、蛮の身体も当然のように吹っ飛ばされた。
 しかし、聖衣で受けたことは十分な防御になった。
 衝撃で気を失うこともなく、蛮は辛うじて体勢を整え、床に転がりながら地味に衝撃を殺した。

「……ひとたび高めた小宇宙、未だ燃え尽きておらぬか」

 至近距離での蛮のとっさの動きが、ゼスティルムの動きを読んだものか、それとも光速を見切ったものか、ゼスティルムは判別しあぐねたが、少なくとも今の蛮が速やかに息の根を止めることのできる相手ではないことは明白だと判断した。

「皆、先へ行け。
 私はこの男と決着を付けてから後を追う」
「ゼスティルム様自らが一対一の相手をしなくても……」
「イルリツア、そなたとてわかろう。
 ここは獅子宮であり、私は獅子座の星闘士なのだ。
 そしてあそこにいる聖闘士は、おこがましくも獅子座のアイオリアの代わりを務めるつもりらしい」
「代役というには不足ではありますまいか」
「この先の宮で待っているであろうユニコーンの聖闘士を相手にして、そなたにそれが言えるか、アクシアス。
 そしてな、あれら青銅聖闘士はすべて実の兄弟ぞ」
「……そうでしたな」
「わかりました、ゼスティルム様。
 では私は、私が相手すべき処女宮の聖闘士を速やかに倒しておきましょう」

 アクシアス、イルリツアの二人が納得したので、マリクも特に反対することは無いと考え頷いた。
 マリクにとって養父であるゼスティルムの実力は、他ならぬマリク自身がよく知っている。
 占星術師でもあり、人の心を掌握することにも長けたゼスティルムが、本来最も得意とする一対一の戦いで負けることなどまず無いはずだった。
 星闘士ナンバー2という座は、単純に小宇宙の最大強度でイルピトアが勝っていたために、陛下の判断で付けられた序列であり、実際に戦えばゼスティルムこそが星闘士最強だとマリクは信じていた。

「よし、行け!」
「行かせるか!」

 星闘士たちの動きを察した蛮は素早く立ち上がり、先頭を切って走ってきたイルリツアとアクシアスを止めようとする。

「そんなことよりも、ご自身が死なないように努力して下さいな」
「……?」

 ひらりと身をかわしたイルリツアの言葉に違和感を覚えたものの、確かにその通りだった。
 蛮の動きを牽制するようにゼスティルムはアーク・プロミネンスを放ち、弧を描いて伸びる炎で、突き進む星闘士たちと蛮との間を遮った。

「順番を間違えるな。
 おこがましくもこの獅子宮を守るのであれば、そなたが倒さねばならんのは私であろう」
「……ッ」

 穏やかな口調ながら、声の底には有無を言わせぬ迫力がある。
 星闘士としては老齢だが、伊達に青輝星闘士たちを束ねていないと思わせるには十分な威圧感だった。
 蛮が最初に小宇宙を十分に高めていなかったら、今の視線だけで金縛りになっていたかもしれない。
 黄金聖闘士にも匹敵するという青輝星闘士。
 中でも確かに、このゼスティルムは別格だった。
 その事実は、海闘士七将軍セイレーンのソレントと渡り合っただけでも明白だ。
 先にエチオピアで戦ったときには、そのソレントの助力があってようやくゼスティルムを撃退している。
 今回は正真正銘の一対一だ。
 圧倒的な実力差は嫌と言うほどわかっている。
 確かに乙女座の青輝星闘士の言う通り、初撃を防がれた時点で蛮にはゼスティルム以外まで相手取る余裕は無かったといえる。
 だが、できるならばなんとかしたかったのだ。
 先に倒れた兄弟のためにも。
 この先で待つ兄弟のためにも。

 それらの無念は食いしばった表情の中に押し込んで、蛮は通り過ぎる足音を振り返らないことにした。
 ゼスティルムの一挙手一投足を捉えるべく、六感……いや、それ以上の何かを集中させる。
 同時に、自らの中で高まった小宇宙をさらに高く燃え上がらせていく。
 四日間、五感の半分を絶って集中させた小宇宙だ。
 乙女座のシャカや、獅子座のアイオリアには遠く及ばずとも、それ相応の自信はある。
 少なくとも、星闘士たちを一網打尽にしようなどという考えができるくらいに。
 それが単なる自惚れでなかったことを、ゼスティルムの対応が雄弁に語っているのだからなおさらだった。

「よい顔だ。
 男はそうでなくてはならん」

 ゼスティルムはわずかに眩しそうに目を細めた。
 四等星以下の星々で形作られた子獅子座。
 だがそれは、見るべきところを変えれば、遙かな無数の銀河団に手が届く、窓のようではないか。
 そこから、普段は秘せられていた小宇宙がわき上がってくるのがわかる。

 蛮はしばし思案した。
 一朝一夕の技がゼスティルムに通じるとも思えないが、既に自分の技は見切られていると言っていい。
 ならば、小細工は無用。
 見上げるべき目標は一度だけ見た。
 ハーデスとの戦いの直前に、わずかのひととき獅子座のアイオリアに頼み込んで見せてもらったあの純粋に研ぎ澄まされた光速の拳を目指して、この拳をぶつけるのみ。

 燃えろ、俺の小宇宙よ。
 せめてこの子獅子が、真の獅子の力の十分の一の力でも……。
 と考えたところでその卑屈な考えを打ち消した。
 卑しくもこの宮を一人で預かり、星闘士のナンバー2たる青輝星闘士の獅子座と対峙しているのだ。
 十分の一など非礼になる。
 今の自分の全力を越えて、獅子座のアイオリアに出来うる限り近づけるのみ。
 そのために、自分の限界を遙かに超えるために、この決戦に備えてきたのだ。
 一瞬とはいえ体現した、己の限界を超えた小宇宙は、この身が覚えている。
 今までよりももっと強く、限りなく。

「む……!」

 蛮から立ち上る小宇宙のオーラが変質していることにゼスティルムは気づいた。
 子獅子だけではない。
 それを死地に向かわせようとしながらも、見守るように背後に立つもう一頭の獅子の存在が、確かに感じられる。

「黄金聖衣が消失したとはいえ、見ておるか。獅子座のアイオリアよ」

 ゼスティルムとて星闘士の一人として、獅子座の黄金聖闘士と雌雄を決したいという思いは捨てきれずにいたのだ。

「……だが、まだ足らぬか」

 ほとんど声にならないそのつぶやきは、蛮の耳には届かなかった。
 まさにその瞬間、ただ自らの小宇宙を拳に乗せて、一度だけ見たアイオリアの拳に届けと、渾身のストレートを繰り出していた。
 ただ蛮は、技の名前を口にしなかった。
 目指す姿が明らかであっても、聖闘士最強最速の光速拳の名は、軽々しく拳に乗せられるようなものではなかったのだ。

 その拳の威力を、ゼスティルムは真っ正面から掌底で受け止めた。

「ぬうっ!」
「何ィ!?」
「まだ、ぬるい……!」

 気合い一閃とともに、ゼスティルムの掌中で蛮の拳の威力は千切れ飛んだ。

「獅子の牙とはこのようなものをいうのだ。
 今一度見せてやろう。シューティングスター・レオニズ!!」

 エチオピアで一度見た技だとゼスティルムはあらかじめ断った。
 つまりそれは、防げるものなら防いでみろということに他ならない。
 蛮は待ちかまえるように目を見開き、その無数の流星の軌跡を追おうとする。
 だが、さすがに青輝星闘士たちに君臨するゼスティルムの拳は正真正銘の光速拳だ。

 駄目か……見切れない……!

 初撃だけは勘だけでかろうじてかわしたものの、一億分の一秒後に来た次撃を左肩に食らい、そのまま雨霰と叩きつけられる一十百千万億発の光速拳によって、暴風雨に飛ばされる木の葉さながらに吹っ飛ばされた。
 子獅子座の聖衣は蛮の身体をよく守ってくれたが、これだけの光速拳を浴びて当然耐えきれるものではなく、そこかしこに破片を撒き散らしていく。
 マスクが既に破壊されているので、心臓と頭だけは両腕のパーツを盾にしてなんとかこらえたが、いつまでも耐えきれる保証はなかった。

「ガハアッ!!」

 地面に落ちる際になんとか受け身を取ったものの、流星雨さながらのゼスティルムの光速拳は容赦なく追い打ちを掛けてきた。
 蛮が落下した床の周辺に光速拳が集中し、床の石畳を紙のように四散させ、クレーターのような穴を作り出していった。

「そのままその穴を墓穴とするか、蛮」

 ゼスティルムの位置からは影になるくらいに深く掘られた穴が出来たところで、不意に光速拳が止んだ。
 容赦したのか、と思ったが、ゼスティルムの小宇宙はさらに集中していくのが穴の中からでも察せられた。

「星葬とは言わぬが、せめて火葬くらいにはしてくれようぞ」

 まずい、と全身が警告を発した。
 このままでは弧を描くアーク・プロミネンスの絶好の的だと気づいた瞬間、穴の底を蹴って上空へ跳ぶ。

「アーク・プロミネンス!」

 予想通り繰り出された灼熱の炎の弧が穴の底を直撃し、十二宮を支える強固な岩盤を軽々と蒸発させて、穴をさらに深くえぐった。
 だがこの爆風は予想済みだ。
 遠距離では、速度において遙かに勝るゼスティルムを相手に到底勝ち目はない。
 至近距離に詰めるべく、天井を蹴りながら自分の身体をゼスティルムの方向へとふっ飛ばさせた。

「遠距離戦では勝てぬと踏んだか。
 その判断は正しい。
 私に対して突っ込むその度胸も認めよう、だが」

 ゼスティルムの小宇宙が膨れ上がる。

「恒星に近づくのは、容易ではないぞ。シャイニング・フレア!!」

 空中で振りかぶった蛮が繰り出した拳が当たる寸前に、ゼスティルムの一撃が完璧なタイミングのカウンターで蛮を直撃した。
 同時に全方位へ繰り出されるこの技は、中心点への距離が短くなるとその二乗に比例して威力が増す計算になる。
 当然にしてゼスティルム自身はこの技の特性を熟知しており、一切の容赦なく最も必殺技の威力が高まるように直撃させたのだ。
 さきほどの光速拳で傷みが生じていた子獅子座の聖衣は、この奥義から辛うじて持ち主を守ったが、そこで力尽きた。
 柱の一つに叩き付けられて蛮の身体がようやく止まったときには、既に両腕と両肩、胸部のパーツが燃え尽きて灰になっていた。
 そのまま為す術無く蛮は頭から床面に落ちた。

 強い……。
 最初に一度は手が届いたはずが、そこから千尋の谷に突き落としたかのようなこの圧倒的な実力差……
 無理だということか……、俺には、兄弟たちのように奇跡を起こすことはできないのか……

 わかっていたはずだ。
 栄光の道を駆け上がった兄弟たちと違い、自分たちは青銅聖闘士の中でも銀河戦争で早々に脱落した落伍者だ。
 願って奇跡を起こせる小宇宙があるならば、最初からあそこで早々に負けたりはしていないだろう。
 だからこそだ。
 奇跡を起こすことはできないとわかっているから、勝つための方法を考え抜いた。
 エチオピアではソレントの力を借りて五感を閉ざすことでなんとか撃退した。
 助力が無い今回は、今の自分一人では勝てないと考えて、四日分の自分をこの決戦のときに集約し、一撃で勝負を決めるつもりだった。
 その策も見事にゼスティルムに見破られてこの様だ。
 小細工を弄するしかない自分には、この千尋の谷の底がお似合いだということか……

 できないのか。
 奇跡を願うことはできないのか。
 なぜ諦めていた。
 なぜ諦めてしまうようになった。
 それは、兄弟たちの小宇宙の輝きを見たからだ。
 自分とは違うと、思い知らされたからだ。

 だが、あのときと今と、決定的に違うことがあるはずだ。
 その、輝かしい小宇宙の強さを知っていること。
 自分がその彼らと兄弟たちだと知っていること。
 手を伸ばそうとして何が悪い。
 四等星以下の星しかない自分が、輝きに焦がれて何が悪い。
 一つだけでも星を取り込めば、この星空の空洞で、きっと輝けると信じていたはずだ……

 死力を振り絞り、何かを掴もうとして這わせた手が、確かに何かを掴んだ。
 かさり、と。
 儚く、弱々しく、だが、確かな思いがこめられたそれは、ささやかな花束だった。

 これ……は……

「……ここまでか。蛮。
 最初に我らを戦慄させた一撃は見事だったが、それがそなたの限界か。
 では、そなたらは私の不始末でもある。
 今度こそ、速やかに葬ってやろう」

 日にちを置いたものではない。
 おそらくは今日摘まれて今日置かれた物であることは容易に察せられた。
 この獅子宮で花が手向けられる場所といえば、ここは……

「燃え尽きよ、アーク・プロミネンス!」
「させ……るかあぁ!」

 気づいた瞬間、無我夢中で身体が動いていた。
 花を置き、全身を使って跳ね起き、光速で弧を描いて迫るその青い炎に向かって、両手を開いて仁王立ちしていた。

「立ち上がった!?」
「この花は、焼かせてなるものか!」

 咆吼とともに真っ正面から炎を受け止めた。
 両手で受け止めているというのに、余波だけで聖衣の残りが燃え尽き灰になるほどの衝撃だ。
 だが、それがどうした。
 この身体が燃え尽きようとも、守らねばならぬ誇りはある。
 獅子座を預かることへの誇りではない。

「お前の守るそれは、誰かの墓か……!」

 葬儀にも長けた星闘士として、ゼスティルムは即座に察するところがあった。

「そうだ……。
 ここは、聖闘士になれなかった、しかし、誇り高き一人の男が、一人の女神のために死んだ場所だ!」

 蛮にはまだ、同い年であったというその男の心境を理解しきることはできない。
 だがそれが、尊敬すべきことであることはわかる。
 ましてその男が、百人の兄弟随一にまで駆け上がった弟と聖衣を争った男となればなおさらだった。
 その思いを、踏みにじらせてなるものか。
 わき上がり、吹き上がるその意識とともに小宇宙が強く高く研ぎ澄まされていく。

「おおおおおおおっっっ!!」
「止め……おったか!」

 受け止めきり、勢いを完全に殺したプロミネンスの塊を、

「どっっせえええええいいいいっ!」

 右手で掴み、振りかぶって、ゼスティルムに向かって投げつけた。
 聖衣も砕けた右手だったが、プロミネンスの塊よりも自分の両腕の方が熱く思えて、まるで気にならなかった。
 投げ返された巨大な火の玉を、ゼスティルムは避けもしなかった。
 吹き上がる小宇宙に取り込まれるようにして火の玉は消失する。
 だが、ゼスティルムの目は油断なく蛮を見つめていた。
 さきほどまでの見下した目ではなく、真っ正面に見据えていた。

「自分の命や誇りよりも、誰かの思いの方が大事か」

 ぽつり、と。

「よく似ておる。血は、争えんな」

 言われた瞬間、蛮は脳髄の底が凍り付いたような寒気を覚えた。
 何を言われたのか、蓄積された記憶が理解するのを拒否しているのに、結局は耐え難くじわじわと浸食されるように理解が広がって、前頭葉を冷やしていく。

「何……と、言った?」
「似ていると言ったのだ。お前たちの父とな。
 若い頃の理想に燃え、血気に逸っていたあやつも、自分よりも仲間の不名誉を看過できずに暴走したものよ」

 その一言一句が、蛮の口の中から速やかに水分を奪っていった。
 ゼスティルムは何を言っている?
 いや、わかっている。
 あまりにも明白だ。
 ゼスティルムは若い頃の、あの男、を知っている。
 だがどうして、

「エチオピアではそんなことはおくびにも出さなかったではないか……」

 せめてそんな些細なことででも反論しなければ、冷えた頭とは裏腹に全身の血が沸騰してしまいそうだった。
 たとえ沙織お嬢さんと和解し、女神の聖闘士となったとはいえ、自分たちをこの運命に叩き込んだ男に対する憎しみは、生き残った九人が今なお消せることなく共有し続けていたのだ。
 兄弟たちとの絆ならばいくらでも喜んで聞こう。
 だが、あの男との血縁など、今なお思い出すだけでおぞけが走る。

「あのときは知らなかったからな。
 よもやお前たち青銅聖闘士、神聖闘士の全員が全員、あやつの息子だとは。
 イルピトアめが神話の遺伝子を揃えて公表するまで思いもよらなんだ。
 私の手を離れたあとのあやつにもう少し気を配っておくのだった」
「……!?」

 反論したはずが、さらに手ひどいカウンターが返ってきて蛮は思わずよろめいた。
 知っているどころの騒ぎではない。
 ゼスティルムの言うことに嘘がなければ、自分は今、とんでもない秘密を聞いている。

「信じられない、という様子だな。
 よかろう。その健闘を讃えて昔話をしてやる。
 せめて冥土の土産にならぬよう心して聞け」

 聞きたくもなかったが、絶対に聞き逃せないことは理解できた。
 それは、七年間抱き続けてきた数々の疑問への答えであるはずなのだ。
 聞こう、という返答すら億劫で、ただ、構えを解いた。
 この隙に仕留めようなどと考えるゼスティルムではあるまい。

「まずはわかりやすいところから話をしようか。
 そもそも、グラード財団とは何か、お前たちは把握しているか?」

 この時点で蛮は、ゼスティルムの言うことが嘘であるという可能性を頭から排除した。
 それは長らくの謎だったからだ。
 自分たちだけではなく、日本、いや世界にとって。
 グラード財閥ではないのだ。
 なぜか、財団法人なのだ。
 財団法人とは、財産の集合体に法人格を与えた物である。
 その財産は、どこから来たのか。
 財閥ではなく財団であるグラード財団には、根幹となる重工業部門があるわけではない。
 これが今流行の軍産複合体と違うところだ。
 ただ有り余る財力を用いて、世界平和の実現と称して様々な新興企業などを抱え込み、買収し、結果としては常軌を逸した技術力を有する部門をいくつも抱えている。
 だが、それを利用して大規模な産業開拓をしているわけではない。
 大量の特許権を保持しているものの、ごく一部の必須技術のみライセンスして、財団に莫大な収入をもたらす以外はほとんど技術使用を差し止めている。
 グラード財団は技術者の敵だと世界各国で批判を浴びている位なのだ。
 現在鋼鉄聖闘士たちが苦労している軍産複合体との剣呑な関係はこのあたりに由来する。
 結果として、グラード財団の内部とそれ以外とでは、十年以上もの技術格差が生じている。
 銀河戦争の折に世界に示された遠隔衝撃測定装置やクリスタルボードもそうだし、スチールクロスに至ってはゆうに半世紀は世界の先を行っているほどのとてつもない技術が使われている。
 だが、それらを一般流通製品化するつもりは一切無いらしい。
 これは前総帥のころから今に至るまで、財団の主要な職員に共通する意識として叩き込まれているらしく、辰巳も当然に前総帥の意向を盲目的に引き継いでいる。

 何のために存在している財団なのか。
 銀河戦争が開催されたときには、長年の謎が解明されたと騒がれたものだったのだが。
 一時期、蛮は、むしろ技術の進歩を止めることこそグラード財団の存在目的なのかと疑ったことがある。
 銀河戦争の開催まで、対人兵器が、聖闘士に追いつくのを止めることが目的だとすれば、よく知らない者は納得するだろう。
 だがその考えは後日否定することになった。
 城戸光政が銀河戦争に取り組みはじめたのはせいぜいこの十年のことで、財団の活動はもっと以前からあったからだ。

 特許料を稼ぐ以前の大元の、莫大な資産はどこから来たのか。
 それは、今なお蛮も、おそらくは現在総帥代行をしている邪武も、もしかしたら辰巳さえも、知らない。

 ゼスティルムの問いに対する否定の意を、首を横に振って伝えた。
 起源は知らないし、今なお不明、それが現状だ。
 ゼスティルムは納得したように頷いた。

「そうであろうな。
 教えよう。グラード財団とはそもそも、私が作ったものだ」
「何イッ!?」

 想像を絶する回答だった。
 グラード財団の成立を聞いているのに、よもや星闘士が関わっているなど考えもしなかった。
 だが、ゼスティルムの性格を多少なりとも知っているだけに、その言葉が冗談やはったりだと思うことはできなかった。
 しかし、どうにも信じがたい。
 なぜ、歴史の表舞台はおろか、聖域の記録からもほとんど姿を消していた星闘士が、現代の即物性を象徴するようなグラード財団に関わっているのか。
 その理由を聞かない限り、はいそうですかと納得できるはずもなかった。

「……続けろ、ゼスティルム」
「信じがたいが虚言と否定することもないか。賢明だな。
 説明のし甲斐があるというものだ」

 ゼスティルムは皮肉ではなく率直に言った。

「ソレントかジュリアン・ソロから、私が占星術師を名乗っていたことは聞いているな」

 蛮は黙って頷いた。
 エチオピアでゼスティルムと戦った後、ソレントから前後の事情は聞いていた。
 ゼスティルムは占星術師を名乗っており、古くからソロ家とは交流がある人物で、ジュリアンとも旧知の関係であるらしかった。
 海商王であるソロ家にとって、未来を先読みする占い師が重要であったことは想像に難くない。
 そうして近づくことで、ポセイドンの器であるソロ家を常時監視し続けていたことも伺えた。

「はったりではない。
 我々星闘士は星を司る役割から、星読みの力も有する。
 それを応用すれば、自然災害や気候変動ならばある程度の予言が可能なのだ。
 その力を持ってヨーロッパの国王らに近づき、政治を操ることで、人の流れもある程度予知できる。
 そうして得た権力を使って、我々は長年に亘って科学技術の発展を抑え続けてきた」

 蛮はそこで首を傾げた。
 てっきり話の流れから、聖域のあるギリシアに圧力を加え続けてきた、というのだろうと思っていたのだ。
 聖闘士の総本山である聖域のお膝元ながら、近代に至るまでイスラム勢力に脅かされたりしているギリシアの政情はまったく安定していない。
 ヨーロッパの権力の裏で暗躍していたというのなら、それくらいは可能だと思ったのだが。

「オスマン・トルコをギリシアに差し向けたのはお前の先祖ではないのか?」
「理解が早いな。それは確かに関与したと聞いているが、グラード財団の話とは直接関係はない」
「……わかった。それで技術発展の阻害とはどういうことだ」

 今は聖闘士としてではなく、グラード財団に運命を狂わされた百人の一人としての興味の方が勝ったので、確かにどうでもいいことだった。

「黄金時代、白銀時代、青銅時代の区分は知っているな。
 神々が支配した時代、神々と併存していた時代、神々から離れていった時代、今はその後だ。
 しかし、いかに神々から離れたとはいえ、それでも神々は人間が過剰に力を得ることを望まない。
 人間の科学が神々の世界にまで手を届かせてしまえば、オリンポスの神々全てを怒らせてこの地上が丸ごと消滅するおそれがある。
 平時の我らは、この鋼鉄時代の進行を少しでも遅らせるために暗躍していた。
 それが我らが神の望みでもあり、この地球を汚す科学の進行を止めることは人間としての我らの願いでもあった。
 だが、それも半世紀前に限界に達した」
「半世紀前……?」
「人類の科学が原子力に到達した。
 それがどういう意味を持つか、聖闘士として理解できるか」

 ゼスティルムの口調は、蛮にならば理解できるだろうと確信したものだった。
 そう言われては蛮も応えないわけにはいかない。
 聖闘士として、ということは、つまり、聖闘士の存在意義に関わることであり……。
 そこで、ふっとひらめいた。
 わかった。
 なぜそのことに思い至らなかったのか。
 あまりにも自分にとって、聖闘士にとって当然だからこそ、そのことに思い至らなかった。

「人類の科学が、聖闘士の技に到達したということだな」
「そうだ。本来なら小宇宙を燃やした人間のみが到達できる破壊の神髄に、神々のことを何一つ知らぬただの人間が到達して行使できるようになってしまった。
 聖闘士や星闘士の力でも、人間の業を止められなくなるときが来てしまったのだ」

 破壊するとは原子を砕くことだと、全ての聖闘士候補生が学ぶ。
 物体を構成する原子を破壊すれば、理論上砕けない物はない。
 ところで原子とは、陽子及び中性子からなる原子核と、その周囲を回る電子の殻からなる。
 このうち電子は出入りが激しく、物体の化学的反応に関わるものであり、これを取り除くことは直接的には原子を破壊する行為ではない、
 つまり、原子を破壊する行為とは、突き詰めれば原子核を砕く行為である。
 原子核は陽子と中性子が集まって安定化したものであり、鉄よりも軽い元素の原子核を砕いて複数の破片原子核にするためには、莫大なエネルギーを必要とする、
 そのために、聖闘士も星闘士も、己の小宇宙を爆発させるのだ。

 人類が最初に手にした原子力はこれの逆である。
 ウランなどの極度に重い原子の原子核は、その重さ故に不安定で、より小さな原子核になった方が安定化する。
 この安定化する際に放出する莫大な余剰エネルギーを、原子力として使っているのだ。

 すなわち、この二つは、方向こそ逆であるが、エネルギーの質もスケールもほぼ同じなのである。

 十九世紀までの科学技術であれば、聖闘士や星闘士の敵ではない。
 事実、オスマン・トルコからのギリシア独立戦争では、教皇シオンは聖域を守るための苦渋の決断として聖闘士を介入させたが、わずかに数人で圧倒的だったと聞いている。
 しかし、果たして現在最先端科学による水素爆弾の直撃を受けて耐えられる聖闘士がどれほどいるか。
 聖闘士ならばおそらく黄金聖衣を纏っていることが必須条件だろうし、星闘士ならば青輝星闘士級の小宇宙で星衣を強化しなければならないだろう。
 正直言って蛮は、今の自分が耐えられるとは思えなかった。

 それは、聖闘士になるために生きてきた己の半生をまるごと貶められたような、ひどく寒い寂寥感を伴う確信だった。

 同時に、よく理解できた。
 神々が、この人類を放って置くはずがないということも。
 ポセイドン配下の海闘士も、ハーデス配下の冥闘士も、戦力は聖闘士や星闘士とほぼ同等だ。
 自分の直属の配下の戦闘能力を越える力をただの人間が得るようになってしまった事実を、神々が捨て置けるはずもない。

「だから、か」
「何?」
「何故この時代が、お前たちの言う最終聖戦の時代なのか、疑問だった。
 そういうことなんだな。
 次の聖戦の時代まで待てば、人間が神々に手を届かせてしまうから、神々はこの時代で決着を付けるつもりなんだな!」
「……よくぞ気づいたな。その通りだ。
 お前の言うとおり、神々はこの時代を最終聖戦の時代にせざるを得ない」

 そう、エリスしかり、アベルしかり、ポセイドンしかり、いずれも全力で地上にある人間の文明を滅ぼす気だった。
 人間を支配したいのであれば人間の痕跡を滅ぼすのはおかしいが、神々の時代の到来を名目として、人間の文明の発達を止める気だったとすれば話はわかる。
 たとえば一輝から報告があったポセイドンの挙動からしてそうだ。
 カノンに起こされたポセイドンはまだ数百年は眠り続けるつもりだったという。
 しかし、起こって当然のアテナの降臨を聞いただけで、急遽目覚める方針に変更したというのはおかしいのだ。
 神々の意志とはそんなに軽いものではない。
 だがそれが、目覚めたポセイドンが地上の人間の文明状況を知って、危機感を抱いたためだったとすれば、理屈は合う。
 なんのことはない。
 地上を汚しただのなんだのと理由を付けたところで、神々とて人間が恐ろしかったのではないか。
 次の聖戦まで数百年待てば、人間は間違いなく神々に届く。
 既に現代において聖闘士に手を届かせた麻森博士の姿を思い出すと、確信を持ってそう思えるのだ。

「従って、神々がこの時代に大挙して押し寄せることは必然だった。
 この世界を鋼鉄の時代から黄金時代に戻すために、神々は間違いなくやって来る。
 だがそれがわかった時点で、聖戦の時代までは半世紀ほど残っていた。
 これが危機的状態だったのだ」
「神々の到来を待たずして世界が滅ぶと」
「その通りだ。
 黄金時代の到来まで、世界を滅ぼしてはならぬ。
 それが我々に課せられた使命だった。
 だが、時代は変わった。
 かつてならば我らが王侯貴族たちの耳元で囁くことで、いくらでも世界の流れを変えることができたが、現代ではもはや一人や二人の人間では世界を破滅に導くことは出来ても、破滅を食い止めることはできん。
 そこで私は、別の手段を採ることにした」

 ついに、真相がわかる。
 蛮は首肯すらできず、ただ、目でゼスティルムを促した。
 緊張しているのとは違う、恐れているのでもない。
 だが、ひどく、落ち着かなかった。

「一神教を信仰するアメリカと違って、占いでも何でも利用する傾向にあった当時のソビエト連邦に近づき、世界のバランスを取るという名目で、世界中から天才児をかき集めさせた。
 一人や二人ではうまくいかぬならば数をもって当たるしかないと考えたのだ。
 世界百カ国からかき集めた天才児たちに、我々星闘士が数千年に亘って世界に関与した結果として蓄積した資産と、ソビエト連邦の資金を与えた。
 これで、歴史の流れを食い止めろと。
 世界の崩壊を、なんとしても防ぐために、全員が一体となって世界を席巻し、第三次世界大戦を防げと説いた。
 その場所が、レニングラードだ」

 わかるだろう、とゼスティルムが挑戦的な目を向けてきた。
 そこまで言われれば自分のような馬鹿でもわかる。

「だから、グラード、財団か」
「そう、本来のグラード財団とは城戸光政がトップにいた日本のそれだけではない。
 世界百カ国に、同様の組織があり、互いに連携を密にして同じ目的のために動いていたのだ。
 ただその中でも、光政はよくやった。
 日本のグラード財団が最も成功し、世界に対する影響力を行使するようになったので、残りの組織は事実上日本のグラード財団の下部組織のように振る舞うようにさせた。
 これによって大元の資産の出所がわかりにくくなるという利点もあったのでな」

 道理で。
 グラード財団が科学技術を外に出させようとしないわけだ。
 設立のそもそもの目的がそれだったのならば、あの頑なな姿勢も納得がいく。
 幼い頃の朧な記憶に、母親が城戸光政をどう言っていたのかふと思い出した。
 ……あのお方は、世界の平和のために戦うとても立派なお方なのです、あなたも父上のお役に立てる立派な男になりなさい……
 ずっと、好色な男にだまされた女の戯言だと思っていたが、少なくとも根拠の無い話ではなかったわけだ。
 爽快感とはほど遠い謎の氷解だった。
 だがもう一つ、気になったことがあった。

「ゼスティルム、その百人に、自分が星闘士だということも話したのか」
「いや、そこまでは話していない。
 ヨーロッパで著名な占星術師だとは名乗ったがな」
「それでも少しは話したはずだ。
 一神教の神が存在しないことや……、おそらく、数百年に一度聖戦が起こることは。
 お前たちの目的は、聖戦における神々の介入を防ぐこと、とでも言ったんじゃないか」
「……なぜわかった」

 ゼスティルムは、今度こそ驚愕した顔を見せた。
 蛮は笑いたくなった。
 そんな皮肉があってたまるかと思ったが、どうやら世界とはそういうものらしい。

「レニングラードで集めた以上、一神教を信じるアメリカに対抗する意味があっただろうと思ったことが一つ」
「それは副次的な推測材料だな、もう一つはなんだ」
「そうでなければ、城戸光政がアイオロスを信じたはずがないんだよ」

 ゼスティルムはしばし、考えるような顔をした後で、唇を噛み、大きく顔を歪めた。

「そうか……、そういうことか。
 お前の言うとおりだ、蛮。
 それは私の完全な失敗だ。
 このことが陛下に露見しようものなら私は処刑されかねんな……」

 正解のお墨付きをもらった蛮だが、爽快感があったわけではなく、後悔に似た自嘲を覚えていた。
 城戸光政がアイオロスと出会ったとき、そのアイオロスはシュラのエクスカリバーで瀕死の重傷を負っていたはずだ。
 そんなアイオロスに、聖闘士としての奇跡の技を光政に披露する余裕も時間もあったはずがない。
 そして託されたのは、北欧で手に入れたアンティーク、と言っても通じる骨董品のような黄金聖衣と、一人の女の赤子だ。
 たったこれだけで聖闘士と女神の存在を信じる奴は、……聖闘士の自分でも思う……、とてつもない馬鹿か狂人くらいだろうと。
 まして、城戸光政はグラード財団の総帥として、事実上世界を席巻した実業家なのだ。
 そんな山師などいくらでも見てきただろう。
 にもかかわらず、そんな現実感のない話をどうして信じたのか、
 やはり奴は馬鹿なのだろうと、かつては軽蔑していた。

 だが、奴の過去にゼスティルムが関わっていたのだとしたら、話は180度変わってくる。
 お嬢さんは、城戸光政が聖闘士の存在を知ったのはアイオロスとの邂逅のときだと言っていたが、そうではなかったとしたら?
 そもそも何故、城戸光政ともあろう要人が、護衛も秘書もつけずに単身でギリシアの山岳地帯を歩いていた。
 女に会うならアテネの町中だろう。
 ギリシアに来たのも最初から、かつてゼスティルムから聞かされていた聖闘士の存在を確かめるためだとしたら?
 半信半疑のまま半生を送っていた果てに、実物を名乗るものを見せつけられたのだとしたら?
 それは、信じるだろう。
 信じざるを得まい。
 邂逅が示す皮肉な巡り合わせを、運命と思ったとしても、仕方がない……などとは断じて思いたくないが。

「つまり、今代のアテナを助けてしまったのは、私のせいだということになるわけか……。
 お前たちの存在の種を蒔かせただけでなく、そもそもの段階で私は失敗していたというわけだな」
「その話だ。まだ終わっていないぞ」

 自嘲気味に笑うゼスティルムが一人で納得しているので、蛮は釘を差した。
 もう一つ、肝心要のことをまだ聞いていない。
 なぜ城戸光政は、あんな老齢になってから世界中に子供を作ったのか。
 アテナの存在を知ったからではないことはわかっている。
 アイオロスとの邂逅の段階で、星矢を除くほとんどの子供は既に生まれているのだ。
 だが、もはや自分たち百人の出生にも聖戦との関係性を疑わざるを得ない。
 何故自分たちは、わずか数年の間に集中して生まれているのか。

「頭の良いおまえのことだ。ある程度想像はついているのだろう?」
「ある程度は、な。
 だが、トリガーがわからん。
 十六年……いや、十七年前か、お前が城戸光政の監督をほっぽりだしたのは、何故だ」

 想像はつく。
 百人の天才児を集めたゼスティルムは、その後も彼らへの監視監督を怠らなかったはずだ。
 各国で影響力を発揮し始めた彼らが、一人の傾城に籠絡されて世界を破滅に導く可能性を考えなかったはずはない。
 占い師として歴史に関わっていたならば、そんな事例はいくつも見てきたはずなのだから。
 おそらく、徹底して女性に近づくことを禁じただろうと想像はつく。
 それが老年になるまで城戸光政に子供がいなかった理由だろう。
 しかし、ゼスティルムはある時点でその監視を解いたのではないか。
 そして、グラード財団への関与も止めてしまったのではないか。
 それならば、城戸光政がアテナに関与して聖闘士の育成など始めたことに、ゼスティルムがつい最近まで気づかなかったこともわからなくはない。
 だが、その止めたきっかけが、わからない。

「まったく……、大した洞察力だ。
 確かにその通り、私は光政たちが籠絡されないよう、暴走しないように細心の注意を払ってきた。
 もちろん、女色には特に気を付けさせた。
 だが、もはやその必要がないと判断されたのでな、解き放った」
「誤魔化すな。その時点で何があった」

 蛮にとっては意外なことに、ゼスティルムはしばし答えに逡巡した。
 ここまで大恥まで含めて洗いざらいぶちまけているのだ。
 話したとて後は自分を抹殺して冥土の土産にすれば片づくはずなのに、何をためらっているのか。

「……今代のパンドラとなる少女の誕生に目途がついたのだ。
 その時点で、タナトス様ヒュプノス様の解放も間近となり、もはや世界経済を監督する必要もなくなったと判断したのだよ」
「……、ということは、やはりお前たちがハーデスの復活に関与していたのか!」

 冥衣と星衣の類似性といい、星闘士たちには冥闘士たちとのつながりを伺わせる要素はいくつもあった。
 彼らがハーデスに関与していたとしたら、一つの疑問点が解消する。
 それは、ハーデスの魂を、聖戦の十三年も前から降誕させたのが誰かという疑問だ。
 聖戦まで封印されていた百八の魔星と違い、ハーデスには封印を施されていた様子が無かったと瞬が証言していた。
 それが何故、あのタイミングで持ち出されたのか。
 管理していた者がいたとしか考えられない。
 それが星闘士だとしたら、多くの謎が氷解する。

 ハーデス軍の大幹部であるパンドラについては、古い聖戦の資料によると、聖戦の度に出現している冥闘士の統括者であるらしい。
 今代のパンドラについては、唯一面識があるらしい一輝がほとんど証言しないまま姿をくらませてしまったので詳しいことはわかっていないが、双子神の封印を守っていた東欧の名家の出身の少女だったらしいことまでは、アステリオンの調査で判明している。
 双子神の封印を解かせるために、暗躍していた何者か。
 そういえばゼスティルムは、ヨーロッパで古くから占星術師として動いていたというではないか。
 既知の状況とゼスティルムの説明は一致する。
 二百数十年に一度、ポセイドンやアレスといった他の神々よりも遙かに高い頻度で活動できたハーデスの秘密は、そこにあったとしか思えない。

「その通り。
 ハーデス様とアテナとの戦いを、長年に亘って裏から援護してきたのは我々だ。
 そして、もはや監督が不要との判断が正しかったことはその後の十六年が証明しているだろう」
「それが、全てか?」
「何?」

 それでも、ひっかかる。
 別の理由があるはずだった。
 パンドラの誕生が確定した時点で確かに神々の到来の目途はついた。
 しかし、ゼスティルムが最初に懸念した世界の危機はその時点ではまだ完全には解消されていなかったはず。
 冷戦の安定化にはもう数年かかったはずだ。
 本来ならばハーデス百八の魔星の復活まで、ゼスティルムは世界を監督する責任があったはず。
 ゼスティルムが途中で監督を放棄した本当の理由があるはずだ。

「……それは、お前には関係の無い話だよ。
 あくまで私の私的な事情にすぎない」
「そうか」

 嘆息したようなゼスティルムの回答は、賞賛する気持ちもあったのだろうが、明確な拒絶だった。
 仕方がない。
 自分には一輝の幻魔拳のような尋問する技はないのだ。
 ゼスティルムが話さないというのなら、おそらく屈服させることができたとしても口を割る気は無いのだろう。

「もう一つ聞いておきたい。
 なぜ今になってそんなことを喋る気になった。
 ここに来るまで、檄や那智にも話したのか」
「いや、お前が初めてだ。
 なぜだろうな」

 ゼスティルムはこちらの顔を見つめてから、しばし目を閉じ、何かを思い出しているようだった。

「……そうだな。
 檄や那智と比べても、お前は特にあやつの面影がある」

 その言葉に、思わず自分の顔を引き裂きたくなった。

「だが、付け加えておこう。
 お前たちの存在は私の失敗でもある。
 さっきも言ったが、数十年に亘り光政を監督していたはずが、私が手綱を手放したとたんに暴走しおった。
 まさかあやつがここまで女に執着するとは私にも予想できなかった。
 それがこうして因果が巡り、アテナを救ってしまったばかりか、ハーデス様をも倒す子供らを産むことになったのは私の最大の失敗だ。
 お前たちは全員倒して置かねばならぬ。
 それが、お前たちの父の父親代わりであった者として、せめてもの責務だろう」

 何か、頭の中で弾けた。

「そうか、父か。
 おまえが、光政の……」

 それならばわかる。
 城戸光政は父に倣おうとしたのだろう。
 百人の天才児を集めて世界を守ろうとした父ゼスティルムに倣い、自分も自らの子供とともに、その意志を継ごうとした。
 長年の父に見捨てられた男は、父の言いつけに背きながら、その教えられた道に従い続けることを選んだのだ。
 そのために、残り少ない寿命の中で、狂ったように自分の後継者となる子供を作りまくったわけだ。
 その準備した子供が、結果として父の計画の最大の障害になったのだから皮肉という他ない。

 知るべきことは十分だ。
 あとすべきことは、もう目の前にある。

「義理として教えてやれるべきことは以上だ。
 さらば……、光政の最大の後継者になったかもしれぬ子よ」

 ゼスティルムがその光速拳を振るおうとするのがわかった。
 その前に、自らの全てに突き動かされるように、身体が動いた。

「何ッッ!!!」
「おまえが、父の、父か……!!!」

 十六年の人生でこれまで振るったどの拳よりも速く振り抜いた生身の右拳が、ゼスティルムの左頬を捉えた。
 食らったゼスティルムはおろか、振るった蛮すらも、何が起こったのかを事後に理解した。
 吹っ飛ばされ、壁面に叩き付けられるゼスティルムの表情は驚愕で満ちていた。
 その視線の先に転がっている、誇り高き青輝星闘士の星衣、その獅子座のマスクは、今の一撃で左頬のガードが粉々に粉砕されていた。

「私の星衣を……、完璧に砕いた……?
 蛮よ、一体、何をした!?」

 何をしたと問われても、蛮は答えを持っていたわけではない。
 ただ、わき上がってくるものが、両腕と両足に宿りつつあるものが、我知らず答えていた。

「今のは星矢の分だ……」

 最年少にして、神話を駆け上がり、幾多の神々を打ち倒してきた兄弟の名を告げる。
 あいつもまた、どれほどに城戸光政を殴りたがっていたことか。
 不思議な話だが、蛮の心中にはゼスティルムへの怒りではなく、言い尽くせないほどの感謝があった。

「よくぞ生きて、俺たちの前に立ちはだかってくれた……」

 怒りなどで、青輝星闘士第二位たるゼスティルムの星衣は砕けない。
 しかし蛮は、生身の拳だからこそ砕けたことに確信を持っていた。
 今ゼスティルムを殴ったのは、聖闘士の拳ではない。
 だからこそ、通じたのだ。

「城戸光政の代わりに、あと九十九発。
 俺たちに殴られるまで、死んでくれるなよ!ゼスティルム!!」
「言いおるわ、小僧が……」

 壁から自らの身体を引き剥がして悪態をついたようなゼスティルムは、しかしなぜか、目を細めて笑っているようにさえ見えた。
 いける。
 今を逃したら、こんな機会はもう一生無い!
 無我夢中で疾走し、ゼスティルムに肉薄する。

「来い!」

 ゼスティルムにも青輝星闘士第二位の誇りがあろう。
 星闘士の星衣は纏う者の小宇宙によってどこまでも強固になる。
 青く光り輝く小宇宙を纏った星衣は、やすやすと二度も砕かせてくれるはずはない。
 だが、それをわかった上で、蛮は真っ正面から至近距離で直接生身の拳で殴りかかった。

「速いっ!」
「これは恭の分!」

 考えるまでもなく、叫んでいた。
 その名前とともにゼスティルムの星衣が揺らぐ。
 覚えている……覚えているとも!

「これは銀の分!」

 その名前も、声も、顔も、性格も、全て覚えている。
 最後にまみえたのが七年も前だとか、幼い頃の記憶だとか、そんなことは関係ない。

「これは魁の分!」

 多くを話すことはなかった自分だが、同じ運命をともにした仲間のことを、決して忘れまいと心に刻みつけていた。

「これは拳の分!」

 どうやって死んでいったのかもわからない。
 百人のうち何人が、城戸光政こそが父親であることを知っていたのかも定かではない。
 だが、間違いなく誰もが、城戸光政を心の底から恨んで、憎んで、殺してやりたいと思っていたはずだ。

「これは閃の分!」

 そもそも自分たちは、何故聖闘士になろうなどと思ったのか。
 白状するまでもなく明白で、地上の愛と正義のため、などではない。
 そんなものに目覚めたのは、聖衣に手が届くようになってからだ。
 最初の動機は、地獄から舞い戻り、こうして、城戸光政をぶん殴るため。

「これは燎の分!」

 それを果たすまでは、死んでも死に切れないと、百人が百人、誰もが思ったはずだ。
 それなのに奴は、さっさと死んでしまった。
 この振り上げた拳を、ぶつける先も無い日々が続いていた。
 自分たち全員が全員、あれを殴り倒して乗り越える機会を、永遠に奪われたと思っていた。
 だが、今。

「やりおるわ。
 そういえばお前は自らの小宇宙を蓄えて放つことが出来たのだったな。
 四日どころではなく、それがお前の、七年分の怒りか」

 最初の一発目ほどではないが、いずれの一撃もゼスティルムの星衣にことごとくヒビを入れ、その身を揺らがせている。
 効いていないはずはないのに、それでも二発目以降は踏みとどまるのはさすがとしか言いようがない。

「いや、たったそれだけじゃ、あんたの星衣は砕けんだろう」
「ならば」
「俺一人の分だけじゃない。
 怒りだけじゃない。
 こいつは……、俺たち百人全ての、七年に亘る宿願全てだ……!」

 再び間を詰めて挑みかかる。
 衝撃波などで手を抜くつもりはまったくない。
 この拳で、兄弟と血を分けた生身の肉体で殴らなければ、意味がない。
 星くずのように、星衣の破片が飛び散る中を、なおも踏み込んで拳を振るう。
 かわし、受け止めようとしていたゼスティルムだが、それをかいくぐり、上回り、叩き込む。
 三十……!四十……!五十……!六十……!……
 あと少し、あと少しというところで、ゼスティルムは大きく横に跳ねて距離を取った。

「そうか……、星闘士でも無いお前が、転霊波も無しに、弔われたはずの者たちまで呼ぶか。
 神話を築きし神聖闘士の兄弟百人の七年間……恐るべき拳よ。
 星衣で凌ぎきれるのなら受けきってやるつもりだったが、残り全て受けきれる保証が無い。
 宿願を果たさせてやりたいとは思うが、そうもいかなくなった。
 私もまだ死ぬわけにはいかんのでな!」

 轟々と小宇宙が炎となって燃え立つ。

「その拳、焼き落としてくれる!アーク・プロミネンス!」

 先ほど受け止めたものよりもさらに速い。
 だが、弧を描くこの技が来るとわかっているなら、真っ正面から一直線に突っ込むのみだった。

「ぬううぅぅぅっっ!」

 意図に気づいたゼスティルムはすかさず第二、第三撃を放つ。
 かいくぐるために床を蹴り、意図せずゼスティルムの上をとった。

「……これは邪武の分!」

 あいつらには悪いが、この場でゼスティルムを逃すつもりはない。
 せめてその代わりに殴らせてもらおう。
 ただし、邪武の分は拳ではなく蹴りだろうと思い、ユニコーン・ギャロップを見よう見まねで叩き込む。

「これは檄の分!」

 ゼスティルムの目の前に着地して、肩からぶち当たった。
 金牛宮で倒れた檄は、果たしてゼスティルムを殴ることができたのだろうか。
 わからないから、わからなくても、全力で殴る。

「これは那智の分!これは市の分!」

 市の待つ宮までゼスティルムを通すつもりもない。
 那智がこの宮まで到達するのを待っている余裕もない。
 役得だが勘弁してくれ、と、かすかに苦笑した。

「これは盟の分!」

 あいつだけは……、盟だけは違ったかも知れない。
 あいつだけは他の九十九人とは覚悟が違っていた。
 今にして思えば、あいつだけは、最初から全てを知っていて、それでもなお俺たちと運命をともにしたのかもしれない。
 ならば、仲間外れになどしたくなかった。
 叩き込んだところで、距離が離れた。
 あと、五発。

「なお生きている神聖闘士たちの分まで食らう義理はないぞ!
 シャイニング・フレア!!」
「これは……一輝の分!!」

 かつて二度圧倒された超必殺技を前に、臆することなく飛び込んだ。
 全身を焼き尽くそうとする太陽風より、燃えている自分の拳と身体の方が熱いと思った。
 鳳翼天翔を見たことはないが、あいつならこんな拳を振るうだろうと思いながら、灼熱の衝撃波を真っ正面から打ち破る。
 かつての復讐鬼の名を乗せた拳は、自分でも重いと思った。
 ゼスティルムの身体が、はっきりと揺らいだ。

「これは瞬の分!」

 こればかりは誰かが代わってやるしかない。
 瞬だけは、城戸光政に生きて会うことができても殴ることはしなかっただろう。
 しかしそれでも、瞬でさえも、城戸光政への憎しみと恨みはあったのだ。
 ハーデスとの戦いが終わった後でふと二人きりで話したときに、それは確かに、この耳で聞いた。
 あの心優しい男の口から漏れ出たとは思えぬほどの、灼熱の感情の発露を。
 その名を告げた拳は、彼の兄に劣らず重かった。

「これは氷河の分!」

 氷の聖闘士の技を修めていない自分にはこれが限度だ。
 見よう見まねではせいぜいドライアイスくらいにしかならないが、我慢してもらおう。
 思えば、元々城戸光政のルーツがソ連にあったのなら、氷河の母がロシア人だったことの謎もようやく解けたことになる。
 城戸光政にも、俺たちの知らない人生があり、……だからといって、許せるはずもなかったが。

「これは紫龍の分!」

 昇龍覇さながらの振り抜いたアッパーで、ゼスティルムの身体を吹っ飛ばす。
 あの義に篤い男が城戸光政の心情を知ったとして……、いや、それでも、こうして殴ることはやめなかっただろう。
 百人の誰よりも、友情に篤い男なのだから。
 重い、重い拳だった。

 そして、

「自分の分は最後まで後回しか。
 つくづく、よく似ておるわ」

 吹っ飛ばしたはずのゼスティルムは、なお、はっきりとした姿勢で立ち上がってきていた。
 星衣の全身にヒビが入り、そこかしこが破損していたものの、それでも原形を留めているということは、それだけの防御力でゼスティルムの身体を守りきったということだろう。
 一切、手を抜いたつもりはない。
 死んでもらっては途中で困っただろうが、そんなことは一切躊躇せずに殴りつけた。
 今の自分にできる、全身全霊全力だった。
 それでもなお、ゼスティルムは立っている。

 ……ふと、笑いたくなった。
 城戸光政と向かい合っていたら、こうなっていたのだろうか。
 全力で挑む俺たちを相手に、こうして最後まで、立ってくれていたのだろうか。

「よもや不服はあるまいな。
 あと一発、それだけは、受けるわけにはいかん。
 今こうして向かい合っている以上、お前が私を乗り越えられぬ限り、その拳だけは、受けるわけにはいかん……!」
「不服なんざ無い。
 だがあと一発、何が何でも、殴り飛ばす」
「出来はせん。
 だが、生身でシャイニング・フレアに正面から突っ込んでなお立っていられる今のお前に、生半可な技ではもはや通じぬだろう。
 ここまで健闘したお前への褒美に、見せてやろう。
 マリクにも授けていない、このゼスティルム最大の奥義を」
「!!!」

 静かに、凄絶な危機感を覚えた。
 シャイニング・フレア以上の技があるとは思っていなかった。
 しかし、考えてみれば自明だ。
 アーク・プロミネンス、シャイニング・フレア、いずれも恒星のそれを冠する彼の技なら、そのさらに上を行く最終奥義があってしかるべきなのだ。
 それが象徴するものを速やかに察した。

「そうだ。奇しくもお前が私たちに最初に食らわせてくれたものと同じだよ」

 推測を肯定するかのように、元より巨大だったゼスティルムの小宇宙は、青いままでさらに巨大に膨れあがっていく。
 おそらく、放つゼスティルムにとっても、命を削る技なのだ。
 そうでもなければ、エチオピアで切り札を残したまま引き下がるわけがない。

 本来ならば、逃げなければならないはずだ。
 正面きってゼスティルムの最終奥義に挑んで、聖衣があってさえ生きていられるか怪しいものだ。
 アンダースーツだけの今の状態で食らえば、助かるはずもない。
 だが、逃げて何になる。
 ゼスティルムが何のために、最終奥義まで繰り出してくれるのかと思えば、逃げるなどという選択肢はありえない。
 わずかに立ち位置を変えて、自分の後ろにあの花束が来るようにする。

 そして、食らう前に殴るということもありえない。
 それを受けた上で、どうしても、あと一発、殴りつける。
 ならばそのために、今一度聖闘士としての自分に頼ろう。

「燃えろ俺の小宇宙よ……。
 ゼスティルムの……、城戸光政の父の位まで……」

 いや、それでは、足らない。
 そんなものじゃない。
 そんな行儀のいい自分たちじゃない。

「究極を越えて燃えろ俺たちの小宇宙よ!
 ぶっ飛ばす!
 何が何でもあいつをぶっ飛ばす!
 あいつを乗り越えなければ、俺たちは何だったんだあああああああああああ!!!」
「その意気やよし!その激情までも、半世紀前の生き写しよ!
 さあ受けよ、このゼスティルム最大の拳……!」

 獅子宮はおろか、十二宮全てを覆うのではないかと思うほどに膨れあがったゼスティルムの小宇宙が、閃光とともに爆発する。

「エクセレント・ノヴァ!!!!」

 老いて燃え尽きる星の最期でありながら、その星が最も輝くという新星。
 ゼスティルムという青色超巨星が繰り出すそれは、獅子宮の天井を跡形もなく焼き去り、駆け抜ける爆風は宮内に留まらず宮外の階段までも蒸発させていった。
 中心部では原子がその形状を維持できず、ビッグバン直後のような原初の状態のエネルギーに戻り、天空にある太陽をも遙かに凌ぐ光となった。
 今なお、人類の科学になど到達させない、星闘士の誇りそのものである星の力を体現した最終奥義だ。
 その激震は聖域全土を揺るがし、轟音は聖域の結界をも飛び越えた。

「これは……、ゼスティルムの仕業か……!」

 巨蟹宮から獅子宮へ向かおうとしていた那智は、衝撃波をなんとか堪えようとしたものの、直後の激震と爆風で登ろうとした階段を派手に破壊され、かろうじて空中に逃れたところで為す術なくなり、衝撃波に飛ばされるままに巨蟹宮まで逆戻りさせられた。

「この威力……おそらく奴の最終奥義か。
 蛮……!」

 爆心にいたであろう兄弟の名を叫ぶ。
 その小宇宙は……まだ、消えていなかった。

「見事だ」

 爆風が去った後でも、有り余るエネルギーが光となってその場に満ちあふれ、肉眼では視認することも困難な中、ゼスティルムは心からの称賛を込めて呟いた。
 もはや聞くことができるはずもないが、それでも言わずにいられなかったのだ。
 蛮は、聖衣も付けぬ生身の身体で、真っ正面から超新星を受けながら、人の姿をなお残していたからだ。
 それだけでも驚嘆すべきことだが、僅かに、本当に僅かに、残された小宇宙が感じられる。
 見事と称賛する他ない。

「あのとき私が絶望しなければ、お前が星闘士となっていた今もあったのかもしれんな……」

 蛮の身体がゆっくりと、それでも、前のめりに倒れた。
 つまり、そこまで立っていたことになる。
 その背後には、あの花束がなお、原形を留めていた。

「よき、星闘士になれたであろうにな」

 だが今は、聖闘士と星闘士だ。
 生かしておけば、きっと必ず、もう一度立ちふさがってくることだろう。
 それは、確信と呼ぶのもおこがましい未来だ。
 死を与えなければならない。
 他ならぬ、自分の手で。

「さらばだ……蛮」

 獅子座の星闘士カードを取り出し、星葬をもって止めとすべく、蛮に近づいていく。
 だが、

「何だ……、これは……!?」

 服や皮膚はおろか、骨まで焼けたかのように全身黒化している蛮の身体で、かすかに光るものがあった。
 高温に曝された彼の身体が生きながらにして燃えているのかと思ったが、違う。
 燃えているのはその周囲にあるもの。
 それが、炎のように燃えて、輝きを増している。
 増した光が彼の身体を取り巻き、さらに光を増していく。
 この光は物理現象ではない。
 ただの光は、こんなにも強く脈打って定着などしない。

「蛮……まさか……」
“ゼス……ティルム……”

 五感を越えた声が、した。
 燃え尽きたはずの身体が、起き上がろうとする。
 既に光は全身を取り巻き、その身体を支えるようにも、覆うようにも見える。
 それに応じて、消えかけていたはずの蛮の小宇宙が、急激に増大していく。

「生まれ変わったとでも言うのか……。
 このゼスティルムの超新星爆発を受けて、新たな星が生まれるがごとく……」

 星の世界では、超新星爆発は星の間に漂う質量を集中させ、正真正銘の新たな星を生み出すトリガーでもある。
 今の蛮を取り巻く黄金でも白銀でも無い光は、まるで、生まれたばかりの星のような色で膨れあがっていく。

「馬鹿な……!蛮の小宇宙が私の小宇宙を遙かに凌いでいく!
 そんな巨大な小宇宙を、人間の身体に収めておけるはずがない……!
 私のエクセレント・ノヴァをも上回るそんな小宇宙を燃やせば……、その命、今度こそ魂までも燃え尽きるぞ!」

 ゆらり、と、起き上がった。

“言ったはずだぞ……ゼスティルム、
 そして、お前は応えてくれた……
 あと一発……”

 意識はおぼろでも、七年間の宿願は間違えようもない。
 それ以外の全てはもはや些末なことだった。
 拳はまだ動く。
 宿願が歓喜とともに身体をつき動かす。
 これまでのどんな戦いのときよりも果てしなく、果てしなく、小宇宙が高まっていく。

“ゼス……ティ……ルムッッッ!!!!!”
「まだ……私は、死ねぬのだ……!!!」

 ゼスティルムは、無意識のうちに動いていた。
 これを食らうわけにはいかない。
 食らえば間違いなく、青輝星闘士の星衣であっても、完膚無きまでに砕かれる。
 エクセレント・ノヴァを放った直後の全身を叱咤して対抗すべく小宇宙を燃え上がらせて蛮を撃破しようとする。
 だが、あまりにも圧倒的だ。
 エチオピアではソレントの力を借りて五感を抑えることでセブンセンシズに目覚めようとしていた蛮だが、今はもう全身の五感全てを完璧に絶っているはずだ。
 それどころか第六感たる意識すらももう、ゼスティルムに一撃を食らわせることしか残っていないだろう。
 究極の小宇宙、セブンセンシズ。
 その神髄が、ゼスティルムに襲いかかる。

「ウオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!!!」

 二度目の、
 エクセレント・ノヴァの衝撃をも上回る爆発が今一度聖域を激震させた。





「またかよぉ……!」
「いや違う、今度の一撃は星闘士のものではない……!」

 女神の泉で二度目の激震に曝された貴鬼とギガースは思わず屋外へ飛び出して十二宮の方を見つめた。
 何が起こっているのか見えるわけもなかったが、そうせずにはいられなかったのだ。

「じゃあ、今の一撃は蛮が?」

 星矢たちが十二宮に挑んだときに幾度かあった衝撃を思い出して、貴鬼は我知らず胸が熱くなった。
 例えば処女宮の火が消えた後の衝撃や、最後の火が消える間際の衝撃のように。
 蛮は、いったいどこまで自らを高めたというのか。
 獅子宮で戦っているのなら、その相手はあのゼスティルムに他ならないというのに。

「……」

 しかし、ギガースは険しい顔を崩さなかった。
 これほどの攻撃を、受けた側のゼスティルムの小宇宙はまだ感じられるのに、繰り出したはずの蛮の小宇宙が感じられなくなったのは、どういうことだ。




「馬鹿な……」

 二度の衝撃を体感しながら、邪武は唇を噛み締めていた。

「何故、あれほど強大な小宇宙になった蛮の方が……」

 紫龍でさえ驚嘆すべき領域だった。
 その強大さに、どこか、覚えがあるような気がしたのだが、思い当たる前に、

「消えた……ざんす」

 はるか先の宮にいる市にさえ、その事実は疑いようが無かった。

「何が……あった」

 最も近くにいた那智にも、それはわからなかった。







「……う」

 目を開くと、雲が全て消し飛んだ青空が目に飛び込んできた。
 獅子宮の天井はもはや跡形もない。

「私は……」

 完全に意識を失っていたのだとようやく気づき、頭を振りつつ、手を突いて立ち上がろうとする。

「……これは……!」

 その両腕の星衣は、外側の甲部が跡形もなかった。
 腕だけではない。
 両膝を中心に両脚のパーツもほとんどが砕かれて、よく一部が落ちずに残っているという有様だった。
 どれほどの衝撃があったら、青輝星闘士第二位の自分の星衣がここまでになるのか。
 それも、直撃ではないのだ。
 直撃の寸前に、命を惜しんだ。
 蛮の拳が振るわれるその点から、一歩引いた。
 本来なら正面からぶち当たらなければならない拳を、避けてしまった。
 顔面を捉えたはずのその拳は、わずかに逸れて、左肩のパーツに当たったのだろう。
 その部分は、星衣を完璧に砕かれていた。
 その炸裂と共に起こった爆発を、全力で防御したものの、それだけで両手両脚の星衣がこの様だ。
 もし直撃を受けていたら、間違いなく助からなかったはずだ。

「どこだ……、どこに行った、蛮……」

 起き上がり、あたりを見わたす。
 壁も消し飛んだおかげで、火時計が見えた。
 獅子宮の火が消え、処女宮の火の勢いが落ち始めていることで、意識を失っていたのがそれほど長時間ではないことは確認できた。

 しかし、蛮の姿はどこにもなかった。
 柱もほとんどが吹き飛ばされ、宮の中心で原形を留めているのは自分とあの花束だけだ。

「本当に、星になってしまったか……蛮」

 悔恨に、思わず膝を突く。
 何故、命を燃やした最後の一撃を、受け止めてやれなかった。

「生き残っただけだ……。
 私は単に、生き残っただけだ」

 天を仰ぎ、己の星闘士カードを握りつぶして燃やした。

「この勝負、お前の勝ちだ。
 光政の子、蛮よ……」




第二十七話へ続く



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